NHK

チコちゃんに叱られるも、最初は、大人のくせに、ぼーっと生きてると5才の子供でも常識的にわかるようなことがわからず、子供に叱られて恥をかくよ、という程度のごく妥当なコンセプトの番組だったのだろうが、視聴者が見たがるためにどんどんネタを広げて行かなくてはならなくなり、到底5才の子供が知るはずもないような専門知識でチコちゃんに叱られなくてはならないというあり得ない状況に陥ってしまっている。しかもその専門知識にしても、いわゆる諸説ありで、なんでわざわざそんなことで怒られるのか意味不明なこともある。

しかしNHKの視聴者はたぶん5才の子供に叱られるのが屈辱的、というような見方をしているのではなくて、単にNHK様に叱られて、あーNHK様に叱られたあ、えへっ。もっとチコちゃんみて賢くなろう、くらいの気分で見ているのだろう。

この番組の制作スタッフも、NHKの管理職連中も、この矛盾にはとっくに気づいているはずだが、視聴率が取れるからやめることができない。そのうちアインシュタインでもフォン・ノイマンでもアラン・チューリングでも、シュレディンガーでも高木貞治でもわからないようなことでチコちゃんに叱られるハメになるだろう。問題は明らかにNHKそのものというよりは、NHK様をありがたがる権威主義的マゾヒストたちなんだが、だからさっさと国営放送なんていう、社会主義的、全体主義的な放送局は廃止してしまえばいいのに、飯の種はそう簡単に自分からは無くせない。

NHKという存在自体が自己欺瞞の塊になってしまっていて、中の人もとっくにそれに気づいているのだが、周りをびっしり取り巻く視聴者様がいるから、そこから外へ抜け出すことができない。

ブラタモリにしてももともとはテレビなんか見てないで町をぶらぶら歩き回ろうというようなコンセプトだったに違いないが、いつの間にかガチガチの教育番組になってしまっている。タモリも嫌でしかたないだろうがしかしタモリほどの人でもNHKの番組に出るという魅力に抗することはできないらしい。タモリ倶楽部はスタッフの犠牲の上に相当無理して続けていたんだと思う。こうしてお上品なNHKの番組だけが生き残る世の中で良いのだろうか。

しかしあの、江戸川のせせらぎでー、という歌を流行らそうとしてたのが無くなって良かった。江戸川は大河なのにせせらぎというのは言語感覚的に、NHK的におかしいだろ。

老後

見るもの聞くもの何もかも嫌になって、ツイッター見ても嫌な気分になるし、youtube premium もいい加減見尽くして次何見ようか悩むし、人様のブログ見てもあまりのくだらなさに憂鬱になる。世の中から目を背けてたった一人で生きていけば良さそうにも思うが、それではなんで、なんのために生きているのか。生きていても死んでも同じじゃないか。

エリザベス女王みたいに90才くらいまで生きてある日誰もしらんうちに死んでいた、本人もいつ自分が死んだのか気づかなかった、みたいな死に方は良いなと思う。昭和天皇みたいに病気で苦しんだあげく死ぬのは嫌だ。

もし90まで生きるとしたらあと30年もある。けっこう長い。あっけなく死んでくれても別に良いのだが、30年間あるとしたら何して生きれば良いんだろう。

若い頃と比べて寝返りをうたなくなってきたように思う。ずーっと同じ姿勢で寝ていると体が痛くなってくるので意識して右を向いたり左を向いたりする。睡眠も浅くてずーっとぼーっとしているような気もするし、実は寝てるような気もするし、自分でもよくわからん。

歯はどんどん弱く悪くなっていく。歯は鍛えても強くはならずただどんどん弱くなる一方なのだそうだ。ガムなんかを噛んで歯や歯茎を鍛えようと思っても、なんの効果もないのだという。歯はだんだんもろく弱くなっていき、やがては割れてしまう。

老後、アホみたいにどうでも良いブログを書くのは、ボケ老人の戯言で大した害はないと思うのだが、若い頃書いたものを手直しするのは非常にまずいと思っている。もうそろそろその限界の年が近づいている。

