市岡鶴子

知りたいのは、清朝末期の、科挙制度の改革、変法と科挙の関係、特に、康有為、梁啓超らの上奏文など。特に八股文の是非について。つまり、清朝末期の学制改革について。宮崎市定『科挙』も久しぶりに読んでみたが、これは、唐代から明清までの科挙の移り変わりについて、おおまかに書いてあるだけ。八股文については、「四書題」とあるのが、それに相当するか。その内容・形式には一切触れてない。まあ、あまり興味なっかたんだろうな。清朝については、『儒林外史』が少々、第三回辺りに出てくる、范進という万年浪人の話がおもしろおかしく引用してあるだけだ。『儒林外史』は清朝の前半、せいぜい雍正・乾隆帝の頃の話が反映しているだけで、清朝末期の光緒帝の頃のことがよくわからない。しかし、資料としては、光緒帝のころのものがもっとも豊富に残っているはずだが。

康有為、梁啓超らの論文だが、あちこちの図書館でも、断片的にしか手に入らない。ネットの情報も。彼らは、科挙や八股文が不要だと主張したのではなく、官吏や政治家を登用する制度が科挙に限られていること、近代的な学校制度がないこと、などを批判しているのだと思う。梁啓超の文章など読んでみると、科挙と平行して学校を作りましょうと言っているに過ぎない。北京大学の前身である京師大学堂が創設されたのは1898年というから、戊戌の政変で行われた改革の一つだったのだろう。この、戊戌政変から辛亥革命までの資料というのは、探せばいくらでもあるはずなのだが。

康有為の四番目の妻(妾)となった日本人、市岡鶴子というのを調べているのだが、詳しいことは何一つわからん。

中国名人為什麼願意迎娶日本女人? 2010年04月01日  来源:新華網

康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。

1911年6月7日に康有為は梁啓超に招かれてシンガポールから来日。牛込区早稲田、明夷閣。
1912年春、神戸の須磨の「奮豫園」に移り住み、16歳の少女、市岡鶴子を女中として雇う。
1898年に梁啓超は日本に亡命して横浜に住み、神戸と横浜を行き来していたが、1906年から神戸に住むようになっていた。1912年帰国。
康有為は1898年、香港経由で日本に亡命、1899年カナダで「保皇会」結成、以後、アメリカ、イギリス、シンガポール、インドなど、主にイギリスの植民地などを転々として、三回ほど来日したらしいが、詳しいことはもっと調べてみないとわからん。
1913年には市岡鶴子とともに上海へ。愚園路192号。辛家花園の遊存廬で正式に鶴子と結婚。鶴子17才、康有為55才。
1917年、復辟事件。
1923年、青島に定住。青島は、1914年に日本が占領してドイツから奪い、1922年に中国に返還し、特別行政区となった。中国領となった直後ということだな。
1925年秋、鶴子は日本に戻り、凌子を出産。鶴子29才、康有為67才。
1927年、康有為死去、69才。
1929年、梁啓超死去、56才。

魯迅『孔乙己』も、ごく短いものなので、さらっと読んでみた。

眼鏡

昔、某安売り眼鏡屋が出たての頃に、眼鏡を三つばかりまとめ買いしたら、全部フレームがぽっきり折れて、使い物にならず、
それで腹を立てて、あと肩こりが酷かったので眼鏡のせいではないかと疑って、
高くて良いものを作ろうと思って、普通の量販店に行って、
レンズ3万円、フレーム4万円、併せて7万円ぼったくられて、
これはいくらなんでも高かったなあと反省して、
今回レンズだけ入れ直してもらい、またレンズとフレーム併せて一つ新調して、
フレームはチタンのにして、全部で3万円だった。
昔の安物眼鏡はフレームが樹脂のしかなかったが今は基本メタルはチタンなのな。
しかもそこそこ安い。
レンズがプラスチックで厚みがやや気になるが後は満足。

中国人の名前

眼鏡が割れて超ショック。
昔作った眼鏡では、近くと遠くで度が合わなくて困る。
遠くが見える眼鏡では近くは眼鏡を外さないと疲れて読めない。
近くが見える眼鏡では遠くが見えないので、他人の顔がわからない。
さて、どうするか。遠近両用眼鏡とか高そうだし爺臭いし。
いやだなあ。

ううーん。やっぱ読書と執筆用に度の低い眼鏡が一つないと不便だよなあ。

相変わらず、『儒林外史』を読んでいるのだが、
蘧公孫と言う人には、
蘧駪夫という名前もあり、
蘧来旬という名もある。
翻訳者の註などを読むとこの三人が同一人物だと知れる。
来旬が諱(いみな)で、駪夫が字(あざな)、
公孫というのは、蘧太守という人の孫なので、そう呼ばれるらしい。
子供の頃はだから、「蘧さんの孫」というような通称で呼ばれ、
結婚してからは「蘧駪夫先生」などと呼ばれる。
蘧来旬というのは、会話文には出てこないで、人名一覧のようなところに出てくる。
はああ。ややこしいねえ。
しかも、本文にはどこにも説明がない。

