暴力装置2

[続き](/?p=7066)。

[「暴力装置」の起源と系譜](http://d.hatena.ne.jp/catisgood/20101121/1290326392)。
なるほど。つまり、マックス・ウェーバーはマルキストではないが、レーニンやトロツキーに言及することで、
「暴力」という言葉を使ったのだから、
もとはといえば、共産主義用語なんだな、きっと。
いや、つまり、当時の状況として、共産主義思想にかぶれた学生たちに向けた演説なわけだから、
彼らにわかりやすいように、左翼用語に言及して、それとはまったく違う意味合いで、
「暴力」を再定義して見せているんだよね。

小室直樹も言及しているってところが面白いね。
小室直樹は、完全に、ウェーバーが「暴力」と言った意味で「暴力装置」という言葉を使っていて、
たまたま、左翼の用語(「訳語(?)」)を(意図して?あるいはわざと?)借りただけだと思うのだが。
というより、なぜ小室直樹が「暴力装置」という左翼用語に言及し、それをわざわざウェーバー風に解釈しなおしたのか。
それがわからん。他人の著書の解説だったからではないのか。

ウェーバーがトロツキーの用語に言及したからといってウェーバーがマルキストなわけでないように、
小室直樹が左翼用語に言及したからといって、左翼思想に「影響」を受けたわけではなかろう。

はっきり覚えてはいないが、小室直樹が海賊ドレイクを例えに、近代以前には国家が暴力を独占していたわけではない、
ということを他の著書でも言っていたと思う。
たぶんカッパブックスのどれか。

川越城

昔から、なぜ川越のような、開けたところに、太田道灌が城をわざわざ築いたのか、
北条市と上杉氏の間で熾烈な攻城戦が行われたか、不思議だった。
そのような争奪戦の地となるにはここが何らかの要衝の地でなくてはなるまい。

今はただ、新河岸川という細流が川越市街を取り巻き、さらにそのずっと外側を入間川が流れているにすぎない。

いろいろ考えてみるに、これはかなり難しくも面白い問題だ。
まず、かつて、利根川は武蔵国と下総国の国境になっていたということ。
両国橋が武蔵国と下総国の国境に架けられたことでもわかるように、かつて、利根川の河口は隅田川にあった。
渡良瀬川はそのさらに東の、今の江戸川沿いにあった。

利根川は、隅田川河口から北東の方角へ、今の水元公園の西側をかすめるようにして、綾瀬川或いは中川沿いに北上する。
どんどん北上して今の栗橋、つまり渡瀬遊水池の南側で、現在の利根川の水路に達する。
これがかつての国境で、利根川の水路だったわけだ。
で、今も渡瀬遊水池は埼玉、栃木、群馬、茨城、千葉の県境になっているのだが、
ここをかつて利根川が通っていたのはまあ間違いなく、
おそらくは広大な低湿地帯だったと思われる。

それから問題は荒川と利根川の関係なのだが、
今の越谷・行田・羽生市辺りから、利根川の水が、荒川へも流れ込んでいたのを、
次第しだいに川道をせき止めて分流するようにした。
それ以前は荒川と利根川の川筋はこの辺でぐちゃぐちゃに合流し、分流していた。
その勢いで荒川が南流して川越辺りで入間川に合流する。
川越は、南側だけが比較的乾燥した武蔵野の台地であり、西北東側は、広大な湿地帯だったに違いない。
つまり、川越というのは、荒川氾濫原へ北側に突出した半島のようなところに作られた出城だったのだ。
少なくとも、太田道灌が築城(1457)し、北条氏綱が上杉連合軍を川越で破った(1546)時代はそんな地形だった。

もっとマクロに見るならば、武蔵野台地という乾燥した地帯と、利根川水系の低湿地帯との境界に、川越は位置していて、
川越は武蔵野の北端にあたる。
川越から南に狭山、入間、所沢、小平、国分寺、府中で多摩川に至るまでが、典型的な武蔵野である。
また、今の川越街道よりも南、つまり、練馬、杉並、世田谷なども武蔵野のうちに入る。
川越街道が、武蔵野と利根水系の境界になっているわけだ。

太田道灌がほぼ同時期に川越と江戸に城を築いた。
川越街道途中の赤塚にも築いた。つまり、川越街道というのは扇谷上杉氏が、山内上杉氏に対して作った防衛戦だった。
山内上杉氏は古河公方とともに下総国古河城に居て、扇谷上杉氏は鎌倉に居た。
古河城というのは前述の、武蔵・下総・上野・下野・常陸五国の国境になっていた、渡瀬遊水池付近であって、
おそらくは水郷の中に作られた梁山泊のような城だったのだろう。

