夏目漱石論

還暦を迎えて今更漱石とか鴎外を調べているのは個人的に調べる必要が出てきたからなのだがそれはともかくとして、鴎外に「夏目漱石論」という短い随筆があって、これで鴎外が漱石をどう思っていたかだいたいのことはわかる。随筆というよりはおそらく新聞記者か何かのインタビューで聞かれたから答えたというようなもの。漱石は何か計略や計算のようなもので売れてきたのか、漱石に対する評価は高すぎるか低すぎるか、などというあけすけな質問に対して、漱石に対する現在の評価は低すぎるので彼が今の地位にいるのは何かの企みではなく正真正銘彼の実力によるものだろう、などと言っている。鴎外はしかし漱石が書いたものをそんな真面目に読んでいるわけでもなく、通り一遍に知っているだけのようだ。漱石は金儲けに汲々としているかという質問に対して、そんな家庭の事情は知らないが、あまり金持ちになっていそうにも思えないと答えている。

漱石が小説を書き始めたのは生活の足しにするため、つまり小説を書いてそれを家計の足しにしようと思ったからに違いない(※追記「高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ」とウィキペディアにはある。また本業の気晴らしとして小説を書いたとも言われている)。新聞に掲載されるとどういうわけか非常に評判が良くてどんどん書くようになった。『吾輩は猫』も『坊っちゃん』も『草枕』も明らかにいわゆる新聞連載小説、通俗小説だ。

一方で鴎外は江戸初期から続く医者の家系であって、若い頃から漢詩も作っていて、蘭学も親から習い、ドイツ語も勉強し、非常な秀才であって、ドイツ留学から帰ってすぐに小説を書き始めたから、漱石よりも15年ほど早く本格的な作家活動を始めたわけだ。鴎外は別に売れっ子作家になろうと思ったわけではあるまい。軍医の仕事だけで十分暮らしていけた。鴎外から見れば漱石の漢詩にしても小説にしてもひよっこくらいに思っていただろうけど、漱石の小説が人気を博していて自分よりもある意味売れているのは事実として認めていただろうし、また漱石のことは紳士だと言っている。

「予が立場」というものもこれは記者に質問されたものがそのまま文章になったもののように思われるが、鴎外は世の中で誰が上で誰が下か序列を付けようとして大変迷惑しているのがわかる。この中で「少し距離のある方面で働いているのは夏目君に接近している二、三の人位のものでしょうか」と言っているのは、自分と漱石が働いている世界がかなり隔たっていることを言っている。世界が違うので比較のしようがないのに比較されて困っているともいえる。

私はといえばこれまで漱石も鴎外も愛読してこなかったくらいだから別にどちらが好きでも嫌いでもない。愛読したといえば中島敦とか小室直樹なんかのほうがずっと愛読したし、それより何より、頼山陽や本居宣長なんかを読んだ。芥川龍之介や志賀直哉なんかの短編も嫌いではない。

「なかじきり」と言う文で「叙情詩においては、和歌の形式が今の思想を容れるに足らざるを謂い、また詩(漢詩のこと)が到底アルシャイズム(archaism、懐古趣味、骨董趣味とでもいおうか)を脱しがたく、国民文学として立つ所以にあらざるを謂ったので、款を新詩社とあららぎ派に通じて国風振興を夢みた」などと言っていて、明治の人がそう思うのは仕方ないとして、アララギ派と親しくしたからには正岡子規とは親しかったはずだ。

鴎外はおそらく和歌はまったくわからなかったはずだし、大和言葉(擬古文)を操る能力もなかったと思う(それは漱石も同じだが)。漢詩に関してはずいぶん勉強してうまかったはずだが、やめてしまった。鴎外はしかし樋口一葉の小説の面白さは理解していたから、間接的にではあるが和歌や和文の面白さがわからぬ人ではなかったのだろう。ファウストの訳などみるに、どうもあれはやっつけ仕事に思える。しかし鴎外のほかまだ誰も訳していなかった時代に初めて訳してみせたのだからそれは偉いと思う。鴎外訳を下敷きにしてあまたの人がファウストを訳してみようと思わせただけでも偉いといえば偉い。何しろ鴎外は仕事が多すぎる。結局手当たり次第に手を付けて何がやりたいのかどうしたいのか本人にもわからなかったのではなかろうか。一つ一つの仕事はそんなすごくないと思うのだが、何しろ一通り読んでみるには時間がかかりすぎる。

航西日記4

9月1日、夜明けに港を望む。市街は山が迫り海に面している。区画は上環中環下環の三つに分かれている。家はみな石造りである。その清らかで汚れのない石は香港の山の中で採れるという。午後4時、はしけ舟を呼んで上陸する。駕籠を頼んで領事館へ行く。領事館は上環にある。坂道ははなはだ険しい。石畳に階段を作っている。領事館で晩餐する。魚膾・米飯・瓜の漬物などが饗される。10日間洋食ばかりで食べ飽きていたのでありがたい。中尉島村千雄が領事館にいて、清仏戦争の戦況を詳しく話してくれた。一緒にイギリス兵の屯舎を見に行くことを約束する。島邨は土佐の人、昔、萩原と知り合いであったという。舟に帰って宿泊する。盗難に遭うことを恐れるためである。おそらく香港の名はもとはポルトガル語の「盗賊」に由来するのだろう。清国の人がその音を今の字に当てたのである。王紫詮が言うに、山の上には泉が多く、甘く清いことは、よその土地とは異なっている。これによって香港というのではないかと。王紫詮はポルトガル語を知らないのでそのような説を言うのだ。この日、故郷に手紙を出す。寒暑針はカ氏85度。

2日、花の庭園に遊ぶ。その庭園は非常に大きくて上環にある。門に入ると緑が衣を透すようで、紅紫の花々に目がくらむようだ。サボテンの類いは驚くほど大きいものがある。檻の中に孔雀・鸚鵡・猿、鹿などを養っている。市街に足を伸ばし、坊門や看板を見る。皆その筆法はうるわしくなまめかしくたおやかである。香港のホテルで晩餐する。領事館の記室書記官が二人来て会う。一人は町田實一という人、もう一人は田邊貞雄という人。田邊もまたメンブレ号に乗ってホテルに来た者で、ドイツ語を解するので、快談して気張らしし、船に帰って寝た。

3日早朝に領事館に行く。島村とともにイギリス兵の屯舎を見ようと思ったのである。町田が言うには、昨日使いを遣わして、屯舎にいた某中佐にその意志を伝えたのだが、いまだその返事がないと。領事館で昼食をとる。にわか雨があった。

