Kindle Unlimited やアマゾンプライムビデオという新サービスが始まっただけで、
私の映画視聴や読書の量、幅がまったく変わってしまった。
そしていままで見たことのない作品をたくさん見るようになった。
同じ事は J:Com で CATV を見始めた頃にもあった。

私はもう本など読まないつもりだったのに、こんなに読むようになったのは不思議だ。

同時に思うのは、仮に、仮にだが、たとえどんなに私の作品が勝れていたとしても、
それが他人の目に触れない限りは存在しないのと同じなのだ。
新サービスによって人の目に触れるようになり多少は読者が増えるかもしれない。
それは KDP や Kindle Unlimited などですでに体験したことでもある。

そして Kindle Unlimited のおかけで、ブログレベルのしょうもない本が良く読まれている例もよくみかけるようになった。
そんなのググればいくらでも書いてあるじゃんみたいな内容の本が KDP で出版して、有料なのだが、
Kindle Unlimited 対象なのでランキング上位にあがってくる。

人の目にどうやって触れるようにするか、いかにして人の目に触れる機会を増やすかということは、
非常に大きな問題だ。
私は二冊、紙の本を書かせてもらった。
KDP と何が違うだろうか。同じ人間が書いたものではないか。
しかし、紙の本のほうが明らかに人の目に触れやすいし、流通しやすいのだ。
むろん紙の本には編集者や出版社、書店、業界が介在し、助言や助力がある。
たいへん感謝している。
しかしそれでも KDP とこれほど差がつくだろうか。
そしてほぼ確実に予測できるのは、同じ私の本であっても、
マーケティング次第で、もっと売れるはずなのだ。
コンテンツのクオリティとは別の何かが必要なのは明らかだ。
それは何年もやってて身に染みた。

「潜入捜査官マリナ」は探偵もの、刑事もののジャンルで敢えて書くことによって、
そちらのジャンルの読者の目に触れようとしたものだ。
官能小説、大衆小説を読もうと思った人はあてが外れたかもしれない。
でも一応作品解説みればある程度わかるよね?
だがあまり節操なくいろんなジャンルに手を出すのは恥ずかしい。

個人出版にできることは限られているってことを、いまはひしひし感じてる。
アマゾンがまた何か新しいサービスを始めて、世の中への露出が増えないかなあみたいな他力本願なことを考えたりする。
たまたま誰かアルファブロガーかなんかの目に触れてレビュー書いてもらえないかなあなんてことも考える。
ま、ともかく、焦らず、自分が良いと思うものをこつこつ書いておくしかないのかもしれん。

アマゾンプライムビデオというやつを最近は良くみるようになった。

J:Com の CATV でせっせと録画していたのだが、最近は録画はめんどくさくなってほとんど使ってない。
もったいない。
でも BS で自動予約録画する番組がいくつかある(酒場放浪記と女酒場放浪記だが)。
まあ使っていくしかなかろう。

そんで今日は、「東京ゴッドファーザーズ」と「パプリカ」を見た。

「東京ゴッドファーザーズ」は15年くらい前の東京が舞台で、今とはかなり違ってしまっている。
新宿中央公園にはもはや浮浪者のビニールシート小屋なんてないし、
もう誰も公衆電話なんて使わない。
勝手に線路に下りたら点検のために電車が止まっちゃうから普通捕まる。
いろんな意味で15年前の東京はまだまだいい加減だった。
新宿南口にはまだ屋台が出てたし。
東京で知り合いと偶然出会う確率はほぼ0%だ。
帰る路線が同じで帰宅時刻もかぶってたりすれば別だが。
しかしその偶然が余りにもかさなりすぎるし、しまいにゃ宝くじにあたったりするのがしらける。
そういう偶然に頼ったストーリー展開は、私ならやらない。
全部が偶然で出来ている話は書いてもいいがプライオリティが低く、
ほとんど全部を必然で組み立てていてそこにご都合主義の偶然を一つ混ぜるとすべての努力が無になるからだ。
まあ、2000年頃の新宿の雑多な風俗をアニメで表現した作品、として見れば良いのかもしれないが。

