若い頃は遥か遠くにあるもののように見えていた還暦というものが間近に迫ってくるとやはり人は誰しも苛立ちとか焦りのようなものを感じるのだろう。また二度目のアブレーションを受けることが決まり、結局私の考えていたことよりも医者が言っていたことのほうが正しかったことがわかって、それもまたいら立つ原因になっていたと思う。
ある立ち飲み屋のおばさんは、確かな年齢は知らないが私よりたぶん10才くらい年上だろう。一時期大病を患って店を閉めたり開けたりしていたが、普段からテニスやスキーなどをやっているせいか今は極めて健康であるという。
私の周りの60過ぎたおっさんおばさんたちは、健康な人も病気がちな人も、みんなあっけらかんとしていて、私だけがくよくよ気にしているような気がしてしかたない。私の場合46才から今までずっと入院したり退院したり通院したり、また入院して手術を受けたり、薬を毎日飲まなきゃならなかったりで、病気と常に真正面に向き合っていなくてはならず、体はともかくとしてメンタルをやられてしまった。若くして癌にかかってしまい闘病生活を続けている人も同じような気持ちなのだろうと思う。定年後時間が有り余るようになって病院に通うようになるのはもう覚悟も決まっているしそんなにストレスにはならないのではなかろうか、などと考えたりもする。
私の場合、拡大性心筋症というやつなので、心臓にはできるだけ負担をかけないようにしなくてはならないし、そもそも運動とかスポーツというものが嫌いだからやる気もないのだけど、これからは心臓に負担をできるだけかけないようにして、心臓をできるだけ長持ちさせて死ぬまでだらだら生きていくしかない。私の場合自覚症状はないし日常生活には何も困っていないのだが、でも重症であることには変わりないわけで、運が悪かったとも言えるし、この程度ですんでよかったということもあるのかもしれない。ともかく問題は体というよりは気の持ち方だと思う。考えすぎるのが良くない。だが考えないというのがこれがまた非常に難しい。こういうふうにブログに吐き出したほうが楽になるともいえるし、書けば書くほど考えてしまうからよくないともいえる。なんとも言えない。
私の祖父は75才くらいで死んだのだが、最期の頃は足がむくんでいた。つまり心臓が弱っていたのだが、ある日突然心臓が止まって死んだ。まあそんな感じで死ねたら別に悪くもない。むしろあまり長生きして家族に面倒をかけたり、老人ホームに入って無駄飯を食うのは嫌だ。しかしぼけてしまった方が自我がなくなって楽に死ねそうだから、そうなりたいという気持ちもどこかにある。
いずれにしても今後年寄というものはどんどん社会のリソースを食ってしまう。どうにかすべきではなかろうか。できるだけ社会に負担のかからない方法で年寄を本人が気のすむまで生かしておく方法というものはできないものなのだろうか。正直私は定年後は、遊んでも良いが仕事はもうしたくない。こりごりだ。
話は全然違うんだけど、普通の人にとって読書とは、今日はどこそこのレストランで食事したとか、どこそこの温泉に泊まったとか、そういうイベントというか、趣味というか、余暇の過ごし方の一種のように思える。
若いうちは、本をかたっぱしから乱読するのも良いかもしれない。
しかし今の私にとって、ゆっくり本が読める喫茶店とか、ファミレスとか、あるいは図書館などというものはまったく必要ない。むしろ、図書館にいると本が読めなくて困る。東京都立中央図書館とか国会図書館で紙の本を読むのが一番苦手だ(この二つの図書館は本の貸し出しをやってないので館内で読むしかない)。
私にとってはすべての本がデジタル化されていて、読みたい箇所がただちに検索できればそれでよい。ゆっくり本が読みたいと思うことはあるが、読み始めるとすぐに読み続けるのがつらくなる。基本的につまみ食いしかできないたちなんだと思う。
昔の人はLP盤のレコードを擦り切れるまで聞いたとかいうけど、ほんとかどうか知らないが、そういう読書をする人が案外多いのだろう。レコードや本の蒐集家にはそういう人が多そうな気がする。私はもちろん蒐集家ではない。手元に置いておいたほうが便利な本だけを身の回りに置いている。ただそれだけだ。
最初から最後まで著者が書いていることが自分が読みたいことであれば読めるかもしれないが、たいていはそうではない。著者に付き合って読み続けることが苦痛になってくる。どうしようもなく退屈になってくる。だから途中でやめてしまう。若い頃は本に書いてあることすべてが珍しく新鮮で面白く全部読んでしまう。読了した時点ではまだその本のことがわかってない。二度、三度と読んでいるうちにだんだんわかってくる。この本好きとか嫌いとか、この著者好きとか嫌いというのが、5年とか10年後にわかってくる。
そうやって好き嫌いというものがはっきり最初から固まってしまったから、今は1冊読み終わる前に飽きてしまう。いろんな本を読み過ぎたせいで先がだいたい読めてしまう。たぶんそういう状況なんだと思う。
村上春樹は1Q84を最初の1章だけ読んでみたのだが、ははー、こんな文章を書く人なんだなと思い、それで読むのをやめてしまった。私の場合、続きを読んでみたいとか、結末まで読んでみたいという気にはならなかった。
たぶんそんなふうになったのが、40代半ばくらいで、読みたい本がなくなってしまったので、それで自分で小説を書くようになったのだと思う。小説を自分で書くと言うことと、その小説をうまくかけるようになるというのはまた違うのだけども。
これまた全然関係のないことではあるが、世の中には、柳田国男はどうして桂園派にこだわり現代短歌を拒絶したのかとか、江藤淳はなぜアメリカ留学までして戦後に保守派、右翼になったのかとか、最初から結論ありきで論文を書く人がいる。どんな愚かなことを書いているかと思って読んでみると、どうでもよいことをいろいろ調べ上げて、こまかなことをだらだら書き記して、読んでみても結局、だからどうなんだという感想しかでてこない(そういうユーチューブの動画やブログ記事は多い。長いだけで結局何も言ってない。カマラ・ハリスの演説みたいなもんだろう)。そして、柳田国男や江藤淳の考え方を理解しようとか、寄り添おうという気持ちは一切無い。自分の先入観を書き換える気ははなから無いのだ。世の中にはこういうたぐいの研究者しかいないわけではなく、きちんとまじめに地道な仕事をする人もいる、世の中にはそうした当たり外れがあるものだとあきらめるしかない。