鬼平犯科帳24巻読了

とうとう鬼平犯科帳を全部読み終えたので何か感想を書こうと思うが、これがまたけっこう難しい。

第23巻から「荒神のお夏」という同性愛の盗賊の頭が出てきて、それまでの路線からちょっとはみ出していて、あれっと思った。マンネリ気味になったので新しいキャラを入れて無理矢理新しい展開を作り出そうとしているようにもみえた。

お夏は火付盗賊改の密偵となっているおまさを気に入り、おまさもお夏の妖しい魅力に抗しきれてない。おまさらの活躍でお夏一味の押し込みは失敗するが、お夏だけはなぜか逃げ延びる。

おまさはお夏がおまさを殺しに来るのだろうと思っているが、お夏はおまさが密偵であることに気づいておらず、ただおまさを見つけ出して一緒に暮らしたいと考えている。お夏はおまさを連れてくるよう、知り合いの盗賊、三河の定右衛門なる者に依頼するが、彼の一味の中にはおまさが密偵であることに気づいている者がいて、おまさをお夏の所へ連れて行く前に始末しようと考えている。

ここで定右衛門一味は神谷勝平という浪人を雇っておまさを誘拐するが、神谷はおまさやお夏に同情的で、おまさの危難を救ってやろうと考えている。

という辺りまできて作者死去のため、この「誘拐」という長編は中断している。

この続きがどうなるかというと大筋としては定右衛門一味は例によって火付盗賊改によって捕らえられおまさは救い出される、ということになろう。ただこの、荒神のお夏なるキャラはこの鬼平犯科帳では明らかに浮いていて、いかにも唐突に出てきた感じで、このキャラをいまさら池波正太郎が縦横に使いこなすとは、ちょっと考えにくいのだが、もしこの話をもっと引っ張るつもりならば、おまさがお夏に連れ去られて二人とも姿をくらますとか、そういうオチにして続編につなげるなどするかもしれない。お夏とおまさは二人組の女盗賊となって京都辺りを荒らし回り長谷川平蔵が京都に乗り込んでなんとかかんとか。

でも鬼平犯科帳はおそらく長谷川平蔵がなんかとんでもないことをやらかして罷免になるところで終わるだろうから、なんかメインのキャラが何人か死んで(おまさとか木村忠吾とかお熊とか?)それで引責辞任ってあたりがおとしどころではあるまいか。

こうしてちょっと書いてみて気づいたが、この鬼平犯科帳について何か書こうとするとまずそのあらすじを紹介するだけで一苦労で、これに自分なりの解釈を加えてみるというのはそんなに簡単なことではない。ざっとネットを検索してみても、そんなややこしいことをやっている人はほとんどいないようだ。鬼平犯科帳はテレビドラマにもなり漫画にもなり、役者や漫画家も複数いて、原作は一応あるにはあるんだけど、原作をじっくり分析しようという人はいないように思う。

私は自分でも小説を書くので、原作からどのように映像化されるのか、そのときどんなふうに脚色されるのかってことに非常に興味がある。それでドラマも漫画もそれなりに見てみたんだが、やはり原作が一番面白い、良い原作を書く以上に面白いことはないと思うのは、私がやはり小説を自分で書く人間だからかもしれない。

あほなAIにあほなマーケティング

最近、エウメネスの売り上げが落ちてきているのだがこれにはいろいろ思い当たるふしがある。

私の小説の中でエウメネスだけが割と読まれていた。それほどの収益にはならないが、売れ続けているということで、書き続けよう、完結させようという気にさせてくれた。

なぜエウメネスだけが売れ他は売れないかというからくりにはもうとっくに気づいている。「ヒストリエ」というマンガがあり、その主人公がエウメネスで、エウメネスについてもっと知りたいという人がネットかアマゾンで検索すると割と上位に私の小説がでてきて、それで読まれていたというわけだ。私がエウメネスを書いたのはいつだったかこまかなことはすぐには思い出せないが、エウメネス1をkindleで出したのは2013年。つまりkindleが始まってすぐに出したわけだが、この頃はエウメネスに関して書かれた書物はほぼなかったから、自然と私の小説が読まれることになったわけだ。

