春色梅暦

為永春水『春色梅暦』を読んでいると、お長という女が、娘浄瑠璃として奉公に出て、
やはり養子縁組という形で前借りで給金をもらい、抱主はお隈、お長はお隈を母(かか)さん、
などと呼んでいる。
やはりこういう芸者の奉公というのは養子という形を取るようである。
で、浄瑠璃などは武家屋敷などに呼ばれて太鼓持ちや落語家や芸者など一緒に、
茶会などの座興となるらしい。
で、お得意様の機嫌を損ねないよう「旦那」になれだの強要するのが抱主の義理の母だったりするようだ。

成島柳北『柳橋新誌』の記述とおおよそ一致する。

「治天の君」初出

どうも「治天の君」と言う言葉を最初に使ったのは吉川英治『私本太平記』らしいぞ。
これはやっかいだ。今の日本人はたいてい吉川英治に脳をやられているからな。
この呪縛はなかなか取れまいよ。
もし『私本太平記』が初出だとすれば1960年頃までさかのぼれるか。出てきた時代も非常に悪い。

「治天の君」という言葉が一人歩きして、昔からそんな用語があったかのようになってるのが気持ち悪い。
戦後民主主義の亡霊の一つだな。
早く供養して成仏させないと。
皇位継承は「治天の君」という便利な言葉一つで片付くようなものではない。
逆にこの言葉のせいで皆が思考停止してわかったような気分になっている。極めてまずい。

wikipedia の後嵯峨天皇の記述で、

> 吉川英治は『私本太平記』中で「天子の座は象徴で、治天の君たる上皇、法皇にこそ実権がある、というのは既に常識であった。この無理な処置は少しでも長く院政の権栄を享受したいがためであろう。」と考察している。

などと書いてあるのだが、意味がわからない。
後嵯峨上皇が最年長の上皇だから、誰を皇太子にするかは、後嵯峨上皇が決める。まあ普通だ。
少なくとも、後嵯峨上皇が院宣を出したという形で皇太子が決まる
(二条天皇と後白河上皇のように、天皇が上皇より発言力を持っていた例もある。上皇が天皇より偉いとは、一概には言えない)。
しかしそこから先、当時の今上天皇である後深草天皇の皇子(後の伏見天皇)ではなく、
今上天皇の弟(後の亀山天皇)を皇太子にたてたのが、
どうして「少しでも長く院政の権栄を享受したいがため」なのだろうか。ちんぷんかんぷんなのだが。
どちらが後の天皇になっても後嵯峨上皇の地位には(あまり)関係ないと思うが。

たとえばこう言いたいのだろうか。もし伏見天皇が即位するとその父である後深草上皇の発言力が強まり、
逆に亀山天皇が即位すれば、兄である後嵯峨上皇の発言力が維持されて、後深草上皇の権力を押さえられる、と。
はて。

そもそも後嵯峨上皇は「院政の権栄を享受」なんかしてなかったと思うが。
皇位継承は北条氏が決めていたに違いない。どうして何を享受できるのだろうか。院政って何?
また、

> 一方井沢元彦は『逆説の日本史』中で両統迭立のきっかけを作った後嵯峨上皇を「歴代天皇における最大の愚行」と非難している。

とも書かれているが、これも意味不明。
天皇の皇子ではなく兄弟が皇位を継いだ例ならいくらでもある。
鳥羽天皇の皇子で、崇徳・近衛・後白河とか、後鳥羽天皇の皇子で、土御門・順徳とか。
なぜ「歴代天皇における最大の愚行」とまで言い切れるのか。
崇徳・近衛・後白河の時は実際保元の乱が起きているが、こちらの方も似たような愚行といえないか。
また、土御門・順徳の時は、後鳥羽院が、土御門天皇が幕府に対して消極的だからと、
順徳天皇に位を譲るように迫ったわけだが、これも承久の乱の一因となっているとみれるわけで、
似たような愚行といえないだろうか。

加賀

木曽義仲を調べていてふと思ったのだが、越後、越中、加賀、越前。
なぜ越中と越前の間に加賀が挟まってるのかと。
ははあ、越前から能登と加賀が分離したのか。
越前は近国で赴任に便利だから、このように分割されたのかもしれんね。

吉野城軍事

『太平記』に

> 天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。

という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。
本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。

群馬

群馬出身の人と話をしていて思ったのだが、群馬には訛りがほとんど無いという。
訛りがないというのはつまり現代の標準語である江戸山の手言葉に近いということだろう。
なるほど、千葉、栃木、茨城には東北弁に近い訛りがあるが、神奈川多摩埼玉西部群馬は、
比較的訛りがない。
これは極めて面白い現象だ。

ずっと、江戸山の手言葉というのは、
三河弁か或いは駿河の辺りの言葉が徳川氏とともに江戸に入ってできたかと思っていたが、
たぶん違う。
思うに、群馬というのは、足利氏の本拠地だ。足利氏の支族というのは、
実にたくさんいる。
今日残る八幡太郎義家の子孫とはつまりは足利氏のことだ。
頼朝と違って足利氏は分家を(あまり)弾圧しなかった。
むしろ気前よく封建したから守護大名が地方に割拠する原因にもなった。
であればこそ、人口も多かったのである。
それで自然に足利氏の使う言葉が鎌倉や武蔵国にも定着したのではないか。
その土地を支配する階層というのは少数派であり、
人口を占める多数派、主に農民、がその土地の方言になるのに違いない。
だから、群馬の上州弁こそが、現代標準語の元祖と言えるのではなかろうか。
同時に、日本における足利氏の影響力の大きさをも示していると言える。

