わざわざ見るほどのものではないと思うが、なぜこのタルコフスキーの学生作品がニューヨークの学生コンクールで優勝したかを考えてみるのは面白いと思う。
アスファルトを平らにならすローラーを運転している貧しい若者と、バイオリン教室に通う金持ちの子供の話。アメリカ人にしてみると、社会主義ソビエトにも、貧富の差とか、文化の差があるのかと興味深かったと思う。そういう好奇心をかき立てる作品だったのではなかろうか。
わざわざ見るほどのものではないと思うが、なぜこのタルコフスキーの学生作品がニューヨークの学生コンクールで優勝したかを考えてみるのは面白いと思う。
アスファルトを平らにならすローラーを運転している貧しい若者と、バイオリン教室に通う金持ちの子供の話。アメリカ人にしてみると、社会主義ソビエトにも、貧富の差とか、文化の差があるのかと興味深かったと思う。そういう好奇心をかき立てる作品だったのではなかろうか。
この映画のキモなんだが、
2001.9.11 以後に取材されたものだと思われるが、
アメリカとカナダでは銃や弾の所有率や買いやすさなどはほとんど同じなのに、
カナダではほとんど銃犯罪が起こっておらず、
そのうえカナダでは家に鍵をかけさえしない、ということだと思う。
犯罪の街デトロイトの対岸サーニアですらそうなのだ。
マイケル・ムーアはその理由を分析するが、
アメリカという国が原住民を銃によって虐殺し、
さらには黒人奴隷が白人に対して暴動を起こすのではないかと内心怖れているために、
護身用の銃がないと精神的に不安なのではないかというのだ。
アメリカでも犯罪は減っているが犯罪を報道する回数は何倍にも増えているという。
メディアが不安を煽ることが、銃乱射という犯罪を生み出しているのではないかともいう。
なるほど、人種差別や凶悪犯罪はじょじょに減っているのだろう。
しかし、視聴者の関心が高いという理由で、メディアがある特定の犯罪を取り上げることによって、
そういう刺激的な犯罪が次第にエスカレートしていき、
模倣犯を生むという悪循環を作っているのだ。
この連鎖は、一度生み出されると、つむじ風のように、簡単には消えず、
エネルギーを吸収して成長すらする。
そのエネルギーを供給しているのは明らかにマスメディアであり、民衆の恐怖心だ。
多くのアレルギーや精神疾患がそうであるように、一度発症してしまうと、もとに戻すのは難しい。
アメリカではその不安と恐怖が世代をこえて再生産されている。
カナダにはそんな悪循環がない。
もともと犯罪件数が圧倒的に少ない。
だから、スーパーマーケットで銃弾を売っていても、
免許さえあれば簡単に銃を入手できても、
アメリカの俗悪な犯罪ドラマが国境を越えてあふれていても、犯罪はおこらない。
少なくともカナダの事例を見れば、銃規制に意味はないという全米ライフル協会の主張は正しい。
これは歴史的、社会心理的な問題なのだろう。
日本を見るに、日本はもともと銃や刀の規制は緩かった。
しかし戦後、暴力団どうしの抗争が社会問題化することによって、銃刀法がだんだんに厳しくなっていった。
戦前も刀を使ったやくざの出入りというものはあったのに違いないが、あまり問題視されていない。
やはり戦後の混乱とマスメディアのせいなんじゃないかと言う気がする。
そして銃規制や、ましてゲーム規制なんてことはあまり関係ないんじゃないかという気がする。
探偵物や刑事物に出てくる事件も統計と乖離しているのはあきらかである。
女性がいきなりストーカーに刺される、みたいなドラマにしたてやすい事件ばかりが繰り返し出てくる。
こういう風潮が社会心理というものを著しくゆがめ、犯罪を助長し再生産ているのではないのか。
「君の名は。」について少し考え違いをしていたかもしれない。
