[明治昭憲御製集](http://twitter.com/meijishoken)
元データは j-texts。
[明治天皇御集 ](http://www.j-texts.com/sheet/meijit.html)
[昭憲皇太后御集](http://www.j-texts.com/sheet/shoken.html)。
[明治昭憲御製集](http://twitter.com/meijishoken)
元データは j-texts。
[明治天皇御集 ](http://www.j-texts.com/sheet/meijit.html)
[昭憲皇太后御集](http://www.j-texts.com/sheet/shoken.html)。
わろた。
難しいよな、そりゃ。
説明しにくい。少なくとも一言では。
たとえば、後白河法皇と平清盛はどちらが偉いかとか簡単に説明できるか。できないだろ。
ま、しかし今上天皇と小沢一郎という意味ではあまりにも明らかだとは思うのだが。そうでもないのか。
平清盛と後白河上皇はほぼ同時期に出家して受戒している。
清盛が病気になってまず出家し、そのあと後白河が出家し、
その後同時に受戒している。
康治元年(1142年)、鳥羽法皇と藤原忠実も同時受戒したと言う。
清盛が出家したのは病気療養のためであり、後白河上皇は清盛平癒祈願のために同時に出家したとも考えられる。
で、出家と受戒の違いはなんだろうかな、と思うに、
出家と言うのはなんとなく剃髪するとか屋敷を移るとか俗名をやめて僧侶の名前(戒名ではない?)を通り名にすることを言うような気がする。
姿形や名前を俗人とは変えてしまうことか。
受戒とはどこかの寺院で戒律を守りますよ的な儀式を受けて、以後肉食など止めることを言うのかもしれない。
僧侶になるにはどちらも必要な気がするのだが、微妙に違ってるよな。
よくわからんな。
つまり、出家は個人で出きるが、受戒にはある特定の教団ないし寺院ないし主催する僧正を必要とするということか。
また受戒というのはしばしば盛大な儀式になるのでまとめてやった方が便利なのかもしれん。
ましかし、やはり、清盛のために後白河も出家したと考えてほぼ間違いないようだ。
「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。
中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。
また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)
悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。
このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。
なんかどろどろしてて気持ち悪い本だな。
こうして考えて行くと、清盛が強行した福原遷都は保元・平治の乱のような市街戦を避けるために、
御所をきちんとした城塞都市にする必要に迫られたからではないかと思う。
かといっていまさら平安京を要塞化するのは非現実的。
だから遷都する。
保元・平治の乱が直接の理由なのではないか。
いちいちあんな戦はしていられない。
だいたい外戚の藤原氏の私邸を御所として利用してあちこちに御所だの内裏だのが点在しているなんて、
行政都市として破綻してるだろ。
清盛はきっと合理主義者だったから、
行政と軍事と貿易に特化したコンパクトで機能的な首都を建設したかったに違いない。
フルスクラッチで(笑)。
頼朝が守りに堅固な鎌倉を拠点としようとしたように。
福原は一ノ谷の合戦で平氏が布陣したところだから、もともと要害の地だったに違いない。
都とするのにもっと開けたところはあったろう。
もし執権北条氏の時代の鎌倉のように福原が要塞化されていれば、
源氏の攻撃にも耐えたに違いない。
やはり福原遷都を諦めたのが平氏敗因の最大のものだと思う。
他にも寺社の強訴や、僧侶の政治的影響力の排除という意味もあっただろう。
また福原の方が日宋貿易に便利という意味もあっただろう。
福原京は半年で放棄されてしまい、清盛もあっけなく死んでしまったので、
