コレステロール

二ヶ月に一回くらい血液検査を受けているのだが、
ずっとコレステロール値が高いままで、
結構歩いてみたのだが、全然効き目がない。
運動して筋肉つけても、食事でも、体重でもないとすると、
体内で勝手にコレステロールが合成されている状態なわけで、
コレステロールの合成を阻害する薬を飲むしかないんじゃないかと思うのだが、
腹にまだ取れない肉ポーチがついているのは事実なんで、
まずはあと5kg体重を落としてみて、それでダメならもう薬飲ませてもらう。

一日三食規則正しく食事を摂るというのもやってみようかと思う。
とりあえずやれることは全部試してみないとな。

民葉和歌集

またまたタイトルを変えてしまった。
[民葉和歌集](/?page_id=4504)。
なんか民謡みたいで変な感じではあるが、
逆に変に作った感じはなく、誰もまだ使ってないみたいなので、
これでしばらくいくことにする。
[民葉和歌集仮名序](/?page_id=4505)を改めて読んでみても、
タイトルとそんな違和感ない。
「くにたみのよろづのことのは」みたいな。
そもそも「くにたみ」なんてのは古語にはなかったと思う。
幕末になって「国民」という概念が輸入されて、
それを大和言葉に翻訳したものだ。
だから時代精神的には適合している。

これ書いたのはおよそ四年前なんだが、
このころのブログを読み返してみると、
丸谷才一の何かを読んだ後孝明天皇御製集を借りてきて読んだようだ。

そんで孝明天皇が勅撰した御製集があったらどうかということを思いついたようだ。
[架空勅撰和歌集](/?p=4494)。
この頃はすでに小説も書き始めていた(将軍放浪記とか)がまだ主に歌を詠んでいたころ。

ていうか幕末から明治初めに活躍した歌人、
というのは、探せばけっこういる。
八田知則とか井上文雄とか橘曙覧とか。
探すのはそれなりに大変だが。

勅撰集を作るわけだから、
それまでの21代の勅撰集に漏れた古い歌をいれるのはいっこうかまわないわけであり、
それこそ柿本人麻呂とか藤原定家の歌を混ぜてみるのもおもしろい。
いろいろ考えるとそれなりに手間がかかる。
まあゆっくりやることにする。

ときどき自分の歌が混ざっててびっくりする。
もうそんな歌を詠んだことなど忘れてしまっていた。

> 花を見て 浮かるる民を 諫むるか みそぎせよとや 春雨の降る

> 夏衣 着て訪ぬれば 九重に 咲き遅れたる 八重桜かな

なんかへんてこな歌だが、
当時の気分としては孝明天皇に捧げた歌というつもりなのだろう。
ちなみに「夏着して」の歌はゴールデンウィーク頃に皇居東御苑、
つまりかつての江戸城本丸に行ったときに、
[御衣黄](/?p=5747)の花を見て詠んだものなのだが、
実はこの花は、
「将軍家の仲人」の中にも出てきて、
徳川家宣がこの花を見て漢詩を作っているのである。

感御衣黄偶成(御衣黄に感じて偶(たまたま)成る)
足下飇風起(足下(そつか)、飇(ひよう)風(ふう)起こり)
渦流吹石砂(渦(か)流(りゆう)、石砂を吹く)
春天猶静謐(春(しゆん)天(てん)、猶(なほ)静(せい)謐(ひつ)にして)
暫得楽残花(暫(しば)し残花を楽しむを得(え)ん)

もちろん家宣が作ったわけではなく私が勝手に作った詩である。
これはも少し後に心臓をやられて入院中にヒマなので漢詩の勉強を始めてから作ったもの。
小さなつむじかぜが起きて地面に散り敷いた桜の花びらを巻き上げながら、足下を過ぎ去っていったのを見て思いついたものである。
足下の花びらをみたあとに、まだ咲き残っている木の上の花を見上げて対句としたのだが、わかってもらえていただろうか。

一手間かけた

eudokiax

ルネサンス期にイタリアで描かれたヴィーナス像
(ボッティチェッリ作「ヴィーナスの誕生」)では、
アフロディーテーの髪は腰まである長い金髪、瞳は褐色、
ということになっているが、
古代、ギリシャやシリア、フェニキア人の髪の色は褐色か黒、
目の色も黒かったと思う。
大理石の彫像しか残ってないから色はわからんわけだが、
着色されていたらそうなっていたはずだ。