渡瀬遊水池は、今の足尾銅山の鉱毒のために、あのように無駄に広いのではあるまい。
治水のために、つまり利根川があふれたときのバッファとして作られているのだ。
ということは中世にはそうとう広大な荒れ地であったろう。

江戸城と赤塚城も、川越城と同様に、荒川氾濫原に台地が突出したところにあるわけだ。
このように、太田道灌の築城には、共通性が見られる。

大いなる助走

久しぶりに読み直してみたのだが

> あなたも小説を一度書いて見られたらおわかりになろうかと思いますが、
小説を書いている間というものは小説の世界へのめりこんでしまって現実がどうなろうと知ったことじゃなくなるんです。
小説をよくする為には利用可能な現実の出来事をすべてぶちこんでしまって、
それが日常生活に及ぼす結果や我が身にはねかえってくる報いなど、
たとえ馘首になろうがどうなろうがどうでもよくなってしまうんです。

いやー。無理無理(笑)。絶対無理だからそれ。書けないものは書けないよ。
同人誌書いてる学生じゃあるまいし。
ビデオ公開しちゃった海上保安官じゃあるまいし。

はっ。まんまと釣られた。

しかし、今でも、20代の、しかも女性作家に、私小説というか暴露小説まがいのものを書かせて、
それを持ち上げる傾向はあるよねえ。いかがなものかと思うが。
つまり、それ以外に話題性というか、インパクトのある小説が無いのがいけないんでしょうけど。

小谷野敦『私小説のすすめ』も、

> 多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説

などと言っているということは、
作家は一生に一度しか書けないような私小説を(まだろくに人生経験もない若い頃に)書いてデビューして良い、
と言っているわけだから、『大いなる助走』に出てくる主人公の市谷みたいな暴露小説を書いてよいと、
そそのかしているようなものだ。
うーん。
どうなのかねそれは。

暴力装置

国家というものが、「暴力」を独占する唯一の存在だと言ったのはたぶんマックス・ウェーバーで、
『職業としての政治』だと思う。

と思ったら、それをすでに記事に書いている人がいた。
ウェーバーは、
「近代主権国家を合法的な暴力行使を独占する組織と位置付けた」
のである。
どういう場で言ったかはわからないが、文脈的には失言だったのかもしれない。
しかし、ここまで話がでかくなったら仕方ない。
堂々と、反論すれば良いのに。

いちいち、補足する必要もないと思うが、マックス・ウェーバーと共産主義、もしくは共産党とは何の関係もない。
というか、『職業としての政治』のもとになった演説は、第一次世界大戦でドイツが敗北して、
共産主義にかぶれた学生たちに向けて警句として放たれたものだ。
ウェーバーはばりばりの反マルキスト、右翼、帝国主義者、国粋主義者、大ドイツ主義者だった。
ビスマルクの信奉者だったと思う。たぶん。
共産党の議員たちは、純粋に、政治学を専攻した人間として、擁護してくれたのだと思う。
でも多くの代議士には、そのくらいの常識もない。
そういう意味では、一番まともな政治家は共産党員なのかもしれん。

ていうか、国会議員やジャーナリストは『職業としての政治』くらい読まんのか。
岩波文庫で、簡単に手に入るのだぞ。

暴力を飼い慣らすために国家というものができて、国家よりも上位の政治システムはまだ出来てないのだから、
国家が暴力を行使する権利を独占するのは当たり前であり、
そのために、文民統制というシステムがある。
その最高司令官が内閣総理大臣だ。
良くできたシステムだ。
それを、否定したいのか、なんなのだろうか。
たとえば頼朝は暴力を独占した。幕府というものだ。なんの正統性もない。しかしうまく機能したのは、
頼朝が、政治の本質を把握してたからだろう。違うかな。

まあしかし、菅直人が、自衛隊の最高司令官だという自覚がなかったのには、苦笑した。

与党

菅内閣の支持率が、自民党並に落ちてきたことで、やっと民主党も与党になれたなと、
私は思うよ。
マスコミにぼろくそにけなされてこその与党ですよ。
あなたは今、ほんとうの首相ですよ。
民主党初のほんとうの首相ですよ。
菅さん、まあもうしばらくがんばってください。

今批判されていることはほとんど感情論であって、政治の本質ではない。
太陽の牙ダグラムで、歴史は理性ではなく感情で動くものだ、と言った。それは良い。
しかし、それは逆説だ。本来、歴史や政治は、打算尽くの、理性で動くものだ。そうだろう。
感情を理性でコントロールできなければ獣と同じだ。

