日本歌学大系 別巻

久曾神 昇 編纂

### 1

* 『難後拾遺抄』源 経信/著
* 『綺語抄』藤原仲実/著
* 『和歌童蒙抄』『五代集歌枕』藤原範兼/著

### 2

* 『袖中抄』顕昭/著
* 『色葉和難集』
* 『歌語索引』

### 3

* 『万物部類倭歌抄』藤原 定家/著
* 『八雲御抄』順徳天皇/著
* 『和歌手習口伝』

### 4

* 『万葉集時代難事』
* 『柿本朝臣人麿勘文』
* 『勅撰和歌作者目録』
* 『古今集序注』
* 『古今集注』
* 『拾遺抄注』
* 『後拾遺抄注』
* 『詞華集注』
* 『五代勅撰』
* 『散木集注』顕昭/著

### 5

* 『顕秘抄・六百番陳状』顕昭/著
* 『顕注密勘抄』顕昭/著 定家/著
* 『僻案抄』定家/著
* 『後撰集正義』
* 『堀河院百首聞書』

### 6

* 『古六歌仙』
* 『新撰和歌集』
* 『金玉集』
* 『深窓秘抄』
* 『十五番歌合』
* 『三十人撰』
* 『三十六人撰・甲』
* 『公任卿撰歌仙・乙』
* 『佐竹本三十六歌仙・丙』
* 『古三十六人歌合・丁』
* 『古三十六人歌合・戊』
* 『古三十六人歌合・己』
* 『古三十六歌僊秘談・庚』
* 『玄々集』
* 『中古三十六人歌合』
* 『後六々撰』
* 『続歌仙三十六人撰』
* 『中古歌仙』
* 『新六家撰・甲』
* 『新六歌仙・乙』
* 『新六歌仙・丙』
* 『新六歌仙・丁』
* 『勅撰六歌仙・戊』
* 『新六歌仙・別』
* 『新続六歌仙・別』

### 7

* 『和漢朗詠集』藤原 公任/編
* 『新撰朗詠集』藤原 基俊/編
* 『両朗詠集索引』
* 『和歌一字抄』藤原 清輔/編
* 『和歌題林抄』一条 兼良/編
* 『歌林良材集』一条 兼良/編
* 『続歌林良材集』下河辺 長流/編

### 8

* 『拾花集』
* 『私玉抄』
* 『六花集』
* 『和歌部類』
* 『松緑集』尭慶/著
* 『特殊技巧歌』日導/著

### 9

* 『長歌言葉珠衣』小国 重年/著
* 『長歌撰格』『短歌撰格』『文章撰格』橘 守部/著
* 『古風三体考』田中 芳樹/著
* 『歌体緊要考』大江 東平/著
* 『長歌規則』源 知至/著

### 10

総合索引

日本歌学大系

佐佐木 信綱 編纂

### 1

* 『[歌経標式](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E7%B5%8C%E6%A8%99%E5%BC%8F)真本』[藤原 浜成](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B5%9C%E6%88%90)/著
* 『歌経標式抄本』藤原 浜成/著
* 『[倭歌作式](https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%80%AD%E6%AD%8C%E4%BD%9C%E5%BC%8F)』喜撰/著
* 『和歌式(孫姫式)』孫姫/著
* 『石見女式』
* 『新撰万葉集序』菅原 道真/著 源 当時/著
* 『古今和歌集序』紀 貫之/著 紀 淑望/著
* 『新撰和歌序』紀 貫之/著
* 『和歌体十種』壬生 忠岑/著
* 『和歌十体』源 道済/著
* 『類聚証』藤原 実頼/著
* 『新撰和歌髄脳』
* 『新撰髄脳』『九品和歌』藤原 公任/著
* 『能因歌枕略本』『能因歌枕広本』能因/著
* 『隆源口伝』隆源/著
* 『俊頼髄脳』源 俊頼/著
* 『奥義抄』藤原 清輔/著
* 『和歌童蒙抄巻第10』藤原 範兼/著

