ブリトニー

ヨドバシのたまったポイント消化でブリトニーのDVDを買ったのだが、
これがまた、
ハワイのワイキキ海岸でやったライブがほんの少しと、
同時にロケで収録したなんとも言えないテンション低い映像と、
そのほか過去の映像のつぎはぎで、
失敗したなと思ったのだが、
amazonのレビューを見るとみんなまあそこそこの高評価で、
ブリトニーファンとしてはこういうぬるーい映像も見ておきたかったのかしもれんなあ。

ブリトニーのDVDで、
グレイテスト・ヒッツ:マイ・プリロガティヴDVDというのがあるが、
これは私が音楽DVDを買い漁るきっかけとなったものすごく良くできたDVDなんだけど、
すべてがこれと同じクオリティで作られているわけじゃあないと痛感した。

ライブのDVDではラスベガス版があってこちらはもう少しライブ主体で構成されているようだ。
今度はこちらを買ってみるかな。
ていうかamazonのレビューみてから買えよと。
思いつきで買うなよと。

啓蒙挿画日本外史

儒林外史を借りてきた。
がまんして読むとなかなかおもしろい。
主人公は次々と入れ替わるのだが、
その一人で范進という人が書いた論文が、
一度読んでも二度読んでもつまらないが三度読むとたいへんな名文に思えたというくだりがあるのだが、
まさにそんな感じ。
辛抱して何度か読むと少しおもしろくなってくる。

それはそうと儒林外史を借りるとき検索して見つけた大槻東陽著「啓蒙挿画日本外史」
というもの。
明治35年発行(初版は明治20年)。
ネットで検索するとなかなかこれは珍本らしい。
大槻東陽という人は日本外史をいくつか出しているようだ。
「啓蒙日本外史」、「訓蒙日本外史」など。
啓蒙、訓蒙ともに啓蒙という意味で、
中等教育に用いられたらしい。
推測するに、「啓蒙日本外史」なるものがあり、それに挿絵を追加した版なのではないか。
平将門や源為朝らの挿絵がなかなか興味深い。
いわゆる漢文読み下し文、ふりがなと簡単な脚注付き。

外史とは天皇家ではなく武家の歴史だから外史というのかと漠然と理解していたのだが、
それでは儒林外史の外史の意味がわからなくなる。
外史というのは外伝というのと同じで、
正史に対する外史、正伝に対する外伝ということなのだろうけど、
意味合いとしては、本来歴史を編纂する立場にない人が勝手に書いた歴史、
とでもいうことか。
単に「別伝」とか本編から派生したエピソード集とか本編に入りきれない拡張版とか、
そんな使い方もあるようだが。
清朝初期に成立したというから、頼山陽も当然読んでいただろう。

プレスリー

エルビスプレスリーのDVDなど見ると、プレスリーは言われているほどデブではない。
1977年に42才で死んだのだが、1974年くらいまでのビデオでは普通に腹は出ていない。
コルセットで締め上げているのかもしれないが。

で、プレスリーは毎日ドーナツを百個食べて死んだとか、いやハンバーガーだとか、いやスイカを毎日二個食ったから死んだとか、いろいろ言われているが、せいぜい40代前半で、多少食い過ぎたくらいで健康ならば死ぬはずはない。
多少不健康になるかしれんが、40代前半で死ぬというのは相当大変なことだと思う。
50才60才なら糖尿病か何かの合併症で死ぬかもしれんがね。

FMレコパルという雑誌(FMファンとあと週刊FMだっけか、FMをエアチェックするためだけの週刊誌があったというのは今では考えられんなあ)があり、たしか黒鉄ヒロシの漫画でプレスリーが西瓜を毎日二個食ってデブで死んだとかいうのを私は読んでそれを今でも覚えている。
私よりも五歳か十歳上の人もだいたいそれと同じような記憶。
西瓜がドーナツだったりする位の違い。

しかし死ぬ直前に多少デブだったかもしれんが、もう少し長生きすればダイエットしてやせたかもしれんのに、たまたま死ぬ直前の数年に太ったからといってあそこまで、デブで死んだとかなんとか言われるのはかわいそうな気がしてならん。