日本のアニメはハイジの頃はまだ普通だった。
しかしそこからジブリが出て、押井守がでて、細田守が出て、
押井守は明らかにやり過ぎで、
細田も最初はよかったが「おおかみこども」みたいなアートっぽいっていうか、
社会問題っぽいほうへ突っ走ってしまった。
ジブリももう普通のアニメはやらなくなったし、
今敏はあんなだし、
庵野秀明とか、イウモオロカナリ。
みんなアート志向になっちゃって小難しくなりすぎた。
そこにラノベっぽくて村上春樹っぽい「君の名は。」が出て来たので、
大学生とかがみんな映画館に見に行った。
小学生がドラえもんや名探偵コナン見に行くような気分で。
そう、普通の女子大生が見る普通のアニメってのが、あるようでない状態だったのよ。
アートかオタク向けになりがちなのよね。
まあ、私ならアートでもオタクでもないアニメをわざわざ見たりはしないが。
見てないからしらんけど、まあ見た人には話は聞いたが、
同じ少女漫画系でも、氷室冴子原作の「海が聞こえる」みたいなやつなら見てやっても良いんだが・・・。
背景が綺麗なちょっと不思議系の映画でしょう?違うの。
ただそれだけじゃないっすかねえ。
とりあえず自転車二人乗りは許せん。
こないだも高校生が二人乗りしてるの見たが、アニメの影響だよ、警察取り締まれよ。
まあそれもこれも含めてすべて新海誠って人は計算尽くでやってるよね。
オタク的要素を殺し、自分を殺し、女子高生や女子大生に受けることだけを目的に作った。
庵野秀明は世の中とか女子に迎合せず、自分の世界突っ走ってあんだけ人集めて、
評価も得たからまあいいんじゃないんですか。
今敏だけど、あれ、マッドマックスの画力がなければ、見れたもんじゃないと思うんだがなあ。
映像表現に過度に依存してるよね。
マッドマックスはすごいけど、あれストーリーだけノベライズしたら何も残らんよな。
追記。江川達也が言っていることもだいたい同じだ。
[Amazonに講談社ら激怒「一方的に配信停止された」](http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/03/kodansha-amazon-kindle-unlimited_n_12321876.html)。
ハフィントンポストに
Kindle Unlimited から除外されたタイトルの一部が記されている。
講談社
* 中島知子写真集 幕間 MAKUAI
* 今井メロ写真集 Mellow Style
> Amazonは8月、Kindle Unlimitedで配信ランキング上位に並んでいた写真集など「17作品を、連絡なく一方的に削除した」などと話した。
これらの星1つのレビューから感じるのだが、
本のクオリティが低いのに「配信ランキング上位にならんでいた」ということが配信停止の理由なんじゃないの?
佐藤秀峰(いずれも第四巻以降)
* 特攻の島
* 海猿
* 新ブラックジャックによろしく
これもまあそうで、あくまでレビューなどから感じるのだが、
連載ものをただだらだらと引き延ばしたようなものは勘弁してね、ってアマゾンが言ってるような気がするなあ。
最初の数巻だけ一生懸命書いてあとは手抜き、と判断されたんじゃないのかな。
一般論として、著者がまじめに書いて当たったやつをシリーズ化して、
後はバイトたちが適当に粗製濫造する、という例はたくさんあるわけ。ドラマでもゲームでも。昔からあるわけ。
江戸時代からある。為永春水「春色梅児誉美」シリーズとか。
あんまりひどいんで為永春水は手鎖の刑になり、発禁になった。
そういうのはアマゾンが自分の裁量でダメだしできるでしょ。
ダメだしできるようにしなきゃダメでしょ。