清盛がどのような機能を福原に持たせようとしたのかはわからんが、
だいたいそんなところではないか。
当時の公家日記など読めばある程度わかるのかどうか。
もし福原遷都が完了していて、清盛がもう少し長生きしていて、
いきなり討伐軍を派遣するのでなしに、
まずは木曽源氏や甲斐源氏あたりを懐柔し、関東を孤立させていれば、
平氏にも十分勝ち目はあった。
平維盛のような軍事的に無能な人間を総大将として延々東海道を進軍させればそりゃ負ける罠。
そうでなしに、まずは木曽・甲斐、或いは奥州藤原氏あたりに宣旨を出して、
関東の平氏恩顧の武士らとともに、謀反人の頼朝を討伐させれば良かった。
そうすれば東国の直接支配は無理でも源氏や奥州藤原氏などが互いにこぜりあい、
西国に手を出すひまもなく、
一方で平氏は近江や尾張、伊勢辺りに防衛戦を築いて、日宋貿易と西国と皇室を完全支配する。
中世的解決策としてはそれでよかったはずだ。
のちに、とうとう木曾義仲が攻めてきたというので宗盛主導で都落ちし一ノ谷に立て籠もることになった。
が、平氏は桓武天皇から出ていて平安京を作ったのは桓武天皇で、
以来平氏は一度も都を捨てたことがないのだから京都でがんばるべきだ、という意見もあったそうな。
どっちもどっちだな。
一ノ谷は城塞として完成してなかったはずで、一ノ谷に移ったからと言って守れる保証は何もないのだから。
しかし京都にも城のようなものはない。
チェックメイトとしか言いようがない。
清盛全盛の時代に一ノ谷が完成していればな。
義経による鵯越の奇襲が成功した(史実であるとすればだが)のは、
福原が軍事都市として、或いは城として未完成だったからというだけのことではなかろうか。
たとえば保元の乱で後白河天皇は高松殿、崇徳上皇は白河殿にそれぞれ布陣するわけだが。
ここで高松殿とか白河殿というのがよくわからない。御所だとか内裏だとか書いているものもある。
調べていくと、高松殿というのは源高明が最初に作った豪邸であるという。その後、天皇や上皇などが住む屋敷としても利用されたとある。つまり、平安宮の内裏というのは火災で焼失したりして実際にはあまり機能してなかった。なので、実際に天皇や上皇や法皇が居住していた屋敷が御所とか内裏と呼ばれていて、平安宮の内裏と区別して里内裏と言ったのだそうだ。
白河殿というのもこれまたもともとは藤原氏の別荘だったのだが、天皇家と藤原氏は姻戚関係にあり、当時は天皇も入り婿みたいにして妻もしくは母親の屋敷に住んだはずだから、いつの間にか上皇の御所として使われるようになった。
とまあ、見ていくと、平安京みたいなのっぺりした市街に普通の寝殿造りの屋敷があって、それが戦の本陣になったというのは、後世の常識から言ってまったくあり得ない。そもそも本格的な戦闘が起きるとは思ってなかったのではないかとしか思えない。こういう状況では先に敵の屋敷に火を付けた方が勝つに決まってる。作戦という以前の問題だ。為朝、義朝でなくても、とにかく今すぐ、夜中で良いから、敵の本陣に先にしかけた方が勝つに決まってる。平治の乱でも似たようなことをやっている。
ていうかこの内裏とか里内裏とか離宮とか別荘とかいろいろありすぎてよくわからんのですが。
もし平安宮がきちんと壕があり、城壁があれば、保元・平治の乱などというものは起こりえなかったし、また天皇がきちんと御所と兵士を掌握するシステムならば、単なる天皇と上皇の戦いというものもあり得なかっただろう。古来、皇族どうしの権力闘争というのはなかったわけではなかろうに、なぜそうやって権力をきちんと守っていこうという方向に努力がなされなかったのだろうか。やっぱ不思議だよね。
江戸時代まで、あるいはおそらく戦前までは、漢文のテクストとして、論語や大学のような中国の古典ももちろん利用されてはいただろうが、それと並行して、吾妻鏡の腰越状だとか、日本外史などが利用されていた。つまり、当時の武士というのは事務仕事もしなきゃならないが、日記にしろ公文書にしろ漢文で書く。漢文で日常的な作文をしなくちゃならないのに、ただ中国の古典だけ読んでいて書けるはずがない。公家が書いていた漢文の日記だとか、あるいは吾妻鏡のように漢文で書かれた公文書なども当然参考書にしたわけだよ。
ところが戦後の日本の教育では日本人の漢文というものがまったく排除されてしまった。
