ナポレオン三世の兵站

『怪帝ナポレオンⅢ世』ところどころ面白い。
ナポレオン三世のフランス軍はクリミア戦争でも兵站がひどかったようだ。

イタリア戦争でも、おそらく、ナポレオン三世が自分だけ先に最前線についたのだろう。
皇帝をほうってはおけないから、後から軍隊がついてきた。
なるほどナポレオン三世は、たった四日間でパリからイタリアまで移動したかもしれんが、
フランス軍はまだまともに戦争のできる状態にはなかった。
しかし、オーストリア軍はびっくりしてひるんだに違いない。
そのすきになんとかフランス軍は徐々にだが、ピエモンテに入った。
結果論だがアレッサンドリア要塞を完全に包囲するだけで、中のナポレオン三世は音を上げただろう。
鉄道経由でいくら増援部隊を送ってもアレッサンドリアで皇帝と合流できなければ意味はないのだ。
鉄道網を寸断するだけでよかった。

だが、フランス軍はアレッサンドリアに集結し、モンテベッロの戦いには間に合った。
間一髪のタイミングだった。
もし数日、オーストリア将軍ギュライの動きが速かったら、ピエモンテは屈服し、フランス軍は諦めて帰国しただろう。
最悪の場合、普仏戦争のセダンの戦いのときのように、
皇帝自らが捕虜になってしまったかもしれない。

ピエモンテはフランスと一緒にクリミア戦争に出兵したのだから、フランス軍のていたらくを知っていたはずだ。
それでもピエモンテはフランス皇帝をうまく利用するほうを選ぶ。
できるだけ自分たちであらかじめ戦術をきちんとたてておく。
ピエモンテがフランス皇帝の親征をプロデュースしバックアップした、
ドラマチックに演出したのだと言えるだろう。

クリミア戦争やイタリア戦争における無様さは、
メキシコ出兵でも、普仏戦争でも繰り返されたのだろう。
こうしてみるとナポレオン三世というのは、この本にも書かれているが、
かつぎやすい非常に軽い御輿だった、本人も非常に腰の軽い人だった、頭は悪くないが粗忽な人、と言えるかも知れない。

この手の「軽い首領」というのは日本の政治家にも多く見いだされる。
御輿を担いでいる連中が有能で、問題がそれほど重大で複雑ではない場合にはうまくいく。
しかし、トップの指導力が問われる場合にはまるで役に立たない。

ナポレオン三世は、
ボナパルティストたちが作り出した、空疎な中心、空気のように軽くて実態のない存在、というのが当たっているのではないか。
ということはつまりボナパルティストの正体は、少なくともナポレオン三世の頃のボナパルティストたちは、
空想的社会主義者か理想主義者だったのだろう。

あと少し気になるのは、イタリア戦争の直後、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟、マクシミリアンが、
ナポレオン三世の助力によって、メキシコ皇帝になっているということだ。
これは何を意味するのか。
ヴィッラフランカの和議ですでに、そのような条件がナポレオン三世から出されていたのだろうか。
ナポレオン三世(のブレインたち)は、オーストリアを味方につけることでプロイセンに対抗しようと考えただろう。
フランスがオーストリアを破ったイタリア戦争のときこそそのチャンスだったのに違いない。

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