私はエウドキアは黒髪、黒い瞳が似合うと思うんだがどうよ。
なんかインドかペルシャの女王(アラビアンナイトに出てきそうな)みたいだよな。
まそれで合ってるんだが。
或いはこの図像には後光がさしてるから観音様にもみえなくもない。
ふつうの日本人がただこれを見ただけだと何に見えるのか知りたい。

ゴッドファーザーに出てくるアポロニアという女性もほとんど黒髪黒瞳だわな。
[Apollonia Vitelli](http://godfather.wikia.com/wiki/Apollonia_Vitelli)。
シチリアか。名前はギリシャ人っぽいよね。
シチリアだからギリシャ系でも全然おかしくない。

単なるフォトレタッチではなくてほんとは3DCGで挿絵描きたいんだが、
手間がかかりすぎて実現不可能だと思う。

もとのモザイク画は実はゾーエーという別の女帝なんだけどね。

れ+ぬべし

小林秀雄の『西行』を読み返しながらふと気になった。

西行はそこまで一気に清盛に語った。
「おまえはつまり、たった一人の女のために家を捨て、世を捨てた、そういうのか。」
「悪いか。」
「いや、悪くはない。だが、未練はなかったのか。」
「未練か。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ
(未練だと。この世に未練のないはずもない。だから、出家して、未練を断ち切ろうとしたのだ。)

だが、俺ほど未練な男もあるまいよ、たった一人の女にな。おまえは、病を得て気弱になったから出家したといった。俺もまた不治の病に罹ったのだ。十分出家する理由になろう。」

『西行秘伝』の中でわざわざ和歌を現代語訳したのはこの箇所だけなのだが、
つまりはほかの歌はある程度素養があれば現代語訳しなくても意味はわかるがこの歌は難しい。

一番難しいのは「惜しまれぬべき」の解釈である。

この歌は「山家集」には見えず、したがって西行の真作ではない可能性が高い。
「鳥羽院御時、出家のいとま申すとてよみ侍りける」または「鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める」
などの詞書がついているので、鳥羽院のもとへ西行がいとまごいに来て、院から「惜しくないのか」
と尋ねられ、「そのように惜しまれるような私の人生でしょうか」と返事をした、
と解釈するのが正しいらしい。
西行と鳥羽院ならこんなやりとりがあったであろうと後世の人がでっち上げた話であろう。
この解釈ならば「惜しまれぬべき」は「人に惜しいと思われるような」と受け身に解釈すればよろしい。
「ぬべし」には推量の意味があるからだ。
しかしこの解釈はいくつかの点で非常に苦しい。
まず、院に対してあまりにも不遜な物言いである。
恋人どうしならあり得ても、院と従者の会話ではない(あるいは、私の話のように、西行と清盛が非常に親しい仲だと仮定すれば、「惜しいか」「惜しいな」という呼びかけに対する返事とみることもできよう)。
あと「この世」を一般に「俗世」ではなく「私の人生」と取るのもかなり苦しい。

世の中には
「惜しむとて惜しまれぬ」を「惜しんでも惜しみ切れない」と不可能に解釈する人が多いようだ。
だが、「れ」を可能、「ぬ」を否定に解釈するのはおそらく現代人にありがちな誤りであろう。
うしろの反語を伴うと「惜しみ得ないこの世であろうか。いや、惜しみ得る」となって意味が通らなくなる。

問題は上の私のような解釈が可能かどうかなんだが、
「惜しまれぬべきこの世かは」が反語であるから、なおさら解釈が難しい。
「惜しみ得るようなこの世であろうか」
と解釈することは、可能だ。
つまり
「とっても惜しい」
と解釈することは、苦しいが可能だ。
不本意だが小説の中の解釈としては上のようでもぎりぎり可能だろう。

もとはどこかの坊さんの詠み人知らずの歌であり、
「あなたは人生が惜しいというが、人生は惜しむほど価値のあるもんじゃありません。思い切って出家したほうが後生のためです。」とかそんな極めて説教臭い意味であろう。
シチュエーションとしては、どこかのお坊さんが世俗の人を諭して出家させようとしているような感じ。
それをむりやり鳥羽院と西行の間で詠まれた歌ということにした。