しかも近代や現代の中国語を教えるわけでもない。ただ単に浮世離れした漢籍だけを教えるようになった。これでは日本人にとっての漢文体というものがまったくわからんようになっても仕方ない。
せいぜい森鴎外とか中島敦とかそういうふうなところからしか「日本人の漢文体」を習わない。漢文体に接しない。
頼山陽が詩人であったということと、日本外史が漢文のテクストとしても使われていたということは非常に重要な意味があると思う。日本外史が日本の漢文体に与えた影響はおそらくものすごく大きい。しかし今の国語教育にはその観点が完全に欠落している、と思う。
忘年会があってスピーチとかがあったわけなんだけど、
室町時代は政治は貧困で人民をいたわるという思想がなかったが文化が栄えたみたいな話があり、
だから室町時代と今の時代は似ているなどと言ってて、
みんなあっそうみたいな感じで聞いていたわけですが。
確かに以前私も漠然とそんなふうに思ってたような気がするので偉そうなことは言えないのだけど、
つまり、足利義政は政治を顧みず銀閣寺なんか作っちゃって遊びほうけていて、
応仁の乱みたいな内戦がなんか大義名分もなくだらだら何十年も続いて民百姓は困り切った、京都は荒廃し人民も困窮した、
だが能や茶の湯や書院造りなど現代まで続く日本文化の基礎ができた、
などというステレオタイプなイメージだと思うんだよね。
確かに室町時代の政治は混乱していたが、それが政治が貧困だったという言い方はどうだろうか。
たぶん足利義政は特別無能でも怠惰でもなく、ある程度賢かったから政治に嫌気がさしただけなんじゃないか。
義政は将軍としていろいろ仕切ろうとしたのだが、誰も言うこと聞いてくれない。
畠山氏の相続問題に中途半端に介入したもんだから、細川氏と山名氏の代理戦争に発展。
当時の守護大名は後の戦国大名の卵みたいなもんで、鎌倉時代の御家人に比べればはるかに力をもっていて、
簡単に足利将軍の言うことを聞かない。
足利将軍が天下に号令しても、鎌倉幕府の北条氏みたいには言うこと聞いてくれない。
ていうか、足利義持の時代にそれやろうとして失敗してからぐだぐだになった。
じゃあ有力守護大名が足利将軍を廃して、あるいは執権みたいにして実権を握るかというとそんなこともしない。
ただだんだんに将軍家が弱体化して有名無実化しつつ、一方で大名は完全に世襲になり、自分で勝手に所領を経営し、
勝手によその国を併呑したりする。
或いは家人がいつの間にか領主になったり。
将軍家には事後承諾。いわゆる下克上。
で、これが政治的に貧困かというと、それまでの日本の政治に比べると、むしろ豊かと言った方が当たってる。
だもんだから文化的にも発展があったのだと思うのよね。
それまでは源氏か平氏かとか、天皇家か藤原氏かとか、将軍家か執権かとか、割と対立の構図は単純だったのよね。
それはつまり家父長制でもって人の集団ができてたからだと思うし、
逆に、人の集団が血縁に寄らねば作れなかった。
目上の人に絶対服従しないと飯が食えない。
そのため一族郎党の権限が嫡子に集中するようにできていた。
頼朝はそれを最大限に利用したんだと思うが、そういう発想ってどちらかと言えば人類の歴史以前からあったんじゃないの。
人の集団が血縁によらない機能集団になってきたのは北条氏以後だよね。
足利幕府だともう、足利氏以外に管領やらなにやらたくさん有力な氏族が出てくる。
これって実は社会がものすごく複雑で高級になってきた証拠だよね。
でさらに、室町時代と日本の戦後社会を比較したときに、ほとんどまったく何も共通点がないって気にもなる。
ものすごい勢いで中世の統治システムが崩れていき、群雄割拠と地方分権が進んでいた時代と、
敗戦によって政治的には腑抜け腰抜け状態となったが、経済的には焼け野原から復興して大国になってバブルがはじけたという今の日本。
やっぱり全然似てない。
何をもって似ているというのかさっぱりわからん。
たぶん、「経済一流政治三流」と「政治貧困文化爛熟」ってのが似てると言いたいのだろうが。
ていうか、室町時代の政治が貧困ってのは、いつの時代と比べて言っているのかね。
平安、院政、鎌倉、南北朝、戦国、江戸、明治、いつの時代だろうか。
どれが特に優れているとも言えないよな。
宮崎市定著「アジア史概説」をだらだら読む。