午後4時、返事が来る。行って見ることを許される。そこで駕籠を雇って療養病院に至る。時刻が遅すぎて屯舎を全部見るヒマがない。島村は理由があってこなかった。ただ丹波だけが同行した。病院は下環の南にある。規模はそれほど大きくない。下医の貝堀氏が迎えて診察室に入れてくれた。半時ほど話をしながら各区を巡覧した。実際に病兵が10人ほどいた。みんなインド人であった。200人のインド人から病にかかる比率を計算すると、100人に5人の割合である。その病は熱症が最も多い。下痢がこれに次ぐ。性病にかかるものは一人もいない。病室は三区に分かれ、区ごとに10のベッドを置く。2列に分けて2つのベッドごとに1つの窓がある。窓に上下の口がある。上が小さく下が大きい。部屋の隅には換気のための箱が設けられている。箱の側面は鎧戸に似ている。下の面に蓋があって開くことができる。部屋に麻のすだれがあり、船の中と同じである。支那人の小間使いがいて部屋の外で縄を引いてこのすだれを動かす。医者に、患者一人当たりの空気の容積を問うと、曰く、約1200立方尺であると。はなはだしく差があるわけではなさそうだ。診視治療の方法を問うが、特に言うべきこともない。その病名を名付けるのも非常におおざっぱだ。一つの病床日記があり、単に熱症と記載している。どんな熱かと問うても答えることができない。避病室があり、ベッドは2つ入っている。平病室とわずかに一つの壁で隔てられているだけだ。癩狂室は無い。発狂した兵がいたらこれを船に送るという。看護室に入ると兵卒が数人いて起立して礼をした。服装はきれいで垢に汚れた者はいない。厠を見ると普通の水洗であるが、臭気はない。廊下の一隅に濾過装置を置いている。また盥漱室がある。他には特に異なるところはない。薬局は病院と別に作られている。見終わってたまたま外科医長の末克耶烏殷氏が来て面会した。船で浮動病院というところへ行くとそれは巨大な船であった。船の中は甲板を除いて四層になっている。第一と第二層に病兵を入れている。層ごとに60台のベッドがあり、2列に分かれている。ベッド2つあたりに窓が1つあるのは療養病院と同じである。ただし、患者一人当たりの面積は療養病院の2倍ある。天井が低いためである。一番後ろの区は癩狂室であるが、ベッドが1つあるだけである。私は便器がないのをあやしんで問うてみたところ、平病のものと同じ厠があると。看護の兵卒が数人で助け合って看病している。船の中には現在病兵が50人いる。みんなイギリス人である。イギリス人1200人から病に罹る割合を計算すると100人に4人である。その病は梅毒と淋病が最も多く、熱症がこれに次ぐ。医官室、看護室、薬剤器械室、図書戯玩室、みな第一と第二層にある。浴室、便所もまたそうである。第三層は病兵の服や剣などをしまっており、下士官がこれを守っている。第四層には水を蓄えている。甲板には水兵室、厨房、役夫室がある。一隅に大きな鉄の箱が並んでいて、浄水を蓄えている。見終わり、挨拶して陸に上がる。すでに日が暮れていた。はしけ舟を呼んでフランス船楊子号に行く。同行の者たちは先にここに来ていた。荷物を収めて眠りに就いた。耶烏殷氏と面会したときに、病兵の中で足にむくみがあるものがいるかを私は問うた。脚気の有無を知りたかったからである。耶烏殷氏が言うには、はなはだ稀であると。しかしながらたまたま維新日報を読んだら、岡州の某医師の報告があって、もっぱら脚気を治療していると言っている。おそらく港にいる支那人は多くがこれを患っているのであろう。

4日午後、香港を出発する。港にいるうちに詩を二つ作った。

アヘン戦争当時のことはすでにはるか昔のこととなった 
時勢の移り変わりは喜びもあり憂いもある
誰が予測しただろうか、この草深い荒れ地が
イギリス人に与えられて幾万もの船を停泊させることとなろうとは
故郷へ送る手紙を書き終えると心はひどく寂しい 
重なり合った山々に霧が立ち上るのを座ったままみている
日は落ちても夕日はまだ波間に残っている
小舟がやってきて芭蕉の実を売っている

5日、海上に見るもの特になし。

6日、ベトナムの山並みを過ぎる。詩を作る。

安南の山の下に船が多く浮かび過ぎていく 
振り返り眺めているときりがない
辺りを見回して大昔の遠征のことを思う
雲のいずこに伏波将軍を弔おうか

安南とは交趾のことである。その俗は両足の親指をそれぞれ曲げて向かい合わせるのでその名がある。その說は「安南紀遊」に出る。

本文

九月初一日。天明望港。市街倚山枕海。區畫層々。分爲上環中環下環。家皆石造。皎潔若雪。石香港山中所產云。午後四時呼三版登岸。倩輿至領事署。署在上環。阪路甚峻。鋪石設級。晚餐於署。有魚膾米飯醃瓜等之饗。足以一洗十日喫洋饌之口矣。中尉島邨千雄在署。語淸佛戰况甚詳。約俱觀英兵屯舍。嶋邨土佐人。曾與萩原相識云。歸宿舟。恐盜也。盖香港之名。原出葡語。盜賊之義。淸人塡以今字。王紫詮曰。山上多泉。甘洌異常。香港之名或以是歟。紫詮不識葡語。故有此說。此日發鄕書。寒暑針八十五花度。

初二日。遊花苑。苑頗大。在上環。入門則碧翠透衣。紅紫眩目。霸王樹之類。有偉大可驚者。有檻畜孔雀鸚鵡猨鹿等。出步市街。見坊門招牌。皆筆法斌媚。晚餐於香港客舘。領事署二記室來會。曰町田實一。曰田邊貞雄。田邊亦乘綿楂勒舶來舘者。主解德國語。快談遣悶。歸宿舟。

初三日早。至領事署。欲與嶋村俱觀英兵屯舍也。町田曰。昨遺使吿意於在舍中佐某。未得其答書。午餐於署。驟雨。午後四時答書至。許徃觀。乃倩輿至停歇病院。以時已晚。不暇遍觀屯舍也。嶋村有故不行。唯丹波同行。院在下環之南。規模不甚宏大。下醫貝屈氏迎入診室。交語半晌。已而巡覽各區。現有病兵十人。皆印度種。以其全員二百。算其罹病比例。則爲百之五。其病熱症最多。下利次之。絕無染花柳病者。病室三區。每區置十牀。分爲二列。每二牀一窓。々有上下口。上小下大。室隅別設換氣方筐。々之側面。似我鎧戶。下面有盖可開闔。室垂麻簾。與舟中同。有支那奴在室外引索動之。問醫每人所領之空氣容積。曰約千二百立法尺。似不甚差者。問診視治療之法。無復足言者。其命病名甚疎。有一病牀日誌。單記熱症。問何熱。不能答也。有避病室。可容二牀。與平病室。僅隔一壁。無癲狂室。有兵發狂。送諸舟中云。入看護室。有卒數人。起立作禮。服裝鮮美。無垢汚者。見厠。尋常水圊耳。然無臭穢氣。廊之一隅。置漉水器。又有盥嗽室。無他異。藥局則別築之。觀畢。偶外科醫長末克耶烏殷氏來接。飛艇至浮動病院。則一巨舶也。舶內除艙板之外。分爲四層。第一二層病兵居之。每層置六十牀。分爲二列。每二牀一窓。與停歇病院同。唯一人所領之面積則倍之。以縱尺小也。最尾一區。爲癲狂室。亦置一臥床耳。余恠無便器問之。曰圊與平病者同之。看護卒數人扶掖而上。舶內現有病兵五十人。皆英人。今以其全員千二百。算其罹病比例。則爲百之四。其病則黴之與淋爲最多。熱症次之。毉官室、看護室、藥劑器械室、圖書戲玩室。皆在第一二層之間。浴室厠圊亦然。第三層藏病兵衣劔等。有下士守之。第四層貯水。艙板則有水兵室。有割烹室。有役夫室。一隅排列巨鐵函。以貯淨水。觀畢。辭別上岸。則日已旰矣。呼三版至佛舶揚子號。同行諸子皆先徒在此。安頓行李就眠。余之接耶烏殷氏也。問病兵中有腿脚水腫者否。驗脚氣之有無也。耶烏殷氏曰。甚稀。然偶讀維新日報。有岡州醫某吿文。謂專治脚氣。盖支那人在港者多患之。

初四日。午時。發香港。在港間有詩二首。開釁當年事悠々。滄桑之變喜還愁。誰圖莽草荒烟地。附與英人泊萬船。家書艸罷意凄然。坐見層巒烟霧起。日落餘光猶在波。扁舟來賣芭蕉子。

