藤原氏も徳川氏も大差ない。

投稿者: | 2010年7月20日

思うに、徳川氏だって、武力によって強権的に統治していたのではなく、
常備軍を撤廃し、諸侯の軍事行動も極力抑制・抑圧し、
武装解除に近いことをして、
鎖国やキリスト教の禁令などによって生産性や社会的な発展を犠牲にし、
天皇家の権威を飼い慣らして、
「無為な大平」状態を作り出すことによって、
世の中を治めたのだ。
天皇家や藤原氏がかつて平安時代に統治した方法と大差ない。
足利氏とも大差ない。
実際、黒船が来たり外様大名が本気で蜂起したらひとたまりもなかったではないか。
日本では為政者は戦争状態でないときには常備軍を持たないし、
定期的に動員することもない。
ある意味で、それがまずい。
常備軍を持ち、常に臨戦状態だったのは(戦国時代は別として)鎌倉幕府の北条氏くらいだろう。
さぞ神経をすり減らしたに違いない。
源氏や足利氏、天皇家など、身分の高い家柄も統治し得たのは奇跡に近い。
北条氏はおそらく日本で初めて本当の「政治」を行ったというところが強みなのだろう。

ところで、応仁の乱によって、守護大名は京都に常駐しなくなった。
それまで守護職は一応将軍の命令で赴任するものだったのだが、
勝手に領国を取り上げたり与えたり鎌倉公方を廃しようとした義教が殺されたりしたもんだから、
守護大名はいわば勝手に実力でなるようになった。
応仁の乱で大名は領国から出てこなくなる。
足利幕府は合議制で成立していたから、
有力大名が京都に常駐しないから、幕府そのものが存在しないと同じ状態になる。
そうすると守護大名たちは幕府という行政・司法が存在しないから隣国と勝手に交戦するようになる。
守護職も形式的に将軍に事後承諾を取る形になる。
だから自然と戦国時代に突入する。

応仁の乱というのはつまり単に山名氏と細川氏が一定の和解に達して終了したことになっているが、
実はそのまま戦国時代につながっているということがわかる。

また、応仁の乱を避けて京都から公家が地方に散ったために地方文化が栄えたというのだが、
たぶんそれは嘘だ。
京都の戦乱はたかだか3、4年程度の散発的なものだったはずで、その程度で公家が地方に行きっぱなしになるはずがない
(公家は宮中行事に関わることで食いつないでいるのだから、地方で生きていけるはずがない。
明治の奠都でほとんどの公家が天皇と一緒に東京に移り住んだようなもんだろ)。
太田道灌等のように、地方の武士が文化の担い手になったというだけだと思う。
当時の地方武士はすでにそのくらいの教養はあっただろう。

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