かなりどうでも良いことだがFMレコパルのマンガにはかなり影響を受けた気がする。
メシアンの世の終わりのための四重奏曲などというみょうちくりんな現代音楽をわざわざ聞いたのも、その影響だった気がする。
他にも覚えてないがそうとう影響受けた。
そうそうたしか石森章太郎だった。
Wikipediaにも書いてあるから間違いないわな。
第二次大戦中に牢屋に入れられたときに作曲したんだった。

Wikipediaなど読むとエドサリバンショーではわざと下半身を映さず放送したとか、たしかにプレスリーは下半身が命なんだ。
若い頃の全身が映った映像は確かに衝撃的。

でもそれを言うとベリーダンスはどうなんだという話になる。ベリーダンスは太鼓の伴奏とシンクロして胸と腹と腰を別々に揺らすからすごい。ただ腰だけ揺らすのはフラダンスだってやってる。

ピノキオ

ディズニーのピノキオとかファンタジアなんてのは著作権切れてるのかな。
ピノキオ見ると、
どう見ても現代の3DCG映画に見える。
当時の状況を考えれば、すべてのキャラクターにいちいち実物模型を使ってそれを人が目で見て平面に描いているとしか思えない。
ものすごい立体感というか3D感があるな。
おそらくディズニーのことだから圧倒的物量と大勢の優秀な人材でもってちからわざで作り上げたのに違いない。
おそろしいことだ。
こういうのがあったからアメリカ映画はすんなりとトイストーリーのような3DCGアニメに移行していけたのだろう。
というかアメリカにしかこういう伝統はないのかもしれない。
コンピュータというものがない時代から、人海戦術である程度のクオリティのものを作れることを証明するというやり方はアメリカしかやらない。
ヨーロッパはそんなアポロ計画みたいなことはしない。
ヨーロッパアニメのルーツは影絵か切り絵か砂絵かまあそのたぐいでしょう。
日本の場合は漫画か浮世絵だしな。

以前にも書いたかもしれんが、
プロダクトデザインだと2Dと3Dは別の人が担当して、
2D担当と3D担当の共同制作のような形で作品ができあがるらしい。
2Dだけでできあがるグラフィックデザインとの根本的な違いはそこらしい。
2Dというのは直感的感覚的に、まあ好きな絵を描ければそれでおしまいだけど、
3Dは2Dから与えられた設定資料というかラフスケッチから実物をこしらえなくてはならない。
いきおい、2D屋さんがプロデューサとか企画を担当し、
3D屋さんが技術職を担当することになる。
そういう緊張関係が生まれる。
映像産業のプロデューサとディレクタの関係に似ている。

最初から3DCGしかやってこなかった人は、
そういう2Dの世界も知らんし、
2Dと3Dの間の共同と対立の関係も知らん。
ただ、2Dの人たちが3Dのことを知ってるとも思えない。
多くの有意義ではあるが不幸な問題がそこから生まれてくる。
3Dの人がプロデュースや企画をやるということは、めったにない。
それでいいのかという気もする。

山といへば川

丸谷才一の「山といへば川」という文庫本の最初に「後朝」という文章が載っていて、
「源氏物語は古今、後撰、拾遺の和歌をふまえて書かれた」と言い、
「驚嘆に値するのは当時の上流階級がみなこれらの古歌をただちに連想できた」のであり、
「呆れるばかりの教養だった」と言っている。

確かに古歌と言えば古歌ではあろうが、
時間の流れがゆっくりだった当時としては、
比較的最近の流行歌くらいのものだったのではないか。
というか、出版もなければ放送もない当時としては、
すぐれた歌をまとまった分量集めてくるだけであっという間に百年は経つだろう。
今でも、ガンダムのセリフを全部そらんずるくらいのオタクはいくらでもいる。
歌謡曲やJ-POPなるものの歌詞を暗唱しカラオケで歌えるくらいのものはたくさんいる。
娯楽にしろ学問にしろ何もかも限られていた当時、「古今」「後撰」「拾遺」の歌を全部覚えていたって全然不思議じゃないじゃないか。

しかも「含蓄、余韻、ほのめかし、余白、などといふ抑制と沈黙の技法はわれわれの文明の基本の型、生活の特徴的な様式になっている」
などと結論づけているのだが、
源氏物語は当時としてはもっと世俗的な、風俗小説かパロディー小説のたぐいだったのではないか。
今の漫画やアニメと同じく。
古くてよくわからんから、含蓄だとか隠喩のように思えるだけなのではないか。
たとえば同人漫画などは読んでもよくわからんが、これをほのめかしなどとは言わないだろう。
わかる人にはわかる身内ネタというだけのことだろう。