初五日。海上無所見。

初六日。過安南山下。有詩。安南山下蘯船過。顧望不堪應接多。囘首遠征千古事。烟雲何處吊伏波。安南則交趾。其俗兩足大趾。交曲相向。故取名。說出安南紀遊。

三版は三板、あるいは舢舨。小型船のことであろう。長崎でもサンパンと呼んでいた。

輿とは、神輿のように担ぐものではあるまい。駕籠か、あるいは人力車のことではないか。とりあえず駕籠と訳しておいた。

上環中環下環。西から東へ並ぶ。下環は今の湾仔(ワンチャイ)

清仏戦争は明治17 (1884)年と明治18 (1885)年に起きた。フランスによるインドシナ侵攻はアヘン戦争が起きた1840年頃から始まり、ベトナムに対する宗主権を巡り、1884年8月中旬、和平交渉は決裂、清国とフランスの間で戦争が勃発した。

岡州、かつて広東省にあった地名。

伏波将軍は馬援。後漢の光武帝によってベトナムに派遣されこの地で病没した。

交趾とは、中国がベトナムに置いた郡。

航西日記3

29日、何事もなし。日東十客歌を作る。曰く、

大きな船を浮かべて長波を渡る 
日東の十客は実に興味深い
田中は快談して山岳を揺るがす
飯盛は痛飲して江河を飲み尽くす
穂積と長与は乙女のような
華奢な体付きで薄衣にも堪えないといった風情である
宮崎はいつも考え込んでいる
彼と片山は同じ科目を学んでいる
隈川はフランス語会話を学び操り
月日が飛ぶように過ぎ去るのを惜しんでいる
丹波はまるで覇気がなく
波風に遭うたび憔悴している
萩原はいくら歌っても情を尽くすことがなく
滑らかな声で子夜歌を歌うのはどうしたことか
ただ独り森だけがのどかにくつろいで
いびきは雷のようだが誰も敢えて叱ろうとしない
何年か後に欧州遊学を終えて 帰国した後
皆の面目は果たしてどうなっていることか

30日、福建を過ぎ、台湾を望む。詩を作る。

歴史に永久に名を残した 
鄭成功の業績は論じるまでもない
今朝はるか遠くの台湾の雲山の影を指さす
当時の鹿耳門はどのあたりだろうと

また、

絶海の巨船は凱旋して帰る 
果断一挙に 物わかりの悪い連中を破ったのだ
戦で亡くなった兵士らを哀れむ
その骨は瘴気に満ちた蛮族の地に埋もれている

アモイ港の入り口を過ぎると二つの島が並んで立っているのが見える。その名を問えば、兄弟島であるという。感じるところがあって詩を作る。

ひとたび故郷を出て大海原を渡り 
アモイ港の入り口でひどく心をいたませている
二つの島が波間に立っているのを私独り哀れんでいる
船人らはこの二つの島をわざわざ兄弟と呼んでいる

この日、船の中で体を洗う。

31日午後10時、香港に着く。まばらな灯火が近づくほどに多くなっていく。ほぼ神戸に似ている。夜、驟雨のために船に宿る。横浜からここに至るまで、約1600海里、船の中で雑詩を作った、ここに記す。

船旅中は家にいるときのように忙しくはない 
睡眠も十分に足りて窓に夜明けの光を見る
鐘が数回鳴って私に起きろという
給仕が来て香り高い茶を勧める
山海の珍味がうずたかく積まれている
寒い部屋で一人あざわらっていた貧しかった頃を思い出す
小間使いが来て縄を引いて二つの扇を揺らし
私の頭の上から涼風を送ってくれる

およそヨーロッパの船舶の食堂では、テーブルの脇に二枚の麻のすだれを吊るし下げて、テーブルを白衣で包む。すだれごとに綱をつないで、小間使いにこれを引かせる。ひっぱったり緩めたりすれば麻のすだれが揺らぎ動いて、扇をあおぐようになる。詩の中で二つの扇と言ったのはこれのことである。また後で香港のホテルや療養病院にもこれを設けているところを見た。

本文

二十九日。無事。作日東十客歌。曰泛峨艦兮涉長波。日東十客逸興多。田中快談撼山嶽。飯盛痛飮竭江河。穗也長也如處女。淸癯將不勝輕羅。宮崎平生多沈思。與也片山是同科。隈川學操法國語。孜々唯惜日如梭。丹波何曾無豪氣。每遭風濤卽消磨。底事老萩情未盡。滑喉唱出子夜歌。獨有森生閑無事。鼾息若雷誰敢呵。他年歐洲遊已遍。歸來面目果如何。

三十日。過福建。望臺灣。有詩。靑史千秋名姓存。鄭家功業豈須論。今朝遥指雲山影。何處當年鹿耳門。絕海艨艟奏凱還。果然一擧破冥頑。却憐多少天兵骨。埋在蠻烟瘴霧間。過厦門港口。有二嶋竝立。詢其名云兄弟嶋。有感賦詩曰。一去家山隔大瀛。厦門港口轉傷情。獨憐雙嶋波間立。枉被舟人呼弟兄。此夕洗沐于舟中。

三十一日。午後十時抵香港。燈火參差。漸近漸多。略與神戶似。夜驟雨宿舟。自橫濱抵此。約千六百海里。舟中得雜詩二錄左。舟中不似在家忙。眠足窓前認曙光。鳴鐸數聲催我起。薦來骨喜一杯香。山肴海錯玉爲堆。囘想寒厨獨自咍。有奴引索搖双扇。自吾頭上送凉來。凡西舶食堂。當卓之處。弔下二麻簾。包以白布。每簾繫索。使奴引之。一緊一弛。則麻簾搖動。如揮扇然。詩中所謂雙扇卽是。後見香港客舘及停歇病院亦設之。

日東十客とは森鴎外を含む10人の留学生を言う。

鹿耳門とはオランダが占領していた台湾に鄭成功が船で攻め入り上陸した地点。

航西日記2

24日午前7時30分乗船する。船舶名はメンザレ号、フランス人の所管。私と共に洋行する者は、およそ9人。穗積八束という人は伊豫の人で、政治を学びに行く。宮崎道三郞という人は伊勢の人で法律を学びに行く。田中正平という人は淡路の人で物理學を学ぶ。片山國嘉という人は駿河の人で裁判医学を学ぶ。丹波敬三という人は攝津の人で裁判化学を学ぶ。飯盛挺造という人は肥前の人で物理學を学ぶ。隈川宗雄という人は福嶋の人で小兒科を学ぶ。萩原三圭という人は土佐の人、長與稱吉という人は肥前の人、この二人は普通医学を学ぶ。
見送りの者らはすでに解散した。9時に横浜を発つ。別れに臨んで詩2首を作る。曰く、

港の夜は明け、水柵が見えてきて、警備の拍子木が聞こえる 
楼閣の歌が止んだかと思うと、再び杯を傾けている
広々とした海原に波しぶきが立ち、気分は爽快だ
すばらしい、この小さな船で万里の旅に出るのだ

また、

顔を見合わせて涙を流す必要は無い 
西と東に遠く離れていても人の世の中に違いはない
林おじさんが昔言っていたことを覚えているか
品川の海は大西洋につながっているということを

林おじさんとは林子平のことである。夜中に遠州灘を過ぎ、富士山が雲の上に突き出しているのを望む。詩を作る。

荒波が船を揺るがし、傾けてはまた平らにする 
遠州灘に日が落ち、旅愁を生じる
突然空のかなたに富士山が現れ
船に乗り合わせた日本各地の者たちの間に早くも友情が芽生える

25日、波風が大いに起こり、苦しんで寝込む。詩を作る。

船酔いで一日中食べることができない 
当分、すきっぱらに酒を注いで船酔いをまぎらすしかない
旅客らはみな悩み苦しんで一言もしゃべらない
ただ狭い船室の中で波の音を聞いている

26日午後、風がやや止む。

27日、薩摩の南を過ぎる。詩を作る。

遠くの山はもはや目をこらさなくては見えない 
同行の仲間を呼んでやぐらに登る
波の間に陸地は沈んでもはや周りは空と海の青しかない
これからもう日本の島々を見ることはないのだ

