京極黄門

[宝暦5年8月16日(『鈴屋百首歌』第1冊奥書)](http://www.norinagakinenkan.com/nenpu/nenpu/n0181.html)に「京極黄門」と見える。
藤原定家のことだが、どちらかといえば、漢学的、儒学的な呼び名のように思われる。
この頃はまだ漢学と国学のどちらという立場でもなかったか。

つまり26才の宣長はただひたすらに歌が好きな人ではなく、漢詩も作れば、和歌も詠む。
そういう人だったとすれば、
芦分け小舟を書いたのは、これよりあとだったことになる。

> 宝暦6年(1756)1月5日以降『在京日記』が和文体に変わった

これも傍証になろうか。

契沖に出会ったタイミングはいつだろうか。

黄門は中納言の唐名。
水戸光圀の号ではない。

宣長は契沖のように僧侶になりたかったのかもしれんね。
もし宣長が貧乏だったら迷わずそうしたのだろうが、
実家が金持ちだったから、当時としては比較的自由業に近い医者の道を選んだ。

有賀長川

宣長が歌を習ったらしいんだが、どんな人かほとんどわからない。
もとは、有賀長因とも。

長川の父が有賀長伯。長伯の師は平間長雅。長雅は望月長孝の門弟。
長孝は松永貞徳の門人、ということなんだが、やっぱりよくわかんない。

ま、ふつうのひとだったのだろう。

安井金比羅宮

こないだ京都の祇園の裏当たりをうろうろしていたら、
いかにも祇園の芸妓というか水商売の女たちが信仰しているような神社があった。
こういうところにはこういう神社ができるもんなんだなと思ったのだが、
[宣長『在京日記』宝暦7年1月9日](http://www.norinagakinenkan.com/nenpu/nenpu/n0183.html)

> 抑このこんひらの社は、近年いたく人の信し奉ること、檀王の主夜神のことく也、ことに青楼娼妓のたくひの、とりはき信仰して、うかれめあまた参り侍る也、

などと書いてあり、なんと宣長の時代からそうだったんだとあきれた。

祭神が崇徳院と源頼政と大物主神、とあって大物主神は金比羅宮だからで、崇徳院はたぶん讃岐つながりで、
頼政は、実はあんま関係ないけどなんとなく崇徳院に運命が似てるからだろうか。
あ、二人とも清盛にいじめられた。
似てる。
崇徳院と一緒に祭りたい気持ちもわかる。

「悪縁を切り、良縁を結ぶ」というのも、深読みするといろいろ深い。

本居宣長の漢詩

在京時代の本居宣長の漢詩が二十数編残されているが、
凝り性な宣長君らしく、平仄は完璧。

春日早朝
鶏鳴九陌報清晨
初日纔昇映紫宸
金殿出霞花気暖
玉楼経雨柳條新
群臣集奏千秋寿
蛮客貢陳四海珍
且識天杯元承露
聖明恩沢更含春

新年の御所の様子を詠んだものと思われる。
悪くはないが、装飾過多、という印象。
[宝暦6年1月11日](http://www.norinagakinenkan.com/nenpu/nenpu/n0182.html)か。
この漢詩を作ってみて宣長はよけいに漢学では日本文化の良さを表現できない、と悟ったのではなかろうか。

読書
独坐間窓下
読書欲暁星
孜々何須睡
一任酔群経

独り窓下の間に坐し、読書、暁星を欲す、孜々として、なんすれぞすべからく睡るべし、もっぱら群経に酔ふに任せん、
と訓めば良いか。

夜独りで窓の下に坐って読書していると、すでに夜が明けようとしている。
一心不乱、どうして眠れようか。
ただ膨大な量の経典に酔うのに任せよう。

いやー。
宣長らしい詩ではある。

宣長、普通の江戸時代の文人並みには漢詩が作れたようだ(乃木希典レベル。中島敦よりはずっとうまい)。
そのまま励めばわりかし良い線いったんじゃないか。
でも、和歌のほうが好きだったんだよなあ。
どんな違いがあったのだろう。知りたい。

上巳
元巳春風暖
桃花照錦筵
麗人更勧酔
流水羽觴前

上巳は桃の節句であるから今の暦では四月中旬、元巳はその別名。
春風は暖かく、桃の花が錦のむしろに映える。麗人、更に酔いを勧め、羽觴(さかづき)の前には水が流れている。
明らかに曲水の宴で作った詩であろう。