日神論争

[日の神論争](/?p=14161)、[日の神論争2](/?p=14179)の続き。

「日の神論争」と書くのがうざいので、
比較的ましな「日神論争」と書くことにする。
宣長、秋成双方が「日神」という語を用いていることを確認した。

[上田秋成の神霊感](https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&ved=0CCkQFjAA&url=http%3A%2F%2Frepository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2261%2F25975%2F1%2Frel02405.pdf&ei=19UKU7yBFYnZkAWD-4D4Aw&usg=AFQjCNGwyxSZHlud86bjE6-FVagYzcuGEg&sig2=TtiUTnhRRyH5ujXDAYClFw&bvm=bv.61725948,d.dGI)を読んで思ったのだが、
宣長と秋成の本質的な違いは、
宣長が一神教的な信仰のことを言っているのに対して、
秋成は一神教は間違いであって多神教的態度が正しい、と言っているところだと思う。
世界的には宣長みたいな人のほうが、秋成的な人より多いが、
日本人には秋成みたいに考える人がマジョリティであって、
多くの日本人には宣長の思想は、キリスト教などの一神教に対して感じるような拒絶を覚えるだろう。

たとえば、西洋ではカトリックとプロテスタントが中世に分かれて戦争に発展した。
互いに同じキリスト教徒だという認識はあっても、
一方は他方を異端として容認しない。

宣長も最初のころは秋成のような考え方をしていた。
中国人が中国を世界の中心と考え、儒教を信仰するように、
インド人がインドを世界の中心と考え、仏教(ヒンドゥー教あるいはイスラム教etc)を信仰するように、
日本人は日本が世界の中心であると考え、神道を信じればよいのだ、そう考えていた。
しかしその考え方自体が日本的な多神教の思想であって、
古代ギリシャ・ローマ的多神教と同じ考えであり、
自分には自分の神様がいるが、他の民族には他の神様がいるというので、納得してそれで終わる。
多神教は結局一神教に一方的に譲歩していることになる。
そういう多神教の相対主義は合理的で理知的態度ではあるが、不公平であり不利であって、
そのために日本の宗教は少しずつ仏教や儒教などに浸食され変質していったのであるから、
我々も他の存在を許容しなくて良い、ひたすら自己の神を信仰すればよい。
そうして自らを純粋に保つべきだ。

この考え方は一神教によく似ている。
他の宗教が存在するのは客観的事実である。
自分の宗教以外の規範が存在することをこちらからわざわざ認めてやる必要はない。
一神教はまず、自分以外の神を信仰することを否定する。
知らんぷりして、無視するだけではなく、
しばしば攻撃したり、転向者を罰したり、戦争を仕掛けたりする。
自己以外に宗教が存在しないことが明白なのであれば、そんなことをする必要はない。
そのこと自体が宗教とは相対的であること、つまり多神教を認めていることにならないか。
だが一神教が多神教を認めてしまってはもともこもないから、
自分の宗教だけがほんとうであって、
他の宗教は見せかけの嘘の宗教である、
そういう主張にならざるを得ない。
絶対的な状態から外れているから現状は相対的にみえるだけだ、ということになる。

一神教とは、人間社会を観察すると多神教のようにみえるが、
実は自分の宗教以外は偽物であって、自分だけが正しい、という主張である。
最初はみんな多神教であったが、
どれか一つが自分は一神教であると主張し始めると、
他の宗教も自分こそ一神教であると言わないと、
不利な立場に立たされる。
だから、一神教は次々に伝播していくが、
その発展過程自体が相対的で多様性があって多神教的なのである。
他の宗教との相互作用によって一神教は次第に洗練されていくのだから。

ギリシャ・ローマの多神教が滅んでしまったのは、
一神教の方が優れて好ましい宗教だからではない。
多神教が一神教に一方的に譲歩したせいだ。
一神教のほうが多神教よりも排他的だからだ。
不寛容な宗教が寛容な宗教を長い年月の間に駆逐してしまう。
おそらく宣長が出てかの不寛容な宗教を唱えなければ、
今も日本は仏教や儒教が神道と混淆したままだろう。

日本人でも親鸞や日蓮などは一神教的であるが、
宣長より前の人たちはいずれも仏教や儒教、あるいはキリスト教などの外来の思想を輸入することによって、
その境地に達したのである。
宣長は、仏教や儒教の影響を徹底的に排除し、
それ以前の原始神道を発掘補完することによって、
つまり考古学的古文辞学的手法を用いて、
一切外来の思想によらずに、
一神教的境地に初めて達した日本人である、
国産の一神教を創始した人である、ということがいえよう。
借り物ではない、純国産の宗教が必要だと最初に気づいた人なのだ(実際その需要はあったわけである)。
そうしたときに、秋成のような横やりが出てくると宣長は困る。
宗教とは、世界の宗教を観察して帰結するところでは、不寛容なものである。
神道独りが寛容で物わかりが良くてはならない。
神道は物わかりが悪くならなくてはならない。物わかりが悪いくらいでちょうどいいんだ、
みんなでどんどん理論武装してどんどん物わかりが悪くなろう、
それが宣長の秋成に対する反論なのだ。