### 2

* 『袋草紙2巻』『和歌初学抄』藤原 清輔/著
* 『歌仙落書』
* 『続歌仙落書』
* 『贈定家卿文』西行/著
* 『西行上人談抄』蓮阿/著
* 『千載和歌集序』藤原 俊成/著
* 『慈鎮和尚自歌合』
* 『十禅師跋』『古来風体抄 ― 初撰本』『古来風体抄 ― 再撰本』藤原 俊成/著

### 3

* 『後鳥羽天皇御口伝』後鳥羽天皇/著
* 『八雲御抄巻1・2・6』順徳天皇/著
* 『和歌色葉』上覚/著
* 『三体和歌』
* 『新古今和歌集序』藤原 良経/著 藤原 親経/著
* 『無名抄』『瑩玉集』鴨 長明/著
* 『近代秀歌』『詠歌大概『毎月抄』『秀歌大体』『百人秀歌』『小倉百人一首』『和歌秘抄』藤原 定家/著
* 『先達物語』藤原 定家/ほか著
* 『越部禅尼消息』俊成女/著
* 『八雲口伝』藤原 為家/著
* 『追加 ― 慶融法眼抄』慶融/著
* 『夜の鶴』阿仏尼/著
* 『竹園抄』藤原 為顕/著
* 『水無瀬の玉藻』

### 4

* 『和歌口伝』源承/著
* 『秋風抄序』真観/著
* 『簸河上』真観/著
* 『野守鏡』源 有房/著
* 『歌苑連署事書』
* 『為兼卿和歌抄』京極 為兼/著
* 『和歌庭訓』『和歌用意条々』『延慶両卿訴陳状』二条 為世/著
* 『和歌大綱』
* 『悦目抄』『和歌無底抄』藤原 基俊/著
* 『和歌肝要』藤原 俊成/著
* 『定家物語』『桐火桶』『愚秘抄』『三五記』『愚見抄』『定家十体』『未来記』『雨中吟』『和歌口伝抄』藤原 定家/著
* 『玉伝集和歌最頂』
* 『深秘九章』
* 『阿古根浦口伝』

### 5

* 『代集』
* 『井蛙抄』頓阿/著
* 『愚問賢注』二条 良基/著 頓阿/著
* 『近来風林』二条 良基/著
* 『耕雲口伝』耕雲/著
* 『和歌所へ不審条々』『了俊 ― 子伝 ― 弁要抄』『落書露顕』『師説自見集』今川 了俊/著
* 『徹書記物語(正徹物語)』正徹/著
* 『清巌茶話』蜷川 新右衛門/著
* 『冷泉家和歌秘々伝』
* 『心敬私語』心敬/著
* 『東野州聞書』東 常縁/著
* 『兼載雑談』猪苗代 兼純/著
* 『筆のまよひ』飛鳥井 雅親/著
* 『かりねのすさみ』素純/著

### 6

* 『初学一葉』三条西 実枝/著
* 『聞書全集』細川 幽斎/著
* 『和歌講談』冷泉 為満/著
* 『耳底記』烏丸 光広/著
* 『戴恩記』松永 貞徳/著
* 『資慶卿口伝』『資慶卿消息』『資慶卿口授』烏丸 資慶/著
* 『光雄卿口授』烏丸 光雄/著
* 『渓雲問答』中院 通茂/著
* 『初学考鑑』武者小路 実陰/著
* 『詞林拾葉』似雲/著
* 『和歌教訓十五個条』『内裏進上の一巻』『聴玉集』烏丸 光栄/著