さらに想像をたくましくすれば、昔は江戸湊に注ぐ利根川が武蔵国と下総国の境であったから、
利根川を境にして、普段話している方言が、まるきり違っていたのかもしれないなあ。

『柳橋新誌』に芸妓の名前として列挙してあって、多いのは「阿長」などと「阿」が付く名前だが、
為永春水『春色梅暦』など見ると、「阿長さん」とかいて「おちょうさん」と呼んでいる。
つまり、「阿」は「あ」ではなく「お」と読むのであろう。

三種の神器 3

「三種の神器」の初出が『平家物語』ではないかという根拠は、簡易な手法ではあるが、
新潮国語辞典の用例を調べたのである。この辞典は用例に「もっとも頻繁なもの」ではなく「初出」つまり「もっとも古い例」を載せるのが方針である。教科書等に載っているような、無視できない典型例は「初出」と併記されるから、「初出」が漏れることはないのだ。

それで、『平家物語』の成立は、鎌倉幕府の成立からどう見ても半世紀は後だろう。1240年くらい。つまり、1221年に起きた「承久の乱よりも後」なのである。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

後鳥羽院の御時、つまり承久の乱の直前に、すでに原型が出来ていた可能性もあるのだが、承久の乱によって、宣旨も院旨もなしに、「三種の神器」の権威だけで、後堀川天皇は即位したのであり、それによって「三種の神器」という概念が初めて確立し、それが『平家物語』の中に、リアルタイムで盛り込まれたのではないか。偶然の一致とは思えぬ。

つまり、安徳天皇都落ちのときには、「三種の神器」というものが皇位継承の印として、重要視されてはいなかった可能性もあるということだ。もし「三種の神器」が承久の乱以前から皇位継承の証であったなら、公卿の日記などにも、前々から用例がなくてはなるまい。どうかな。

濹東綺譚

わりとひまだったので『濹東綺譚』を一気読みしてみた。
なんとも読後感の悪い話。
永井荷風のエリート意識が鼻につく。

> 何言ってやんでい、溝っ蚊女郎。

の辺りの溝臭い暑苦しい蚊のうるさそうな感じとか、

> 「ええ。それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引っ込まさず、そのまま差し出している。

などは面白いのだが、

> 紙入れには・・・三四百円の現金が入れてあった。巡査は驚いたらしく、俄にわたくしの事を資産家とよび、「こんな所は君みたような資産家が来るところじゃない。早く帰りたまえ・・・」

などといったあたりを読まされるとがっかりする。
お雪と別れる理由なども、どうもいらいらする。
と思う人はいないのだろうか。

そうか、226事件のあった年なのだな。

* 1月30日 下女政江失踪。「つれづれ余が帰朝以来馴染を重ねた女を列挙する」として 16人の名と概略を記す。
* 2月26日 2.26事件勃発。
* 4月10日 「日本人は自分の気に入らぬことがあれば、直に凶器を持って人を殺しおのれも死することを名誉となせるが如し」
* 5月16日「玉の井見物の記」
* 7月3日 浅草公園散歩。 
* 9月7日 夜墨田公園を歩く。『濹東綺譚』の主人公お雪に逢う。年は 24,5、上州なまり(茨城県下館の芸妓らしき)があり丸顔で器量よし。こんなところで稼がずともと思われる。女は小窓に寄りかかり客を呼び入れる。「窓の女」の家の内部略図。 
* 9月19日 向島から徒歩で玉の井にゆく。長火鉢囲みて身の上話を聞いて帰る。何回も玉の井に通う。この日墨東奇譚起稿す。 
* 10月1日 玉の井のいつもの家に行く。 
* 10月4日 玉の井の家に行く。 
* 10月7日 終日執筆、題名『濹東綺譚』となす。 
* 10月20日 玉の井のいつもの家に行く。 
* 10月25日『濹東綺譚』脱稿。

ふーん。わずか一ヶ月余りか。
下女が居なくなり、かつなじみを重ねた女を列挙、その後、というのがなんかそれっぽい。
下女も妾も持ちたくない、懲りた、というわけなのだろうけど。
作中お雪は栃木県宇都宮の出ということになっているから茨城の下館とはちと違う。

思うに、なぜこの『濹東綺譚』がもてはやされるかといえば、やはり226事件の世相と退廃的な雰囲気が好対照だからなのではなかろうか。
小説単体を取り出してみて、そんなに傑作だと言えようか。

作者贅言をのぞけば、およそ原稿用紙換算200枚くらいの長さだろうか。ふーむ。

三種の神器 2

「三種の神器」の初出はどうやら平家物語らしい。
「十善帝王、三種の神器」という言い回しが二度、後は「主上、並びに三種の神器」、等。

「十善帝王」というのは、
「天子に父母なし。吾十善の戒功によて、万乗の宝位をたもつ。」
とあってすなわち殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を犯さないことを「十善戒」
といって、この戒を守ればその功徳によって人間界の王になるという。
「三種の神器」という言い回しも、なんとなく仏教説話から由来しているような気になるな。