PCメンテナンス

某安物の23W液晶ディスプレイを買ったのだが、発色の悪さが泣ける。実用上、問題はないが。この安っぽさが泣ける。

2TBの内蔵ディスクを買ってきて、fedora か vine か ubuntu を入れようと思ったのだが、
vistaがリカバリーディスクであっさり直ってしまった(readtekやradeonのドライバは自分で入れねばならなかったが)ので、
vistaで使い続けることにする。
なんだかまあ、windows 95とか98とかMeくらいのころはまだ linux にも勝ち目はあった気がする。
あのころ、redhatとかなんとかがも少し商業利用でがんばっていたらどうにかなったかもしれんが、
今やデスクトップ環境ではどうしても windows のほうが楽。
まあ、macosx でも良いが。かなり差がついてしまった。
結局ソフトとかハードとかを取り込んでしまったほうがOSは勝ちなんだよなあ。
anthy もがんばってるが atok にはどうしても勝てないしな。

OSとオフィスソフトはもう無理せず Microsoft でいいやって感じですよ。
じたばたして時間ばかりかかってしょうがない。
数万円をけちっても仕方ない。
OSとか、Office 2010とか、Adobe CSなんちゃらとかに金をけちっても仕方ない。
昔は無償ソフトと商業ソフトの差は割と小さかったのだがなあ。
しかしまあ最近はいよいよ html5 + jquery くらいしかいじらなくなったので、
そっちのほうはまるで金はかからんよ。
やはり楽なほうに流れるよね。

で、2TBのHDDをさらに2つ買ってきて、合計6TBのマシンとして使ってみる。
最近は SATAも SATA II と SATA III があるらしく、
SATA III は結構高いのだが、逆に SATA II は安い。
2TBでも1万円切る。そこでついついほいほいと買ってしまう。
外付けで分散してたやつとかあちこちのバックアップとか全部内蔵に入ってしまういきおい。
外付けはバックアップとして残すとして、普段は内蔵だけでいける感じ。

思うに、mac mini に相当する windowsマシンが見当たらないのはなぜか。
つまり、notePCからディスプレイとキーボードを抜いたようなものがほしいのだ。
たとえばdellのnotePCに、ディスプレイとキーボードをさしてデスクトップとして使おうとする。
しかし、ふたを閉じたままでは電源が入らぬようになっていて、結局は、
デスクトップの隣でnotePCを開いて使わねばならない。
自分としては、スペック的価格的には mac mini 程度で良いのだけど、
ちょうどそういうものが、なぜ出てこないか。
windows機でありがちなのは、どこかの弱小(?)メーカーが、超小型マザボかなんかで組んだものしかないが、
それですら mac mini に比べれば筐体全体としてはでかすぎる。
notePC用のマザボというのも、おそらくあるのだろうが、たぶん薄くて広すぎるのだろう。
結局、マザボを一から開発すると原価率が高くなりすぎて、あるいは数がはけずに儲からないので、
どこのメーカーも作らないのではないか。
Apple はコンセプトとして mac mini を作ったが、やはり原価率は高くて、あまり儲かってないのではないか。
儲かるのはやはり普通のデスクトップかnotePC。
あるいは、Apple は mac mini と note (or iPad?)用に共通のマザボを開発して、
コストを抑えているのかもしれん。

なんかいよいよメタボが進行している気がする。
腕や足、そしておそらく心臓などの筋肉が落ちている。
目も歯も弱ってきているし、なんか自分の体から「もうそろそろ死んでも良いですよ」というメッセージを送られている気になる。
体重はそれほど減ってないが、筋肉落ちてるから内臓脂肪は増えてる気がするんだよなあ。
心臓の周りとかにものすごく脂肪がついてるきがしてならない。
血縁者で早死にした人はいない、癌で死んだ人も幸いいない、みんな循環器系で死んでいる。
たぶん私も心筋梗塞か脳梗塞で死ぬのだろうなと思う。
心臓とか血管を鍛えないと。

google chrome の「規定のエンコード」は shift-jisのままにしといた方が良いな。
utf-8などにしてしまうと、shift-jis が化けてしまう。