私は別に「ヒストリエ」を意識して、ましてやそのマーケティングに乗っかろうと思って「エウメネス」を書いたわけではない。逆に、なぜ「エウメネス」だけ売れるのか調べていて「ヒストリエ」の存在、というか内容を知ったのである。「ヒストリエ」がなければ私の小説が読まれているはずがない。内心忸怩たる思いはありつつ、しかしもしかしたらごく一部の人は私の小説を愛好してくれているかもしれない、「ヒストリエ」をきっかけに私の小説を知るきっかけになってくれたら、というつもりで書き続けていた。

しかしながら最近は最初から「ヒストリエ」を意識してエウメネスを書籍化したものがたくさん出てくるようになり、まとめサイトもでき、自然と私の小説が検索上位に上がってくることはなくなった。そりゃそうだとおもう。私の『エウメネス』は書きも書いたり。50万字を超える大長編になってしまった。エウメネスとは何かってことをただ手っ取り早く知りたい人が読むようなものではない。

しかも最近はアホのAIまで出てきてネットに散らかっているいろんな情報を適当にまぜあわせそれっぽい文章にしてアップロードし、それをまた後発のAIが学習して、さらに意味不明な記事を書き散らかす。インターネットというものがでてきてまだ30年くらいしかたってないのにインターネットはここまで荒廃した。

だから私が今後やるべきことはそんなけちな了見の「あほなまとめサイト」「あほな書籍」「あほなAI」と真逆のことをして、今度こそほんとの読者を獲得するってことだと思っている。

「エウメネス」は最初「メガス・バスィレウス」、つまり「大王」というタイトルで、誰が主人公というわけでなく、エウメネスに相当する人物の名は「ニコクラテス」という名前で、ニコクラテスとアレクサンドロス大王が対話する三人称小説だった。なんでニコクラテスという名前だったかといえば、たぶん、アテナイでありふれた名前だったからだろう。なんでエウメネスに変えたかと言えば、アレクサンドロス大王について、も少し詳しく調べて、ニコクラテスという架空の人物、しかもアテナイ人ではなくて、マケドニア人の誰か、もしくは、王が王太子だったときからの側近を一通り調べて、秘書官となったエウメネスが一番私の趣味に合ったからだと思う。なんでエウメネスの一人称小説にしたかというとたまたまその頃、一人称小説を書くのに凝っていて、今もほぼ一人称で私は書くのだけど、王のそばでいつも王を見ている、ごく平凡な人を仮の主人公(視点)にし、読者をエウメネスに感情移入させることによって、実質的な主人公(視られる対象)である王を客観的に描きたかった。

つまりこの小説は、実質的には、王を描く三人称視点の小説なんだが、そこに読者の依り代となり、読者の目や耳の代わりとなるエウメネスがいて、読者の視点は完全にエウメネスの内側に置かれていて、読者はエウメネスというカメラを通じて王を観察する。そういう体裁上、これは一人称小説になっているわけで、必ずしも主人公の体験を主観的に描いている小説(たとえば私の小説で言えば安藤レイとか)とか私小説というわけではない。

エウメネスは剣客でもなければ妖術使いでもない。王もそう。私はそういうものには興味無いし書く気にもなれないし、そういうものが好きな人を読者に持ちたいとも思わない。歴史というものが、過去から未来へ、必然的に進展していく。私はそういう歴史小説が書きたいわけで、そこに魔法とか奇跡とか宗教を持ち込むと、じゃあなんでもアリじゃん、作者の好きな方向にいかようにも話をもってけるじゃんてことになり、歴史にならんのだよ。

社会活動

私個人はどちらかといえば共産主義思想、社会主義思想に非常に共感できるほうだと思う。スウェーデンでは、今もそうかは知らないが、男子も女子も同じ更衣室、同じシャワー室を使うというが、別にそうなっても良いしならなくても良い。日本の公衆便所や銭湯が男女別になろうが同じになろうがどちらでも全然かまわない。人間なんて所詮チンパンジーかオランウータンから毛が抜け落ちた程度の存在なんだから、社会習慣が多少変わろうがたいしたことはない。