[アマゾン読み放題、人気本消える 利用者多すぎが原因?](http://www.asahi.com/articles/ASJ8Y41XSJ8YUCVL00C.html)
> 複数の出版社によると、アマゾンは一部の出版社を対象に、年内に限って規定の配分に上乗せして利用料を支払う契約を結び、書籍の提供を促したという。
ところが、サービス開始から1週間ほどで漫画やグラビア系の写真集など人気の高い本が読み放題サービスのラインアップから外れ始め、アマゾン側から「想定以上のダウンロードがあり、出版社に支払う予算が不足した」「このままではビジネスの継続が困難」などの説明があったとしている。アマゾン側は会員数を公表していない。
> この読み放題サービスをめぐっては、「光文社」も提供していた作品の配信が停止されたため、アマゾン側にこれまでどおりの配信を求めているということです。
この朝日新聞の記事なのだが、
極めて曖昧模糊とした書き方をしているのが気になる。
「一部の出版社」「複数の出版社」ではなくて具体的な名前を挙げないのはなぜか。
「漫画やグラビア系の写真集など人気の高い本が読み放題サービスのラインアップ」
というのは具体的にはハフィントンポストが挙げていたようなタイトルだろう。
「アマゾンは一部の出版社を対象に、年内に限って規定の配分に上乗せして利用料を支払う契約を結び、書籍の提供を促した」
「アマゾン側から「想定以上のダウンロードがあり、出版社に支払う予算が不足した」「このままではビジネスの継続が困難」などの説明があった」というのはアマゾンから取材したのではなくて、文句を言っている出版社がそう言っている、という一方的な取材にすぎない。
「アマゾン側は会員数を公表していない。」というのも余計な印象操作な感じがする。
これを読むと
「人気本が売れすぎたせいでアマゾンちゃんが赤字になって困って勝手に削除」
みたいに読めるわけ。
でも(センター試験の国語の問題的な)深読みするとそうでもないようにも読める。言質は取られませんよ的な。
あーそういうふうにそこ読んじゃいましたか。でもそこ、ヒッカケですから、みたいな。
彼、そこんとこ逃げ方うまくないすかね?
いつもそんなやり方すかね?
アマゾンが一部の出版社に販促目的で有利な契約をした、というのはアマゾンの勝手だし、
その一部の出版社に入れてもらえなかった複数の出版社が俺のところも同じことしてくれとごねているだけ、
と解釈することも可能だ。
アマゾンの商売上の裁量でやっていることに、いろんな出版社や新聞社が文句を言ってる構図にも見えるよね?
[アマゾン電子書籍 小学館の170以上の作品も配信停止](http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161004/k10010717591000.html)
NHKは小学館の写真集や雑誌が配信停止対象だとしているが、
やはりそのタイトルは明記してない。
うちら一般消費者、というか、もっと突っ込んで、KDPを利用している個人出版の作家にとってみれば、
アマゾンと出版社の両方からきちんと取材した記事を読みたいんだよね。
そういうニーズにこたえてないよね。
ハフィントンポスト以外のどの記事も。
ハフィントンポストもどちらかと言えばアマゾンに批判的だが、
うっかりアマゾンに有利な情報も入れちゃったって感じかな。
ほかはも少し用意周到に具体的な内容を隠しているけど。
[講談社、読み放題から削除で抗議 アマゾンジャパンに (共同通信 47NEWS)](http://horiemon.com/news/2016/10/03/53379/)