日本独自の一神教が創始されるには、
日本において自由な学問が可能になり、
古文辞学などの高度な調査研究手法が確立されるのを待つしかなかった。
それを最初に神道に対して手がけたのが宣長だった。
それは原始神道への回帰をテーマにしてはいるがきわめて近代的・人工的・作為的なアプローチであり
(明治維新が神武天皇への回帰を謳った近代化であったように)、
古代の素朴な宗教とは実はまったく異なるものである。
宣長も、もちろんそのことには気づいていただろう。

そのような一神教的態度そのものが日本古来のものというよりは、
仏教や儒教やキリスト教の影響によるものであり、
その根底には相対主義があり、科学的実証主義があるのである。
宣長もその矛盾には気づいていただろう。
しかし神道をそういうナイーブな状態に放置すれば、
外来宗教や民間信仰によって見る影もなく変質してしまう。
その危機感から彼は一神教的立場をとらざるを得なくなった。

実際世界各地に残っていた原始宗教は、
高度に理論武装されたキリスト教、仏教、イスラム教などによって駆逐されてしまった。
ギリシャ人もローマ人もノルマン人も、キリスト教に飲み込まれて固有の宗教を失ってしまった。
日本にキリスト教やイスラム教が浸透しなかったのは、
すでに仏教によって浸食された後だったからだ。
もし仏教が来る前にキリスト教が伝わっていたら今頃日本はフィリピンのようなキリスト教国になっていただろう。
もし仏教が来る前にイスラム教が来ていたら、マレーシアやインドネシアのようなイスラム教国になっていただろう。
そういう意味では、比較的多神教に寛容な仏教や儒教や道教などが先に日本に伝わり高度に発達していたことは良いことだった(と思うのはすでに相当仏教に脳をやられている証拠かも知れない)。

西洋でも宗教と近代科学は同時並行して発達した。
つまり、宗教を科学的に証明しようとした結果、その副産物として自然科学が発達したのである。
宣長も日本の古き良きものを守ろうとして高度な学問を必要とした。

本居宣長27回

小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。
業平と紀貫之のことばかり書いてある。
たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。

古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。
古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。
「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、
宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。

小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、
私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。
それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。
小林秀雄はそこに踏み込んでない。
「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、
私の主張とはかなり違う。
六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、
業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。
当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。
そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。
そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。

思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、
宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。
しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、
割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。
彼に特有のむらっけのようなものを感じる。
小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。
もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。

日の神論争2

久しぶりに小林秀雄の本居宣長を読んでみたのだが、
なるほど、本居宣長と上田秋成の論争のことは、第40回あたりにちゃんと書いてある。
しかし、小林秀雄は「日の神論争」などという言葉は一切使ってない。

「日の神論争」という言葉には「治天の君」と同じような気持ちの悪さを感じる。
たぶんこれらの用語を使い始めた仕掛け人は同じ世界にいる。
私はそこになにか戦後左翼の悪意のようなものを感じるのだ。
私は自分の嗅覚には自信がある。
日本戦後民主主義の欺瞞には敏感だと自負する。

本居宣長と上田秋成の論争はつまりは、
宣長は天照大神は人格神ではなくて太陽そのものであると言いたいわけである。
秋成は、古代の神話は不可知であるから、太陽そのものであるとか実はなにかの人格神を太陽になぞらえたとか、
そんなことには言及しないのが良い、と言っている。
つまりは、天照大神が人格神か太陽そのものかという論争。
秋成には宣長への愛を感じる。
宣長はたぶん秋成を好きではなかっただろう。
秋成の宣長への片思い。
私にはほほえましく思える。

しかし、それに「日の神論争」という名前を与えた誰かがいる。
大きなお世話である。
宣長も秋成も、愛するものたちが交わした恋文のような、
二人の論争にそんなへんてこな名前を付けられるのは嫌だろうと思う。
不愉快だろうと思う。
秋成にはたしかに「日神」という文字は見える。
しかしそれを「日の神論争」という言い方をするのに、少なくとも私は不快を感じる。

