坑夫

『坑夫』を何年かぶりに再読したのだが、やはりこれはずいぶんへんてこな小説だ。坑道に入ってから出てくるところまでが一番面白いところだが、それまでが異様に長い。で、坑から出てくるとあっという間に終わってしまう。どうでもよさそうなことがくどくどと書いてある。漱石はつまり、わざと小説らしくない小説を書くためにこんな仕掛けにしたのだろうが、どうも迷惑だ。もう少し書きようがあるんじゃなかろうか。

も少し推理してみると、前半の異様に長い前振りはこれは漱石自身の体験を脚色したものだから、異様に詳しい。で、銅山の話は誰かから取材したもので漱石本人は銅山に登ったことさえない。だからさらっと書いてしまっている。

そういういくつかのネタを適当につなげた結果こんな具合になったのではなかろうか。これはまあ自分の体験にも基づくわけだが、自分が実際に経験したこととか実際に取材したことというのは、つい詳しくなるが、そうではない箇所も補完して書かなくちゃならない。そういうところはまあ、つい短くはしょってしまいがちだ。明らかにそんなふうな小説というのは世の中にざらにある。自分の小説も、だいたいそうだといえばそうだ。想像で書いたところ。wikipedia や google earth で適当にすませたところなんかは、正直自信がない。出版社がついてて編集とか担当もいれば、そこちょっと話薄いですね、とかいって、適当に話をもってくれたりカモフラージュしてくれるのだろう。あいにくそんなスタッフのようなものはない。全部自分で考えて自分で書いている。そのかわり儲けを折半する必要も無い。

たぶん銅山の話がなければあまりにつまらない話で、漱石としても、小説として発表するのが憚られたので、当時のキャッチーな話をとってつけたのではないか。だもんだから

自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などというおかしな言い訳がついている。漱石らしくない、へんな嘘の付き方だ。

BNP上昇

ええっと、そんで、心室細動でICUに入れられたのが2011年10月27日なんだが、11月29日には退院して、それからずっと順調に回復していて、実はもう完全に良くなってたんじゃないかと思って、薬を飲むのもサボりがちだったのだが、いきなりBNPが250台になってしまった。たぶんアンカロンという薬を飲み忘れることが多かったせいだと思う。

アンカロンは強力な不整脈を抑える薬なので、この薬が効いているとBNPは5くらいまで下がるらしい。正常値は20以下。100を超えると心不全の確率が高い。

非常に強力な抗不整脈作用がある反面、新たな不整脈や、肺線維症など重篤な副作用が多いのが欠点です。日本では、専門医により、他の薬が無効な致死的な不整脈に限り用いることになっています。

なんかまあ恐ろしい薬だな。私の場合不整脈が出たら死ぬしかないから、つまり致死的な不整脈ってやつだから、しかたなくアンカロンを飲んでいるわけだ。幸い副作用は出てない。

よくわからんのだが、私はもともとBNPが高い体質だったのではなかろうか。BNPは普通の血液検査では調べないから、昔どのくらいだったかってことはわからんのだが。これからもずっとアンカロンは飲み続けなくてはならなさそうだ。次回の検査でBNPが下がっていればいいのだが。

コレステロール値も相変わらず高い。まあ死ぬまで節制しなさいってことだな。

まあ、鐘というものは、銅鐸かなんかみたいにして、美術館に展示してあっても、絵的にはほとんど意味がないのであり、
鐘楼に吊してあって、鐘撞き棒が吊してあって、実際に普段鳴らしている状態で設置されていなくてはならんのである。
写真とは現実ありのままではない。
説明であり記号なのである。

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これは京都南禅寺の鐘楼であるが、藪の中にあって、鐘楼の中に鐘がほとんど隠れてしまっている。
これでは、絵的に鐘楼だということがわからないので、困る。
雰囲気は悪くないのだが、残念だ。


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鎌倉建長寺。
悪くない。
絵的にはこのように手前に鐘撞き棒があってその奥に鐘があって、その奥に鐘楼の柱があって、
理想的にはその背景は江戸時代の町並みが欲しい。
或いは、江戸時代には存在しなかったオブジェが映り込まなければそれでもよいのだが、
この写真の場合には観光客が入ってしまっているのが、まずい。
早朝などに撮ればよかったのかもしれない。


