封建

広辞苑など読むと、日本の封建時代というのは、鎌倉時代から、明治維新までと書いてある。
しかし頼朝や北条氏は別に自分で土地を持っていたわけでもないし、
家臣に土地を俸禄として与えたわけでもないから、封建というにはかなり不完全な感じがする。
室町時代の応仁の乱までの守護大名はかなりきれいな形の封建領主であるが、
その後の戦国大名は自分で勝手に領国を支配したのだから、封建領主とは言い難い。
室町時代に典型的な封建制が成立したのは、まあ簡単な理由であって、
南北朝や室町時代初期には戦乱が続いて、
足利氏が細川氏や山名氏や赤松氏などに気前よく領国を分け与えたから、
地方分権が進んだ。同時に、彼ら家臣は一応京都に幕閣として住んでいて、
後の戦国大名のように領国に住み着いて京都と関係なしに領国を支配したわけでもなかった。
守護大名は足利将軍が任命する形をとっていたのである。

徳川幕府の旗本も千石以上のお殿様は自分の領地を持っていて、そこからの年貢を俸給としていたから、
これはまあ封建と言えるが、米を俸給としてもらっていた普通の旗本はサラリーマンと変わりがないから、
封建とは言えない。
外様大名は徳川の家臣とは言い難いから封建とは言えない。
江戸時代は一種の封建社会には違いないが、ほんとうの封建社会からはかなりはずれている。
明治の日本や戦前の昭和の日本などを「封建的」などというのはかなり違和感がある。
封建というのは、王とか将軍とか国全体の支配者が居て、しかし王や将軍は直接地方を支配するのではなく、
地方領主は配分された土地を俸給とする。
これに対して、王が自分で官僚を地方に派遣して税金を取り立てて、家臣をサラリーで雇うのは封建ではない。
そういう意味では清朝を「封建的」というのにもかなり違和感を覚える。
たとえば清朝が腐敗していたとすればそれは、
東洋的血縁社会と硬直した官僚組織とが相互作用した腐敗であって、
ある意味それは現代の中国でも同じであって、
封建的な腐敗というのはどうなのか。意味がわからない。

思うに、封建時代というテクニカルタームができたのは明治以降であろう。
日本の文化や政治システムが確立したのが室町時代だとして、
その頃の文化や政治をおおよそ「封建的」と呼ぶのはかなり正確な用例だと思う。
江戸時代を「封建的」というのはかなり注意を要すると思う。
江戸時代の前半はかなり「戦国的」だし後半は「商業経済的・近世的」だからだ。

そこで、「いやいや、義満などは日本国王を名乗って、専制独裁だから封建的ではない」
などと言い出すやつが出てくるので厄介だな。
確かに義満は封建領主を束ねる王ではあった。
家臣の方が領土も広く、実力もあったからだ。
神聖ローマ帝国皇帝に近いと言える。

聖橋

[震災復興再開発事業#関東大震災](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%87%E7%81%BD%E5%BE%A9%E8%88%88%E5%86%8D%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%A5%AD#.E9.96.A2.E6.9D.B1.E5.A4.A7.E9.9C.87.E7.81.BD)
などにも書かれているが、震災後、内堀通り、靖国通り、昭和通りなどが幹線道路として整備された。
このうち内堀通りというのは、本郷から聖橋、神田橋を経て丸の内に至る道で、
聖橋はこのときに初めて架けられたのだ。
遷都しないと決めたのは後藤新平、復興予算を30億円と決めたのも後藤。
しかし予算は5億円程度に削られてしまった。
思うに遷都した方が良かったのではなかろうか。
日比谷公園・上野公園・靖国神社参道などはバラックの難民キャンプで埋まっていたらしい。

当時の写真などもいろいろ見てみる。駿河台にはニコライ堂がそびえ立っており、
はるかお茶の水から遠望できた。

横浜中華街は、震災前は二階建ての洋館や蔵造りの商館がみっちり立ち並んでいたのが、
震災後は平屋木造バラック小屋みたいなのばかりになっている。
また当時は中華街とは言わず、南京通りと言っていたようだ。

八股文

滝野邦雄氏の[明代初期の八股文について](http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008638605)
などを読むに、初めて「八股」という言葉に言及したのは明末清初の学者・[顧炎武](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6)であろうか。

> 経義の文、流俗、之を八股と謂う。蓋し、成化(1465-1487。第9代憲宗成化帝)以後に始まる。股とは、対偶のことなり。
天順(1457-1464。第8代英宗天順帝)以前は、経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対句にし、或いは散文にし、初めは定型なし。
その単句題も甚だ少なし。