思うに、私が十分にお金持ちだったら、自分で車を運転せず、タクシーに乗ると思う。
お抱え運転手とかもやだ。自分の所有する車、自分の雇った運転手が事故を起こせば、自分にも責任が発生するかもしれん。
タクシーならたまたま金を払って乗った客というに過ぎない。
車を運転することのリスクが大きすぎると思うよ。
二十一世紀にもなって、個人のリスクでみなが車を運転しているのが不思議でならないな。

洗濯機や炊飯器ができて調理が自動化されたが、車の運転はいまだに自動化されない。
それはただ技術的難易度の違いに過ぎない。
車を個人が所有して個人が運転するなんて、なんて野蛮なことだろうか。
自動運転ができるようになったら、地方自治体が車を所有して、
適当に呼び出すなりして乗り捨てにできるような社会になってほしいわ。

東京女子高等師範学校

相変わらず、関東大震災のことを調べているのだが、
東京女子高等師範学校とは今のお茶の水女子大学のことだが、
1923年に震災でほとんど焼失しているはずなのだが、
大塚への移転は1932年となっている。
その間、女高師はいったいどういう状況だったのだろうか。
移転先、つまり現地は、もともと震災当時は東京陸軍兵器支廠というものだった。
これが女高師と陸軍憲兵大塚分遣隊という二つの敷地に分かれたのであると言う。

netでもいろいろ調べてみるがよくわからん。
[お茶の水女子大学生活科学部本館](http://maskweb.jp/b_ocha_1_1.html)によれば、

> 1923年(大正12年)の関東大震災により校舎が焼失したため、 1928年(昭和3年)に現在地への移転を決定し、1936年(昭和11年)に移転を完了しました。

などと書かれているから、お茶の水から大塚へ移転するのが決まったのが 1928年、移転は徐々に進んで 1936年に完了したことになる。
その間、たとえば1923年から1928年までの5年間はいったいどういう状態だったのだろうか。
1932年とは、移転が始まった年、ということか。
不思議すぎる。

evernote

いろいろ人にも勧められて使わずにいたevernoteを試してみる。
うーんと。
ドラッグアンドドロップで使える単なるネットワークドライブとして使いたいだけなのだが、
そのためには金を払わねばならないらしい。
そこまでやる気は起きないなあ。
今は小さなファイルならgmail添付自分向け送信ってのが一番ありがちで、
も一つはファイルサーバにwinscpで送るかだな。

おなくなり

結局我が家のvistaマシンは、クリーンインストール直後に harddisk failure でお亡くなりになった。
なんだー。HDDのせいだったのか。
死ぬ前にバックアップ取れただけ良しとせねばなあ。
HDD取り替えて余生は fedoraかなかんかで。
しかし、OpenOffice から LibreOffice に乗り換えようかと思って使ってみたけど、
Microsoft Office 2010の使いやすさには遙かに及ばない。
ルビとか原稿用紙レイアウトとかにもできないしなあ。
マイクロソフト製品を使い続けざるを得ないな。

explorerの病気

vistaたんが遅くて仕方ないので defrag とか chkdsk などやってみると、
動きは速くなったものの、explorerが10秒おきくらいに停止と再起動繰り返す病気になった。
システム復元してもだめ。
こういう現象はぐぐるとざらにあるようだが、
原因が良くわからん。
しょうがないので工場出荷状態に戻すことにしようと、
バックアップをとろうとしたんだが、
何しろ explorer が頻繁に再起動するので困る。
sata を他のマシンにつないで、というのをややこしいので、
結局 xcopy を使うことにする。
これもまあなんか共有違反がどうとかいろいろうるさいのだが、なんとかなりそうな気がしてきた。ともかく膨大な時間がかかる。

サドンデスソース

立ち飲み屋でおでんを食べたときにタバスコみたいのをかけたらやたら辛かったので、
調べてみたら「サドンデスソース」というものだった。
普通のタバスコの20~40倍くらい辛いと思われる。
体感的には100倍くらい辛かった。
こういうものを食べると翌朝おしりが痛くなると脅されたのだが、
少しひりひりするかなという程度でどうということはなかった。