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またこの鐘楼は、屋根が藁葺きなのもなかなか良い。柱も古風だ。

鐘楼全体を写真に収めようとするとどうしても鐘が小さく見えてしまう。
なので、鐘に対して鐘楼があまり大きすぎない方が絵的には良いのである。
鐘楼がでかすぎるとどうしても鐘だけを撮影しなくてはならなくなる。
また、鐘楼がでかければでかいほど、背景に余計なものが映り込んでしまう。


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鎌倉円覚寺。
悪くない。
非常に荘重な感じ。
しかし、普段は使われてないのか、
厳重に鐘撞き棒が固定されているのが残念である。
これでは鐘を撞くまでにかなり手間がかかってしまうだろう。


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京都建仁寺。
あまりよろしくない。
まず、鐘が鐘楼の中に隠れてしまっている。
棒だけが外に突き出ていて、これでは鐘を叩くのには便利かも知れないが、
ビジュアル的にはいまいち。
しかも周りに車が止まっていては絵的に使い物にならない。


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京都知恩院。
悪くない。
江戸時代のものとしては最大級だろう。
しかし、鉄柵がいかにも邪魔。
あと、あまり大きすぎるのはビジュアル的に圧迫感がありまくる。


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京都東山高台寺。
悪くないんだけど。
立ち入り禁止の立て札が邪魔。
背景にビルが入る。
隣に車やクレーン車などかあっていろいろ邪魔。
あと、鐘に金で印字してあって、けばすぎる。


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これも東山。頼山陽の墓がある長楽寺。
まったく期待してなかったが、いまのところこれがベスト。
鎖がぴかぴかしすぎていること以外特に文句がない。


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金閣寺。
消化器がいかにも邪魔。
あとなんか立て看も邪魔。
鐘楼自体はそんな悪くないんだけど。
こんなところ写真撮るひといないと思われてるよな。


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仁和寺。
朱塗りで超かっこいい。
でも普通の人はこれが鐘楼とは言われなくちゃわかるまい。
私はたぶん形からして鐘楼だとは思ったが、鐘が完全に中に隠れてしまっている。


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長崎興福寺鐘鼓楼。
鐘を撞いて太鼓も叩いたらしい。
鐘は戦時中拠出してもう存在しない。


日本鐘巡りの旅はまだまだこれからだ。
普通の町中にある鐘楼は周りに余計なものが映り込むので使い物にならない。

山ノ内と扇ガ谷

たまたま梅雨の晴れ間で日差しが強くて良い写真が撮れそうなんで、
世界遺産に相手にされなかった鎌倉に行ってみた。
JR横須賀線北鎌倉駅辺りが山ノ内であり、
その南隣、北鎌倉駅と鎌倉駅の間くらいが扇ガ谷。
地名表記は「山ノ内」と「扇ガ谷」であって、「山内」でも「山之内」でも「扇谷」でも「扇ヶ谷」でもない。

だいたいにおいて上杉氏は「山ノ内」上杉氏と「扇ガ谷」上杉氏が有名なのであって、
それぞれ鎌倉にいたときは山ノ内、扇ガ谷をもともとの本拠地としたのである。
その地名が未だに現役で使われているというのはやや驚きもある。
まあ、歴史的に有名だから今もその地名が使われているということもあろう。
山ノ内と扇ガ谷の間は小高い山であり、亀ヶ谷坂切通しという狭い山道が通っている。

山ノ内というところはつまりは関東管領上杉氏の本拠地であるから、
でかい寺がある。
つまり、円覚寺と建長寺。
どちらにも国宝の鐘がある。
建長寺の鐘は五代執権北条時頼が、
円覚寺の鐘は九代執権北条貞時が作らせたものだ。
鐘というものは案外古いものはなくてかつ国宝で現在も使われているものが、
こんなに近くに二つもあるというのは珍しい。
珍しいんですよ、これは実はね。
京都にも三つ国宝の鐘があるらしいのだが、
どうも今は使われてないらしい。
飛鳥の法隆寺や薬師寺も昔ながらの鐘が使われているとはとても思えない。
奈良の興福寺や東大寺なんかも。