今更ブログを再開してSEOみたいなこともやり始めたのだが、これにいったいなんの意味があるんだろうか。私はこれまでもいろんなことに手を出して飽きたらまた別のことをやってきた。どれ一つとしてまともに世間に認められたことがないと思う。しかし世の中に認められるとはなんなのだろうか。本が50万部とか100万部売れることか。ブログランキングで1位になることか。そんなこととは全然違うだろう。

昭和のおっさんが、もちろん私もその一人だが、飲み屋でテレビみながら説教じみたことを言うのはほんとに害悪だと思う。もちろんそのうちおんなじように平成のおっさんとか令和のおっさんが出てきておんなじことを言われるのだろうが、どうも私には、戦後昭和のおっさんが一番タチ悪いような気がしてならない。だいたいみんな自分を過大評価していて自分は社会に必要とされているとか若者に慕われていると思っている。若者はそういうおっさんの扱い方、おだて方に慣れているに過ぎない。おっさんは社会の厳しさをすごく薄めてワクチンにして若者に接種してあげてるんだと思っているが、若者にとっては大きなお世話だ。さっさと死ねば良いと思われているだけだ。

目安箱とか玉くしげとか

落とし文とか捨て文というものを制度化した目安箱ってのがあったはずだよね。で、ちょっと調べれば、天明の飢饉のとき、松平定信が諸藩や民間人からも献策を推奨し、宣長も『玉くしげ』『秘本玉くしげ』などを紀伊藩主徳川治貞に献上した、くらいのことはすぐにわかるはず。

徳川幕府が人民に施した善政などない、江戸時代は暗黒時代だったっていうネガティブキャンペーンを薩長が文部省なんかを使って長年にわたって繰り広げたせいで、ネトウヨはとかくこうした間違った歴史観をもっている。

定信の父は田安宗武、宗武の父は徳川吉宗で、もとは紀州藩主だった。宗武は賀茂真淵に国学を学び、定信もおそらく国学的な雰囲気の中で成長したはずで、そうなると徳川宗家の開祖家康がとんでもなくむちゃくちゃな宗教観・思想の持ち主だってことは、定信もわかっていたはず。

ところが定信は朱子学を信奉する教条主義者だってことになってしまった。そんなはずないだろ。定信の著作をみれば明らか。尊号一件の扱い方にしても、彼が完成させた大政委任論にしろ、定信が、賀茂真淵や本居宣長らのような、国学者的な尊王家であるのは明らかだ。

ネトウヨの無知蒙昧を正すのでなくそれを煽って部数を稼ごうなどという輩が愛国者と言えるだろうか。

世界最強バルチック艦隊

笑。

WAF

Top-10というプラグインを入れて設定を変更しようとしたら site guard light というやつに forbidden access というエラーを喰らった。

閲覧できません (Forbidden access)


指定したウェブページを表示することができません。
入力したURLや値が正しくない可能性がございますのでご確認ください。

The server refuse to browse the page.
The URL or value may not be correct. Please confirm the value.


Powered by SiteGuard Lite

こんなやつ。

site guard lite はサーバーに元からインストールされている機能らしく、サーバーのセキュリティに WAF除外を設定するところがあって、それらしきやつを除外ONにすればエラーは出なくなった。

でも設定をいじる必要は特になかったからOffに戻しておいた。

wordpress、いろいろとわけのわからないことが多い。

そりゃそうと、お名前.comの管理画面、あっという間に強制ログアウトさせられて、ログインするたびにいろんな広告とか警告とか見せられてうざい。安いから仕方ないといえば仕方ない。

日本国紀

松平定信や白河天皇に対する評価なんて、ほんとに一番ダメな部分の水戸学の影響を受けた、ほんとに駄目な薩長の史学を受け継いでる。だからネトウヨはダメなんだよ。ホンモノの勤王、ホンモノの水戸学を知らない。本当の歴史を知らない。ごく大雑把に言えば司馬遼太郎程度の史観しかない。