### 7

* 『林葉累塵集序』下河辺 長流/著
* 『万葉代匠記〈初稿本〉惣釈〈抄〉』『万葉集代匠記〈精撰本〉惣釈〈抄〉』『河社〈抄〉』契冲/著
* 『寛文五年文詞』『梨本集』戸田 茂睡/著
* 『国家八論』荷田 在満/著
* 『国歌八論余言』田安 宗武/著
* 『国歌八論再論』荷田 在満/著
* 『国家八論余言拾遺』『国歌論臆説』賀茂 真淵/著
* 『臆説剰言』田安 宗武/著
* 『再奉答金吾君書』賀茂 真淵/著
* 『歌論』田安 宗武/著
* 『国歌八論斥非』大菅 公圭/著
* 『国歌八論斥非再評』藤原 維斉/著
* 『国歌八論評』伴 蒿蹊/著
* 『歌意考〈草稿本〉』『歌意考〈精撰本〉』『にひまなび』『古風小言』『県居歌道教訓』賀茂 真淵/著
* 『あしわけ小船』『石上私淑言』本居 宣長/著
* 『歌と詩のけぢめを言へる書』横井 千秋/著
* 『百千鳥』丘岬 俊平/著

### 8

* 『五級三差』富士谷 成章/著
* 『五級三差弁』『【タ】南弁乃異則』『歌道非唯抄』『真言弁』『北辺髄脳』富士谷 御杖/著
* 『真幸千蔭歌問答』『答小野勝義書』加藤 千蔭/著
* 『贈稲掛大平書』村田 春海/著
* 『答村田春海書』稲掛 大平/著
* 『再贈稲掛大平書』『歌がたり』村田 春海/著
* 『ふるの中道』『ふりわけ髪』小沢 蘆庵/著
* 『新学異見』『古今和歌集正義総論』『桂園遺文』香川 景樹/著
* 『大ぬさ』中川 自休/著
* 『大ぬさ弁』丹羽 氏曄/著
* 『歌学提要』内山 真弓/著
* 『歌のしるべ』藤井 高尚/著
* 『歌の大意』長野 義言/著
* 『こそのちり』『ひとりごち』大隈 言道/著

### 9

* 『歌道大意』平田 篤胤/著
* 『歌林一枝』中神 守節/著
* 『言葉の直路』松田 直兄/著
* 『八雲のしをり』間宮 永好/著
* 『新学異見弁』業合 大枝/著
* 『調の説』『調の直路』八田 知紀/著
* 『古今集正義序注追考』『古今集正義総論補注』熊谷 直好/著
* 『古今集正義総論補注論・同弁』八田 知紀/著 熊谷 直好/著
* 『稲木抄』『垣内七草』『歌道大意』『園の池水』伴林 光平/著
* 『翠園応答録』鈴木 重嶺/著

### 10

総索引

胸焼けとじんましんは年老いた私の宿痾となってしまった。
せいぜい飲酒を減らそう。

有利子の奨学金が、とか、国立大学は学費無料に(あるいはもっと安く)、などの話があるのだが、
たとえば東大の学生は今やほとんど高学歴高収入の家庭の子であって、
そういう人の学費を無料にしてやることにはほとんど意味がない。
ほんとうに貧乏な家庭の子であれば、たいていの大学では学費免除・減免などの制度がある。
優秀な学生が欲しい私学などは特待生制度などを用意している。
例えば近畿大学では四年間授業料と教育充実費の全額を免除する制度があるようだ。

学力が高いのだが、貧乏なために、大学に進学できないという、「社会的損失」な事例というのは、
ほとんどのケースでは救済されていると思われるのである。
もし救済されてないのならばなんとかしなくてはならないが、問題はそれ以外の場合である。

そのような恩恵にあずかれない(つまり学力が並か低い)のに、どうしても大学に行きたい、
或いは保護者がなんとか大学くらい行かせたいのであれば、すれば良い。
奨学金が貰えるあてがなく、従って有利子で返済義務のある奨学金を借りてまで大学に行きたいというのは、
大学に行ったほうが生涯賃金が多くなるという計算によるわけで、
それは自己責任というべきだろう。
子供が減って、短大や専門学校はほとんど四大に改組されてしまった。
つまりかつては短大生や専門学校生レベルだった大学生がたくさんいるわけである。
そういう人たちにも、奨学金を与えて安易に大学に進学できるようにすることには問題がある。