「パプリカ」には困惑する。
夢の中でまた夢を見る、他人との夢、現実とが混ざり合う。
それはそれで面白いのだが、やはり「夢オチ」はしらけるものだ。
「東京ゴッドファーザーズ」と同じようにそのしらける技を徹底的に反復したという意味で、ふっきれているつもりなのだろうが、
なんというのかなあ。こういう派手なけばけばしい作品を作られると、
まじめな作品を作ろうとしている人間にとっては、迷惑な部分もあるんだよな。

面白いから許すというところまでふっきれてないというのかなあ。
筒井康隆の原作があるから完全な娯楽に徹してない。どこか思わせぶりだ。
たぶん筒井康隆の原作は、読んでないからわからんが、その夢オチ特有のしらける感じをうまく回避して作品を成立させてたんじゃないかと想像するのよね。

私としては、「オカルト」とか「ファンタジー」のご都合主義を極力削り落としてリアリズムに徹しようとしているわけ。
で彼らがリアリズムを捨てて虚構に徹しててくれれば棲み分けできるんだけど、
オカルト屋さんやファンタジー屋さんは、リアリズムにもちょっかい出してくるじゃないですか。
ありがちなんだけど。
そうするとリアリズムの世界だけで書いてる人間にしてみると、自分の作品がただの地味な作品に見えて困るのよねえ。
現実にはそんな面白い話は簡単にころがってない。
その制約のなかでいかに面白く、地味じゃない話を作るか。
起こりえることを、それが起こる前に思いつくことには意味がある。つまりは予言だわな。新規性。
手垢の付いてないストーリー。処女地の開拓。
起こった後なら取材だわな。ま、それにはそれで価値はあるが。
一番つまんないのはテレビか何かでみたような展開をご都合主義という糊で貼り合わせたような作品だよね。

「シン・ゴジラ」なんかは割と硬派な作りで、フィクションとリアリズムが一つの作品の中に共存しているんだが、
互いを極力侵さないようにしている。
しかしフィクションとリアリズムがお互いにもたれ合ってるのは見てて不快よね。
シン・ゴジラは、
ゴジラはフィクションなんだが、自衛隊や米軍はリアリズムでできてるよね、少なくとも前半までは。
ヤシオリ作戦からおかしくなる。ゴジラが気絶してるうちに口から注入するとか、
爆弾電車ぶつけるとかドリフのコントだよね。
ヤシオリ作戦は単なるエンターテインメントの怪獣映画になっちゃっててサービスのつもりかもしれないが、私にはつまらない。
まともかくフィクションとリアリズムは混ぜないでほしいというのが私の感覚。

feedly再開

なんか昔 google の feed reader があってそれがサポート切れしたんじゃなかったっけ。

それで feedly というのが出て来て乗り換えて暫く使っていたのだが、使うのやめにした。

しかし今の時代もブログをせっせと書いている人もいて、読んだほうが良い気がして feedly を再開した。
昔の subscribe がそのまんま残っていたので、やや手直し。

ソラリス総括

結局ソラリスを一から全部見直すことになってしまった。

ツタヤで借りてきたタルコフスキー版の DVD は 2013年製で、これは今年出た「新装版」Blu-Ray と内容的には基本的にはまったく同じものである、と思う。画質音質などに違いはあるのかもしれないが。タルコフスキー傑作選Blu-Ray Box を出すにあたりついでに「新装版」を出したということだろうと思う。それより前の DVD を入手するにはアマゾンあたりで中古を買うしかないようだが、そこまでする気にはなれなかった。