蘧公孫は結婚するのだが、妻の名がまた、「魯のお嬢さん」
としか書いてなくて、なんという名前なのだかさっぱりわからない。
また、杜少卿という人が、作者がモデルらしくて、主人公らしいのだが、
彼の妻の名前もよくわからない。
こんな具合に男には名前が三つもあるのに女には名前が一つもない、
というあたりがはげしくいらいらする。

蘧公孫は魯家に婿入りしたので、その子供は魯姓になるらしいのだが、
その子供の名前も出てこない。
やはりいらいらする。
まあ、そういう小説なのだから仕方ないといえばそれまでだが。

杜少卿という人だが、天長県の杜家の25番目の息子で、仕官もせず、ただ親にもらった財産を使い尽くすというだけの人で、
きまえがよくて豪傑という設定。ただのニートではないか。

行政区分は「省」の下が「府」、「府」の下が「県」で、
蘧公孫の爺さん、杜少卿の父が「府」の知事らしい。
府知事の子孫が金持ちでしたとか、金持ちの家に婿入りしましたとか、
そんなことがただ書いてあるだけのような気がして仕方がない。
こりゃどうも日本で流行らないはずだわ。

儒林外史

[儒林外史/第01回](http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%84%92%E6%9E%97%E5%A4%96%E5%8F%B2/%E7%AC%AC01%E5%9B%9E)冒頭。

> 人生南北多歧路,將相神仙,也要凡人做。百代興亡朝復暮,江風吹倒前朝樹。
功名富貴無憑據,費盡心情,總把流光誤。濁酒三杯沉醉去,水流花謝知何處。

いきなり読めない漢字が。
「沉」は「沈」と同じか。
もはや wiktionary くらいしか、調べる辞書がない。
ああ、中日辞典を引けば良いか。

> 濁酒三杯沈酔去

しかし、わからん。

金券

ふと思ったのたが、失業者や生活保護とか母子家庭などに支給するのに特別な金券を作る。
税制上の優遇はしない。
ただ金券を配る。
この金券は決して換金できない。
憲法に保障された基本的人権を保証する範囲に使うことはできるが、
それ以外の、たとえばパチンコや酒や煙草を買うことはできない。
つまり、その金券だけでは刑務所の受刑者以上の生活はできない。

そんな金券ができたら、どうなるのかな。
たぶん米を酒に交換するとか、物々交換の市場が生まれるだろうな。
わくわくするな。

定家母

定家の父は俊成、母の実名は不詳だが、『新勅撰集』には定家母として出てくる。
『新勅撰集』は定家が一人で編纂した勅撰集だが、それに実の母の歌が一つだけ出てくる。

> 定家、少将になり侍りて、月明き夜、喜び申し侍りけるを見侍りて、明日につかはしける 権中納言定家母

> 三笠山道踏み初めし月影に今ぞ心の闇は晴れぬる

なんとも言いようのない、陳腐な歌だなあ。
それを載せる定家も定家だわ。息子が出世して喜ぶ母の歌。
なんだかなあ。
孝行息子だな。
どうしても載せたかったんだな。
でもそれ以上は、載せるに載せられなかったんだな。ものがものだけに。
『新古今集』には、母と父とがやりとりした歌が載っている。

> 女につかはしける    皇太后宮大夫俊成

> よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ

> 返し 藤原定家朝臣母

> たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ

うーん。まあ、普通かな。
『新古今集』定家が母の死に際して詠んだ歌

> 母身まかりにける秋、野分けしける日、もと住み侍りける所にまかりて 藤原定家朝臣

> たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふるやどの秋風

同じく俊成の歌

> 定家朝臣の母身まかりて後、秋の頃、墓所近き堂に泊まりて詠める 皇太后宮大夫俊成

> 稀にくる夜半もかなしき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ

うーむ。

定家母は美福門院に仕えて、女房名が加賀だったから、
美福門院加賀とも呼ばれるという。
待賢門院堀河とか上西門院兵衛とかそんな感じの呼び名だわな。
五条局とも呼ばれたというがなぜか。
ともかくも勅撰集には「定家母」という名で出てくるわけだ、たった二首、しかも、身内ネタばっか(笑)。

待賢門院は後白河天皇の母、上西門院は後白河天皇の実姉。
上西門院は待賢門院からその華やかなサロンを引き継いだ。
どちらも女流歌人がたくさんいる。
ところが待賢門院のライバルである美福門院には歌人は、皆無ではないが、
ほとんどまったく居ないと思っていたが、定家の母がいたので意外だったのだ。
しかし定家母は、やはり大した歌人ではなさそうだな。
勅撰集などに残っている歌が少なすぎる。

[マザコン定家](http://d.hatena.ne.jp/tmk141/20080530/p2)。
なるほど。

遺諡

『太平記』で

> 神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇

とあるのだが、現在では後醍醐天皇は96代。
なぜ95代と言っているかという、根拠だが、『神皇正統記』に拠るというのが一番無難な判断だろう。
『神皇正統記』には、仲哀天皇と応神天皇の間に神功皇后を含めるが、
弘文天皇と仲恭天皇を含まない。従って一人増えて二人減ってるので、
一人分減っているのである。
まあここまではよいとしよう。
次に「後醍醐天皇」という名前なのだが、wikipediaによれば