たとえば知恩院の鐘がでかいといってもあの寺は徳川家が天下とってから大を成したものであるから、そんなに古くはない。
金閣寺や銀閣寺が室町時代のものであるように、
実は京都の建造物の多くは室町や江戸に出来たもので、
さらにそれを明治になってから復興したものであって、
鎌倉のように北条氏の時代の鐘が残っているというのはやはり珍しいのである。

にしても、鎌倉は人が多い。東京から近くて気やすいのもあるし、
観光客以外に高校生もいるし、
あじさいの季節だというので大勢くりだしてくるし、
週末だったのでもう地獄だった。
京都と違って鎌倉は山だしな。
道は狭いわ人混みはひどいわ車は多いわでもうこれで世界遺産なんかになった日には目も当てられんだろうね。

扇ガ谷には大した寺はない、山ノ内に比べると。

鎌倉時代には御家人たちは鎌倉にみしっと集中して住んでたんだろうね。
それが鎌倉の防衛力ともなった。
しかし室町時代になると鎌倉以外の関東各地へみんな散っていってしまった。
鎌倉の相対的な価値が低下した。
鎌倉だけをきちんとまもるというやり方が廃れてしまったんだろうと思う。

円覚寺と建長寺は鐘が国宝なだけでなくて鐘楼がなかなかよろしい。
たぶん古いものなのだろう。
京都の鐘楼でがっかりするのは完全に鐘を囲ってしまって外から見えなかったり、
消化器がおいてあったり、現代風の柵が巡らしてあったり、変な立て札があったりして、
美的景観が台無しだったりすることだ。
円覚寺と建長寺の鐘楼は良い。
カメラを向けるときちんと北条氏の時代の姿で写ってくれる。
そこがまた珍しい。

上杉氏は、北条執権時代には宮将軍の世話係としての性格が強いから、
京都から来た将軍のために山ノ内にせっせと寺や鐘を作ってあげたのであろうか。

恋と女の日本文学

丸谷才一『恋と女の日本文学』は、
簡単に言えば本居宣長を攻撃するのが大好きな丸谷才一が宣長を攻撃するために書いた本である。
丸谷才一という人は、戦後民主主義のホルマリン漬けみたいな人であって、
思想的には大江健三郎や井上ひさしなんかに近い。
國學院大學にいて国文学にものすごい影響を受けているくせに左翼だからものすごく屈折している。

で、本人は本居宣長を攻撃しているつもりなんだが、
誰も怒ってくれない、放置プレイ状態だからますます彼の論説は過激になっていく。

宣長はただ一般論として儒学を攻撃しているのではない。
彼は実際に講義を受けた堀景山を批判しているのだと思う。
彼は凡百の儒者に過ぎなかった。
その講義があまりにもつまらなかった。
堀景山は反面教師としてそうとう宣長に影響を与えたのだろうなと思う。

> 中国人は偽善者で嘘つきだ。それが中国文学の原理である。

(p.72)

ここで「中国人」を「堀景山」に読み替えると意味がすんなり通ると思う。
当時の儒学者、武家というものは、多かれ少なかれ偽善者で嘘つきだった。
「蘆わけ小舟」は景山に学んだ宣長の卒業論文のようなものだった。
普通は恩師のことを褒めなくてはならないのだが、
宣長は景山の人柄はともかくとして学問や思想に決して共感できないところがあり、
それを批判したのだろうと思う。
もちろん、宣長は景山なくして契沖に出会うことはなかった。
ただそれだけでも、宣長が景山を尊敬していたことは間違いない。

丸谷才一は、儒教文化と日本文化を対比させて話をしたがるのだが、
日本はインドからも大量の説話を輸入していて、そこには男女の愛憎や肉欲なんてものは、
いやというほど描写されている。
日本文学は中国と比べれば退廃的かもしれんがインドと比べれば全然清楚なほうだ。
日本はただその両極端を知識として知っていただけだろう。

> 宣長の歌がからつ下手で

(p.63)

> 宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。
『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学び続けた人なのに、本当に才がなかつた。
才のなさが凡庸ではなかつた。しかもさういふ人の歌のなかでもとりわけひどいのが人口に膾炙することになつた。
言ふまでもなく山桜の歌だが、

(p.86)