> これ多分契約上は勝手に削除しても良いことになってるのに、情緒的にamazonを非難する層を醸成する為にやってるような気がしますね。。もしそうだったら講談社こそ見苦しい気がしますけど笑
ホリエモンに言いたいことを先に言われててすごい悔しいんですけど(笑)
([個人出版はいかにプロデュースされるべきなのか](/?p=19173)参照)。
ま、でも、講談社とアマゾンは決裂して完全に kindle unlimited から閉め出されたってことだわね。
私が感じたのは、kindle unlimited という新しいシステムを利用して、
クオリティの低い作品をさばこうとしている一部の出版社がいることにアマゾンが気付いて、
排除しようとしたのではないかということで、
個別のケースに当たってみれば、
アマゾンの対抗措置として正当な理由があるんじゃないかってことだよ。
そしてアマゾンの揚げ足取りたい連中が煽っているんじゃないのかな。
[Kindle Unlimitedで講談社の本が無断停止のまとめとプラットフォーム論](https://gooddayslabo.net/society/kindle-unlimited-kodansha)
アマゾンが自分の賭場でなにしようがアマゾンの勝手じゃないの。
今更読んでみた。
読んだがよくわからなかったのでネットでぐぐってみた。
そうするとだんだんわかってきた。
感想を書いている人が多いのにすこしびっくりした。
つまりこういうことか。麻美は百崎Pにそそのかされてボーカルになりステージにあがったがうたいだしが思いつかなかった。
パニックに陥り「少女3」のところで、異世界にとばされたのだ。
なんだつまりは異世界ものか、と思った。
つい最近「パプリカ」を見たのでそれに似ているなと思った。
よくわからない(と、いうより、わざとはぐらかしたような)ハイテンションが続く展開。
少女パートと少年パートが交互に進んでいって最後にボーイミーツガール話になるかと思ったら、
そういう可能性もあるがそうしなかったみたいなメタな結末。
それで伊能忠敬がよかったとか、異世界に飛び込んだ感じが良かったとか感想書いている人がいて、
自分はそこでツボらなかったし、
ハイテンションな疾走感のある、というか迷走してる感じの文体というかストーリー展開に引き込まれることもなかった。
そういう展開の中に自分から飛び込んでいき浸れる人には面白いのだろうが、私はそういう読書をするには年を取り過ぎたし、
いや、年を取ってもそういう読書をする人はいるんだろう。
祭りだから踊っとけという人だけが祭りの中へ入っていける。私はもはやそうではないんだなってことを改めて知った。
では実験小説、前衛小説として評価しますかと言われたら、うーん。
では次回作まで判断は保留しますか、という感じかなあ。
ま、次回作ももう読んじゃったんだけどね。
ダダイズムの詩や絵画みたいなもので異世界を表現されても、
普通の前衛小説の表現と見分けがつかなくて、
どこから異世界に入り込んだのか私にはわかりにくかったのでした。
私が、異世界ものを普段読まずになれてないせいかもしれないが。
たとえば 1984 を読んでいるときに、途中で異世界やファンタジーが混ざり始める、なんてことは決して考えずに、
私たちは読み進める。
ふだんからそういう頭でいる人間にはファンタジーまじりのフィクションは読めない。
読んでて途中でわからなくなるのはしかたないよね。
1984 から 1Q84 を調べてて知ったのだが、
1Q84 ってボーイミーツガールな異世界転生話なのね?
てことは今ラノベ界で大流行な「ボーイミーツガールな異世界転生話」というのはもしかして村上春樹の影響なの?
もしかしてラノベって多かれ少なかれ村上春樹に影響されてるの?
