日の神論争

[日の神論争](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%AB%96%E4%BA%89)。
なんか偶然見つけたんだが、
本居宣長と上田秋成の間でこんな論争があったなんてしらんかった。
そのうち詳しく調べてみよう。

論文もある。PDF
[テキストとしての神話 ―本居宣長・上田秋成論争とその周辺―](http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48440/1/75_31.pdf)。
飛鳥井雅道著。京都大学だしどうみてもお公家さんの末裔だなこの著者は。

国語

最近国語関係の本をいろいろ読みあさっているのだが、
国語教育とは道徳教育であるとか教養教育であると無意識のうちに考えられているようだ。
戦前、国語が国学と不可分な関係であったころはそれも当然であったかもしれないが、
戦後は国学が公の場では否定され、
道徳という科目が分かれ、歴史や社会も分かれ、
その上、哲学を含む倫理社会などという科目もできたというのに、
なぜ国語が道徳であり教養であり続けなくてはならないのか。
どこにも規定されてない気持ちの悪い暗黙の了解。

国語は語学の一種であって、英語などと同様に教えれば良いだけであり、
わざわざ国語に教養を要求する。
文芸作品に教養を要求する。
よく考えるとおかしな話だ。
なぜ自然科学や数学は教養を要求されないのか。

文芸は芸術の形態の一つであり、必ずしも、教養とは言えない。
道徳でもない。
どうも文学とか国語の扱われ方はおかしい。
根本的に何かが間違っているとしかいいようがない。

おそらくやはりこれも、
明治政府が国学と不可分な科目として国語というものを位置づけ、
戦後GHQが国学を否定した結果、
国語教育というものがなんだかすかすかになって落ち着かないので、
国学の代わりに道徳とか教養というものが国語に付加された、
その名残なんじゃなかろうか。
明治政府による教育の近代化が、
その本来の意味を失い、すでに不要になっているのにも関わらず、
存続し続けている例といえないか。

聖女懐妊

auブックパスで手塚治虫のマンガを手当たり次第に読んでいるのだが、
概しておもしろくない。
ファンタジーにしてもミステリーにしても設定に無理がある。
ミステリーは強引だし、ファンタジーは理由なく奇跡が起こる。

特に迷信深いのが困る。初期の『メトロポリス』から『火の鳥』、『ブッダ』までずっとそうだ。
輪廻とか聖人の奇跡というものを無批判に信じているように見える。

私は『海のトリトン』は好きだったが、これは今読んでも、ある意味例外的に、おもしろい。
地味な人情話とギリシャ神話とSFがうまく調和していて互いを引き立て殺していない。

『聖女懐妊』という短編がある。
土星の衛星タイタンに人間の男と女性アンドロイドが住んでいる。
アンドロイドは男の子供を産む、という話なんだが、
土星のタイタンという必然性もないし、なぜアンドロイドが子供を産んだのかという説明もない。
作品数が多いから中にはこんな駄作がまじっても仕方ないと思うが、夏目房之介などはこれが良いという。
わけがわからない。
鉄腕アトムや、メトロポリスに出てくるミッキーなんかもそうだが、
ロボットが生きているか死んでいるかというのは、
未来永劫輪廻する超生命体みたいなものの働きによって、決まってくるらしい。
だから簡単に人形が心や命を持ったりするのだ。

手塚治虫のマンガはどれも見た目よりもずっと古い。
たぶん『聖女懐妊』なども1960年代の作品で、
この頃はそもそもマンガ自体が珍しく、アンドロイドが妊娠するというマンガの存在自体が奇異だったのだろう。
今見るとどうしようもなくプロットが変だがそこを批判しても仕方ないのかも知れない。
しかしそういう指摘をすることには多少意味があると思う。