さて、ハリウッド版、というか、ジョージ・クルーニーが主演して、ジェームス・キャメロンとスティーブン・ソダーバーグが作ったソラリスだけども、最初の雨のシーンや、宇宙ステーションに流れているBGMがバッハなのは明らかにタルコフスキー版のオマージュである。レムの原作では、クリス・ケルヴィンは特に誰かに呼ばれたというわけでもなく、何かソラリスで事件があったからというわけでもなく、たまたま何かの通常任務としてソラリスに赴き、そこで宇宙ステーションの異常事態に気付くことになっている。ギバリャンとはかつて一緒に仕事をしたことがあるが、ギバリャンに呼ばれたわけではない。
ケルヴィンの肩書きはたしかに作中で「心理学者」と言及されているが、心理学者だからわざわざソラリスの非常事態に派遣されたのではない。そういうふうな書き方ではない。
ケルヴィンは物理学的な素養も充分持った、一般的な自然科学者として描かれている。

しかしソダーバーグ版では、冒頭でかなりの尺を使って、「精神科医」あるいは「セラピスト」として勤務しているクリスが描かれる。さらに、クリスは一人でベッドに寝ており、「私をもう愛してないのね」という女のセリフが流れることによって、昔つきあっていた女がいたが、今はいないことが示唆される。

そして、知り合いの科学者ジバリャン(原作ではギバリャン)が、ソラリスからビデオメッセージで助けを求めたのでクリスがおもむくことになる。そのメッセージは謎めいていてよくわからない。ジバリャンはいかにも心を病んでいるようにみえる。

このイントロは、おそらくアメリカ社会において、心理学者とか精神科のカウンセラーというものが日常生活に浸透していて、その「わかりやすさ」をシナリオに利用したのだろう。アメリカ人でない私には最初良くわからなかったが。原作にはそんなニュアンスは一切無い。

クリスがソラリスに着いてみるとジバリャンはすでに自殺していた。見ている側では、ああ、ジバリャンは心を病んでとうとう自殺を図ったんだなと思う。クリスは間に合わなかったんだなと思う。そう思えば自然な流れだ。それからスノウ(原作ではスナウト)とゴードン(原作ではサルトリウス)に会う。ジバリャンが何故死んだのかを聞き出すためだ。これまた自然な流れだ。ここまでSF的要素は極めて希薄である。スノウやゴードンという名前もおそらくはSF色(というかロシア色)を消すために変えてある。ソラリスというものについても何も説明されない。単に、クリスはジバリャンの心の治療のために宇宙まで呼び出され、患者はすでに自殺していたという流れだ。レムの原作を知って見ていると何が言いたいのかよくわからない展開だが、先入観無しに見ればそういうことになるはずだ。

いよいよ死んだ妻レイア(原作ではハリー)がクリスの元に現れる。セラピストのクリスが妻を自殺で死なせたという伏線がここで生きてくる。セラピスト自身がソラリスの謎の心理現象に対峙することになるわけなのだが、以後、妻との不仲と和解というものがしばしばメインテーマとなるハリウッド映画路線を突っ走ることになる。死んだ妻との再会、懺悔。ある意味アメリカ映画にありがちな、オカルト的な展開と言えなくもない。

これもハリウッドの事情を知らず、レムの先入観を持っている私などがみると、なんとも意味不明に見えてしまう。おそらくアメリカでは倦怠期の夫婦が映画を見に行くことが多いのだろう。精神科医やカウンセラーに夫婦仲を相談するということも一般的。そういうアメリカ社会の背景を下敷きにしいてみると、やっとこれがすごくわかりやすい映画なんだってことがわかる仕掛けなのである。

でまあそこまで考えてみるに、この映画の脚本家は一応大衆向けの映画を作る気でいたのに違いない。別に難解なソビエト映画のリメイクをやろうとしたのではないのだ。

アメリカではたぶん、男一人で、あるいは女一人で、映画を見に行くというのは罪悪に近いのではないか。だから、アメリカではオタクな映画は流行りにくい。男女の恋愛というものが描かれないと映画館に人を呼びにくい。きっとそういう事情がある。日本で子供向けの映画が流行るのと同じ理由だ。

われわれは自分を聖なる接触の騎士だと思っている。ところがそれが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の世界だけで充分だ。ところが、その地球はまだなんとなく住みにくい。そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。広い宇宙には、地球の文明よりももっと完全な文明をもつ世界があるにちがいない。また、非常に幼稚であったわれわれの過去の生きうつしであるような世界もあるだろう。

