石原千秋『教養としての大学受験国語』というのを読んでいるのだが、この著者によれば世の中の評論というのは、
* 現実を肯定的に受け入れる保守的な評論
* 未来型の理想を掲げる進歩的な評論
* 現実を否定して過去を理想とするウルトラ保守的な評論
の三種類しかないというのだ。
つまり、現実に満足しているのは普通の保守だが、現実に満足しておらず過去を理想とするのがウルトラ保守。
そして大学受験で出てくるのはほとんどの場合「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」なのだそうだ。
近代とは近代西欧文明のことにほかならない。
そして近代のあとに「ポストモダン」が来る。
「ポストモダン」とはまだ確かな形をもっておらず、多様で、どれか一つが正しいというものではない、そう著者は言っているのだが、
彼のいう「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」というものが明らかに「ポストモダン」とは相容れない。
今のマスコミがとらわれてしまっている「古い」「近代世界」であって今やまさに実現しようとしている「ポストモダン」ではない。
既得権益を維持しようとするものが保守であるならば、自称「革新」自称「進歩」こそがまさにそうだ。
彼らは「進歩」と自称しながら彼らほど「保守」な連中はいない。
それも「近代」というものの上にあぐらをかいた、この70年ほどの「保守」に過ぎない。
彼らは70年間かかって完全な保守になった。
若者たちはそれに怒っている。
彼に言わせれば私はウルトラ保守の一種かもしれない。
しかし単純な過去へのノスタルジーのことをウルトラ保守と言われても困る。
それこそ「昔はよかった」とか「自然に帰ろう」などということばは、どちらかといえば今の「進歩的教養人」が言う場合が多くはないか?
近代が世界であると思い込んでいる西欧と同じく、自分たちが進歩だと思い込んでいる実質的な保守の連中が、
これから来る「ポストモダン」時代に淘汰されることになる。
彼らほど「過去」を振り返り「未来」が見えてない人はいるまい。
受験生はかわいそうだ。
ただ良い点数を取るためにだけ、彼らの「近代」につきあってやらねばならぬのだから。