とある。「八股」という語が俗語(おそらくは受験用語)として始まったと言っている。
明朝は 1368年から1644年まで。
1465年というのは、建国から100年経ったくらいだからまあ中期くらいと言えるか。
初期は、四書五経などの一部が出題されて、その意味について敷衍するだけであり、
対句を使ったり散文を使ったりして、その形式には定型がなかった。
出題も、長い文章の中から一句だけ取り出したりとか、わざと一部を切り出したようなもの、
つまり暗記力を必要とするようなものはごく少なかった。
などと述べている。

八股文の題については、やはり滝野氏の[清代八股文の題目について](http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0001109912)
に詳しい。
長いセンテンスをそのまま出題することもあれば、
一部のフレーズだけを切り出して出されることもある。
要するに、八股文の題というのは、四書五経の一部をただ切り出しただけのものであり、
その語句がどういう意味を持つかを敷衍する(自分の意見を述べるというよりは、元の文章の箇所の意味を説明する)
というだけだった。

そもそも八股文と言っても、昔の漢文には句読点も改行もないから、ただずらずらと漢字を並べた文章だったわけで、
それを解析すると、八股という、対句部分と、始めや終わり、途中の散文の部分に分けられるということであり、
後にはその各パーツに「破題」「承題」「起講」などの名前が出来、
さらにたとえば「起講」の冒頭にはなんという文字を書くとよろしい、とか、そういう定型ができてきたのだろう。
明代初期の文章は後世になってから、改竄というか、勝手に手が加えられて、
さかのぼって八股文の形式に直されたものが多いらしい。
四つの対句で八股だが、初期には二つの対句(前股、後股)しかないものも良くあったようだ。

『儒林外史』にはもちろん八股という言葉が出てくるのだが、これは清朝の康熙・雍正帝の頃で、顧炎武よりはずっと後の話。
宮崎市定の『科挙』は非常に詳しく、いろんなことが書いてあるが、どうしても八股文という言葉は出てこない。
もちろん彼は『儒林外史』を読んでいて「八股」という語も目にしているはずなのだが、
おそらく、彼が主に典拠とした書物には、ことさらに「八股」という語が使われていなかったということではなかろうか。
で、宮崎市定『科挙』によれば、たとえば北京で行われる会試の一回目の試験は三日がかりだが、
一日目は入場するだけ。翌日は朝から始まり、三日目夕方まで解答してよい。
三つの四書題と一つの詩題が出る、などと書いてある。
通常は一日で書き終えて次の日は答案を出して帰るだけだが、夕方まで粘っても良いということらしい。
というよりは、一度に退場はできないから、三日目は退場にかかる時間込みということになる。
『明代初期の八股文について』に出てくる答案例を見るに、そんなに長文というわけではない。
どれもこれも、せいぜい200字程度に思える。
後に多少長くなったとしても、400字程度ではなかろうか。
それを一日に三つと、後は韻を指定された詩を一つ作れば良い。
時間配分で言えば一題に三時間もかければ十分だろうと思う。

宮崎市定が言うには、清朝の初期は、征服王朝であったから、漢民族から官僚を登用するのに、
科挙が役に立ったが、次第に役人がインフレーションになり、
学力も向上し技巧も発達してきたので、
試験で選抜するのがだんだんに困難になり、
問題も複雑高度になって行った。
また、試験のみによる登用というのは、教育にかかる費用をすべて民間にゆだねるということだから、
結局は金持ちしか試験には合格しなくなる。
明治の日本では国の所得税の十倍くらいの村税が課され、
その村税のほとんどは小学校の維持に使われた。
このように真に才能のある人材を発掘するには、貧乏人でも教育を受けられるようにせねばならない、
などと言っている。
それもまあそうかもしれない。

市岡鶴子

知りたいのは、清朝末期の、科挙制度の改革、変法と科挙の関係、
特に、康有為、梁啓超らの上奏文など。特に八股文の是非について。
つまり、清朝末期の学制改革について。
宮崎市定『科挙』も久しぶりに読んでみたが、これは、唐代から明清までの科挙の移り変わりについて、
おおまかに書いてあるだけ。
八股文については、「四書題」とあるのが、それに相当するか。
その内容・形式には一切触れてない。
まあ、あまり興味なっかたんだろうな。
清朝については、『儒林外史』が少々、第三回辺りに出てくる、
范進という万年浪人の話がおもしろおかしく引用してあるだけだ。
『儒林外史』は清朝の前半、せいぜい雍正・乾隆帝の頃の話が反映しているだけで、
清朝末期の光緒帝の頃のことがよくわからない。
しかし、資料としては、光緒帝のころのものがもっとも豊富に残っているはずだが。