伏見宮家

ssdのhpの安いノートPCを仕事用に買ったのだが、win7だったので、
いじらないうちにwin10にアップグレードした。
ssdだと5時間くらいバッテリーもってくれるかなという期待で。

chromeブックだと安いし7時間くらい平気でもつのだが、あまりにも使いにくいので、もう使うのやめる。
なんかのサブには使うかもしれんが。

じんましんとか胸やけはどうも飲酒がきっかけで発症するらしく、
年をとって体力が落ちているのと病気の合わせ技だってことがほぼわかってきた。
そうだな。こんなに無茶な飲み方するからいけないんだ。
とにかく養生。

思うに、伏見宮初代栄仁親王は崇光天皇の皇子なので親王宣下されたけれども、
その栄仁親王の皇子治仁王は親王宣下されなかった。
治仁王の弟の貞成王も最初は親王宣下されなかった。
ところが称光天皇が病気で危篤になると、貞成は後小松院の猶子として親王宣下を受ける。
しかるに称光天皇が病気から快復すると貞成親王は出家して道欽入道親王となる。
いったん親王となった皇子が出家した場合は法親王とはいわずに入道親王というのかもしれないが、かなり異例だ。
結局、称光天皇は跡継ぎなく崩御し、
後小松院は道欽入道親王の皇子彦仁王を改めて猶子とし、称光天皇崩御の後譲国の儀をもってこれを即位させ後花園天皇とする。

後花園天皇が実母弟の貞常親王に勅許して、伏見宮を世襲親王家としたのは、
今後も称光天皇のように血統が絶える危険があることを認識していたからだろう。
その際に、称光と貞成のような、つまり大覚寺統と持明院統のような対立が二度とあってはならないので、
伏見宮家があくまでも分家であるというけじめをつけることにした。

春一番吹きたる日に酔ひて詠める

ツイッターにツイートしたのを適当に直してある。

> つれづれと 行き交ふ人を ながめつつ いくさかづきを けふもかさぬる

> しるしなき ことを思はず しるしなき 酒だに飲まで 世を過ぐさまし

> おほかたの 酒てふ酒は 飲みつれど 我が世に何の 慰みはありし

> 浮かれよと 春のあらしは 吹きぬれど 酔ふほど沈む 我が心かな

> 春は来て 人みな春に 酔ひしれむ 千代よろづよの 春のごとくに

> 春を待つ 心づもりも なきままに けふしもまだき 春風ぞ吹く

> いまさらに 春はたのまじ 春来とて やまひの癒ゆる ものならなくに

> 使ひても むなしきものは ひとときの 酔ひをあがなふ 金にぞありける

> あらがねの 土より生まれ あらがねの 土へとかへる 我が身なりけり

> 五十路にて 名を残したる 信長に 我もならまし 焼け死なむとも

最近何もなくてもじんましんとか胸焼けがするようになったのは、
病気、あるいは、
病気を抑えるための薬からくるストレスではなかろうかと思うのよね。
あるいは更年期障害?
よくわからんが体調があまりよろしくない。

宮家

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思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」
というのはなんかおかしな感じである。
誰がそんなことを言い始めたのだろうか。
佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。
かといって親王宣下されたわけではない。
だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。
だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、
それを言い出した人はそうとうな山師だ。
まったく同じことは後南朝でも起きた。
後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。

南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、
例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、
北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。
これは南朝に対抗するために違いない。
特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、
持明院統と特別に対立しているわけではない。
かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。
また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、
京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。
彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。

伏見宮家は北朝から分かれたが、
本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。
これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。

閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。
これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。
閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。

ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、
戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。

本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。
せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、
全滅してしまっている。
白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。
むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、
まだ血は近かったのに違いない。

思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、
伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。
これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。
その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、
百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。
すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。
ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、
いつ王国が復活するかわからないわけだが、
余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。

明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。
一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、
中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。
それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、
宮家を創設するようになったから大混乱だ。

江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。
それは室町期でも同じだ。
皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。