28日、船旅ははなはだ穏やか。終日甲板に寝ている。天幕で日差しを遮り、竹のベッドに寝そべっているのは至極快適だ。柴田承桂が言う、竹のベッドは航海中の良き友であると。まさにその通り。

本文

二十四日。午前七時三十分上舶。々名緜楂勒。佛人所管。與余俱此行者凡九人。曰穗積八束伊豫人。脩行政學。曰宮崎道三郞伊勢人。修法律學。曰田中正平淡路人。修物理學。曰片山國嘉駿河人。修裁判醫學。曰丹波敬三攝津人。修裁判化學。曰飯盛挺造肥前人。脩物理學。曰隈川宗雄福嶋人。修小兒科。曰萩原三圭土佐人。曰長與稱吉肥前人。並修普通醫學。送行者已散。九時發橫濱。臨別得詩二首。曰水柵天明警柝鳴。渭城歌罷又傾觥。烟波浩蕩心胸豁。好放扁舟萬里行。何須相見淚成行。不問人間參與商。林叟有言君記否。品川水接大西洋。林叟者謂子平也。晚過遠洋。望富嶽突兀雲表。有詩。駭浪搖舟々囘平。遠洋落日旅愁生。天邊忽見芙蓉色。早是殊鄕遇友情。

二十五日。風波大起。困臥。有詩。終日堪憐絕肉梁。且將杯酒注空膓。苫船一旅悄無語。只聽濤聲臥小房。

二十六日。至午風稍止。

二十七日。過薩南。有詩。遠山髣髴耐凝眸。呼起同行上舶樓。波際忽埋靑一髮。自斯不復見蜻洲。

二十八日。舟行甚穩。終日臥艙板上。布盖遮日。竹床支體。快不可言。柴田承桂曰。竹床者航海中良友也。果信。

メンザレ号、フランス船籍の郵便船。明治20年に上海沖で沈没したという。スエズ運河にMenzaleh湖というものがある。おそらくはこれにちなむ。

航西日記1

明治17年8月23日午後6時、汽車は東京を出発した。横浜に着いて林家に泊まる。この旅行を命じられたのは6月17日だった。ドイツに赴いて衛生学を修め、同時に陸軍の医事を調査せよとのことである。

7月28日、宮城に参内して天顔を拝謁し、賢所に参拝する。8月20日、陸軍省に行って旅行手形を授かる。大学を卒業した直後から、私には西洋に遊学してみたいという志があった。思うに今の医学は西洋から来ている。たとえその文を読んで、その会話を修得したとしても、現地に実際に行ってみないことには、ただ遠い国の学説というに過ぎない。明治14年にありがたくも学士を称した。そのとき詩を作った、曰く、

優れた名誉を受けても、私の性質は依然として弱い
いまだに漢詩を吟じ肩をそびやかして闊歩する古臭い学生に過ぎないのは笑える
花を見るとわずかに本当の喜びを感じる
最年少で及第したことを誰に誇ろう
首席にならなかったことを恥じるべきだ
人に先鞭をつけさせてしまった
雄飛の志は昂然として未だくじけない
万里の彼方に洋行する夢に見る

あの頃、魂はすでにエルベ川のほとりに飛んでいたのだった。まもなく軍医に任ぜられ、軍医本部僚属となる。細々とした雑務に追われ、帳簿や書類の中に埋没し3年が経ち、やっとこうして旅行に出ることとなった。喜ばずにおれようか。

本文

明治十七年八月二十三日。午後六時汽車發東京。抵橫濱。投於林家。此行受命在六月十七日。赴德國修衞生學兼詢陸軍醫事也。七月二十八日詣闕拜天顏。辞別宗廟。八月二十日至陸軍省領封傳。初余之卒業於大學也。蚤有航西之志。以爲今之醫學。自泰西來。縱使觀其文諷其音。而苟非親履其境。則郢書燕說耳。至明治十四年叨辱學士稱。賦詩曰。一笑名優質却孱。依然古態聳吟肩。觀花僅覺眞歡事。題塔誰誇最少年。唯識蘇生愧牛後。空敎阿逖着鞭先。昂々未折雄飛志。夢駕長風萬里船。盖神已飛於易北河畔矣。未幾任軍醫。爲軍醫本部僚屬。躑躅鞅掌。汨沒于簿書案牘之間者。三年於此。而今有茲行。欲母喜不可得也。

名優。諸説有り。俳優のこととも、エリートのこととも言う。ここでは優れた名誉と訳しておいた。

郢、燕はともに古代中国の国の名。

森鴎外は文久2 (1862) 年生まれ。明治14 (1881)年 19才で東京医学校本科を席次8番で卒業。阿逖とはこのとき首席で卒業した同級生の三浦守治を言うとされる。同年12月、陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務。

明治15 (1882) 軍医本部付となる。

明治17 (1884) 年、ドイツ留学。

易北河。エルベ川。

正岡子規から野口寧斎へ

ちょっと面白かったので引用する。

拝啓、老兄、近時御臥褥の由、文人第一の不幸、御心中御察し申し上げ候。僕曾て老兄を評するの言、其後、老兄の作を見て、後悔少なからず候。老兄の技倆に付いては到底僕等門外漢の測り得る所にては之無く候。此事数年気になり候へども、正誤の機を得ず。若し此のままにてみまかり候はば。後世の執著ともなり申すべくと、一言懺悔致し置き候。猶御静養なさるべく候。

明治34年冬

子規遺稿 再版

野口寧斎、野口弌、または野口一太郎。伊東静雄と同郷なのだが、もう少し引用しておく。

詩の我が国に行はるるや久し。我が国人の詩に於けるは能く之を消化して自己の栄養に供するが故に、文字は支那に借りながらも、己が思想を吐露するに十分なることは、我が国語を以て歌ふに異ならず。故に国体の上よりして之を論ずれば、国語を以て己が志を歌ふべきことは人々に異論有るべき筈無けれども、詩が已に我が国の詩と化成したる今日に在りては、之を発達せしめて支那をも圧倒せんこと、亦快哉の事にあらずや。

聞く所によれば、仏教大乗の奥義は印度にも在らず、支那にも在らずして、我が国に存せりといふ。教へは其の発生の地をも凌ぎて、天晴れと仰がれ居るに、詩は独り其の本家本元に駕して上るを得ずといふ道理なければ、他年に至りて支那人をして詩を学ばんと欲せば、宜しく日本に赴くべしと言はしむるもの有らんと、ただ少年諸子のこれを勉むるに在るのみ。

少年詩話

すごいな。寧斎君すごいこと言ってる。日本が漢詩の本家本元になって「支那人をして詩を学ばんと欲せば、宜しく日本に赴くべしと言は」せたいらしい。それを日本の子供に勧めている。

子規が寧斎を批判している文章というものを検索してみたのだが、たとえば

槐南寧斎の如き人情人事に偏する者、恐らくは良工苦心の処を知らざるべし

槐南は森槐南。寧斎は槐南の一番弟子と言われたらしい。おそらくこれに対して寧斎から不平があったのだろう、

寧斎主人、吾を難じて「青崖湖村といふことの不倫なるは槐南寧斎といふの不倫なるに等しく」云々と言へり。已に等しくといふ以上は二人宛の一団が好対なることを証せり。只々、槐南と寧斎とを並ぶることに就きてこそ不平あるらめ。若し師弟の関係あるが為に並列すべからずとならば徂徠南郭などとも言はれぬ訳なり。若し力量異なるが為に並列すべからずとならば更に改めて青崖と槐南とを対し、湖村と寧斎を対せんか、湖村恐らくは之を恥ぢん。寧斎も亦之を恥ぢん。然らば更に改めて青崖と寧斎とを対し湖村と槐南とを対せんか。青崖恐らくは之を恥ぢん。湖村も亦之を恥ぢん。他の二君亦之を喜ばざるべし。然らば則ち奈何すべき。三人を二人づつ組み合わせたるコムビネーションは此の三様の外に出でざるを奈何せん。寧斎主人の言、終に解すべからず。

