いろいろ思うこと。

最近いろいろと改めて考えさせられることが多いのだけど、
たとえば、私はかつて、菊池寛の「俊寛」という、比較的短い小説を、いきなり青空文庫で読んだわけだが、
当時菊池寛がこの小説を書いたときには、平家物語に出てくるこの俊寛という人物はかなり有名だったと思う。
当時の平家物語というのは、今のスターウォーズやガンダムくらいの認知度があったに違いない。
それで平家物語をガンダムに例えるならば、俊寛は、かなりマイナーではあるが、
カイ・シデンくらいのサブキャラだと言えるか。
まあそれで、俊寛というのは、ガンダムを熟知したファンがうようよ居る時代に、
カイ・シデンを主人公として書かれた、二次創作的な小説である、と言えば、だいたい当たっていると思う。

ところが、私の場合は平家物語に関する予備知識、というよりは俊寛や鹿ヶ谷事件などの知識がまるでない状態で、
俊寛を読み始めた。
だから、たぶん、菊池寛の意図とはかなり外れていたに違いない。
それで、無人島に三人の男が流されてきて、その中の一人が俊寛という坊さん。
いや、タイトルが「俊寛」なのだから、この俊寛という人が主人公に決まっているのだが、
とにかく最初は、三人の人が流されてそのうち二人だけ赦免されて、俊寛だけが島に残される。
そういう出だしで物語が始まるので、特別この俊寛という人に感情移入がしにくい。

だが、俊寛がロビンソン・クルーソーのような生活を初めて、村娘と親しくなって、
村人に最初は反対されるが結局は結婚して幸せに暮らすなどという展開が、後半になって始まって、
この辺までくるとすべて菊池寛の創作なのであるが、だんだんと俊寛を、
この物語の主人公として受け入れることができ、感情移入も可能になってくるのだ。

それでまあこの菊池寛の小説を読んで初めて平家物語に興味が出て精読してみようかという気持ちになる。
そうすると菊池寛がなぜこの小説を書きたかったのかがわかってくる。
菊池寛の意図とはかなり違っていたかもしれんが、私はたまたまそういう読み方をした。

この小説は、途中まではかなり歴史、というよりは平家物語、というよりもそれから派生した俊寛の伝説、
に忠実に進む。しかし途中から完全な創作に切り替わる。
前半は歴史小説のようでもあり、後半は時代小説のようでもある。

いろんな人と議論してみるに、一番最初に出てきた人が主人公であって、その人についてのいろんな前振りがあって、
主人公に感情移入ができるから、小説を読み進めることができるのだ、と言う。
それ以外の小説は群像劇なのだという。
主人公が誰だかわからずに話が進むとか、最後まで読んで初めて誰が主人公かわかるとか、
最後まで読んで初めて作者の意図がわかるとか。
そんな小説は読めぬと。
確かにそうかもしれん。

「主人公が誰だかわからずに話が進む」「最後まで読んで初めて誰が主人公かわかる」
という例を確かに私は示すことが困難だ。
しかし、Half-Life: 2などの洋ゲーの設定にはときどき見られる。
2004年に出たこのゲームは、ただひたすら格闘し殺戮するというFPSの世界にストーリーを持ち込んだ。
FPSなので操作している主観視点のプレイヤーが主人公なのは明らかなのだが、
自分がどういう人間で、ここがどこで、時代がいつでなどという説明は何もない。
ただ G-Man とか Breen 博士などが謎の台詞を言うだけ。
Alyx は準主役のキャラだが、彼女が登場しても、しばらくはこのキャラが何を意味するのかわからない。
Half-Life: 2を終わりまでプレイしても、多くの謎は残ったままで、
続編をプレイしてみないとわからないことが多い。

それで、このような設定は、ゲームをマニュアルや操作説明専用の練習マップなしで、いきなり始めるために、
工夫されたのであるのは間違いなのだが、
おそらくは、私は読んだことは無いが洋書には、このような前衛的な小説があるのに違いない。
最初、状況説明もなしにストーリーが始まり、
読んでいくうちに次第にいろんな設定が明らかにされていくが、
多くの設定は語られぬままに本編終了。
次回作を読まないうちは、ストーリーの多くは未完結のままに放置される。

実際、現実世界で、我々は、誰か初対面の人にあったとき、その人のことをすべては知らない。
徐々に知っていく。
旅行をして、歩き回っていくうちにその土地を知っていく。
最初に主人公が出てきてある程度の状況説明がされるというのは、まあ物語の典型なのだが、
そうでない小説もあってよいはずだ。
というか、そういうタイプの小説の方が、圧倒的に新しいし、私には魅力的に感じる。

たとえば、比較対象としてわかりやすいように、サルゲッチュというゲームを例にあげると、
このゲームは子供向けに作られた、よくねられたゲームであって、誰が主人公であり、
何をしなくてはならないかということが、マニュアルにも、第一面のマップでも、
丁寧に説明されている。
そして、レベルが進むにつれて自然と操作方法にも慣れて複雑になっていく。
こういうふうにゲームをデザインすれば、誰もが、ああ、これはゲームであると、
素直に納得できるだろう。
しかし、自分がゲームをデザインするとしたら、こういう万人向けのゲームは作らない。
作るはずがない。なぜかというに、これは、商業用に練られたデザインであって、
自分が作るよりもそういう人たちが作ればよいのであって、
自分で作る必然性がほとんどゼロだからだ。

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