もしかしてこの世界が理解できない私というのは、
村上春樹を全く読まないからなのだろうか。
そんな気がしてきた。
けっこうな人たちが村上春樹の方向へつっぱしてっている世の中で取り残されたような気分がしている。
思うに、
真実であることを主張して嘘をつくのがドキュメンタリーであり、
フィクションをカモフラージュにして真実を語るのが小説というものだ。
ほんとうのことを実名で書いてはシャレにならないから、
時代を変えたり、人物を変えて、小説仕立てにして書くから、小説は面白いのであり、
奇想天外な、荒唐無稽な、ご都合主義的な嘘八百を書くから面白いのではないのだ(ま、しかし、世の中あれほどラノベの読者が多いってことは、夢想に溺れ、つらい現実から逃避したいからかもしれない。孫悟空的、ハヌマーン的な需要は別にあることは認めざるを得ない)。
そしてドキュメンタリーがしばしばつまらないのは、事実の断片をコラージュしただけのまがいものであり、
制作者のオナニーに過ぎないからだ。
1984を書き遺したジョージ・オーウェルという人は、大英帝国の末期に生きたイギリス人なわけだ。
「ビルマの日々」「動物農園」などをあわせよんでみると彼の輪郭がだんだんはっきりしてくる。
> 殉教者を作ってはならない(one must not make martyrs.)。
これこそまさに大英帝国がその数百年にわたる帝国支配において、というより、
キリスト教社会において、長い年月をかけて学んできたことだ。
キリスト教は「殉教者ビジネス」の先駆だ。
教祖のイエスが殉教者の典型であったが、しかし、ユダヤ教の預言者にその前例がなかったわけではない。
イエスがその殉教という演出方法を完成した。
ほかの、例えばバラモン僧が自分で火あぶりになって死ぬみたいに、悟りや救済のために自発的に死を選ぶ「殉教」ではなくて、
キリスト教の「殉教」は権力者による宗教弾圧とセットになっている。
宗教的弾圧を受けることによってより強固な共同体を作り出し、民衆、特に貧民を組織し、国家を侵食していって、
やがて国教におさまって国家を乗っ取る。
キリスト教とはそのような宗教である。
かつて日本にやってきた宣教師も弾圧され殉教した。
ローマ法王は日本で殉教した宣教師を列聖することによって、日本にキリスト教の種を植え付けようとした(日本も爆心地の浦上天主堂をそのまま遺しておけば殉教のシンボルとすることができたのだが、建て替えてしまい、惜しいことをした)。
殉教によって信仰がより強固になることを知った徳川幕府は、彼らを殺してしまってはいけないということに気付いた。
改宗させるか、改宗しないまでも、生かして閉じ込めておくことにした。
死ぬと殉教者になってしまい、信者たちの心の拠り所にされてしまうからだ。
20世紀には独裁国家が多数生まれ、殉教者もまた大量生産された。
欧米の独裁者たちもまた、殉教者を自ら作り出さないように腐心した。
独裁者たちは死に至らしめない肉体的拷問方法をたくさん編み出した。
そしてもっとも巧妙なのは、反逆者らを精神的敗北者にしてしまうことだった。
そのために一番効果的なのは、同志を告発させ、裏切らせ、転向させることだった。
日本の「踏み絵」と良く似ている。
「異端者」を「自由意志にもとづいて」「屈服させる」。
「消極的な服従」にも、「至高の服従」にも満足しない。
自分の最も愛する人を裏切り告発することで人は心が折れてしまい、反逆者として存在しなくなってしまう。
これは反逆者を死刑に処すよりもずっと効果的なのだ。
ということが 1984 に描かれている主題だ。
しかしながら、そうやって反逆者を消し去ったようにみえて、
結局は、スターリンや毛沢東も、殉教者を完全に抹殺することはできなかった。
無数の、無名の殉教者がいることを私たちは知っている。
殉教者を実数より少なくみせることも、逆に多くみせることも、殉教者ビジネスの一種だ。
この「殉教者ビジネス」は今日でも「被害者ビジネス」「社会的弱者ビジネス」として健在なのは驚くべきことだ。
イエスが自分で意図してこのビジネスモデルを発明したとすればおそるべき慧眼といえる。