原作でレムはスナウトにそう言わせている。これがレムのSFなのだ。他人が書くSFとの違いをここまではっきり丁寧に説明している。レム以外のSFというのは要するに人間自身を映している鏡に過ぎず、実際に起こり得る地球外生命との接触などというものからほど遠いのだ、レムはそう言いたいのである。レムの小説を読む価値はここにある。レムと一緒になって、ほんとうの未知との遭遇とはどんなものだろうかってことをあれこれ思考実験する。人間の持つ先入観と戦う作業。しかしそれでは世間一般のSFにはならないし、ソビエト映画にもハリウッド映画にもならない。観客を映画館に呼ぶこともできない。

ソダーバーグ版の見どころを一つ言えば、スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。難点を言えば、これは人類に不変な真実を描いたものではない。私に言わせればこれはハリウッド映画にありがちな、アメリカ人のオナニーというのに近い。

wikipedia にも書いてあるのだが、90分に縮めた日本語吹き替え版は、レムの原作に近いという意味では良く出来たものになっていると思う。おそらくタルコフスキーよりはレムに同情的な人が、台詞やナレーション、効果音などをふんだんに補完して編集したのに違いない。ある意味力作だと言える。ただしタルコフスキー的要素を完全に切り捨てられなかったために、ラストが意味不明になってしまっている。誰かがレムの小説に忠実に映画化すれば良いのに。そうすればソダーバーグ版やタルコフスキー版を理解する助けになるだろう。

「君の名は。」が大ヒットしたというのだが、
一部の年齢層の一部の客が見に行って、延べ100万人超えたというだけのことだろう。

よくわからんのだが、
試写招待券はともかくとして、先行上映券や前売り券、平日鑑賞券なんかをばんばんばらまけば、
興行成績というのはかなり盛ることができるのではなかろうか。
実質どのくらい収入があったのだろうか。

私も某演劇を無料で見せてもらったことがある。
知り合いのコネさえあれば、見ようと思えば、人気の無い公演ならばいつでも見られるようだ。
そういうからくりはきっとあるはずだ。
映画館だってホテルだって、開店休業よりは、たとえもうけはほとんどなくても、
少しでも客を入れたほうがマシだと思うだろう。

100万人と言えばなんとなく気分で多いように思うが、
実は大したことないのではなかろうか。

シン・ゴジラは、やらせ無しでガチンコで客を呼んだのではないかと思う。
誰かそういう裏話をしてくれないだろうか。
知っている人はもっと詳しく知っているはずだ。

wordpress

tanaka0903.net が固まっていた。JetPack とか All in One SEO などのプラグインのせいであるのは明らかだ。いまどきアフィリエイトもやらずに、非力なレンタルサーバーで、プラグインも使わずに、wordpress を使い続けることにどんな意味があるのだろう。だがまあ、ともかくこのまま使い続けてみようと思う。もしかするともう少しうまい方法がみつかるかもしれない。facebook と連携なんてアホなことをやるのはやめた。

保育園だが、駅前の商業地に建てれば誰も文句の言いようがないのだが不動産が高い。
逆に第一種低層住宅地なんかはもともと閑静な住宅街であって地価も高いから、
というより地価が高すぎてここにも保育園は作りにくい。
私の予測では、そのどちらでもない、駅から近からず遠からずみたいな、
比較的土地が安くて規制が緩いあたりをねらって保育園を作ろうとするのだろうと思う。

共稼ぎ夫婦が子供を預けるのだから、保育園は駅近にあれば良いに決まってる。
ビルの中に作れば良いのだ。
それをなまじ住宅街の中に作ろうとするから住民の反発を受けているに過ぎないのではないか。

風俗店やパチンコ店が住宅街に進出しようとすると、世論は住民の味方をするが、
保育園が入ろうとすると、保育園の味方をする。
「待機児童の削減」とか「少子化対策」という耳障りの良い言葉を使って。
そういうのをダブルスタンダードっていうんじゃないの?

