今の世の中にあふれているのは、どれも一次創作のふりした二次創作だわな。
続編とかもある種の二次創作だしな。
著者が死んでもスタッフだけで制作は永遠に続くしなあ。
そんなんばっかだわな。
同人なんて二次三次は当たり前でひどいと十次二十次。
要するにマーケティングで消費者の方ばかり向いてりゃそうなりますわな。
消費者が自分で制作する場合も同じだな。
消費者にも、創作はできないけど、好きな作品の再生産はできるわけよね。
二次創作ばかりだと嘆く人もいるようだが、どうせ昔から同じだよ。どこの世界でもどこの国でもいつの時代でも。
今の日本に限ったことじゃない。
あとはオリジナルなものでも単発的な私小説みたいなやつ。
ネットでみかけるおもしろい話とか全部そう。
確かにね、事実は小説よりも奇なりですよ。
だが、そんな一発撃てばおしまいみたいなネタは創作とは言えんよね。
だから、私は私小説は好きじゃない。
自分をさらけ出すのも好きじゃない。
素人に私小説書くのを勧める人もいるようだが。
逆に二次創作のふりをして一次創作になってるのも割とある。
『キル・ビル』や『エヴァ』なんかはその典型かもしれん。
芥川龍之介も、今昔物語を素材にしていろいろ実験したわけだし。
いきなり一次創作するのは難しいし、また、他人に読ませようというときに読めない、読んでくれない。
だから、歴史とか古典文学を借りる。
しかしそこには一次的な実験が盛り込まれている。
まあ、私の書いたものもほとんど『平家物語』そのままだったり、為永春水『春色梅児誉美』や高崎正風『歌ものがたり』そのまんまだったりするんだけど。
だって同じことをあの芥川龍之介だってやってるじゃん。
それにほとんど忘れられた古典を掘り起こすのだって意義のあることだよ。
『平家物語』にしたって、私の場合義経とかは完全にスルーしてるしね。
有名過ぎてつまらんのよね。
古典のリメイクとかオマージュというものはね、二次創作とは違うものなんだよ。
しかし、普通に読んだ人には違いがわからんよな。
オリジナルの劣化版にすら見えるかもしれんね。
よくあるパターンとしては、イケメンとフツメンとブサメンがいて、ヒロインが何人かいて、
ああだこうだがあって、結局主人公(通常はフツメン)がヒロインとくっつくとかいう、そんな決まり切った、水戸黄門的サザエさん的な展開がありましてね。
そうすると読者も予定調和的に安心して読めると。
そういう需要が非常に大きい。
そして、そういう制作ならば素人にもまねできる。作者側に参加できる。
市場も結局そこらピンポイントにモノを出してきて、反応が未知の読者は最初から相手にしない。
今までないような、よくできた作り話を作りたいわけですよ。
ああよくできてるなこの作り話。って思ってもらいたいわけよ。
ありきたりな、ステレオタイプやキャラを使い回して、既存の客層にむけて書くのではなくてね。
そう、新たな客層、あらたな市場を作り出すのがほんとにオリジナルな作品でしょう。
それもできないんじゃ、わざわざ書いてる理由がないわ。
さっさと見切りつけてもっとほかのことやるだろう。
ところで、パブーに自分の書いたものを公開しだしたのは、
2011年の4月からなんだよね。
まだ一年たってない。
その中で一番PVが多いのが『棟梁三代記』で次が『スース』。
なんで?と思う。
『棟梁三代記』は、たぶんだが、公開した時期が早いのと、頼朝、清盛、実朝などといった有名人が多く出てくるので、検索にひっかかりやすいのだろう。
『スース』が多いのは、これも推測だが、ある人をモデルに使ってその了解を得たから、その関係者がたくさん見にきているのではなかろうか。
こちらはそんなに検索にひっかかるような内容ではないしな。
または、『スース』は七つに分かれているので、それぞれに検索でひっかかったやつが最初から読んでみようとか、ラストが気になって読んでみるとか、
そんなのかもしれんね。
ただ、『棟梁三代記』『スース』みたいのが、私の書いたもののなかで、ほんとに好まれてる傾向があるとすると、
これはどう解釈すればよかろうか。