思うに、江戸時代の人は、かなりいい加減な仮名遣いで文章を書いていたわけだ。
上田秋成は生涯を通してへんてこな仮名遣いだった。
宣長は30才くらいまではへんてこだった、
だが、賀茂真淵と出会い国学を学ぶようになって、ようやくまともな仮名遣いになったようだ。
小林秀雄は生涯きちんとした歴史的仮名遣いで書いた。
まあ、明治の文筆家なんだから当たり前と言えば当たり前だわな。
明治天皇の歌も完璧な古典文法で書かれているが、
しかしそれは我々の目に触れる段階でそうなっているというだけであり、
詠草もまた完璧であったかどうかは知りようがない。
しかし、孝明天皇の御製にはかなりあやしいものがある。
丸谷才一は「後鳥羽院」よりも後から歴史的仮名遣いで書くようになった。
49才以後ということになる。
かなり遅い。
こうして見ていくと歴史的仮名遣いというものは、
「明治仮名遣い」と言っても良く、歴史的にはかなり短い期間にしか、
完全には行われなかったのだ。
なぜ明治になってこうなったかと言えば、おそらく真淵と宣長による国学の基礎付けがあり、
それに基づいて日本全国均質な国語教育というものが成立したからに違いない。
歴史的仮名遣いと言っても歴史的にはかなり浅いものだったのだ。
実際、21代集ですら、原文にはかなりおかしな仮名遣いがあるしな。
ははあ。なるほど。宣長は契沖仮名遣いというものを修正して歴史的仮名遣いを復興させたわけだ。
やはりこの「復古仮名遣い」を「発明」したのは宣長だったわけだ。
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