あさか山

あさか山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです

小学館の「日本古典文学全集」など

いや、なんか違うんじゃないかなこの現代語訳は。井戸をのぞきこんだとき自分の姿が映って見えるほどに浅い井戸、水鏡の代わりになるほどに浅い井戸、そんなあさか山の井戸のように浅い心で私は思っているわけではないのだが、と言っているのだと思うのだが。
そもそも井戸の水が澄んでいるのは当たり前だと思うが。「澄んだ井戸の水のように浅い心」では意味がわからんだろ。

なんだかなあ。どうしてこう精神論的な解釈をしたがるのか。もっと感覚的・映像的に考えれば良いだけだと思うが、国文学者というのはそういう言語による視覚的表現にうといのではないかとしか思えない罠。万葉時代の歌を新古今的幽玄な解釈をして失敗している典型の一つか。

上意討ち

三船敏郎主演「上意討ち ― 拝領妻始末 ―」というのを借りて見たのだが、想像と違って陰々滅々としたやな感じの映画。こんなのだれが好きこのんでみるのかと思った。養子に入って何十年も嫌みな妻に我慢してついにぶち切れてお家断絶、息子も嫁も全部死んで最後は自分も死ぬ。

終わりのほう、仲代達矢との立ち合いは椿三十郎のエンディングに似たデジャブ感。その後鉄砲隊に三船敏郎は殺されてしまうという落ち。

というか、こういうのを上意討ちというのか。つまり主人公が上意討ちにあったということなのだよな。主君の命で上意討ちにいく侍が主人公なのかと思うじゃないですか。

楠公別子図

頼山陽詩集など読んでいると、「楠公別子図」という題で「海甸の陰風、草木腥し」というのがある。
乃木将軍の「山川草木転た荒涼、十里風腥し新戦場」によくにている。
ちょっと驚いた。乃木希典が頼山陽の詩を読んでないわけがなく本歌取りのようなものか。
そう思って読むと乃木将軍の詩は頼山陽に比べると軽いというか、新聞の三行広告的というか、明治の軍人的な勇ましさがみえるように思えてくる。
郭沫若が「日本人が作った漢詩の最高傑作である」と絶賛したそうだが、さて。
私もずっとそういうもんかと思っていたが。
そうしてみていくと「金州城外立斜陽」の辺りも菅茶山「送別」の中の「斜陽満古城」から来ているのかと疑われるくらいだ。

「嗚呼忠臣楠氏之墓」と言ったのは、頼山陽の詩ではなく、明朝の儒学者・朱瞬水で題字は水戸光圀だったのだな。

野口英世

いつもよくいく飲み屋で、おつりに千円札をもらって、野口英世をつくづく眺めた。裏返して、富士山と山中湖か何かの絵が描いてある。おいおい、野口英世ならば猪苗代湖と磐梯山じゃなきゃだめだろうと思った。

飲み屋の知り合いで郡山支店の店長になって、こっちに帰って来たひとがいたから、会津若松とか、野口英世記念館とかとかどうですかと聞いてみたのだが、会津若松はただの田舎、つまらん、野口英世記念館はただの小民家、猪苗代湖は何もないただの田舎だと言われた。私としては、小田原の、二宮金次郎記念館で感動できたタイプだから、たぶん野口英世記念館も楽しめると確信しているのだが、要検討かも。

志を得ざれば再び此の地を踏まず。 いいなあ。ただの田舎でもいい。野口英世が自ら柱に刻んだというその文句がみたい。ただそれだけ。それから、中田の観音様にも行ってみたい。

今日のカラオケ

今日もいつもの店でカラオケを歌った。
敏いとうとはっぴーアンドブルー「よせばいいのに」
中条きよし「うそ」

なんかねらいすましたように、ものすごく暗くて重い歌うたっちゃいました。
こういう歌は子供の頃意味もわからず聞いてたもんだから、なぜかすらすら歌えちゃうんですよね。年を取って歌ってみると意味が分かりすぎてみんなずーんと落ち込んでしまうのです。