青崖は国分青崖。湖村は桂湖村。いずれも漢詩人。南郭は服部南郭。徂徠は荻生徂徠。

子規の反論は何を言いたいのかよくわからん。まあ、いつものことだが。

文人の不幸なるもの、寧斎第一、余第二と思ひしは二三年前の事なり。今はいづれが第一なるか知らず。

これは子規が結核、寧斎がハンセン氏病という持病で苦しんでいることを言っているのだろう。

草枕5

渡部昇一『漱石あれこれ』で

高校生ぐらいで漱石の『草枕』や『吾輩は猫である』が面白いというのは天才か、早熟か、ハッタリに違いないと思ってしまうのである。

(若い頃は)みんながよく読んでいるらしい漱石は通読できない。これは読者の側である私の方が少しおかしかったのか、それとも漱石がそれほど難しかったのだろうか。それは後者であったのだと私は断言する。というのは、それから二、三年して私は漱石を読まない日はないほど熱中しはじめるからだ。

とあるのだけど、この渡部昇一という人は、確かに面白いことを書く人だけど、ときどき変なことも言う人だ。少なくとも漱石のどこが(自分にとって)難しくどこが面白いのか説明してもらわないと、他人には余計にわからないではないか。

たぶん渡部昇一は適当に斜め読みすることができない人なのだろう。夏目漱石という文豪に向かい合うとその書いたものをすべて読み解かなくては読んだ気になれず、書かれたものにはすべて何か意味が、寓意が込められていると考えてしまい、自分の中にもう一人の漱石を造り上げてその像を自分なりに補い完成させなくては気が済まない人なのではなかろうか。

『草枕』『吾輩は猫である』は、渡部氏が書いているように、漱石が気分転換に数日か一週間、或いは十日程度で一気に書いた、つまり思いついたことを書き殴ったものにすぎまい。それは確かに漱石の俳句に似たものであった。『猫』は『猫』で猫が出てくる小説と思って読めば良いのであり、『草枕』は温泉旅館のちょっと風変わりな美人女将が出てくる小説と思って読めば良いのであり、まずはその表面をざっと眺めてみて、それで面白ければ精読したければすればよかろう。

江藤淳も夏目漱石について随分書いているが、

「草枕」という、この奇妙な小説の中で最も人口に膾炙されているのは、恐らく冒頭の、「
に働けば
かど
が立つ。
じょう

さお
させば流される。意地を
とお
せば窮屈
きゅうくつ
だ。とかくに人の世は住みにくい。」という一節であろう。(中略)『猫』のそれと同様に数多い『草枕』の読者は、作者の「非日常」芸術論などを素通りして、この名文句だけを心にとどめるのだ。作者が、これに続けて、「住みにくさが
こう
じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと
さと
った時、詩が生れて、
が出来る。」といおうがいうまいが、そのようなことはさしたる問題ではない。このような名文句によって最もよく記憶されているということは、非常に重大であって、要するに尋常な『猫』の読者はこの作品をそのような読み方で読んだのである。

などと言っている。実際『猫』の読者は冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだない」まで読んでそれで満足しきって、ろくに本文など読んではいるまいと思う。渡部昇一はこの冒頭の文句と同じテンションで最後まで読み切らねばならぬと思うから途中で疲れて通読できなかった。そして多少年を取ったあとで無理矢理通読できるようになったということだろう。

漱石はちょうど発句あるいは漢詩を作る気分でああいう出だしで書き始めた。読者受けを狙ってあの冒頭の文句を書いたのではあるまい。漱石にはそうした書き出し方しかできなかった。しかし小説を全文、俳句や漢詩と同じ調子で最初から最後まで書き通すことはできないし(しかしゲーテがファウストを全部韻文で書き直したように、絶対できないともいえないかもしれないがそれには数十年の歳月を要する)、読者も読むことはできない。だからなにやら冒頭だけ名調子のようになった。

漱石は新聞に発表してみて初めて自分の文章のどこが読者に受けるか気付いたのに違いない。そうするとますます漱石は読者に受けるために(つまり原稿料や印税を稼ぐために)、読者が好むような要素を自分の作品に盛り込まざるを得なくなったに違いない。

 彼は髪剃かみそりふるうに当って、ごうも文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。あげの所ではぞきりと動脈が鳴った。あごのあたりに利刃りじんがひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱しもばしらを踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
 最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙なにおいがする。時々は瓦斯ガスを余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時なんどき、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我けがなら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛のどぶえでもき切られては事だ。

こうした口調はまさに『猫』の口調そのものだ。熊本の田舎にわざわざ東京神田から都落ちしてきた髪結床職人にこうした江戸弁で語らせている。一種の即興演奏に近い。一気に書いたものに違いないのである。おそらく実体験をそのまま写したのだろう。漱石はまだ江戸の雰囲気が残る東京でふだん自分が面白いと感じたものをそのまま作品に取り入れていた。こういうものをただああ面白いと思って読めば良いだけの作品に思える。このくだり、志賀直哉の短編『剃刀』に良く似ているのだが、志賀直哉が『草枕』のこの箇所を意識して『剃刀』を書いたのはほぼ間違いないように思える。『剃刀』には床屋が「癇の強い男で、撫でて見て少しでもざらつけば毛を一本一本押出すやうにして剃らねば気が済まなかった」とあり、『草枕』には「
わっち
癇性
かんしょう
でね、どうも、こうやって、逆剃
さかずり
をかけて、一本一本
ひげ
の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時
いまどき
の職人なあ、
るんじゃねえ、
でるんだ。」とある。似すぎている。絶対にこれはオマージュだ。癇癪持ちの床屋にヒゲを剃ってもらうのは確かに恐ろしい。

狂印きじるしと云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂みそすりだ。行くのか、行かねえのか」
狂印きじるしは来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷ごきとうでもあればかりゃ、なおるめえ。全くせんの旦那がたたってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がようめておられる」
「石段をあがると、何でも逆様さかさまだからかなわねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂きちげえ気狂きちげえだろう。――さあれたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行ってめられよう」
「勝手にしろ、口のらねえ餓鬼がきだ」
とつこの乾屎橛」
「何だと?」
 青い頭はすでに暖簾のれんをくぐって、春風しゅんぷうに吹かれている。

の「咄この乾屎橛(乾いた糞の棒)」というのは当時の禅宗の坊さんが言っていた悪口なのだろうが、漱石の面白いのはおよそこうしたところにあるんだと思う。

草枕4

成り行き上、仕方なく『草枕』を通して読むことにした。予想とは少し違ってけっこう面白かった。この小説が一部の人(主に一般大衆)には受けがよく、また一部の人(主に評論家など)にはわからない、難しい、よみにくいと言われる理由もだいたいわかった。面白いというのはこの小説が案外通俗的だからだ。第五章の床屋と主人公の掛け合いなどはまるで漫才だ(『坊っちゃん』や『我が輩は猫である』に通じるところがある)。『草枕』が難しくてよくわからんという人はたぶんだらだら長くて蘊蓄ばかりで読む気にならないのだろう。それなら第五章だけをまず読んでみるとよい。

温泉旅館の出戻りの女将というのは、地元の人々には狂女のように言われているが、実際はまったく正常な精神の持ち主であって、自分の生きたいように生きようとしているだけの女のように思える。元の夫は銀行家だったが破産したので、元妻に金をもらって満州に行ってなんとか再起しようとしている。日露戦争の頃にはそういう人が多くいたのだろう。夫が破産したから離婚して実家に帰ってきた女というのは不義理な、不人情な、気が狂った女だと当時の人には見えたのだ。ストーリーとしてはただそれだけのことで、そこに芸術論のごときものがやたらと盛られているに過ぎない。