康有為、梁啓超らの論文だが、あちこちの図書館でも、断片的にしか手に入らない。
ネットの情報も。
彼らは、科挙や八股文が不要だと主張したのではなく、
官吏や政治家を登用する制度が科挙に限られていること、近代的な学校制度がないこと、
などを批判しているのだと思う。
梁啓超の文章など読んでみると、科挙と平行して学校を作りましょうと言っているに過ぎない。
北京大学の前身である京師大学堂が創設されたのは1898年というから、
戊戌の政変で行われた改革の一つだったのだろう。
この、戊戌政変から辛亥革命までの資料というのは、探せばいくらでもあるはずなのだが。

康有為の四番目の妻(妾)となった日本人、市岡鶴子というのを調べているのだが、
詳しいことは何一つわからん。

>中国名人為什麼願意迎娶日本女人? 2010年04月01日  来源:新華網

> 康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。

1911年6月7日に康有為は梁啓超に招かれてシンガポールから来日。牛込区早稲田、明夷閣。
1912年春、神戸の須磨の「奮豫園」に移り住み、16歳の少女、市岡鶴子を女中として雇う。
1898年に梁啓超は日本に亡命して横浜に住み、神戸と横浜を行き来していたが、1906年から神戸に住むようになっていた。1912年帰国。
康有為は1898年、香港経由で日本に亡命、1899年カナダで「保皇会」結成、以後、アメリカ、イギリス、シンガポール、インドなど、主にイギリスの植民地などを転々として、三回ほど来日したらしいが、詳しいことはもっと調べてみないとわからん。
1913年には市岡鶴子とともに上海へ。愚園路192号。辛家花園の遊存廬で正式に鶴子と結婚。鶴子17才、康有為55才。
1917年、復辟事件。
1923年、青島に定住。
青島は、1914年に日本が占領してドイツから奪い、1922年に中国に返還し、特別行政区となった。
中国領となった直後ということだな。
1925年秋、鶴子は日本に戻り、凌子を出産。鶴子29才、康有為67才。
1927年、康有為死去、69才。
1929年、梁啓超死去、56才。

魯迅『[孔乙己](http://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42938_18510.html)』
も、ごく短いものなので、さらっと読んでみた。

眼鏡

昔、某安売り眼鏡屋が出たての頃に、眼鏡を三つばかりまとめ買いしたら、全部フレームがぽっきり折れて、使い物にならず、
それで腹を立てて、あと肩こりが酷かったので眼鏡のせいではないかと疑って、
高くて良いものを作ろうと思って、普通の量販店に行って、
レンズ3万円、フレーム4万円、併せて7万円ぼったくられて、
これはいくらなんでも高かったなあと反省して、
今回レンズだけ入れ直してもらい、またレンズとフレーム併せて一つ新調して、
フレームはチタンのにして、全部で3万円だった。
昔の安物眼鏡はフレームが樹脂のしかなかったが今は基本メタルはチタンなのな。
しかもそこそこ安い。
レンズがプラスチックで厚みがやや気になるが後は満足。

中国人の名前

眼鏡が割れて超ショック。
昔作った眼鏡では、近くと遠くで度が合わなくて困る。
遠くが見える眼鏡では近くは眼鏡を外さないと疲れて読めない。
近くが見える眼鏡では遠くが見えないので、他人の顔がわからない。
さて、どうするか。遠近両用眼鏡とか高そうだし爺臭いし。
いやだなあ。

ううーん。やっぱ読書と執筆用に度の低い眼鏡が一つないと不便だよなあ。

相変わらず、『儒林外史』を読んでいるのだが、
蘧公孫と言う人には、
蘧駪夫という名前もあり、
蘧来旬という名もある。
翻訳者の註などを読むとこの三人が同一人物だと知れる。
来旬が諱(いみな)で、駪夫が字(あざな)、
公孫というのは、蘧太守という人の孫なので、そう呼ばれるらしい。
子供の頃はだから、「蘧さんの孫」というような通称で呼ばれ、
結婚してからは「蘧駪夫先生」などと呼ばれる。
蘧来旬というのは、会話文には出てこないで、人名一覧のようなところに出てくる。
はああ。ややこしいねえ。
しかも、本文にはどこにも説明がない。