私はずっと自分は右翼だと考えているのだが、
たまに自分は左翼なんじゃないかと思うことがある。

ま、問題は住宅地なのか商業地なのかグレーな土地が存在してるってことで、
そういうところに保育園が進出するのは是か非かということだと思う。
行政と住民と事業者がじっくり話し合って解決していくことだろう。
そしてそういう問題は杉並とか世田谷などごく一部の特殊地域にしか発生しない問題だ。
たいていの世論は、当事者ではないヨソモノが、
議論の余地なく住民が悪い、年寄りが悪い、老害だ、
ということにしてしまう。
なぜなのか。

もともと小学校や中学校があってその周りに家を建てるのは建てるほうの勝手だが、
家を建てたとなりに学校を建てるとしたらもといる住民が怒るのは当たり前だ。
昭和の復興期と今じゃ事情が違うのも当たり前だ。
昔、町の子供は空き地、つまり資材置き場で遊んでいた。
ドラえもんやど根性ガエルなんかが描いた杉並区には、
そういう工事現場に土管が置いてあったものだ。
私も子供の頃は田んぼを埋め立てる土砂捨て場のようなところで、
粗大ゴミを集めてきて「秘密基地」を作って遊んだ。
そんなことが今の時代に許されるわけがない。
他人の私有地を子供の遊び場みたいに使えるはずがない。よほどの田舎じゃなきゃ。
当時はきっとたくさんの子供が怪我をしたり死んだりしたはずなのだ。
あの頃は子供もたくさんいたから多少死んでも問題になりにくかった。

保育園の問題だって、昔は子育ては郊外や田舎に家を買ってやるのが当たり前だったから、
問題にならなかったのだ。
今は無理矢理35年ローンかなんか組んで都心に住みたがる夫婦が多すぎる。
都心に依存しすぎているんだ。
そのことのほうがずっと大きな問題のはずじゃないか?

このブログとfacebookを連動したのだけど、
いまいち使い道がわからない。
いっそのことこのドメインもブログも廃止してfacebookあたりに一本化しようかとも考えている。
hatena にすることも考えたが、使い勝手がいまいちでやめた。

このドメインは私が死ねば3年以内に消滅して archive.org にしか残らないだろうし、
独自ドメインを持っている意味もない気がする。
レンタルサーバーを持ち続けて、linux なんかの最新動向においついていくことにも、
いまさらあまり意味がない気もする。

booklog あたりに昔 puboo で書いてたころの残骸が残っていて、
ぜんぶざっくり処分したいのだが手も足も出ない。
いろんなことをやるたびにネットに残骸が残っていくのは気持ち悪いが、
私以外の人は特に気にしないだろうし、
気にする人がいたとしても、そんなに大した問題でもないから放置するしかない。

タルコフスキーのソラリス

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は後から付け足したのかもしれない、などと書いたのだけど、タルコフスキーはそれに気付いていたか、或いはレムから直接聞いたのかもしれない。その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。前振りになっていない上に邪魔ですらある。レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。車でバートンとその息子が到着する。この家には少女と馬と犬がいる。この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、バートン報告のビデオなどないし、ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。バートンは息子を連れて帰る。その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。

廃仏毀釈

明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。

神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。

神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、神仏分離という原則が当然発動する。この信仰は千年を経ても風化しなかった。

天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、上皇になってしまえば出家することができる。同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。

しかしそういう明確な線引きができない神社では、神道は仏教によって際限なく侵食されていく。出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。

八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。

明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺、そして権現社であった。八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、それがために攻撃された。

それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、無茶な命令を出すこともあった。しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。

神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である(家康の宗教音痴と仏教優遇はそれに拍車をかけた)。上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない(というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、ある程度まで見直される必要があった。

廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。その後、仏教そのものの衰退によって、「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。

日本には寺が多すぎる。江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。特に関東の人間にはそれがわからない。平気で寺の隣に神社を建てたりする。京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。神道と仏教は本来別物なのだから区別しなければならない、という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎる。神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。

鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。

もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、反発する日本人は少なくないだろう。しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。

神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、かろうじて染まらなかったのは幸いだった。