私にとって駅前の一等地をパチンコ屋が占めているのも、女性向けファッションの店が占めているのも、どちらも醜悪、俗悪、目障りなだけだ。テレビの番組なんてどれもこれも度し難い、低俗極まりないアジテーションだと思っている。しかし私は共産主義者であると同時に自由主義者でもあるので、他人の権利を制限することにはかなり抵抗がある。全体主義者であるべきか自由主義者であるべきかという問いには、どちらかといえばかなり自由主義に同情的だと思う。特に「表現の自由」という言葉にはかなり弱い。ただあまり自由すぎて治安が崩壊しているのもどうかとも思う。

いずれにしても私個人の思想信条がどうであれ私は自分が社会活動家になって社会を変革しようというような人間ではない。他人は他人、自分は自分、自分の生活に干渉されない限り、こちらから文句をいうようなことはしないようにしている。したくなるときはたまにはあるが。

私から見ると、社会活動だか政治活動だか宗教活動だかしらないが、熱心にやっている人というのは、大きく分ければ、理屈づくでビジネスモデルとしてやっている人か、なんかの私怨をこじらせて自分で何やってるかわかんなくなってやっている人しかいないように思う。好き好んでやっているだけの話。

山本直樹の態度は非常にすがすがしいというか、私は別に彼のエロを必要としていないし、彼の作品を評価するわけじゃないんだが、自分は何がしたいのか、何がなんでも創作したいものがあるっていうなら結局ああいう態度に収束していくしかないのではないか。

私の中にもいろいろよかれと思うことはある。40代の頃は自ら旗振り役をやろうかと思ったこともあったが、誰も私についてくる人はいないってことがわかり、しかももう60才になろうとしていてあとはどう無難に死ぬかということが一番優先度の高いことなってしまい、世の中を変えようなんてことはもう一切考えないのがよい、自分一人で生きていくのが良いと思ってる。

奥歯が割れた件

奥歯が割れて、金属の詰物をしたのだが、入れてもらった直後は噛み合わせが良くない気がしていた。歯医者は無理やり私を納得させて返したような気がした。

数週間が過ぎてみると、今はそんなに気にならなくなってきた。思うに、上も下も金属を埋めた状態だと、歯を噛み合わせたときにちゃんと噛み締められてないような気がするのだろう。しかしだんだんに顎の関節などが適用してきて、普通に噛み締めている感じになるのではなかろうか。金属が変形してちゃんと噛み合わされるようななった、というのはあまり考えにくいようにおもう。

とりあえず痛くもなくなったしちゃんと噛めているのでよしとする。

外飲み

一部の店に限っていくらか外飲みも続けていたのだが、もう原則として一切外飲みはしないことにしようかと思っている。もっと早くそうしてもよかったのだが、いろんな人付き合いとかしがらみとかあるとなかなかやめられない。外で人と会うのは楽しいがそれよりも自分の方で受ける精神的なストレスがまさる。人と交わることは当然ストレスとなるのだが、若いうちは打たれ強いというか、あんまり気にならないような、さまざまなこまごまとしたことが気に障るようになってしまい、それが年をとり老人になるということなのだろうと思う。

なんかちょっとしたものをどこかの飲み屋に忘れてきてしまったり、はしごしすぎて翌朝アルコールが体に残ってたり、昔はなんとも思ってなかったようなことが今ではすごく嫌でたまらない。

外飲みしなくなればもっと時間は自由になるし、使える時間も増えるし、金は減らないし、もっと早くそうするべきだったんだと思う。

髪の毛

昔は髪の毛は切るかすくかだったのだが、だんだん髪が細く柔らかくなってきたので、すくのがもったいなくなってきて、切らずに梳かして整髪剤などで固めたり、ニット帽などで潰したりしてる。