蘧公孫は結婚するのだが、妻の名がまた、「魯のお嬢さん」
としか書いてなくて、なんという名前なのだかさっぱりわからない。
また、杜少卿という人が、作者がモデルらしくて、主人公らしいのだが、
彼の妻の名前もよくわからない。
こんな具合に男には名前が三つもあるのに女には名前が一つもない、
というあたりがはげしくいらいらする。

蘧公孫は魯家に婿入りしたので、その子供は魯姓になるらしいのだが、
その子供の名前も出てこない。
やはりいらいらする。
まあ、そういう小説なのだから仕方ないといえばそれまでだが。

杜少卿という人だが、天長県の杜家の25番目の息子で、仕官もせず、ただ親にもらった財産を使い尽くすというだけの人で、
きまえがよくて豪傑という設定。ただのニートではないか。

行政区分は「省」の下が「府」、「府」の下が「県」で、
蘧公孫の爺さん、杜少卿の父が「府」の知事らしい。
府知事の子孫が金持ちでしたとか、金持ちの家に婿入りしましたとか、
そんなことがただ書いてあるだけのような気がして仕方がない。
こりゃどうも日本で流行らないはずだわ。

儒林外史

[儒林外史/第01回](http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%84%92%E6%9E%97%E5%A4%96%E5%8F%B2/%E7%AC%AC01%E5%9B%9E)冒頭。

> 人生南北多歧路,將相神仙,也要凡人做。百代興亡朝復暮,江風吹倒前朝樹。
功名富貴無憑據,費盡心情,總把流光誤。濁酒三杯沉醉去,水流花謝知何處。

いきなり読めない漢字が。
「沉」は「沈」と同じか。
もはや wiktionary くらいしか、調べる辞書がない。
ああ、中日辞典を引けば良いか。

> 濁酒三杯沈酔去

しかし、わからん。

金券

ふと思ったのたが、失業者や生活保護とか母子家庭などに支給するのに特別な金券を作る。
税制上の優遇はしない。
ただ金券を配る。
この金券は決して換金できない。
憲法に保障された基本的人権を保証する範囲に使うことはできるが、
それ以外の、たとえばパチンコや酒や煙草を買うことはできない。
つまり、その金券だけでは刑務所の受刑者以上の生活はできない。

そんな金券ができたら、どうなるのかな。
たぶん米を酒に交換するとか、物々交換の市場が生まれるだろうな。
わくわくするな。

定家母

定家の父は俊成、母の実名は不詳だが、『新勅撰集』には定家母として出てくる。
『新勅撰集』は定家が一人で編纂した勅撰集だが、それに実の母の歌が一つだけ出てくる。

> 定家、少将になり侍りて、月明き夜、喜び申し侍りけるを見侍りて、明日につかはしける 権中納言定家母

> 三笠山道踏み初めし月影に今ぞ心の闇は晴れぬる

なんとも言いようのない、陳腐な歌だなあ。
それを載せる定家も定家だわ。息子が出世して喜ぶ母の歌。
なんだかなあ。
孝行息子だな。
どうしても載せたかったんだな。
でもそれ以上は、載せるに載せられなかったんだな。ものがものだけに。
『新古今集』には、母と父とがやりとりした歌が載っている。

> 女につかはしける    皇太后宮大夫俊成

> よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ

> 返し 藤原定家朝臣母

> たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ

うーん。まあ、普通かな。
『新古今集』定家が母の死に際して詠んだ歌

> 母身まかりにける秋、野分けしける日、もと住み侍りける所にまかりて 藤原定家朝臣

> たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふるやどの秋風

同じく俊成の歌

> 定家朝臣の母身まかりて後、秋の頃、墓所近き堂に泊まりて詠める 皇太后宮大夫俊成

> 稀にくる夜半もかなしき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ

うーむ。

定家母は美福門院に仕えて、女房名が加賀だったから、
美福門院加賀とも呼ばれるという。
待賢門院堀河とか上西門院兵衛とかそんな感じの呼び名だわな。
五条局とも呼ばれたというがなぜか。
ともかくも勅撰集には「定家母」という名で出てくるわけだ、たった二首、しかも、身内ネタばっか(笑)。

待賢門院は後白河天皇の母、上西門院は後白河天皇の実姉。
上西門院は待賢門院からその華やかなサロンを引き継いだ。
どちらも女流歌人がたくさんいる。
ところが待賢門院のライバルである美福門院には歌人は、皆無ではないが、
ほとんどまったく居ないと思っていたが、定家の母がいたので意外だったのだ。
しかし定家母は、やはり大した歌人ではなさそうだな。
勅撰集などに残っている歌が少なすぎる。

[マザコン定家](http://d.hatena.ne.jp/tmk141/20080530/p2)。
なるほど。