旧暦

それでまあ旧暦の時報なんぞ始めてみるといろんなことが疑わしく思えてくる。

昔の人は日の出(明け六つ)とともに起き日の入り(暮れ六つ)とともに寝たのに違いない。
吉原なんてのは暮れ六つから開けたというが、要するに暮れ六つすぎると仕事は終わってあとは遊ぶというわけだろう。
普通の家庭では暗い中灯りを灯して晩飯なんか食うはずもない。
明るいうちに食事を終えすぐに寝たはずだ。

朝は朝とて、冷蔵庫も炊飯器もないんだから、
日の出とともに飯が食えるはずもない。
どんなに急いだって米が炊けるんだって一時間はかかるだろう。
かなり遅く、朝五つか朝四つくらいに朝食を食べたのにちがいない。
そんでまあ朝飯前っていうくらいだから、
飯を食う前に二、三時間は仕事をしたのではなかろうか。えっと夏の話ね。
冬はもっと日が短かったから、そんなには働けなかっただろう。
思うに、朝飯前という言葉は元はそれほど簡単な仕事をさしてはいなかったのではないか。
起きたばかりで飯を食う前の一番頭の冴えた、効率の良い時間帯のしごと、という意味ではなかったのか。

で、その次の食事は正午あたりではありえず、いわゆる昼八つころに食べただろう。
いわゆるおやつだが、これも、単なる間食というよりは、比較的しっかりした食事、という意味ではなかったか。
食べると眠くなるから休憩し、後は翌日の準備などするとあっという間に日が暮れるからそのまま寝たのではなかろうか。
つまり昔の人は朝四つと昼八つの二度食事をしたんじゃないか。

明治大正となりサラリーマンてのが出てくると九時五時の仕事となって、
学校なんかもそうだから、すると朝飯は朝七時くらいになり、晩飯は夜七時くらいになり、
そうなると正午くらいに昼飯を食うのが便利、ということになったんじゃないか。

でまあ、旧暦と和歌を対応させようとすると、
一月が立春で、梅。二月が桜、三月はとばして四月が藤、ほととぎす。五月は端午の節句で夏至、梅雨、花は菖蒲。
六月は真夏。とかなる。
どうも一月二月が花札にあわない。
花かるたってのも実は明治になって旧暦じゃなくなってから今のような形に落ち着いたのでなかろうかという疑いがふつふつとわいてくる。
しかしとなると藤は五月、菖蒲は六月でなくっちゃいけない。
どうもつじつまがあわない。

「さくら さくら やよいの空は」という歌詞もどうも明治の唱歌で確立したんじゃないかと思える。
明治と江戸は似ているようで全然違う。
暦と時刻が違うから全然違ってくる。

『エウメネス』の次

今のとこ『エウメネス』って小説が一番売れているんだけど、
『エウメネス』が自分の力で売れているわけじゃないってことは承知している。
『エウメネス』は『ヒストリエ』というマンガがあってそのファンがたまたま買ってくれている。
『ヒストリエ』は、出版社がちゃんとマーケティングして広報して売っているわけで、
私はそのおこぼれで買ってもらっている状態だ。

そんなふうにして売りたいわけではない。
『ヒストリエ』人気にあやかって、他人のマーケティングに便乗して売りたいわけでは決してない。
そもそもそんなことを意図して書いたわけではない。
しかし、もし『エウメネス』がそういう幸運に恵まれていなければ、
私はとっくに kdp で収入を得ようという考えを諦めていたかもしれない。
そんで、kdp で利益を出すヒントというのを、もしかしたらもらえたのかもしれない。

『エウメネス』は『ヒストリエ』とは全然違う話で、
共通しているのは主人公がエウメネスという点だけだと思う。
『エウメネス』が描いているのは、古代ギリシャの歴史ではない。
ペルシャやヘレニズムというものを描いている。
私としては、女性の読者にはペルシャ王女のアマストリナに、
男性の読者は(学者として、秘書官としての)エウメネスに感情移入してもらえるように書いている。
戦士としての、剣豪としての、将軍としてのエウメネスを描く気はまったくないのである。