やっと普通の人がやる整髪というものがある程度できるようになってきた。

macosキーボード・マウス設定

マウスがヌルヌル動くのを防ぐ方法はよくわからないので、とりあえず、google chromeの拡張機能、SmoothScrollでしのぐことにした。

Step Size これはマウスポインタが一度に移動する距離(px)。マウスのヌルヌルとは直接関係ない。デフォルトの100くらいにする。

Animation time [ms] アニメーションなど必要ないので0にしたいところだが0だとバグる可能性があるので1にしておく。

Acceleration scale 加速なんかする必要ないというか一瞬で加速してほしいので999にする。

Acceleration delta [ms] 一瞬で加速してほしいので1にする。

Pulse scale よくわからんがどのくらい立ち上がりを急にするかって意味だと思う。99にしておいた。

Arrow key step size [px] これはつまり矢印キーで一度にどれくらい移動するかってことだろう。適当。

キーボードに関してはまず普通にJISを選択。

command キーと caps lock キーを入れ替える。

Karabiner-EventViewer と Karabiner-Elements をインストール。

(Japanese) PCキーボードの無変換キー → 英数キー

PCキーボードの変換キー → かなキー

macos には num lock という機能は無いらしい。つまり、テンキーは基本的に数字しか入力できない。だから特に設定する必要無し。むしろここは windows も見習えば良いと思う。テンキーを数値入力以外に使う人っているんか。ていうか、数値入力するのがデフォルトで、それ以外の用途にテンキーを使いたいやつが苦労すれば良いのにと思う。

この程度のことはネットで調べればすぐにわかるかと思ったら案外なくて困った。というか驚いた。おそらく macユーザー(というか、ふだんはwindowsを使っているがたまにmacも使うユーザー)のほとんどはデスクトップではなく macbook のユーザーか、さもなくばデスクトップでも apple 純正のキーボードを使っていて、その仕様に最初から慣れており、不満を感じてないのだろう。

私のように今回mac mini を買って、手持ちのキーボードはPC用しかなく、appleのあのペラペラなキーボードなど使う気まったく無い人間、というのはほとんどいないのだろうと思う。むしろわざわざ英語配列のキーボードを好き好んで使っているユーザーの方が多いのではなかろうか。英語配列のテンキー無しのHHKB使いたがるマニアがときどきいる。確かに私も大昔、まだSunのワークステーションなんか使ってた頃は英語配列のキーボードのキー入力をカスタマイズしてかな漢字変換などしてたが、今わざわざそんなことする必要ないだろ。それにblenderはテンキーを多用するから、テンキー付きのJISキーボード以外、使う気はおこらん。

一時期、パスワードには大文字小文字数字記号を混ぜたほうがいいってんで、@を含めたパスワードを使ってたことがあったんだが、パスワードが入力できなくて困ったことがあった。キー配置が違ってて@が打てなかったわけだった。英語配列だろうとJISだろうとwindowsだろうとmacだろうと安全にパスワード入力できるような文字種が良いと思って今はやめてる。

Mac

Macを自分の仕事のサポート対象にするかしないかということでは、できればしたくないと思っていたのだが、抵抗することをやめることにした。つまり、ある一定の、自己責任の範囲で、受け入れることにした。そのために自分もMacユーザーになることにした。

私はMacはずっと使ってなかった。ちょっと使ってみようかなと思ったのは2002年くらい、MacOS9の頃だったが、使い始めてとたんに嫌いになった。文字をコピペするときフォントや色やその他すべてのスタイルごとコピペしてしまうのがとても気持ち悪かった。こんなGUIは使いたくないと思った。スタイル無しで文字だけコピペする方法はあったのかもしれないが、ともかくあのUIが全く好きになれなかったし、そういうグラフィックデザインの仕事をする人にはアリっちゃアリかもしれないが自分には絶対無理だと思った。

その後windowsやlinuxもMacOS的UIを取り入れることになったんだが、ともかくMacはすべてが気に入らない。まずもってあのスティーブジョブスが気に入らないし、教祖様の取り巻き連中が気に入らないし、プロプライエタリなUnixという概念が気に入らないし、薄っぺらなキーボード、米粒が付いた餅みたいなマウスが気に入らない。

Macbookはキーボードとパッドが気に入らないしわざわざつなぐのもUSB-Cでめんどくさいし、とにかくMacbookは持ってはいたものの、これでMacユーザーになるのは不可能だと思ったので、Mac mini を買った。ところがまず、マウスとキーボードの設定でさんざんいらつかされた。しかしちゃんと設定したので今はかなり大丈夫になった。Macが嫌いというのは95%くらいは脊髄に由来していると思う。大脳皮質に関わるところはそんな多くないってことに気づいた。