ジャンル

現代の小説は極めて細分化されている。
それぞれの分野にそれぞれのファンが居て、それを専門とする作家がいる。
さらにそこからファンが二次創作を作っていく。
そうするとさらに細分化が進む。
こういう現状だ。

しかし、そんな小説は書きたくもない。
たとえば前半部分は政治小説だが後半から恋愛小説になるとか、
現代小説の中に歴史小説がいくつも埋め込まれているとか、
とにかくジャンルをかるがると超えてわたりあるくようなそんな小説が書きたいわな。
人にも書けるような小説を自分がわざわざ書く必然性があろうか。

たぶん自分の中にそういう「ジャンル」というものに対する嫌悪感、
否定したい衝動があるのだな。
これはどうしようもない。

会話

小説の中で、キャラが台詞を言う場面があり、いちいち誰が何を言ったかは書かないことが多い。
順番に読んでいれば自明なことが多いからだ。
それはそれで良い。

問題はいきなり台詞があって、
しかも複数人の会話である場合だ。漫画や映画なら人物が描かれるから区別が付くが、
小説ではわからない。

> Aは言った、「うんぬん」と。Bは答えた、「うんぬん」。

まあ、こう書いていれば分かる。しかし退屈だ。

> 「何々だねえ。」「ああ何々だなあ。」「まったくだねえ」。AとBは言った。AとはこれこれでBとはこれこれな奴なのだが、

のように登場人物の説明をいきなり会話から始めることもある。
まあ、たぶんこれもよく使われるのだろうと思うが、確証はない。
これが延々と続くようだと困りものだが、
だいたい人間は、先読みというものをするから、誰の発言かはわからずにしばらく読んでみて、
それで後から補完・修正しながら読んでいくのではなかろうか。

ときどき、わざと違う人たちの会話と切り替えることがある。
そうすると、前の人たちの会話だと、間違えてしまうのだが、
しばらく読むとわかる仕組みだ。
たとえば大人の会話を子供の会話と切り替えてみると、何か違和感がある。
大人と子供の会話の違いをわざと感じて欲しいからだ。
これをフェイントと見るか、単なる悪文と見るのか。

それがために読みにくくて仕方ないと言われることがある。
人に読ませてみて初めて気づいたのだが。

いろいろ思うこと。

最近いろいろと改めて考えさせられることが多いのだけど、たとえば、私はかつて、菊池寛の「俊寛」という、比較的短い小説を、いきなり青空文庫で読んだわけだが、当時菊池寛がこの小説を書いたときには、平家物語に出てくるこの俊寛という人物はかなり有名だったと思う。当時の平家物語というのは、今のスターウォーズやガンダムくらいの認知度があったに違いない。それで平家物語をガンダムに例えるならば、俊寛は、かなりマイナーではあるが、カイ・シデンくらいのサブキャラだと言えるか。それで、俊寛というのは、ガンダムを熟知したファンがうようよ居る時代に、カイ・シデンを主人公として書かれた、二次創作的な小説である、と言えば、だいたい当たっていると思う。

ところが、私の場合は平家物語に関する予備知識、というよりは俊寛や鹿ヶ谷事件などの知識がまるでない状態で、俊寛を読み始めた。だから、たぶん、菊池寛の意図とはかなり外れていたに違いない。それで、無人島に三人の男が流されてきて、その中の一人が俊寛という坊さん。いや、タイトルが「俊寛」なのだから、この俊寛という人が主人公に決まっているのだが、とにかく最初は、三人の人が流されてそのうち二人だけ赦免されて、俊寛だけが島に残される。そういう出だしで物語が始まるので、特別この俊寛という人に感情移入がしにくい。

だが、俊寛がロビンソン・クルーソーのような生活を初めて、村娘と親しくなって、村人に最初は反対されるが結局は結婚して幸せに暮らすなどという展開が、後半になって始まって、この辺までくるとすべて菊池寛の創作なのであるが、だんだんと俊寛を、この物語の主人公として受け入れることができ、感情移入も可能になってくるのだ。

それでまあこの菊池寛の小説を読んで初めて平家物語に興味が出て精読してみようかという気持ちになる。そうすると菊池寛がなぜこの小説を書きたかったのかがわかってくる。菊池寛の意図とはかなり違っていたかもしれんが、私はたまたまそういう読み方をした。