アンプルフォースという詩人がキップリングの詩集を編纂していた。
その詩の一つに、rod と韻を踏むために god という単語が出て来た。
脚韻のために god を詩から削除することができず残した、
それで思想警察に捕まってしまう、という話が出てくる。
> 君は考えたことがあるかね、イギリス詩の歴史は、全般的にいえば、英語が脚韻に乏しいという事実によって決定づけられていることを?(‘Has it ever occurred to you,’ he said, ‘that the whole history of English poetry has been determined by the fact that the English language lacks rhymes?’ )
「英語が脚韻に乏しい」よく見かける文句だが、これは 1984 が初出なのだろうか。
どうもそうらしいのだが、だとするとずいぶん新しい。
ところで 1Q84 は 1984 に触発されて書かれたものであって、
それゆえに 1984 を読み返す人が多いというのだが、
それはどうだろうか。
[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3)
> シドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。
いや、それはどうだろう。
新井白石の著書から、そんなことが読み取れるだろうか。
彼の認識は「我国厳に其教を禁ぜられし事、過防にはあらず」であろう。
白石は、問題をこじらせないためには、宣教師を本国に送り返すのが上策だし、
でなきゃめんどうだが幽閉してしまえ。
処刑するのは下策だ。
転向させたり拷問することは無意味だ、と提言しているだけだ。
国内的には一般人から隔離して「存在しない」ことにしてしまえばそれで足りる。
対外的には迫害や殉教という事実がそもそも「存在しない」ことを示せば足りる。
プロデュース、本来は何か物を作る、特に農産物を生産することのはずだが、多くの場合、ラジオやテレビ、映画など、
何かの作品を作るために人と金を手配して、作品を市場に売り込むことを言うらしい。
別に日本人がそう誤解しているだけでなく、本家のアメリカでもそうらしい。
[Amazon 講談社の読み放題対象作品を一方的に削除した問題](https://kindou.info/74150.html)。
> きんどうとしては、もともと読み放題にユーザーさんが参加されても、読まれてもアフィ収入にはならないので……そのどっちでもいいっちゃいいんですが。
なるほど。
ぽちって買わないと広告収入にはならないわけですね。
私としてはアマゾンがこれからも「実験的」な新サービスを次々繰り出してくれることはありがたい。
アマゾンとしては Kindle Unlimited がどっちの方向へ走り出すか、
完全に読み切れない状態でのスタートだったと思うんで、不測の事態に備えて、
一方的に配信停止したり、契約解除できるような契約を結んでいたのに違いない。
大手出版社や、佐藤秀峰らが、アマゾンとどんな形で契約していたのか。知らんがな。
実際にアマゾン側に不手際があったのかどうか。
そんなことは私にはわからないから推測するしかないのだけど。
たとえば、佐藤秀峰さんところの「マンガ on ウェブ」。
今も読み放題で提供されている。
これは良い本だ。
アマゾンはこれは切ってない。
それ以外のどんな本が切られたのか。
佐藤秀峰は言及してない。
どんな本がどんな理由で配信を拒否されたか。
それについては誰も語りたがらない。明示してない。
語りたくないからでしょう。
ほんとうにアマゾンが不当だったのか。判断できない。
自分に不利なカードは隠して戦おうとしている。そりゃそうだろう。商売とは、訴訟というものはそんなものだ。
どうもどっちもどっちな気がしてしかたない。
出版社側もわかってるのではないか。なぜ切られたか。
ほんとうに自信がある本が切られたから怒ってるのじゃあるまい。
アマゾンにカスをつかませようとして断られたからキレてるだけでしょ。違うの?
