子母沢寛

子母沢寛という人は、彰義隊や新撰組のことばかり書いているので、
てっきり江戸っ子か何かかと思っていたのだが、wikipedia を読むと彼の出自はさらに濃い。
祖父が彰義隊に参加した江戸の御家人で、
箱館戦争までつきあって敗れてそのまま北海道に定住したのだという。
まあそれで東京の大学を卒業して新聞社に勤務するかたわら、
彰義隊や新撰組の生き残りやその子孫らにいろいろと取材をして、
それがつもりつもって小説家になったというわけだな。

私が子母沢寛の小説をいつ初めて読んだか、もう思い出せもしないのだが、
最初に読んだのは「新撰組始末記」か「脇役」だっただろうか。
こんなものをいきなり自分で選んで買って読むはずもなく、
おそらく祖父が残した文庫本を読んだと思う。
「情人(いろ)にもつなら彰義隊」というセリフが出てくるのだが、
これは子母沢寛の祖父の幻影だったわけなのだ。

新撰組ならともかく彰義隊を知っている人がそんなに居るとも思えない。
上野公園には彰義隊の石碑が建っているけど注目する人もほとんどいない。
しかし子母沢寛にとってはきわめて具体的な意味があった。

wikipedia で読むと「新撰組始末記」は1928年の彼の処女作だが、
「脇役」は 1962年で、割と晩年の作品だ。それにもちょと驚いた。
彼の小説は、たとえば「勝海舟」などは、おそらくは新聞に連載された娯楽歴史小説だが、
「新撰組始末記」はルポルタージュか学術論文に近いものだ。
きちんきちんと出典を記載している。

子母沢寛が坂本龍馬の最期について「勝海舟」(新潮文庫4巻)の中にちらと書いているのだが、
なるほどよく調べて書いてある。
「腹が空いた、軍鶏を買ってこい」とか「おれは脳をやられた。もういかん」などのせりふも、
子母沢寛の独自取材でこれが初出ではなかろうか。
勝海舟に龍馬暗殺を最初に知らせたのは益満休之助だという。
益満はでは誰から聞いたのだろうか。
というか子母沢寛はどういうソースでこのようなことを知り得たのか。

また杉亨二という勝海舟の弟子の一人が

> 龍馬は野人だ。この辺で死んだ方がむしろいいかもしれない。

> 世の中が落ち着けば、またみんな馬鹿に思えて、じっとしていられなくなる男ですよ、あれは。

> 薩摩、長州。天下を奪(と)った奴がきっとあの男を目の上の瘤にする。どうせは、誰かに一服盛られますよ。

などと言っている。
実に興味ぶかい。
おそらく子母沢寛の創作ではなく、杉亨二が実際にそんな発言をしたのだろう。
しかしこれまたどういうソースでこんなことを調べたのか。
不思議だ。
まあしかし、子母沢寛はそれ以外にはほとんど龍馬について書いてない。
きちんと取材して書く人だったから、それ以上のソースがなかったということではないか。
遺族に取材したにしてもほら話も混じっていたろう。
だが小説にするにはその方が面白かったこともあったろう。
子母沢寛が自分で勝手に創作したセリフはなかった、と思いたい。

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