徳川幕府が260年続いたのはともかくもうまく治めたからだよ。足利幕府や鎌倉幕府と比べてみれば一目瞭然。明治維新からまだ160年。あと100年もたなきゃ薩長は徳川には勝てないよ。

特に、松平定信は名宰相と言って良い。彼がいなければ徳川幕府はもう少し短命だったかもしれんね。家継の後、吉宗が将軍になってちょっとましになり、孫の定信が出たから100年くらいは寿命が延びたんじゃないか。大政委任論は定信が完成させたんだがそれは彼が尊皇だったからだよ。宣長の思想をちゃんと理解できてたからだよ。宗教音痴の家康からはそんな発想は全く出てこなかったと思う。薩長に比べれば徳川宗家はずっと勤王、尊皇だよ。ひどいもんだよ明治政府が作った皇室典範なんてさ。開国して富国強兵が国是だったからある程度仕方ないとしてもだよ。

家康は浄土宗から天台宗に改宗したり、天海とか林羅山とかわけのわからない坊主を側近にした新興宗教狂い、宗教音痴で、日本人を宗教でがんじがらめにしようとした。そのうえ健康オタクでどうしようもないヤツだった。その成れの果てが林家であり湯島聖堂だったわけ。朱子学とは似ても似つかぬ邪教になってた。家康のせいで日本人はますます宗教音痴をこじらせた。定信はこりゃいかんと思ってそこをちょっと改めただけだよ。普化宗とか虚無僧とかアホみたいな宗教流行らせたのも家康だよ。

日本国紀

そうそう。為永春水の小説なんか読むと書いてあるんだがなあ。

日本国紀

ポツダム宣言を受諾したのも、ひとえに当時の大日本帝国政府の大臣らが無知だったせいなんだろうなあ。

三国干渉を飲んだのも当時の明治政府が無知だったからなんだろうな。

日本国紀

今更ブログでいろいろ書きたいことがあるわけでなく、また、酔った勢いでツイッターであれこれ書くのももうやめようと思っているのだが、本は売りたいと思っている。だから本の宣伝になるようなことはしたいと思っている。あと、ツイッターで書き散らしたことも、ある程度こちらでまとめ読みできるようにしておこうという気持ちがある。

『日本国紀』の初版が出たときは、私も買ってみて読んで、Shin Hori氏や、桜ういろう氏、事務カリー氏らと競っていろいろアラを探したりしたのは楽しい思い出だ。私は単なるうっかりミスとか、Wikipediaの引用なんかにはさほど興味はなかったのだ。誰だって本を書けば間違いの一つや二つはあるよ。それは改訂版出すときに直せば良い。著者の芸風というか、ビジネスモデルに文句言っても仕方ないしそういう辺りにのめり込む趣味は無い(ってあたりがワイが左翼とは違うところか)。

問題はその間違い方にあるわけで、間違う背景に、非常にいびつな、偏った、よく調べもせずに決めつけたような歴史観があるのが気に障ったわけだ。たとえばヨーロッパ諸国はみな君主国というのはおかしいわけで、古代には共和制アテナイや共和制ローマなどがあったわけだし、中世、近世、近代にも共和国はあった。「重箱の隅」の「驚くほど小さなミス」というより、歴史事実から知見を得ようとせず、逆に自分の主義主張趣味を歴史に当てはめようとする態度が気に入らなかったわけでしょ。

確かにこういう重箱の隅突きなども面白がってやったわけだが、これなども、大学生が適当にレポート書くというのとは訳が違う、物書きとして、本を出版する人間がこういう孫引きをしてはならんというところに憤っているわけですよ。参考文献があるなら書くべきだし、単なる歴史読み物だから参考文献は付けないというならそう断るべきだし、「本当の歴史」などと謳うべきじゃないだろってことを、多くの物書きや研究者が指摘しているのに、それに気づかないふりをしている。本物の歴史なんて言われちゃこちらも反論せざるを得んだろ。「葬り去ろう」というより、自分らのいる領分から「排除」したい、区別したいという気持ちはある。ああいう本が世の中の一部の人たちでちやほやされるのはもう仕方ないと諦めている。