最近なんどかつづけてじんましんが出たり、胸焼けしたりして、
薬も少し変えたし、体調悪いんだか、体力落ちてるんだか、ともかく健康がいろいろ不安。

胸焼けの理由はたぶんある種のマーガリンかバタークリームだろうと思う。
謎のチョコレートや謎のトルコ料理などで当たるらしい。

じんましんは、たぶん外食でなんか変なもの食べたんだと思うが、
生ものかなと思うのだが、あちこちハシゴするので特定しにくい。
ていうかハシゴやめたほうが良いと思う。
ともかく体大事に。

身内はどちらかと言えば長生きな人が多いのだが、
私はそれほど生きられない気がする。
五年前心臓やられて以来何時死んでもおかしくない状態が続いているのだが、
それでも飲み歩きはやめてない。

調べれば調べるほどに謎は増える。
知らないでいれば知ってるような気でいるが、
少ししってしまうと謎が謎を呼んで増殖していく。
ヨハンナ・シュピリにしてもそうだ。
ドイツ語の文献に直接あたればほぼ完全に調べられるはずだ。
しかしそういう文献にあたるのがはげしくめんどくさい。
たぶんチューリヒ辺りに数年住んで図書館通いしてりゃ調べられるんだけど、
今更ドイツ文学の研究者にはなれない。
若い頃からずっとそうだったらともかく。
やらないよりはやったほうが良いことはいくらでもあって、
でもそれ全部やっていると寿命が足りないから、手をつけられないことはある。

最近なんとなくわかってきたが、ドイツ語の文献を直接日本語に訳す人はまあいない。
もちろんドイツ語がすごく得意な人ならできるのかもしれない。
しかし普通は、ドイツで人気が出て、それがアメリカで紹介されるなり訳されるなりして、
それから英語とドイツ語原文を見比べると、かなり安全に邦訳できるわけだ。
そこまでこないと普通日本には伝わってこない。
ドイツのニュースなんかもだいたいそうだわな。
なんとなくだが telegraph とか guardian みたいなイギリスのジャーナリズムが英語で紹介して、
さらにアメリカに行って、そこから日本に来てる感じがする。
もちろんドイツ語のニュースを直接読んでいる人はたくさんいるに違いないが、
英語で裏を取るとか、重要性をフィルタにかけるとかしてる感じがする。
つまり何が言いたいかと言えば、
僕等は、わざわざアメリカというメガネを通してドイツを見てるってこと。
つまりアメリカ以外何も見てない見えてないってことになるかもしれない。

ヨハンナ・シュピリはまずその作品のすべてが英訳されているわけではない。
書簡や伝記もまあ普通に訳されてない。
書簡全部読んでヨハンナの人間関係徹底的に洗い出せば、
小説に出てくる人物のモデルをかなりの精度で特定できるはずだ。
その作業をしたい気もするが、めんどうくさい。
それよりか、日本人として、きちんと和歌とか、定家とか、宣長とか、小林秀雄とかを調べたほうが良い気がする。
そういう文献は、最悪でも国会図書館に行けば入手できないものはないだろう。
まあ、崩し字で書かれてたりどこかの大学図書館にしかなかったりすると泣きそうになるが、
どうしても必要ならば調べて調べられないことはない。
しかしドイツ語だともうどうしようもない。
どうでも良いところで手間ばかりかかるということになる。
ウィキペディアは割と便利だが、あるところから先はやはり書いてない。