最近のアニメやマンガやゲームは無批判に超能力を使わなくなった。
特殊能力を持っているとしてもAというキャラはaという能力、
Bというキャラはbという能力、というように限定されている。
Aがbという能力を使ったりしない。
Aはaという能力を持つキャラです、という前説があってから話が始まるから、
わかりました、じゃあそういう前提で読みましょう、となる。
パズルにルールがあるようなもので、
或いはロールプレイであって、
ドラクエや鳥山明あたりからは全部そうだ。
手塚治虫や横山光輝や五島勉はそれ以前なので、やたらと説明もなく超能力が出てくる。
たとえば松本清張の推理小説で実は犯人は超能力者でしたとか、夢オチでしたとかだと読者は怒るだろう。
手塚治虫にはしかしそれが多い。
読んでいて脱力する。
今の読者はロールプレイやルールに慣れているから、
ファンタジーや超能力は好きでも、役割やルールをはみ出すと反発するだろうなと思う。

やはりビデオゲームの影響というものは大きいかも知れない。
あれも一応はプログラムなので、
数学と同じで答えは一意に決まる。
手塚治虫に言わせれば「血の通ってない」「魂のない」機械、ということになるのではなかろうか。
ビデオゲームより前の世代が抱いているゲームに対する不合理な嫌悪や悪意もその辺りからくるのかもしれない。

私としては、あれ、これはファンタジーかな、とか、
超能力ものかなと思わせといて、
最後まで読んでみると、
そういう超常的なものは何も使わずに無理なくすっきり、奇想天外な話を完結させてくれる方がずっと好きだ。
私自身ファンタジーはすきじゃないが、そういうひっかけのある話は書いてみたい気がする。
いずれにせよ私はファンタジーやミステリーは自分では絶対書かないと思う。

Basilis

この写真によれば、ローマノスは
ΡΩΜΑΝΟС ΒΑСΙΛΕҰС ΡΩΜΑΙΩΝ
と書かれていて、エウドキアは
ЕҮΔΟΚΙΑ ΒΑСΙΛΙС ΡΩΜΑΙΩΝ
と書かれている。
ローマ字表記すると、それぞれ、
ROMANOS BASILEUS ROMAION、
EUDOKIA BASILIS ROMAION
となる。
つまり、東ローマの皇帝はバシレウス、女帝はバシリス、というのが当時の正式な呼称であった。
また、すでにギリシャ文字が一部キリル文字化しつつあるのが見てとれる。
ΣではなくСが使われ、
また、ユプシロンに当たる文字がҰとҮの二つあるように見える。
オメガが、小文字の形をそのまま大きくして大文字として使っているが、
これも珍しい。というかそういう文字がユニコードにあるのだろうか。

エウドキアの表紙は再び描き換えることになると思う。

英語のウィキペディアにはAugustaとして戴冠されたと書かれているが、
実際にはBasilisだったわけで、
ギリシャ語のウィキペディア見ても、皇帝 (Autokratoras) とかしか書かれてなくて、
ほんとうはなんと呼ばれていたのか、当時の彫刻とかモザイク画くらいしか信用できない。
しかもこんな鮮明に文字が残されているのは珍しい。
他のはもっと読みにくい。

王冠の形だが、
こちらの[ゾーエーのモザイク画](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Zoe_mosaic_Hagia_Sophia.jpg)
に似ているが微妙に違う気もする。

ところで女帝と皇后はほんとうに区別されていたのだろうか。
よくわからん。

こっちの[コンスタンティノス9世モノマコス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%82%B99%E4%B8%96%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%9E%E3%82%B3%E3%82%B9)では、
ゾーエーがΑҰΓΟҰСΤΑ (AUGOUSTA) と書かれていて、
コンスタンティノスは単に ΒΑСΙΛΕҰСΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。
もしかしてアウグスタというのは単に皇帝の后、皇后という意味だったかもしれん。
アウグストゥスの妻がアウグスタと呼ばれたように。
てことは、
おそらくエウドキアは皇后の頃からアウグスタと呼ばれていて、
その後バシリスとして即位したというのが正しいのではないか。