私は宣長の原理主義は間違っていると思うし、秋成の方がまともなことを言っていると思うが、
しかし、
宣長の弁護もしたいと思う。
つまり、当時の人たちは、新井白石もそうだが、何かといえば、神話を自分の考え方で解釈しようとする。
それは戦後日本においてもそうだし、平成26年の今日でもそうだ。
そのときどきの時代の常識で神話を解釈しようとすれば必ず間違う。
秋成は、だから、神話は不可知であると言う。いろいろと判断を加えてはならないと。
宣長は、神話は神話としてそのまま記紀に書いてある通りに解釈すべきだという。
私にはその二つは似ていてどちらも好ましく感じる。
宣長は、神話を勝手に解釈するくらいならそのまま書いてある通りに信じる方がましだと言っているだけに思える。

戦後日本が戦前の日本の国学を否定して、
源平合戦を治承・寿永の乱とか言い直したりする。
治承・寿永の乱、くらいまではまだ許せる。
そう言いたければ言えばいい。
しかし、治天の君は私にはただ不愉快なだけだし、
おそらく仕掛け人は同じところにいると思うと、
日の神論争という言い方にも同じ不快感を感じざるを得ない。
宣長が反発したのと同じことを今の学者もやっているのだ。
昭和や平成の解釈で神話をいじくるくらいなら、宣長のようにそのまま神話を信じる方がましだと言いたい。
ずっとましだ。
或いは秋成のスタンスも私は好きだ。
或いは、小林秀雄のように批評とはアートであり直感だから、好きに言いたいように言えばよい、
というアプローチも好きだ。
この三つは私には好ましいし似通ってみえる。
一番遠いのは、分かったような用語を後付けして、
分かったようなカテゴライズをして、
分かったような解釈をすることだ。
そんな解釈は100年もたない。
判断しないこと、そのまま信じること、アートとして鑑賞すること、これらは100年でも1000年でも保つのだ。

池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄の『本居宣長』について今までいろいろ[書き散らしてきた](/?p=3575)のだが([小林秀雄](/?s=小林秀雄)でこのブログを検索してもらったほうが話は早い)、
担当編集者[池田雅延氏](http://nozawashinichi.sakura.ne.jp/mkpc/2005/11/post-94.html)の詳しい講演があり、
『本居宣長』がどのように執筆されて成立したかがわかる。
130分もあるので、ゆっくり聞くことにする。
もともとは茂木健一郎がソニーのサイトにアップしたものらしいが、
その大もとのMP3はもはやなく、適当に検索したら見つけたのが上のリンク。

単行本では50章に分かれているが、
もともとは『新潮』に64回連載された記事であり、
11年半も連載した。と、いうことは、2ヶ月に1回程度の寄稿であったか。
それを1/3くらいに縮めて、最後に1章新たに付け足して、単行本にしたのだそうだ。
ふーん。
すごく削ったな、もったいないな、というより、そんなに削ったのにまだあんなに冗長なんだ、
というのが素直な感想なんだが。

日の神論争

[日の神論争](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%AB%96%E4%BA%89)。
なんか偶然見つけたんだが、
本居宣長と上田秋成の間でこんな論争があったなんてしらんかった。
そのうち詳しく調べてみよう。

論文もある。PDF
[テキストとしての神話 ―本居宣長・上田秋成論争とその周辺―](http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48440/1/75_31.pdf)。
飛鳥井雅道著。京都大学だしどうみてもお公家さんの末裔だなこの著者は。

国語

最近国語関係の本をいろいろ読みあさっているのだが、
国語教育とは道徳教育であるとか教養教育であると無意識のうちに考えられているようだ。
戦前、国語が国学と不可分な関係であったころはそれも当然であったかもしれないが、
戦後は国学が公の場では否定され、
道徳という科目が分かれ、歴史や社会も分かれ、
その上、哲学を含む倫理社会などという科目もできたというのに、
なぜ国語が道徳であり教養であり続けなくてはならないのか。
どこにも規定されてない気持ちの悪い暗黙の了解。

国語は語学の一種であって、英語などと同様に教えれば良いだけであり、
わざわざ国語に教養を要求する。
文芸作品に教養を要求する。
よく考えるとおかしな話だ。
なぜ自然科学や数学は教養を要求されないのか。

文芸は芸術の形態の一つであり、必ずしも、教養とは言えない。
道徳でもない。
どうも文学とか国語の扱われ方はおかしい。
根本的に何かが間違っているとしかいいようがない。

おそらくやはりこれも、
明治政府が国学と不可分な科目として国語というものを位置づけ、
戦後GHQが国学を否定した結果、
国語教育というものがなんだかすかすかになって落ち着かないので、
国学の代わりに道徳とか教養というものが国語に付加された、
その名残なんじゃなかろうか。
明治政府による教育の近代化が、
その本来の意味を失い、すでに不要になっているのにも関わらず、
存続し続けている例といえないか。