没落した夫を捨てた女は「不人情」なのだが、俗世間のごたごたを離れて絵を描いたり詩を作ったりする主人公は「非人情」だという、対比の構図になっているのも、普通に読んでみればわかるんで、ただそれだけのことだ。

日露戦争のころ、30歳の洋画家である主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。やがて宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、彼に「茫然たる事多時」と思わせる反面、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」でもあった。そんな「非人情」な那美から、主人公は自分の画を描いてほしいと頼まれる。しかし、彼は彼女には「足りないところがある」と描かなかった。

などとウィキペディアに書いてあるが、主人公の画工(えかき)が非人情であり、若奥様の那美は不人情なのである。これを書いた人は明らかに『草枕』を読み間違えている。

漱石の妻、鏡子はこの温泉場に行ったことはないが、那美のモデルとなった女から直接話を聞く機会があってそれを『漱石の思ひ出』に書いている(「前田(案山子)さんのお宅の姉さん」の名で出てくる。前田卓(つな)という人でウィキペディアにも項目が載る。この前田卓という人はごく普通の女性に過ぎない)。

漱石本人が書いた書簡や『余が草枕』も読んでみた。漱石は「坑夫」も小説になってない、と言っているけれども、「草枕」も「こんな小説は天地開闢以来類のないものです(天地開闢以来の傑作と誤解してはいけない)」「野間先生が草枕を評して、明治文壇の最大傑作だというて来ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が適当と思います。実際珍という事に於いては珍だろうと思います。」「この種の小説は、従来存在していなかったようである。」などと言っている。

それというのは、那美という主要人物は結局何もせず、それゆえストーリーも展開しない、それを主人公の画工があちこちから観察しているだけなので、今までこういう小説はなかったはずだ、などと言うのである。普通の小説というものは、主人公が動きまわってそれで話が展開していくものだ、そう言うのだ。一人称の主人公と別に主要人物がいて、主人公は主要人物の観察役に徹している。しかも主要人物は結局何もしないのでストーリー展開もない。漱石はそう言いたいのである。

一人称視点で見て語っていく小説があって、しかし実際の主役は主人公とは別の、主人公が観察した三人称の人物である、という小説は確かにあまり無いかもしれないが、私が書いた「エウメネス」はまさにそういう仕立てになっている。一人称のエウメネスが三人称のアレクサンドロスを観察する。実際の主人公はエウメネスではなく、エウメネスは読者がアレクサンドロスを観察するための視点役になっているにすぎない。真の主人公はアレクサンドロスなのである(少なくとも当初はそんなふうに書いていたのだが、いつのまにかエウメネスが本物の主人公のようになっていった)。私はこの書き方を Half-Life: 2 から思いついた。主人公の Gordon Freeman は一人称なのだが、Alex Vance という味方の NPC が一緒に行動する。Gordon は自ら行動もし、同時に Alex を観察する視点にもなっている。Alex を主人公にして、First Person である Gordon が読者の目や耳の代わりに徹するようにして、実際の活躍はすべて Third Person の Alex がやるようにすればそれは「エウメネス」になる。なんでそういうややこしいことをするかといえば単なる三人称よりは一人称のほうが没入感が高いと思うからだ。

そんな具合に確かに「草枕」は普通の小説とは異なる視点というか、一種独特な人称で書かれている。それが読者にとってつまらなくともよい。「草枕」はただ美しい感じがすればそれで良い、「ただ、読者の頭に美しい感じが残りさえすれば、それで満足なのである。もし「草枕」がこの美しい感じを、全く読者に与えないとすれば、即ち失敗の作、多少なりとも与えられるとすれば、即ち多少の成功をしたのである。」などとも書いている。私はしかし別に「草枕」を読んで、案外面白いなとは思ったが、特別美しいなとは思わなかった。漱石がなんか世の中の評論家かキュレーターみたいな、中二病的な、文学少年か文学少女みたいなことを臆面もなく、本気で語っているなとしか思えなかった。こういうことを言う人は世の中にはいくらでもいる。全然珍しくない。ごく普通の一般人でもこういう蘊蓄を語りたがる人、知識をひけらかしたがる人はいくらでもいる。漱石もまた全然特別な存在ではなく一般人と同じじゃん、としか思えなかった。

漱石の漢詩は同時代の漢詩人たちから異端視、白眼視されていた、ということを書いている人は多いのだが、では具体的に誰がそういう批判をしていたのかという記述がどこにもない。漱石贔屓な人たちの被害妄想のようなものなのではないか。漱石も決して下手ではないのだが、漱石程度、或いはそれ以上の漢詩を作る人は当時はいくらでもいたから、たとえば伊藤博文や乃木希典なんかも漢詩はうまかったし、正岡子規の漢詩も相当なものだったから、漱石の影がかすんでもまったくおかしくない。また頼山陽のファン(詩吟好きとか)から見ると漱石の山陽批判は苦々しかったと思う。

一般大衆に「草枕」の人気が高いというのは、まず一つは、冒頭の「山路やまみちを登りながら、こう考えた。 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。」という出だしが面白くて、それで満足してそれ以上読まない人が多いのだろうと思う。「トンネルを抜けると雪国だった」「メロスは激怒した」と同じで、たいていのひとにとっては最初だけ読んで残りも全部わかったつもりになればそれで十分なのである。江藤淳も似たようなことを言っている。

また一つは、温泉場の女将が気が狂っていて、間違えて風呂場に裸で入ってきて「ホホホホホ」と笑う、などという展開がエロチックで良いのだろう。

頸筋くびすじかろく内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指とわかれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、またなめらかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張るいきおいうしろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前にかたむく。ぎゃくに受くる膝頭ひざがしらのこのたびは、立て直して、長きうねりのかかとにつく頃、ひらたき足が、すべての葛藤かっとうを、二枚のあしのうらに安々と始末する。世の中にこれほど錯雑さくざつした配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほどやわらかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
 しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛れいふんのなかに髣髴ほうふつとして、十分じゅうぶんの美を奥床おくゆかしくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗へんりん溌墨淋漓はつぼくりんりあいだに点じて、虬竜のかいを、楮毫ちょごうのほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とをそなえている。六々三十六りんを丁寧に描きたるりゅうの、滑稽こっけいに落つるが事実ならば、赤裸々せきららの肉を浄洒々じょうしゃしゃに眺めぬうちに神往の余韻よいんはある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、かつらみやこを逃れた月界げっかい嫦娥じょうがが、彩虹にじ追手おってに取り囲まれて、しばらく躊躇ちゅうちょする姿とながめた。
 輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥じょうがが、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那せつなに、緑の髪は、波を切る霊亀れいきの尾のごとくに風を起して、ぼうなびいた。渦捲うずまく煙りをつんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第にむこう遠退とおのく。余はがぶりと湯をんだままふねの中に突立つったつ。驚いた波が、胸へあたる。ふちを越す湯泉の音がさあさあと鳴る。

こういうあたり。漱石の小説はあんまりない描写だ。官能小説作家なら参考にするに違いない。

また、俳句好きな人ならば漱石の俳句がたくさんちりばめられているから面白いかもしれない。

西洋美術や西洋文学の蘊蓄が好きな人にも衒学的な良さがあるかもしれない。骨董趣味のある人にも面白みがあるに違いない。

日本の近代化や西洋文明を批判しているようにみえるのも一部の人には愉快かもしれない。

「草枕」が最初に私の興味を引いたのは、それらとはまったく違う。漱石があからさまに頼山陽をけなし、荻生徂徠を持ち上げているのが異様だったからだ(※追記。これは吉川幸次郎「漱石詩注」序で指摘されている)。私は頼山陽の漢詩は好きなので、なぜ漱石が山陽を嫌うのか、それをまず知りたいと思った。しかしそういう動機で「草枕」を読もうという人はいまだに見かけたことがない。さらに漱石が自分の詩を小説の中に埋め込んでいるのを見て余計に興味が出た。