そういう意図を了解した上で読んで楽しんでもらえるのであれば非常に嬉しい、のだが。

ま、ともかく、
私としては『エウメネス』よりかもっと読んでもらえる小説を書くのが次の目標だわな。

身の振り方

だいたい20年前に働き始めてその職場をたった4年で辞めたのは時期尚早だった気がするのだが、
しかしそのまんまその職場にいたら、動くタイミングを失っていただろうと思う。
川越のほうで4年間働いた。悪くない思い出だ。
あれがなければ『川越素描』を書くことはなかったのだし。

それから厚木のほうへ移った。
今までずっと、転職したことが、正しかったのかどうか半信半疑だった。

今思うと、やはりいろんな職場を転々としたほうが楽しかったのだろうと思う。

昔やってた研究、昔入ってた学会、昔の人脈などどんどん切り捨てて、今は小説書くのが一番、
CG作るのが二番くらいでやっている。
もしもとの職場にいたら、私はただの研究者で、
一生涯ずっと研究者で、
CGクリエイターまがいのことをやることもなく、小説も書かなかっただろうと思う。
たぶん。
かなり高い確率で。
ふと気付くと高校生の頃の自分に戻っている、個人的に活動していることは、だが。

30代の頃はまってた学会活動は、結局続かなかったわけだが、
その反省は小説のネタにはなっているので、全く無駄ではなかったというか、
あの試行錯誤がなければ、今の自分の立場はない。
そういう意味ではやりきったというか。
わかった上で惰性で続けるのを辞めたというか。

あと、10年か15年か働くかしらんが、
もう終わりは見えてきたのだから、
自分のやりたいことだけやってればいいだろうと思う。
やりたくないことをわざわざやらんでもいいだろう。
どんどんつぶしのきかない方向にいっているのは怖くもある。
普通に群れていた方が安全なのだが。

だがね、群れるのが好きなら好きで、やりようはあったはずなんだ。
いつも群の中心に居るように、努力すりゃいいんだから。
でも、自分のやりたい仕事だけやるってことが、
どんだけ楽か、
最近如実に感じる。
自由業で食っていければ、それが一番いいに決まっている。
少なくとも私には、会社員として縛られることに、組織の中で競争することに、何の興味も喜びもない。

当面、勢いで自由業者にならないように、気をつけていようと思う。

Valid W-8BEN

アマゾンから5月25日にこんなメイルが届いていた。

> Hello,

> Thank you for submitting your W-8BEN. Starting in June, your withholding rate on payments will be 0% and we are retaining the original form on our files. Please remember to submit a new form if your information changes. If you have any questions, please let us know.

> Thanks,

5月20日に、次回に振り込まれる金額が通知され、
振り込みがあったのが5月30日。
無事全額振り込まれていた。
やれやれ。

ま、あとはばんばん本を書くだけなのだが(良い本を書くより広報活動のほうが大事な気もする今日この頃)。

6月は5月よりか全然売れてないはず。

夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『坑夫』をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、ちょうど

いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。さらに進むと、

そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。春日部がどんなだかは知らない。

ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、そっちは取材してなくて、たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

追記あり

堀切駅

ははあ。
堀切駅があんなひどい有様なのにはわけがあったのだ。

堀切菖蒲園駅ができたのは荒川放水路が完成した後の、昭和6年。
もともとは浅草を出た東武伊勢崎線が鐘ヶ淵駅からまっすぐ堀切菖蒲園前にのびてここに堀切駅はあり、
そこからまたぐるっとめぐって千住にもどっていたのだ。
今、堀切菖蒲園の西側、荒川へ向かって小径があるが、ここが昔の駅前商店街だったと思われる。

堀切菖蒲園は昔は浅草から電車一本でいける至極便利なところだったのだ。
だから明治時代にここらに菖蒲園が繁盛した。
ところが荒川放水路のために堀切駅はとんでもなく窮屈なところへ押し込められてしまい、
駅とは思えないようなありさまになってしまった。
菖蒲園とも切り離されてしまったというわけだ。

いやはや。
荒川放水路というのは、つまり、都心と葛飾区を切り離すバリヤーのようなものになってしまった。
ある意味、葛飾にとっては災難だな。