などと書いているのだが、
思うに、
定家全集なんか読んでいると定家もそうとう大量の退屈な歌を詠んでいる。
実際定家の歌で面白い歌なんてのはめったになく、
たまたまあっても奇をてらった嫌みなやつか、
本歌取りのきどったやつ。
見えてくるイメージは学者の家に生まれ育った秀才、というのみ。
父親の俊成のほうがずっと歌はうまいと思うのだが。

で、

> 『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたい

などとは宣長は思ってない。京極黄門藤原定家のような歌が詠みたい、と思っていただけであり、
後鳥羽院や西行みたいなぶっとんだ歌が詠みたいと思っていたわけではない。
これらの天才肌の感覚派の歌は後世の京極派に通じるところがあって、むしろ宣長は嫌っていた。
霊感によって自由自在に詠む歌というものを宣長は否定している。

定家の地名百首みたいなつまらん屏風歌みたいのを大量生産するのが宣長の好みであった。
宣長はかなり忠実な定家の追随者だと思う。

俊成や後鳥羽院や西行の歌を、普通の歌人は真似ることはできない。
方法論がない。
天才の歌を凡人が真似ることは不可能だ。
しかし、定家の歌を真似ることはできる。
ピアノで言えばバイエルみたいなもん。
だから定家は家元になり得たし、信者を大量に獲得できたのである。
その一人が宣長だったのにすぎない。
それは宣長自身が言っている。
京極派を毛嫌いするのもそこだろう。
京極派を学んでも凡人は京極派の歌を詠むことはできない。
しかし二条派の歌なら詠める。

改暦

『明治天皇記』明治4年正月には、寅の刻四方拝、などと書いてあるが、
明治5年正月には午前4時四方拝、とある。
グレゴリオ暦への改暦は明治5年12月3日の翌日を明治6年1月1日とすることで行ったとされるが、
すると時刻の方が先に西洋風に改められた、ということか。

寅の刻というのは天皇が江戸にいるときは江戸の、京都にいるときは京都の日の出・日の入りを基準にしたのだろうか。
電信や無線で一瞬で情報が伝わるようになると、地域で時刻が異なるのははなはだ都合悪かっただろうし、そもそも精度が悪かっただろうな。

馬場始

『明治天皇記』明治二年正月、『馬場始』というものが行われ、そのとき天皇が初めて馬に乗ったらしい。
以後、明治二年には「御乗馬」の記録が頻繁に出る。
明治十年くらいになるとあまりに天皇が騎馬を好むので、岩倉具視が諫めているほどである。

調べると、馬場始は馬騎初(うまのりはじめ)の別称であり、
室町幕府は正月二日、
江戸幕府は正月五日に行ったという。
だが、宮中行事にそんなものがあるはずがなく、
たとえあったとしても天皇自ら馬に乗るはずがない。

天皇が馬に乗った、などという記録があるかすらあやしい。
天武天皇や雄略天皇が果たして馬に乗っただろうか。

本居宣長

wikipedia [本居宣長](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7)
を読んでいると非常に腹ただしくもあり、いろいろいじりたくもなるのだが、
いじり始めるときりがないからやめておく。

まず不満なのは17歳の時に和歌に目覚めたこと、
その後も和歌の修行に執心したこと、がまったく書かれてないこと。
京都遊学中に小沢蘆庵と出会ったことも書かれてない。
手落ちだ。

医学を堀景山以外の人に習ったように書かれているが、
堀景山は儒学者というよりは医者であって、
宣長は医者になるために堀景山に学び、ついでに儒学も学んだのである。
ニュアンスが異なる。

> 宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

これは大野晋の妄想なのだが(彼の妄想癖は有名。日本語なんとか起源説、とか)、これを読んだ人は鵜呑みにするだろう。

> 紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

これのどこがそんなに重要なんだ。

> 当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。

いやおまえ、そんな些細なことはどうでもいいからさ。
そんなことまでいちいち書いてたらほかにもいろんなことかかなきゃならなくなるよ。

要するにこれを読んで宣長のことは半分もわからん、むしろおかしなステレオタイプを覚えてしまう、ということだ。
なんだろね。
日本史の教科書の記述ってしょせんこんなもんなの?