この小説は、途中まではかなり歴史、というよりは平家物語、というよりもそれから派生した俊寛の伝説、に忠実に進む。しかし途中から完全な創作に切り替わる。前半は歴史小説のようでもあり、後半は時代小説のようでもある。

いろんな人と議論してみるに、一番最初に出てきた人が主人公であって、その人についてのいろんな前振りがあって、主人公に感情移入ができるから、小説を読み進めることができるのだ、と言う。それ以外の小説は群像劇なのだという。主人公が誰だかわからずに話が進むとか、最後まで読んで初めて誰が主人公かわかるとか、最後まで読んで初めて作者の意図がわかるとか。そんな小説は読めぬと。確かにそうかもしれん。

「主人公が誰だかわからずに話が進む」「最後まで読んで初めて誰が主人公かわかる」という例を確かに私は示すことが困難だ。しかし、Half-Life: 2などの洋ゲーの設定にはときどき見られる。2004年に出たこのゲームは、ただひたすら格闘し殺戮するというFPSの世界にストーリーを持ち込んだ。FPSなので操作している主観視点のプレイヤーが主人公なのは明らかなのだが、自分がどういう人間で、ここがどこで、時代がいつでなどという説明は何もない。ただ G-Man とか Breen 博士などが謎の台詞を言うだけ。Alyx は準主役のキャラだが、彼女が登場しても、しばらくはこのキャラが何を意味するのかわからない。Half-Life: 2を終わりまでプレイしても、多くの謎は残ったままで、続編をプレイしてみないとわからないことが多い(※追記。Half-Life:2 は Half-Life の続編であり、Half-Life のスピンオフである Blue Shift や Opposing Force などもあらかじめプレイしたことがある人であるかもしれない。であれば出だしで自分が Gordon Freeman であって、Half-Life のエンディングで冬眠状態にされて、そこから目覚めて再び世界に送り込まれたんだということがわかるかもしれない。私の場合、よく覚えていないが、Quake や Counter-Strike などは多少やったものの Half-Life は知らないか、さほどやってない状態だったと思う)。

それで、このような設定は、ゲームをマニュアルや操作説明専用の練習マップなしで、いきなり始めるために、工夫されたのであるのは間違いなのだが、おそらくは、私は読んだことは無いが洋書には、このような前衛的な小説があるのに違いない。最初、状況説明もなしにストーリーが始まり、読んでいくうちに次第にいろんな設定が明らかにされていくが、多くの設定は語られぬままに本編終了。次回作を読まないうちは、ストーリーの多くは未完結のままに放置される。

実際、現実世界で、我々は、誰か初対面の人にあったとき、その人のことをすべては知らない。徐々に知っていく。旅行をして、歩き回っていくうちにその土地を知っていく。最初に主人公が出てきてある程度の状況説明がされるというのは、まあ物語の典型なのだが、そうでない小説もあってよいはずだ。というか、そういうタイプの小説の方が、圧倒的に新しいし、私には魅力的に感じる。

たとえば、比較対象としてわかりやすいように、サルゲッチュというゲームを例にあげると、このゲームは子供向けに作られた、よくねられたゲームであって、誰が主人公であり、何をしなくてはならないかということが、マニュアルにも、第一面のマップでも、丁寧に説明されている。そして、レベルが進むにつれて自然と操作方法にも慣れて複雑になっていく。こういうふうにゲームをデザインすれば、誰もが、ああ、これはゲームであると、素直に納得できるだろう。しかし、自分がゲームをデザインするとしたら、こういう万人向けのゲームは作らない。作るはずがない。なぜかというに、これは、商業用に練られたデザインであって、自分が作るよりもそういう人たちが作ればよいのであって、自分で作る必然性がほとんどゼロだからだ。

葡萄野生種

葡萄の野生種には、
中央アジア原産の[Vitis vinifera sylvestris](http://en.wikipedia.org/wiki/Vitis_vinifera)、
アメリカ原産の[Vitis california](http://en.wikipedia.org/wiki/Vitis_californica)と
[Vitis girdiana](http://en.wikipedia.org/wiki/Vitis_girdiana)があるらしい。

Vitis vinifera は sylvestris から作られた栽培種。雌雄同体株。
sylvestris は雄株と雌株が別なので、昆虫や風によって受粉する。ふーん。

日本古来の葡萄「エビヅル」も雄株と雌株が別々なのだそうだ。
そういえばヘチマなども雄花と雌花が別だったような。しかし同じ株からどちらも咲くよな。
野生種が栽培種になることで、雌雄異体が雌雄同体になったりするんだろうか。不思議な話だわな。