ノルマン人がシチリアを征服したときにシチリアはすでにアラブ人とギリシャ人による海運立国であり、同じ海洋民族でもありかつ傭兵でもあったノルマン人がその支配者として乗っかった形になったのだと思われる。
ノルマン人の数はおそらくそんなに多くはなく、
太守や提督という仕事はだいたいがアラブ人、ギリシャ人などの豪族。
現地人もほとんどはアラブ人とギリシャ人。
なんのことはない、ギリシャ人やフェニキア人が地中海を支配していたころと住民には大差がないのだ。
言われているように、ローマ教皇がノルマン人に命じて南イタリアやシチリアを征服させたのではなかったのではないか。
ノルマン人が自然と現地のギリシャ人やアラブ人と抗争しつつも宥和していって、
その支配者となった、というあたりが真実ではないか。
イスラム教国が急にキリスト教国に切り替わった、
というようなドラスティックなものではなかったはずだ。
どうようにそれは第一次十字軍で成立したイェルサレム王国やアンティオキア公国などでも同じだったはずだ。
のちのイベリア半島のレコンキスタも、実は徐々にイスラムからキリスト教に切り替わっただけではないのか。
オスマン帝国でもキリスト教徒とイスラム教徒が混在していた。
ヨーロッパ側からの史観では、そういう構図が見えにくい。
南イタリアはともかくとして、シチリアは、
ノルマン人が征服したが実質アラブ人の国であったと見ても不思議ではなく、
キリスト教国から見ると実際そのように見えただろう。
だから、神聖ローマ皇帝による十字軍が派遣されたりもした。
産業は、もっぱら海運、それから聖地巡礼などの観光業だっただろう。
聖地巡礼という風習がキリスト教にあったとは思えない。
もともとはイスラムの風習であって、
イスラムをまねてヨーロッパのキリスト教国がやるようになって、
海運にはアラブ人やノルマン人、ギリシャ人が得意であって、
特にノルマン人の勢力が地中海で伸張した結果、第一次十字軍という結果になった、
と考えるのが自然だ。
当時の地中海は今考えるよりはるかにアラブ人の勢力が強い。
アラブ人を統治できなくてはシチリアを統治することはできない。
イスラムがキリスト教徒の子供を捕まえてきて奴隷にした。
しかしイスラムでは奴隷は大切に扱われるから、
ムスリムとして育てて政治家や戦士にもなる。
それがマムルークである。
マムルークの逆もあったはずである。つまり、
もともとアラブ人であったが子供の頃にキリスト教徒に育てられて、
のちに戦士になったり、政治家になったりした者が。
マムルークほど有名ではない。
改宗者、などと呼ばれることもあるようだ。
しかし、マムルークと同じくらいにたくさんいたはずだ。
アデレードやロジェールの部下にはそういう連中がたくさんいたはず。
なぜ彼らがノルマン人に従ったのか、ということには注意しなくてはならない。