漱石はよくわからん人だ。なぜか大衆受けする。彼は表向きは高踏的、高等遊民的なふりをしているが、それと真逆なことを平然とする人だ。通俗小説は嫌だと言い、小説らしからぬ小説とやらを書きながら、しかもその中に大衆に迎合するあざとさがどこかにあるのだ。男女の三角関係を描いた「こころ」にさえ、どこか媚びがある。わかりにくそうで実は非常にわかりやすい、受けやすい要素があるのに違いない。そういう相矛盾した、一種の嘘というか、虚勢というか、本音と建て前というか、好きな人に見え透いた嘘をつかれてあえてだまされみたいということをみな好み、それゆえ漱石という大文豪にそれを無意識のうちに期待しているのではないか。流行作家の小説を読むとか遊園地や映画館にわざわざ行ったりする人はみなそうだ。さあうまく私をだまして喜ばせてくださいと、自らだまされたがっている人ほど虚構を楽しめるはずなのだ。落語だってそうだ。笑わせられるものなら笑わせてみろとけんか腰で、ハスに構えた人は落語を楽しめない。娯楽に飢えている人、笑って気分を晴らしたい人ほど楽しめるのではないか。人を楽しませ喜ばせられる文章を自然に書ける人は少ない。ましてそんな仕掛けを思いつく人はいない(英文学からヒントは得たかもしれないが)。多くの場合編集者などがアドバイスして読者に受けるようなものを書かせるんだが、漱石の場合はなぜか書いたものが、著者の意図思惑とは直接関係なく、そのまま読者受けするのだろう。結局そういう人が文豪と呼ばれる。漱石は新聞連載小説を嫌い、詩など作りながらも、彼ほどそうした商業媒体にぴったり適応した人はいないのだろうと思う。どんな言い訳をしようと、本人にも自覚はあったはずだ。

著者がなかなか自分の思い通りのものを書いてくれないとき、読者は著者と決別し、作品を自分の側に取り込んで、二次創作という形でその思いを果たす。或いはシリーズものという形で、読者全体の総意というか嗜好を実現するために、原作者の個性からどんどん離れて、共同作業で自分たちにとって理想的な世界観を構築していく。著者と読者は普通は対立している。しかしながら漱石は自分の中に矛盾を抱え込むことによって読者を喜ばせる方法を会得しているのではないか。

草枕3

草枕草枕2の続き。

「草枕」だが漱石が自分で作った詩がまだあった。

青春二三月 青春二三月
愁隋芳草長 愁ひは芳草に隋ひて長し
閑花落空庭 閑花は空庭に落ち
素琴横虚堂 素琴は虚堂に横たふ
蠨蛸挂不動 蠨蛸(あしたかぐも)、挂(かか)りて動かず
篆烟繞竹梁 篆烟(篆書のようにくねくねと立ち上る煙)、竹梁を繞(めぐ)る
獨坐無隻語 獨坐し隻語無し
方寸認微光 方寸、微光を認む
人間徒多事 人間、徒(いたづ)らに事多し
此境孰可忘 此境、孰れか忘るべけむ
曾得一日靜 曾て一日の靜を得て
正知百年忙 正に百年の忙を知る
遐懐寄何處 遐懐(遠く眺める)、何處にか寄せむ
緬邈白雲鄕 緬邈(はるかかなたに)、白雲の鄕

墨場必携:漢詩 春日靜坐 夏目漱石

きたね白雲きたね。

これも押韻はしているが平仄はけっこう適当(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.73に五言古詩として載る)。

たぶんこの出来だと平仄警察がわらわらわいてきて漱石は相当、詩人としてのプライドを傷つけられたと思うなあ。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは明治39年、処女作「我が輩は猫である」は明治38年。しかしこれらの詩は明治31年、漱石が31才の時に作ったという。つまり「草枕」に出てくる画家と同じ年に作ったものだということになる。正岡子規が死ぬのは明治35年なので当時子規はまだ生きていた。

ウィキペディアによれば(書簡を見ればわかるというがそこまで調べるのはめんどくさい。よっぽどヒマがあったら調べてみるか)、熊本で英語教師をしていた漱石は、明治30年の大晦日、つまり明治31年の正月に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆したとある。漱石の誕生日は2月9日なので、明治31年正月の時点で彼はちょうど30才だった。まさに当時「三十我欲老」という心境だったのだ。やはり漱石は売れっ子作家になる以前の自分に回帰しようとして、自分自身をモデルとして、『草枕』を書いたのであろう。

漱石は「正岡子規」と題する談話で、「大将(子規)の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりもたくさん作っており、平仄もたくさん知っておる。僕のは整わんが、彼のは整っておる。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼のほうがうまかった。」などと評している。つまり若い頃漱石はあまり平仄の整わない漢詩を作っていた、それに対して子規の漢詩はきちんと整っていたのだった。だいたいつじつまが合う。

漱石が本気で(まじめに)漢詩を作り始めたのは、明治43年、修善寺で喀血した後のことだろう。『こころ』なんかを書いたのはさらにあと、大正3年頃。

岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
つな
いで、一人の男がしきりに垂綸
いと
を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足
なみあし
を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人
ふたり
の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の
ふな
宿
やど
る余地がない。一行の舟は静かに太公望
たいこうぼう
の前を通り越す。(中略)
かえ
り見ると、安心して浮標
うき
を見詰めている。おおかた日露戦争
にちろせんそう
が済むまで見詰める気だろう。

といった具合に日露戦争中であるような記述がある。日露戦争は明治37年から38年にかけてだから、その正月あたりの状況を写したものだろう。つまりちょうど203高地が陥ちた頃だ。久一さんとは徴兵で取られていく人のように思われる。「草枕」の発表は明治39年だから、執筆中、その頃の記憶も新しかったはずだ。つまり「草枕」は7年ほど前の30才の時の自分を日露戦争当時の世相に埋め込んで作られた話だということになる。

「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つがるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
 この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風のにおいも知らぬ。現代文明のへいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿をき取った。

これは主人公の画家がスケッチした町中の人だが、胃病なのは漱石のほうだ。漱石はやはりこのころすでに胃潰瘍で苦しんでいた。

漱石の妻、鏡子が書いた『漱石の思ひ出』の中に

俳句には随分と熱心で、松山時代から熊本に居る間の五年間ばかりが、一番俳句の出来た時で、生涯の句の殆んど三分の二はこの五年間に出来たもののやうです。それには中央を離れて熊本のやうな田舎に居りまして、自然文学の話などする友達もなかつたので、ただ子規さんあたりに動かされて、一生懸命で句作したといふことがあづかつて力がございませう。後には漢詩も作りましたが、とても俳句程の熱心は見られませんでした。

などとあるが、漱石の日記などみるに、確かに俳句は数は多いが、思いつくまま詠みちらかしているといったふうで、中には面白い、よく出来たものもあるようだが、どちらかと言えば単なる気晴らし、気分転換、多くはちょっとしたメモかなにかのようなものだったと思う。真剣に身構えて詠んだものではあるまい。『草枕』にも

何でも
でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、
かわや

のぼ
った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直
あんちょく
に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の
さと
りであるから軽便だと云って侮蔑
ぶべつ
する必要はない。軽便であればあるほど功徳
くどく
になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人
ひとり
が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや
いな
やうれしくなる。涙を十七字に
まと
めた時には、苦しみの涙は自分から遊離
ゆうり
して、おれは泣く事の出来る男だと云う
うれ
しさだけの自分になる。

