遺諡

『太平記』で

> 神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇

とあるのだが、現在では後醍醐天皇は96代。
なぜ95代と言っているかという、根拠だが、『神皇正統記』に拠るというのが一番無難な判断だろう。
『神皇正統記』には、仲哀天皇と応神天皇の間に神功皇后を含めるが、
弘文天皇と仲恭天皇を含まない。従って一人増えて二人減ってるので、
一人分減っているのである。
まあここまではよいとしよう。
次に「後醍醐天皇」という名前なのだが、wikipediaによれば

> 醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。

などと書かれている。遺詔によって自分の追号を指定するということはあり得るだろうが、
生前に遺諡で呼ばれるということはちと考えにくい。
つまり自ら「後醍醐天皇」と名乗り、周りの人もそう呼んでいた、という状況は、あり得ないと思う。
「後醍醐」が遺諡であるという根拠は、これも探してもなかなかないのだけど、やはり『神皇正統記』で

> 後の号をば、仰せのままにて後醍醐天皇と申す。

と記述されていることによるのだろうと思う。『太平記』には

> 御在位の間、風教、多くは延喜の聖代を追はれしかば、尤も其の寄せ有りとて、後醍醐天皇と諡し奉る。

とある。生前、延喜の御代を慕っていたということはあったかもしれんが、
遺詔で追号を決めたとまで断定はしかねる。
そもそも吉野の南朝でのことだから、これ以上の情報は出てきそうもない。
それとも、後醍醐天皇が京都で即位して吉野に移るまでの間、すでに自ら「後醍醐」
と名乗っていたという記録でもあるのだろうか。
『神皇正統記』の書き方ではそれもなさそうだが。
北朝では「元徳」と諡号しようとしたというが、「徳」は死後祟りを恐れる場合に付ける字であるという。
「順徳」「崇徳」などがまさにそうだ。
北朝が正式に後醍醐という追号を認めていたかどうかは定かではない。
しかし、元徳だと劉備元徳みたいではないか。

話は戻るが、やはり、村上義光が当時の今上天皇を「後醍醐天皇」と呼んだ可能性はゼロだろう。

なお、漢風の諡号は廃れて、院号がそのまま追号となった、などと wikipedia などには書かれているのだが、
院号を生前呼び名として使った例はあるのだろうか。
たとえば崇徳院を生前、その流された先の地名で讃岐院と言い、
後鳥羽天皇を隠岐院などといったことはあったかもしれん。
しかし、それはつまり配流された上皇の通称であって、
通常は一の院とか新院とか、法皇とか、そんなふうに呼ばれていたのではなかろうか。
たとえば冷泉天皇は冷泉院に住んでいたので、生前に冷泉院と呼ばれた可能性はなくもないかもしれないが、
自分から名乗ったり、他人が本人をそう呼んだり、勅撰集などに生きているうちにそう記したりしたことはないのではないか。

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