Smart TV Remote

DSC_0008

1階のリビングにsmart tv boxを置いている。
こいつは自分自身が wifiルーターとなるのだが、
2階までは電波が届かない。
微妙に届くが動画再生とかできない。
そんで1階と2階は有線LANでつないでいるので、
2階に無線LANのアクセスポイント(少し古いbuffalo air station)を置いて、
自分の部屋でパソコンいじりながら、
smart tv box に録画した番組をスマホで再生してみることができる。
うーん。
なんちゅう便利な時代になったんだろう。

最初よくわからんで LTE ばっか使ってたら 6GB超えたよとか怒られた。
今はWifiをできるだけ使うようにしている。

DSC_0013

スピーカーはつないだほうがいい。

普通のタブレットでも使えそうなこと言ってたのだが、
もしかしたら au のスマホか au のタブレットじゃないとアプリが動かないのかな。
よくわからん。
au のタブレット?

録画予約もできるようだが、まあ、そこまでやらんでも良い気がする。
リモコンよりスマホのほうが操作しやすいかと思ったがそんなことはなかった。

シュピリ ヨハンナ

アマゾン見てると、ヨハンナ・シュピリの著者名が、スピリ、シュピリ、シュピーリとばらばらで、ヨハンナもJとか書いてあったり、中黒をつけたり付けなかったり。
アマゾンに問い合わせたが名前(著者ページ)の統一はできないとの回答。

それでまあ私としてはアマゾンの日本人名と青空文庫の表記に合わせて「シュピリ ヨハンナ」としたが、こんなふうに書いている人は他にはいない。
だから私の本のページから「シュピリ ヨハンナ」のリンクをたどっても他のシュピリの著作にはたどり着かない。

しかも困ったことに、本家の青空文庫はこれで統一されているのだけど、
青空文庫からkdpで出したやつは、
「エドガー・アラン ポー」(もとの青空文庫の表記は「ポー エドガー・アラン」)になっている。

もう知らんとしか言いようがない。

amazon.com は当然英語綴りで Johanna Spyri。

スマートテレビ

ウィキペディアの[スマートテレビ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93)
読んでると、
[ARIB (電波産業会)](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B3%A2%E7%94%A3%E6%A5%AD%E4%BC%9A)の規約というのがあって、

> スマートテレビCM自粛

ということになってるらしい。
しかも、

> テレビとして発売する以上はテレビの電源を入れたらまずはテレビ放送のみが表示されるようにするのが好ましい(視聴者が番組とネット情報を混同しないようにするため)

というわけのわからないルールがあるらしい。
そんなことやって日本がAV家電産業で世界に遅れをとったらどうするつもりなのか。

あほなことはやめろといいたい。
すると何か。
パソコンとして売ればいいわけか。
まーWindows8もよくわからんインターフェイスになったし、
狙っているところは同じ、リビングだわな。

なるほど、[B-CASカード](http://ja.wikipedia.org/wiki/B-CAS)なんかもこのARIBちゃんが元締めなわけか。
ふーん。

j:com の smart tv box も最初真ん中に地デジ画面が映り、
しかもチューナー3つもあるのに画面分割できない仕様になっているのはそのためか。
f***!。

くんなまし

花魁が「くんなまし」というのは「くれ」「なまし」で「なまし」は万葉時代から使われた連語で「まし」は推量で、もとはと言えば反実仮想。
「くれないかなあ」とか「くれたらいいのに」という意味だと思うが、
なぜ花魁がこんな言葉を使うようになったのか。
「わちき」は下町言葉由来だが、
「くんなまし」はたぶんなんかの雅語に由来するんだと思うが。
「くんな」だとぞんざいだから「まし」をつけろと言われたか。

> にいさん、またきてくんなまし(きっとまた来てくださいますよね)

という定型のフレーズで使われたわけだが(元ネタは落語)、
どこから出てきたものか。
案外上方由来かもしれんね。
なんか有名な花魁がいてその言葉遣いをみんなまねるようになったとか。

かなりどうでもいいことだが
「間違える」と「間違う」はどう違うんだろう。
うーん。
さらに、
「間違え」と「間違い」は使い分けるべきなのか。
ほんとは使い分けるべきなんだろうなあ。