私としては、アマゾンに対して、まじめな個人作家の作品をなんとかプロデュースしようという「愛」を感じている。
読者がたくさんの文字を読むということは、良書であるということだろう。
たくさんの文字を書いて、それをきちんと読んでもらえたということは、報いがあったと感じる。励みになる。
KENP はおそらくその指標のために作られたものだろう。
中身がすっかすかで、1ページ辺り読むのに1秒かかるかかからないかで読み捨てられるような本。
エロと猫と萌えの写真がずらずら並んだような本。
アマゾンとしてはそんな本をプロデュースしたくて KDP を始めたんじゃなかろうよ。
私も自分で書いていて、この本の1ページと自分の本の1ページ、同じ報酬で読まれたんじゃたまらんなという本をよくみた。
逆ももちろんある。
ああこの本の1ページには他のアホみたいな本の100ページ以上の価値があるのにと感じることもある。
もちろんアマゾンも商売で本が売れりゃそれでいい、しかし、
いままでの流通や広告では見すごされて、埋もれていた、良質な個人作家の作品を、マスとして掘り起こしたい。
潜在需要を掘り起こしたい。
いわゆるロングテイルというやつ。そういう戦略で KDP をやっている。
アマゾンの一連のサービスや対応で見えてくるのはそこだ。
アマゾンに一貫する長期戦略というのはそこだよ。
個人出版としてはそこに乗っかるしかないじゃないか。
あほみたいなマーケティングに明け暮れる出版業界。
そのあほみたいなマーケティング、特に、すでに形骸化して久しい文学賞とか権威付けに群がるしか能の無い読者たち、作家たち。
アマゾンがそこをヤってくれるかどうかはわからんが、そこが、長い目で見て解決されなきゃならない部分でしょ。淀みでしょ。
読み放題や試し読みの方法はもっといろいろ試されて良い。もっと広まったほうがよい。
読んでみたらつまらなかった本は淘汰されたほうがよい。
今のアマゾンランキングは改善されるべきだ。
これからもどんどん変わっていくのに違いない。
Kindle Unlimited やアマゾンプライムビデオという新サービスが始まっただけで、
私の映画視聴や読書の量、幅がまったく変わってしまった。
そしていままで見たことのない作品をたくさん見るようになった。
同じ事は J:Com で CATV を見始めた頃にもあった。
私はもう本など読まないつもりだったのに、こんなに読むようになったのは不思議だ。
同時に思うのは、仮に、仮にだが、たとえどんなに私の作品が勝れていたとしても、
それが他人の目に触れない限りは存在しないのと同じなのだ。
新サービスによって人の目に触れるようになり多少は読者が増えるかもしれない。
それは KDP や Kindle Unlimited などですでに体験したことでもある。
そして Kindle Unlimited のおかけで、ブログレベルのしょうもない本が良く読まれている例もよくみかけるようになった。
そんなのググればいくらでも書いてあるじゃんみたいな内容の本が KDP で出版して、有料なのだが、
Kindle Unlimited 対象なのでランキング上位にあがってくる。
人の目にどうやって触れるようにするか、いかにして人の目に触れる機会を増やすかということは、
非常に大きな問題だ。
私は二冊、紙の本を書かせてもらった。
KDP と何が違うだろうか。同じ人間が書いたものではないか。
しかし、紙の本のほうが明らかに人の目に触れやすいし、流通しやすいのだ。
むろん紙の本には編集者や出版社、書店、業界が介在し、助言や助力がある。
たいへん感謝している。
しかしそれでも KDP とこれほど差がつくだろうか。
そしてほぼ確実に予測できるのは、同じ私の本であっても、
マーケティング次第で、もっと売れるはずなのだ。
コンテンツのクオリティとは別の何かが必要なのは明らかだ。
それは何年もやってて身に染みた。
「潜入捜査官マリナ」は探偵もの、刑事もののジャンルで敢えて書くことによって、
そちらのジャンルの読者の目に触れようとしたものだ。
官能小説、大衆小説を読もうと思った人はあてが外れたかもしれない。
でも一応作品解説みればある程度わかるよね?