封建

広辞苑など読むと、日本の封建時代というのは、鎌倉時代から、明治維新までと書いてある。
しかし頼朝や北条氏は別に自分で土地を持っていたわけでもないし、
家臣に土地を俸禄として与えたわけでもないから、封建というにはかなり不完全な感じがする。
室町時代の応仁の乱までの守護大名はかなりきれいな形の封建領主であるが、
その後の戦国大名は自分で勝手に領国を支配したのだから、封建領主とは言い難い。
室町時代に典型的な封建制が成立したのは、まあ簡単な理由であって、
南北朝や室町時代初期には戦乱が続いて、
足利氏が細川氏や山名氏や赤松氏などに気前よく領国を分け与えたから、
地方分権が進んだ。同時に、彼ら家臣は一応京都に幕閣として住んでいて、
後の戦国大名のように領国に住み着いて京都と関係なしに領国を支配したわけでもなかった。
守護大名は足利将軍が任命する形をとっていたのである。

徳川幕府の旗本も千石以上のお殿様は自分の領地を持っていて、そこからの年貢を俸給としていたから、
これはまあ封建と言えるが、米を俸給としてもらっていた普通の旗本はサラリーマンと変わりがないから、
封建とは言えない。
外様大名は徳川の家臣とは言い難いから封建とは言えない。
江戸時代は一種の封建社会には違いないが、ほんとうの封建社会からはかなりはずれている。
明治の日本や戦前の昭和の日本などを「封建的」などというのはかなり違和感がある。
封建というのは、王とか将軍とか国全体の支配者が居て、しかし王や将軍は直接地方を支配するのではなく、
地方領主は配分された土地を俸給とする。
これに対して、王が自分で官僚を地方に派遣して税金を取り立てて、家臣をサラリーで雇うのは封建ではない。
そういう意味では清朝を「封建的」というのにもかなり違和感を覚える。
たとえば清朝が腐敗していたとすればそれは、
東洋的血縁社会と硬直した官僚組織とが相互作用した腐敗であって、
ある意味それは現代の中国でも同じであって、
封建的な腐敗というのはどうなのか。意味がわからない。

思うに、封建時代というテクニカルタームができたのは明治以降であろう。
日本の文化や政治システムが確立したのが室町時代だとして、
その頃の文化や政治をおおよそ「封建的」と呼ぶのはかなり正確な用例だと思う。
江戸時代を「封建的」というのはかなり注意を要すると思う。
江戸時代の前半はかなり「戦国的」だし後半は「商業経済的・近世的」だからだ。

そこで、「いやいや、義満などは日本国王を名乗って、専制独裁だから封建的ではない」
などと言い出すやつが出てくるので厄介だな。
確かに義満は封建領主を束ねる王ではあった。
家臣の方が領土も広く、実力もあったからだ。
神聖ローマ帝国皇帝に近いと言える。

聖橋

[震災復興再開発事業#関東大震災](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%87%E7%81%BD%E5%BE%A9%E8%88%88%E5%86%8D%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%A5%AD#.E9.96.A2.E6.9D.B1.E5.A4.A7.E9.9C.87.E7.81.BD)
などにも書かれているが、震災後、内堀通り、靖国通り、昭和通りなどが幹線道路として整備された。
このうち内堀通りというのは、本郷から聖橋、神田橋を経て丸の内に至る道で、
聖橋はこのときに初めて架けられたのだ。
遷都しないと決めたのは後藤新平、復興予算を30億円と決めたのも後藤。
しかし予算は5億円程度に削られてしまった。
思うに遷都した方が良かったのではなかろうか。
日比谷公園・上野公園・靖国神社参道などはバラックの難民キャンプで埋まっていたらしい。

当時の写真などもいろいろ見てみる。駿河台にはニコライ堂がそびえ立っており、
はるかお茶の水から遠望できた。

横浜中華街は、震災前は二階建ての洋館や蔵造りの商館がみっちり立ち並んでいたのが、
震災後は平屋木造バラック小屋みたいなのばかりになっている。
また当時は中華街とは言わず、南京通りと言っていたようだ。

八股文

滝野邦雄氏の[明代初期の八股文について](http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008638605)
などを読むに、初めて「八股」という言葉に言及したのは明末清初の学者・[顧炎武](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6)であろうか。