甲州街道と青梅街道の間あたり。

歩かないと死んじゃう星人なので、せっせと毎日散歩する。裏道のほうが歩きやすいから、
できるだけ路地を歩くんだが、
口笛吹きながら自転車に乗ってるおやじが異様にうるさいので、
ジモティーかと思って見るとどうも景品みたいのをかごに乗せているので新聞の勧誘らしい。
○○町かあー、とか独り言言いながら通り過ぎた。
おやじの独り言うざい。

ときどき変なところに変な具合に商店街が残っているがたぶんなんかの脇街道の名残だろう。
電車や地下鉄が通る前にあった商店街だから
(駅が移動して商店街だけ残される場合もあるが)大正とか戦前とかからあるに違いない。
つないでみると面白いかもしれん。
寿司屋とか茶屋とか寺とか庚申塚とか、あと道の通り抜け具合や幅なんかからだいたいわかる。
再開発されちゃうとまったくわからなくなる。
古地図みれば一発なんだろうけど、あるかな。

甲州街道はまったく歩行者にとってはどうしようもないバリアであり、
かつ排気ガス臭い。
首都高とかも、通ってるしね。

『フローニ』は一種の論文なんでできるだけ早めに出す必要があったが、
『エウメネス』は旧作の一部だし新規性はあんま関係ないからしばらく放置すると思う。
次の新作を出したときにプロモーション代わりに無料キャンペーンするかもしれん。
それまで小説書くことに興味が持続していればだが。
なんでもそうなんだが、飽きっぽくて、結果が見えてしまうことには興味を失ってしまう。
小説は、自分としては、あたるかはずれるかわからん(はずれるだろうけど)ところが面白いだけかもしれない。
今はもう金をもうけるというよりは死んだ後も自分が書いたものが遺ることを目的に書いているようなもんだから、
DRMは外しておこうと思う。
それから、
このブログなんだが、私が死ぬと銀行口座が凍結されて、
サーバーの会社が金を引き落とせなくなるから1年以内にとまって消滅する。
もちろんどっかのだれかがアーカイブしてるのは残るだろうけど。
いろいろ思うに、身近な知合いで自分より長く生きそうなやつに託すというのが従来一般的だと思うが、
それでもいいんだけど、
身近な知合いだから自分のことをよく理解できるわけではないということはだいたいわかっている。
まったく見ず知らずの人がずっとあとになって発見してくれるような残し方をしないといけないと思う。

へレースポントス

『エウドキア』に「ヘーレスポントス」と書いていたのは「へレースポントス」の間違いだった。
修正せねばならない。
へレースポントスは海峡に名付けられた名ではなく、あの細長い海に付けられた名のようである。
意味はずばり「ギリシャの海」。
ヘラス、ヘレニズム、ヘレニカなどはすべてギリシャ人が自分らの国や言語のことを言う言葉だ。
つまりへレースポントスという名は、ギリシャ人にとって非常に重大な意味を持っている。

黒海は単にポントスと呼ばれたらしい。
ポントスとへレースポントスの間の海がプロポンティスだが、
これはポントスの手前の海と解釈できる。
へレースポントスからプロポンティスを経てポントスに入る、というニュアンスがそこにはある。

もっと細かく言えば、
ボスポラス海峡は紛れもなく海峡である。
プロポンティス海は海である。
そして、へレースポントス海峡は、海峡ではなくて、
古代ギリシャ人の感覚では、へレースポントス海と呼ぶべきだろう。

ではエーゲ海はなんと呼ばれていたかというと、この海はエーゲオペラーゴあるいはアルキペラーゴと言って、ポントスではない。
ギリシャ語で「海」をペラーゴといったりポントスと言ったりするわけだが、
もとは両方とも固有名詞であったか。
あるいはポントスだけが固有名詞だったか。
どういう使い分けか、よく分からない。
ギリシャ人がいつから自分たちのことをヘラスとかヘレニカと言い出したのだろうか。
その中心的な部族や土地はどこだったのだろう。

いやはや。しかし、昔書いたものを手直しすることの大変さと言ったら。