MacOSはプロプライエタリなOSなのだが、ここにいろんなツールを入れて、Linuxみたいな使い方をしている人もいるらしい。確かにLinuxのGUIは未だに非常にpoorなので、MacOSのほうがまだましだという人は一定数いるのかもしれない。私ならどちらかといえばLinuxの非力なGUIを我慢して使うほうを選ぶが。それでOSはプロプライエタリなんだがそこでオープンソースのGNUとかGithubなんかを使う技はあるっちゃあるらしい。しかしその根底にあるXcodeがプロプライエタリで、クレジットカード登録してAppleIDを取得しなきゃ使えない。オープンソースかプロプライエタリかなんか気にすることないじゃないか、クレジットカード登録強制なんてどうでも良いじゃないかって思うかもしれんが、私にとってはどうでも良くはないんだなってことに今回我ながら気づいた。

Linuxは基本オープンソースでそこに多少プロプライエタリが混ざってもええよというスタンスだ。私にとっては住み心地が良い。これがFreeBSD や GNU OS みたいに何がなんでも純血オープンソースとか言われると私はたぶんそんな世界には住めないと思う。

Windowsは完全にプロプライエタリなんであとはマイクロソフト様の努力次第と思ってる。もし Gabe Newell が元マイクロソフトの社員で Valueを創設して、Windowsをゲームマシンにしてくれていないかったら、私はもっとwindowsを憎んでいただろうと思う。Gabe Newellはwindowsの救い主だ。ビルゲイツはどう思ったかしらんが windows はゲーム文化を育ててくれたというただそれだけで敬意を払うに価する。Macにはそれが無い。まったく欠落している。

linux だと apt や yum があってすぐにコマンドラインでソフトのインストールや更新ができるが、それと同じようなことを MacOS でやろうとするとまず AppleID、次に xcode、次に homebrew、次に github に精通しないと何にもできないらしい。マゾか。キーボードもMac信者らはMac純正のペラペラのキーボードを唯々諾々として使い、ピカピカ光るゲーミングPCをせせら笑っているらしい。

ブログ再生

昔読んでたけど今は更新されてないブログがほかに移転してないか少し調べてたんだが、鈴木みそのブログはいつの間にか復活してた。いつから復活したのかよくわからん。実はつい最近のことなのではなかろうか。

http://www.misokichi.com/chinge/2022/07/post-311.html

要するに、https にして、最新の wordpress に更新しながらやってればいいんだが、昔の movabletype なんか使ってると攻撃受けて使えなくなってしまうんだな。ただこのサイトいまだに http でやっててかなり不安な感じはする。

ちはるの森は「ここの木」というサイトに移転していた。こちらは https に移行していた。

https://www.coconoki.com/shopbrand/chiharu/

ブログは facebook や twitter などの sns が出てきて、刹那的な承認欲求を求める連中はそちらに引き寄せられていき、ブログをほったらかした(ある意味私もそうだが)。古い wordpress や movabletype や http なんかを使っているところは攻撃されてどんどん淘汰されて、大量絶滅時代を迎えた。それがざっくり言えば 2015年くらいのことなんだろう。私もその頃、システムメンテナンスがめんどくさすぎてやめてしまった。

今、ブログランキングサイトなどは繁盛しているように見えるがどれもこれも、どこかのまとめサイトか、AIが自動生成したページみたいな、ゴミみたいな記事ばかりだ。sns も、インターネット全体がそうで、今やネットは膨大な電子のノイズに埋もれてしまいつつある。ミノフスキー粒子が立ちこめた、デブリだらけの空間になった。これはもう、google が筆頭で進めている SEO というやつのせいだ。自業自得というやつだ。

ちゃんと選別すればそれなりに面白い記事や著者はいるんだろうが、それを見極める新たな仕組みがでてこないとネットは(テレビがそうなってしまったように)使い物にならなくなるのではないか。かつて、自然発生的に webで日記を書く人が出てきて、いつしか有志が集まりリンク集のようなものが立ち上がっていった。再びそのような時代が来るのではないか。