> 経義の文、流俗、之を八股と謂う。蓋し、成化(1465-1487。第9代憲宗成化帝)以後に始まる。股とは、対偶のことなり。
天順(1457-1464。第8代英宗天順帝)以前は、経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対句にし、或いは散文にし、初めは定型なし。
その単句題も甚だ少なし。

とある。「八股」という語が俗語(おそらくは受験用語)として始まったと言っている。
明朝は 1368年から1644年まで。
1465年というのは、建国から100年経ったくらいだからまあ中期くらいと言えるか。
初期は、四書五経などの一部が出題されて、その意味について敷衍するだけであり、
対句を使ったり散文を使ったりして、その形式には定型がなかった。
出題も、長い文章の中から一句だけ取り出したりとか、わざと一部を切り出したようなもの、
つまり暗記力を必要とするようなものはごく少なかった。
などと述べている。

八股文の題については、やはり滝野氏の[清代八股文の題目について](http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0001109912)
に詳しい。
長いセンテンスをそのまま出題することもあれば、
一部のフレーズだけを切り出して出されることもある。
要するに、八股文の題というのは、四書五経の一部をただ切り出しただけのものであり、
その語句がどういう意味を持つかを敷衍する(自分の意見を述べるというよりは、元の文章の箇所の意味を説明する)
というだけだった。

そもそも八股文と言っても、昔の漢文には句読点も改行もないから、ただずらずらと漢字を並べた文章だったわけで、
それを解析すると、八股という、対句部分と、始めや終わり、途中の散文の部分に分けられるということであり、
後にはその各パーツに「破題」「承題」「起講」などの名前が出来、
さらにたとえば「起講」の冒頭にはなんという文字を書くとよろしい、とか、そういう定型ができてきたのだろう。
明代初期の文章は後世になってから、改竄というか、勝手に手が加えられて、
さかのぼって八股文の形式に直されたものが多いらしい。
四つの対句で八股だが、初期には二つの対句(前股、後股)しかないものも良くあったようだ。

『儒林外史』にはもちろん八股という言葉が出てくるのだが、これは清朝の康熙・雍正帝の頃で、顧炎武よりはずっと後の話。
宮崎市定の『科挙』は非常に詳しく、いろんなことが書いてあるが、どうしても八股文という言葉は出てこない。
もちろん彼は『儒林外史』を読んでいて「八股」という語も目にしているはずなのだが、
おそらく、彼が主に典拠とした書物には、ことさらに「八股」という語が使われていなかったということではなかろうか。
で、宮崎市定『科挙』によれば、たとえば北京で行われる会試の一回目の試験は三日がかりだが、
一日目は入場するだけ。翌日は朝から始まり、三日目夕方まで解答してよい。
三つの四書題と一つの詩題が出る、などと書いてある。
通常は一日で書き終えて次の日は答案を出して帰るだけだが、夕方まで粘っても良いということらしい。
というよりは、一度に退場はできないから、三日目は退場にかかる時間込みということになる。
『明代初期の八股文について』に出てくる答案例を見るに、そんなに長文というわけではない。
どれもこれも、せいぜい200字程度に思える。
後に多少長くなったとしても、400字程度ではなかろうか。
それを一日に三つと、後は韻を指定された詩を一つ作れば良い。
時間配分で言えば一題に三時間もかければ十分だろうと思う。

宮崎市定が言うには、清朝の初期は、征服王朝であったから、漢民族から官僚を登用するのに、
科挙が役に立ったが、次第に役人がインフレーションになり、
学力も向上し技巧も発達してきたので、
試験で選抜するのがだんだんに困難になり、
問題も複雑高度になって行った。
また、試験のみによる登用というのは、教育にかかる費用をすべて民間にゆだねるということだから、
結局は金持ちしか試験には合格しなくなる。
明治の日本では国の所得税の十倍くらいの村税が課され、
その村税のほとんどは小学校の維持に使われた。
このように真に才能のある人材を発掘するには、貧乏人でも教育を受けられるようにせねばならない、
などと言っている。
それもまあそうかもしれない。