などとある。要するに俳句は詩の中では最も簡便なわけだ。

「後には漢詩も作りましたが」というのはほんとうに晩年の『こころ』なんかを書いてた頃のことを言っているのだと思う。鏡子さんが自分で書いているように漱石は子供の頃から漢詩に志があって、若い頃からけっこう作っていたはずで、日本人が漢詩を一つ作るというのは俳句を百詠むより難しいし、随分心構えが必要で、てまひまがかかるものであるから、そんなに量産できるはずがない。鏡子はその数だけを言っているように思える。

※追記。吉川幸次郎「漱石詩注」序に、「漢詩は夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである。」とある。

草枕2

先日、漱石は

自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう

などと書いたのだが、気になって『草枕』を読んでみると、実は漱石は自分の漢詩を『草枕』に埋め込んでいたのだった。

出門多所思 門を出でて思ふ所多し
春風吹吾 春風、吾が衣を吹く
芳草生車轍 芳草、車轍に生え
廃道入霞 廃道、霞に入りて微かなり
停筇而矚目 筇(杖)を停めて目を矚(そそ)げば
万象帯晴 万象、晴暉(明るい青空)を帯ぶ
聴黄鳥宛転 黄鳥の宛転たる(ウグイスのなめらかな声)を聴き
観落英紛 落英の紛霏たる(花が散り乱れる)を観る
行尽平蕪遠 行き尽くして平蕪遠く
題詩古寺 古寺の扉に詩に題す
孤愁高雲際 孤愁、雲際に高く
大空断鴻 大空、断鴻帰る
寸心何窈窕 寸心、何ぞ窈窕たる (自然の景観に対して自分を卑下する意味か)
縹緲忘是 縹緲(広く果てしない)にして是非を忘る
三十我欲老 三十にして我、老いむと欲す
韶光猶依 韶光、猶ほ依依たり(うららかな春の日差しがなごりおしい)
逍遥随物化 逍遥して物化に随(したが)ひ
悠然対芬 悠然として芬菲(草花の香り)に対す

春興

ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を
て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と
うな
りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払
せきばらい
が聞えた。こいつは驚いた。

この無邪気な自画自賛ならぬ自詩自賛は微笑ましくすらある。

漱石は売れっ子作家になって、そろそろ自分の「地」を出してもよかろうかと思い、詩を披露した。しかるにおそらく、その評判は決して良くはなかっただろう。世間が漱石に求める「文学的役割」から離れすぎていて、反発をくらったと思う。なんだその、盆栽をいじり詩吟をうなる年寄りのような趣味はと言われたに違いない。詩のできもあまり良いとはいえない。

「聴 + 黄鳥 + 宛転」「観 + 落英 + 紛」などは変則的だし、「停筇 + 而 + 矚目」のように「而」を長さ合わせに使うのはあまりかっこよくない。押韻はしているが平仄はけっこういい加減。たとえば「三十我欲老」は平仄仄仄仄だし、「韶光猶依依」は平平平平平。実際若い頃(三十才くらい?)の作なのかもしれない。こうなってくると本職の漢詩人からはヤイヤイ言われて漱石はけっこうへこんだかもしれない(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.66に五言古詩として載る。つまり平仄は守らなくてよく、2 + 3 のリズムも守らなくてよい、ということか。18行というのも変則的。一韻到底は守っている)。

私も『安藤レイ』や『紫峰軒』に自分が作った漢詩をしれっと入れたりしたので、漱石の気持ちはよくわかる、つもりなのである。まあ私は売れっ子作家ですらないが。

古寺の扉に詩を書き付けるというのは、そんなヤンキーみたいなことして良いのかなと思ってしまうが、題壁(壁に題す)というのはよくやられることのようだ。もしかすると「題詩古寺壁」としたかったのかもしれないが、それでは韻が踏めぬから「題詩古寺扉」としたのかもしれない。

老人が紫檀したんの書架から、うやうやしく取りおろした紋緞子もんどんすの古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目にけた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
すずりよ」
「へえ、どんな硯かい」
山陽の愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
春水の替えぶたがついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色あずきいろの四角な石が、ちらりとかどを見せる。
「いい色合いろあいじゃのう。端渓たんけいかい」
「端渓で鸜鵒(くよく)眼がここのつある」
「九つ?」と和尚おおいに感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子りんずで張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句しちごんぜっくが書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、しょ杏坪の方が上手じょうずじゃて」
「やはり杏坪の方がいいかな」
山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌俗気があって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚おしょうさんは、山陽きらいだから、今日は山陽ふくを懸けえて置いた」
「ほんに」と和尚さんはうしろを振り向く。とこ平床ひらどこを鏡のようにふき込んで、錆気を吹いた古銅瓶こどうへいには、木蘭もくらんを二尺の高さに、けてある。じくは底光りのある古錦襴こきんらんに、装幀そうてい工夫くふうめた物徂徠大幅たいふくである。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色さいしきせて、金糸きんしが沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶こげちゃ砂壁すなかべに、白い象牙ぞうげじく際立きわだって、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、とこ全体のおもむきは落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
徂徠かな」と和尚おしょうが、首を向けたまま云う。
徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方がはるかにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある
広沢をして日本の能書のうしょならしめば、われはすなわち漢人のせつなるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そう威張いばるほどの字でもないて、ワハハハハ」
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。禅坊主ぜんぼうずは本も読まず、手習てならいもせんから、のう」
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に高泉こうせんの字を、少し稽古けいこした事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓たんけいを一つ御見せ」と和尚が催促する。
 とうとう緞子どんすの袋を取りける。一座の視線はことごとくすずりの上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまずなみと云ってよろしい。ふたには、うろこのかたにみがきをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆しゅうるしで、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
 老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁いんねんがあろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手をげて、
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮をいで山陽が手ずから製したのですよ」
 なるほど山陽俗な男だと思ったから、
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこのうろこのかたなどをぴかぴかぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退けた。
「ワハハハハ。そうよ、このふたはあまり安っぽいようだな」と和尚おしょうはたちまち余に賛成した。
 若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌のていに蓋を払いのけた。下からいよいよすずり正体しょうたいをあらわす。

漱石があからさまに荻生徂徠を持ち上げて頼山陽をこきおろしている箇所。「一座」とあるが、僧と老人と若者と一人称の主人公の四人くらいが会話している。春水は山陽の父。杏坪は春水の弟で、山陽の甥。広沢とは江戸初期の書家、細井広沢のことであるらしい。とにかく漱石は山陽の俗で才気走ったところが気に入らない。上方の俗儒が嫌いで、下手でも「品がある」江戸の官儒が好きなのだ。「多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく」とはつまり古いものだから文字の良し悪しなど論じるまでもないなどと言っているからには決して字がうまいと褒めているわけではないのである。もともとそれほど「ゆかしい」ものではなかったけれど経年変化のために派手さがなくなり渋さが増して良くなった、などとも言っている。とんだ骨董趣味だ。それはそのまま漱石本人の趣味でもある。彼は通俗小説は書きたくないのである。「草枕」のような漢学の蘊蓄を語りたいのだ。素人が自分で作るなら下手に巧まずに不器用に作れ、とまで言っている。

思うに漱石はかつて熊本を旅行したときの体験を小説に仕立てようとして、そこになにやら怪しげな女の話やら、西洋文学の話題などを入れて通俗小説を書いてもらいたい新聞の編集者のリクエストに応えつつ、自分の漢詩趣味をむりやりねじ込んでこの「草枕」を書いたのではなかったか(英詩や俳句などをちりばめたのは照れ隠しか目くらましだったのではないか。)。しかし世間は漱石にそんなものを期待してはいなかったのである。新聞の娯楽小説でなければバタ臭い西洋風な小説を書いてほしかった。