明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。
神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。
神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、
物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。
同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。
神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。
タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、
タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。
皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。
神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。
神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、
神仏分離という原則が当然発動する。
この信仰は千年を経ても風化しなかった。
天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、
上皇になってしまえば出家することができる。
同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、
神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。
ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。
天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。
平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。
しかしそういう明確な線引きができない神社では、
神道は仏教によって際限なく侵食されていく。
出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。
八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。
明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺であった。
八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、
仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。
奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、
また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、
それがために攻撃された。
それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、
一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、
無茶な命令を出すこともあった。
しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、
平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。
神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、
しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である。
上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない
(というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。
明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、
清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、
仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。
特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、
江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、
ある程度まで見直される必要があった。
廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、
神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、
神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。
また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。
ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。
仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。
その後、仏教そのものの衰退によって、
「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。
日本には寺が多すぎる。
江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。
特に関東の人間にはそれがわからない。
平気で寺の隣に神社を建てたりする。
京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。
その、神道と仏教は区別しなければならない、
という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎるのである。
神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。
鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、
南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。
しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。
もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、
キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、
反発する日本人は少なくないだろう。
しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。
神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、
かろうじて染まらなかったのは幸いだった。