たぶん書かねばならないことは、宣長が松坂の木綿商の次男に生まれ、
11歳の時に父が死んだということ。
15歳で1年ほど江戸の叔父の店で修行したこと。
17歳で和歌を学びはじめ、
18歳で紙商の養子になった(次男だからだろう)こと。
20歳で養子を離縁されたこと。
21歳で兄が死んで家督を継いだこと。
22歳で医者になるために京都に遊学。
堀景山に医学の他、四書五経や漢詩などを学ぶ間、契沖を知り、和歌を学び、小沢蘆庵と知遇を得て、
日本文化に心酔して仏教や儒学から距離を置くようになる。
京都で医者になろうとした(医者の娘と結婚して養子になろうとした)がかなわず、
堀景山が死去すると、27歳で帰郷して医者を開業する。
30歳の時に商家の娘と一旦結婚するが離婚。
32歳で京都時代の学友の娘と再婚。

まあ、こんなところではあるまいか。

彼は武家とははなはだ相性が悪かったが、商家とも悪かった。
どのへんが気に入らなかったかというところが非常に気になる。

いやね、
本居宣長は、
自分で、契沖に影響を受けました、ということは書いているんだが、
堀景山や荻生徂徠に影響を受けました、なんてことは書いてないと思うんだ。
荻生徂徠や伊藤仁斎に影響を受けただろう、ということは小林秀雄がそう書いてるだけでね。
しかも本論とあんま関係ない薀蓄たれてるだけなんでね。

宣長の学問の形というのは徂徠がどうのこうのと言わなくても契沖だけでほぼ完全に説明できると思うんだ、
その古文辞学的なところとか。
宣長学というのはつまるところ契沖学の延長なんだよね。
もし他に影響を与えた人をあげるなら藤原定家とか紫式部とかだろ。

宣長は真淵を師と呼んでいて、別に影響を受けなかったというつもりはないが、
宣長は真淵に会う以前にすでに完成していたのだから、その影響を完全に除外しても宣長は宣長なんだよなあ。

なんでそういうふうに宣長を説明したがるのかね、みんな。

だいたい小林秀雄という人は、雑な性格の人で、良く言えば芸術家肌なんだが、仕事にむらがある。
くだらん老人の蘊蓄を垂れている箇所と、鋭い指摘をしてるところが混在している。
伊藤仁斎の箇所なんて頼まれ仕事で仕方なく文字数埋めるためにわざと脱線してなんの関係もない蘊蓄を垂れているだけなんだが、
わかる人はそういうところはよけて読んで、面白いところだけ拾い読みすれば良い。
中国のお土産は必ず良いものと不良品を抱き合わせにして売っている。そんなもので、
不良品を捨てて良品だけ拾えばよい。
小林秀雄自身もここは脱線してるから本論とは関係なしに雑談として読んでね、っていうヒントはちゃんと出してるのに、
わからんやつにはわからん。よけいなんかありがたがっちゃう。
ああ、宣長の本を読んでてついでに仁斎の話まで読めちゃうなんて。なんてお得、とか思っちゃう。
小林秀雄著『本居宣長』を読んでる側にしてみれば、
本居宣長が伊藤仁斎から何かすごく影響を受けたように読んでしまう。
読者というものは、だいたい誤読するものである。

本居宣長を誤読しさらに小林秀雄も誤読するからもはや宣長の原型を留めていない。
自分で勝手に宣長ってこんな感じとか思っちゃう。

平田篤胤なんかも本人の許可無く勝手に誤読して自分が一番の弟子とか言い出す。

ガンダムやマクロスの二次創作もそうだが、
ともかく読者というものは業が深い。
私も自分の小説をいつも誤読されるので、よく知ってる。

たぶん小林秀雄は出版社から借金の穴埋めかなんかに原稿料を前借りして
(或いは一晩で遊蕩して)、宣長について五十話書く約束をしちゃったんだが、
宣長だけでそんなたくさん書けないし書く気もない。
仕方なしに松坂に取材に行った。
それから徂徠や仁斎の話で煙にまいといて、
ほんのちょっぴり、きらっとしたことを書いたら、
もう全然書くことがなくなってしまって、
後半は古事記伝の解釈をいやいやだらだら書いて埋めた、
そういう本だと思うよ、『本居宣長』は。