だがあまり節操なくいろんなジャンルに手を出すのは恥ずかしい。
個人出版にできることは限られているってことを、いまはひしひし感じてる。
アマゾンがまた何か新しいサービスを始めて、世の中への露出が増えないかなあみたいな他力本願なことを考えたりする。
たまたま誰かアルファブロガーかなんかの目に触れてレビュー書いてもらえないかなあなんてことも考える。
ま、ともかく、焦らず、自分が良いと思うものをこつこつ書いておくしかないのかもしれん。
アマゾンプライムビデオというやつを最近は良くみるようになった。
J:Com の CATV でせっせと録画していたのだが、最近は録画はめんどくさくなってほとんど使ってない。
もったいない。
でも BS で自動予約録画する番組がいくつかある(酒場放浪記と女酒場放浪記だが)。
まあ使っていくしかなかろう。
そんで今日は、「東京ゴッドファーザーズ」と「パプリカ」を見た。
「東京ゴッドファーザーズ」は15年くらい前の東京が舞台で、今とはかなり違ってしまっている。
新宿中央公園にはもはや浮浪者のビニールシート小屋なんてないし、
もう誰も公衆電話なんて使わない。
勝手に線路に下りたら点検のために電車が止まっちゃうから普通捕まる。
いろんな意味で15年前の東京はまだまだいい加減だった。
新宿南口にはまだ屋台が出てたし。
東京で知り合いと偶然出会う確率はほぼ0%だ。
帰る路線が同じで帰宅時刻もかぶってたりすれば別だが。
しかしその偶然が余りにもかさなりすぎるし、しまいにゃ宝くじにあたったりするのがしらける。
そういう偶然に頼ったストーリー展開は、私ならやらない。
全部が偶然で出来ている話は書いてもいいがプライオリティが低く、
ほとんど全部を必然で組み立てていてそこにご都合主義の偶然を一つ混ぜるとすべての努力が無になるからだ。
まあ、2000年頃の新宿の雑多な風俗をアニメで表現した作品、として見れば良いのかもしれないが。
「パプリカ」には困惑する。
夢の中でまた夢を見る、他人との夢、現実とが混ざり合う。
それはそれで面白いのだが、やはり「夢オチ」はしらけるものだ。
「東京ゴッドファーザーズ」と同じようにそのしらける技を徹底的に反復したという意味で、ふっきれているつもりなのだろうが、
なんというのかなあ。こういう派手なけばけばしい作品を作られると、
まじめな作品を作ろうとしている人間にとっては、迷惑な部分もあるんだよな。
面白いから許すというところまでふっきれてないというのかなあ。
筒井康隆の原作があるから完全な娯楽に徹してない。どこか思わせぶりだ。
たぶん筒井康隆の原作は、読んでないからわからんが、その夢オチ特有のしらける感じをうまく回避して作品を成立させてたんじゃないかと想像するのよね。
私としては、「オカルト」とか「ファンタジー」のご都合主義を極力削り落としてリアリズムに徹しようとしているわけ。
で彼らがリアリズムを捨てて虚構に徹しててくれれば棲み分けできるんだけど、
オカルト屋さんやファンタジー屋さんは、リアリズムにもちょっかい出してくるじゃないですか。
ありがちなんだけど。
そうするとリアリズムの世界だけで書いてる人間にしてみると、自分の作品がただの地味な作品に見えて困るのよねえ。
現実にはそんな面白い話は簡単にころがってない。
その制約のなかでいかに面白く、地味じゃない話を作るか。
起こりえることを、それが起こる前に思いつくことには意味がある。つまりは予言だわな。新規性。
手垢の付いてないストーリー。処女地の開拓。
起こった後なら取材だわな。ま、それにはそれで価値はあるが。
一番つまんないのはテレビか何かでみたような展開をご都合主義という糊で貼り合わせたような作品だよね。
「シン・ゴジラ」なんかは割と硬派な作りで、フィクションとリアリズムが一つの作品の中に共存しているんだが、
互いを極力侵さないようにしている。
しかしフィクションとリアリズムがお互いにもたれ合ってるのは見てて不快よね。
シン・ゴジラは、
ゴジラはフィクションなんだが、自衛隊や米軍はリアリズムでできてるよね、少なくとも前半までは。
ヤシオリ作戦からおかしくなる。ゴジラが気絶してるうちに口から注入するとか、
爆弾電車ぶつけるとかドリフのコントだよね。
ヤシオリ作戦は単なるエンターテインメントの怪獣映画になっちゃっててサービスのつもりかもしれないが、私にはつまらない。
まともかくフィクションとリアリズムは混ぜないでほしいというのが私の感覚。