ヨハンナの伝記だが、まあ、適当に検索して引っかかるような紀要論文なんかだと、
数種類の日本語の文献に由来しているように思われる。
高橋健二という人はかなりきちんと仕事した人なのだが、
この人が書いたことを(間違いもそのままに)引用しているだけのものが多すぎる。
その他に若干、巻末の解説みたいな形でヨハンナの伝記を紹介したものがあるようだ。
全部読んでみたいが、これ以上ヨハンナに手間ひまかける必要があるのかという気もする。
1871から1872までに書かれた彼女の処女作品、
つまり今度『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』として出すやつを読めば、
だいたいヨハンナという人がどんな人であったか、
『ハイディ』はどういう意図で書かれたってことの輪郭はわかる。
今まで日本人に紹介されなかったことがずいぶん補完された、はずだ。
さらに緻密に分析して推測で埋めていた部分を確証と置き換えていく作業、
いろんな文献をあたって、
自分の予想が当たって(或いは外れて)確証に変わるのがおもしろくて僕等は研究をやっているわけだ。
でも、これ以上は必ずしも私がやらなくても良い気がする。
日本にはまだまだドイツ文学の研究者はたくさんいる。
しかしまだ研究されてないこと、日本に紹介されてないことが多すぎる。
紹介されているのはだいたいキリスト教かユダヤ教関係、つまり牧師さんか誰かの仕事だ。
彼らはおそろしくマイナーな仕事まで手をつけている。
ただ仕事のやり方や手の付け方にはかなり偏りがある。
アルントの『真のキリスト教』は読んでみたいし、
パウル・ゲルハルトの詩とか、JSバッハのカンタータとか、
みんな読んでみたいが、明らかに私の処理能力を超えている。
だれかが日本語訳しててくれればこんなに苦労しないのに。

ヨハンナ・シュピリの謎の一つ、
1871年から1872年まで「宗教的ジュヴナイル」を書いていた。
1878年頃から児童文学を書くようになる。
その空白の5、6年間、ヨハンナには何があったのか、何故児童文学を書こうと思ったのか。
この時期に「ハンブルクとヘルゴラント島」を舞台にした小説があったらしいが、
1878年に紛失したらしい。
それで出版社も変えたというのだが、その出典が良くわからない。
ただし、1878年には
Am Silser- und am Gardasee (ジルス湖とガルダ湖のほとりで)
Wie Wiseli’s Weg gefunden wird(ヴィーゼリの道はどうやって見つかるか)
といったかなり長編の児童文学を出版しているので、
おそらくだが、「ヘルゴラント」もまたそのようなものだっただろうと想像できる。
「ハイディ」もその路線で書かれたものだが、
「ジルス湖とガルダ湖」や「ヴィーゼリ」に比べるとあまり童話ぽくない。
初期の「宗教的ジュヴナイル」路線と童話路線の折衷みたいなよくわからない構成になっている。

まともかく「フローニ」が処女作なのはまず間違いない。

それで「若い頃」に出てくるクララ、「彼らの誰も忘れない」のザラ、
「故郷でそして異郷で」のマルタは、いずれもヨハンナ自身がモデルになっている。
クララと「私」の関係はヨハンナとマイヤー夫人の関係のようにも見える。
このマイヤー夫人とやりとりした書簡というのも読んでみなくてはならないのだが、
非常におっくうだ。
私はいまだにわからずにいる。ヨハンナは最終的に信仰を受け入れたのかどうか。
クララがヨハンナだとすれば、ヨハンナは結局一人の合理主義的知識人として信仰に疑いを持ち続けたのかもしれない。

京極派の末裔2

話を整理してみると、

鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。
ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。
宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。
正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。
異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。
ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、
二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、
つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、
二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。
二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、
冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。
その傾向は、
常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。
つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、
思いついたままを歌にしてみる。
ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、
その両方を楽しんでいた。
後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。
ある意味そうかもしれない。
宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。

そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。
松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。
人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。
松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。
このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。
正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。
京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。
たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。
そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、
正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、
堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。
彼は逃れようとした。
しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、
彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、
江戸より昔ではなく、
江戸初期に起きたことなのである。
江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

> 東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、
そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。
頓阿の歌論は宗祇に負けず劣らずひどい。
そして彼らがよってたかって小倉色紙なるものを偽造したのだ。

> 幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。

> ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、
後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、
宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。
この見立てはよい。

> 後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。
しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、
金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。
逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。
私にはそうは思えない。
なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。
しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、
彼らから京極為兼が生まれてきたのである。
また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。
九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。
そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。
為家は確かに生まれながらの「正風」である。
題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。
しかし定家はかならずしもそうではない。
為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。
定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

> 為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、
やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。
たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。
こういうものを宣長は完全に無視している。