宗安寺法螺添削詠草

宣長が和歌を詠み始めた頃に習った師が法螺で、その添削した歌が『宗安寺法螺添削詠草』
として残っている。
宣長が最初期に詠んだ和歌として非常に興味深い。
寛延二年というから宣長二十歳。

> たづね入る山のかひあれほととぎすただひと声はほのかなりとも

法螺も褒めているが、なかなか良い歌。

> ほととぎす夜半の一声なかなかに聞かずはやすく寝なましものを

珍重、と評されている。まあまあ。

> 宇治川の瀬々の網代木み隠れて白波高し五月雨の頃

なんか、こんな古歌があってもおかしくない。
ある意味陳腐でもある。

> 須磨の海人の焚く藻の煙たたねども袖しほたるる五月雨の頃

うーん。
これはどうかな。
作りすぎって感じ。

> 待ち出でて見るかとすれば夏の夜は惜しむまもなくかすむ月かげ

よくできてるが陳腐だよなあ。

> うたたねをねざめてみれば涼しくも枕にやどる夏の夜の月

うたたねをねざめて、というあたりがくどいし、陳腐だわな。
まあ、歌会なんかの社交には適したレベル。

> 鵜飼ひ船さすやかがりの大井川をぐらの山も名のみなるらむ

かがり火をたいているので「をぐら」(小暗い)の名前に似つかわしくないほど明るい、と言いたいのだろう。

> 松高き梢に秋や通ふらむ鳴くひぐらしの声ぞ涼しき

まあまあ。

> 夕立ちの晴れゆく雲の絶え間より入り日に磨く露の玉ざさ

まあまあ。

> 春雨はふりしきれども鴬の啼く音のいろはうつろひもせず

これはなかなか良い。

> 春の夜の闇にぞまどふ梅の花そことも知らぬ深き匂ひに

これもまあ良い。

> 影うつる水のかがみを竜田川やなぎの髪をけずる春風

なかなか良い。ちょっときどってるけど。

> 咲きそむる花を見捨てて行く雁はなほ古里の春や恋しき

うーん。まあまあかな。

> もろともに花もさびしと思ふらむ我よりほかに見る人もなし

こういう歌は多いよね。最初からこんな歌詠んでたんだなという。
香川景樹の

> 世の中はかくぞかなしき山ざくら散りしかげには寄る人もなし

に似てなくもない。まあ含むところは全然違うのだが。

> 散りまがふ花に心のあくがれて分け入る山のほども覚えず

これは良い。

> 散るとても桜はよしや吉野川今を盛りの山吹の花

桜が散ってしまったが、まあいいや、代わりに山吹の花を見ようという話。うーん。

法螺という人、だいたい、珍重、とかいって褒めている。
実際そんな悪くはない。

加齢と酒

長く付き合えば付き合うほど人も町も会社も嫌いになって、
同じ場所にとどまるのが嫌で、
年をとるほどに不寛容になる人は、
年をとるほど自制して、
何事も意図して無感動に、無感覚にならねばならない。

昔はテレビを見ても楽しめていた。

つい最近まで漫画雑誌も読んでいた。

ネットが発達したせいかもしれんが、今は雑誌もテレビもみない。
年をとるにつれて裏が読めて見る気がしなくなるからだろう。
そういう自分のために書いた小説が多くの人に読まれるわけもない。

世の中は進歩しているようでまったく進歩しない部分もある。
進歩を止めた町は、ふたたび進歩しようと努力するのではない。
そういう町にはもう進歩したくない人たちが移り住み始めて、
なんでこんな状態で満足できるのというような状態で平気だ。

全体でならすと世の中はおどろくほど進歩してない。

ていうか、わたしのような人間は、世の中が進歩してないからといちいち怒ったりしてはいけない。
世の中だけではない。
何事にも怒らないようにするのが、これからの余生で一番大事なことのように思える。

世の中には年をとるほどに怒らなくなる人もいるだろう。
そういう人は死ぬまで楽しく酒が飲める。
年をとればとるほど何もかも気に入らなくなるひとは、酒を飲むのが危険で仕方ない。

とりあえず会議で反対意見を言うのはやめよう。
言おうが言うまいが何も変わらないのだから、言うだけ無駄だ。