> 醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。

などと書かれている。遺詔によって自分の追号を指定するということはあり得るだろうが、
生前に遺諡で呼ばれるということはちと考えにくい。
つまり自ら「後醍醐天皇」と名乗り、周りの人もそう呼んでいた、という状況は、あり得ないと思う。
「後醍醐」が遺諡であるという根拠は、これも探してもなかなかないのだけど、やはり『神皇正統記』で

> 後の号をば、仰せのままにて後醍醐天皇と申す。

と記述されていることによるのだろうと思う。『太平記』には

> 御在位の間、風教、多くは延喜の聖代を追はれしかば、尤も其の寄せ有りとて、後醍醐天皇と諡し奉る。

とある。生前、延喜の御代を慕っていたということはあったかもしれんが、
遺詔で追号を決めたとまで断定はしかねる。
そもそも吉野の南朝でのことだから、これ以上の情報は出てきそうもない。
それとも、後醍醐天皇が京都で即位して吉野に移るまでの間、すでに自ら「後醍醐」
と名乗っていたという記録でもあるのだろうか。
『神皇正統記』の書き方ではそれもなさそうだが。
北朝では「元徳」と諡号しようとしたというが、「徳」は死後祟りを恐れる場合に付ける字であるという。
「順徳」「崇徳」などがまさにそうだ。
北朝が正式に後醍醐という追号を認めていたかどうかは定かではない。
しかし、元徳だと劉備元徳みたいではないか。

話は戻るが、やはり、村上義光が当時の今上天皇を「後醍醐天皇」と呼んだ可能性はゼロだろう。

なお、漢風の諡号は廃れて、院号がそのまま追号となった、などと wikipedia などには書かれているのだが、
院号を生前呼び名として使った例はあるのだろうか。
たとえば崇徳院を生前、その流された先の地名で讃岐院と言い、
後鳥羽天皇を隠岐院などといったことはあったかもしれん。
しかし、それはつまり配流された上皇の通称であって、
通常は一の院とか新院とか、法皇とか、そんなふうに呼ばれていたのではなかろうか。
たとえば冷泉天皇は冷泉院に住んでいたので、生前に冷泉院と呼ばれた可能性はなくもないかもしれないが、
自分から名乗ったり、他人が本人をそう呼んだり、勅撰集などに生きているうちにそう記したりしたことはないのではないか。

深川

深川や本所で河岸が多かったのは、高橋・万年橋辺りではなく、横大川や堅川の方だったようだ。
また深川七所というのは今の門前仲町の方らしい。

深川を開発した人が深川さんというので深川という地名になったらしいが、ほんとにそうなのか。
深川を開発したから深川という名字を名乗ったのではないのか。wikipedia には

> 3代将軍徳川家光の時代から富岡八幡宮の門前町として発達し

とあるが、この記述で良いのか。
問屋とか木場があって、江戸近郊だったから発達したんじゃないの。
もちろん富岡八幡付近もまた参詣客で賑わっただろうが。

wikipedia に文句があるなら wikipedia を編集すりゃいいだけだろ blog で文句言うなと言われそう。

軍用塩田に軍用運河。

深川のことをいろいろ調べていたら小名木川とか結構面白い。
江戸城から真東に20kmくらいのところに行徳塩浜がある。
家康は江戸入府直後、軍用運河として、小名木川と船堀川(新川)を開削する。
後に赤穂の塩など良質で安い塩が手に入るようになっても、
行徳の塩は幕末まで戦略的に保護され続けた。軍用塩田だ。
隅田川から中川までの小名木川は東西にまっすぐだ。
中川から江戸川までの船堀川は一部自然の河川を利用したらしく、やや曲がっている。

それはそうと江東水上バスというのが小名木川を通っていたのが、
江東区が整理民営化し、民間会社も1998に倒産してなくなってしまったという。
なんかもったいない気もする。一度乗ってみたかった。

小名木四郎兵衛が作ったから小名木川というのか。
逆だろう。小名木川の工事を任されたから小名木という名字をもらったのだろう。
古地図にはウナギサヤ堀などと書かれているというから、
もともとはウナギ川と言っていたかもしれんね。
『春色梅暦』にも、鰻屋が出てくるのだが、男女二人客で、
いきなり三枚焼かせてさらに一枚追加している。
当時としては鰻は高級料理ではなく、ずいぶん安かったのではなかろうか。
なんとなくだが、鰻がわらわら沸いているようなイメージだよな深川って。

小名木川に河岸があったのは、一番西側、隅田川よりの、
万年橋から高橋の間であり、北岸が芝翫河岸、南岸が小名木河岸。
芝翫というのは中村芝翫という歌舞伎役者が住んでいたかららしい。
中村芝翫は現在七代目が襲名。
当時は二代目だったらしい。
この万年橋から高橋の間がもっとも船宿が稠密だったのではあるまいか。
江戸時代の小名木川には、万年橋、高橋、新高橋の三つしか架かってなかったというから、
これらの橋の近くが繁華街にならざるを得なかったに違いない。
とりあえず、メモ。