亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘雑感’ Category

01.12.2017 · Posted in 雑感

しばらくツイッターの固定表示でカクヨムへリンクしてたのだが、 ほとんど誰も読まないことがわかった。 たぶん、私が書いたものは何でもとりあえず目を通すという奇特な人は3人くらいしかいない。 無料だろうとなんだろうと。

だから、私が書いたものを読者に読んでもらう、読ませるためには、 まったく別の努力をしなくてはならない。

洋物のKDPの新着無料タイトルを見てみるとレズビアンものばかりだ。 内容は、よく読んでないが、かなりロコツなもののようである。 これが日本のKDPになると、あんなふうな感じになるわけだ。

何を書けばよいのだろう。 正直悩む。 『エウメネス』の続編を書けばある程度は売れるだろうと思う。 そして私としては、それは、ギリシャ古典とかギリシャ哲学とかいう「ギリシャ神話」を完全に破壊するためのものにするつもりでいる。 そのために、ディオゲネスとアリストレテスをペルシャ風の僭主として描こうと考えている。 ディオゲネスはアナトリアのシノペの出身であり、彼の思想はたぶんインドかペルシャから伝わってきたものだ。 当時のギリシャ人、とくにアテナイ人がディオゲネスを理解できなかったのは当然で、 逆に、アレクサンドロスはある程度までディオゲネスを理解したはずだ。 アレクサンドロスの思想はかなりペルシャに近い。 そしてアリストテレスはまあ間違いなく、アナトリアの僭主の養子であって、 アレクサンドロスの家庭教師になったのも、おそらくはアレクサンドロスがアナトリアに進出する意図を持っていたことと無関係ではないのだ。 ここまではある程度史実に沿っている、と思っている。 だがそこから先もっと脚色して、暴れさせる。 エウメネスはアリストテレスの遺志を継いでアナトリアの僭主となる。アレクサンドロスのディアドコイ、というよりは。 そういう構成になるだろう。

アリストテレスはアレクサンドロスの家庭教師だったから有名なのにすぎない。 アリストテレスの百科事典なんてものは完全に後世の捏造だ。 前にも書いたが、アリストテレスの本名はニコマコスで、ニコマコス倫理学だけがかろうじて、 彼自身か、彼の父か、彼の子か、あるいはその三代で書き残したものであろうと思う。 プラトンの出自に関して言えばほとんどすべて空想の産物だ。

クセノフォンという人はいた。ペルシャのキュロス王子の傭兵となったクセノフォンという人が。 彼はソクラテスの弟子だっただろう。しかし、クセノフォンの著作が彼自身によるものかどうかはかなりあやしい。 アナバシスは口述筆記のようなものだったはずだ。 それ以外の彼の著作はおそらく他人がまとめたものだ。 プラトンの著作も、アリストテレスの著作もおそらくそう。

当時のデモステネスとかイソクラテスは確実に存在した弁論人であり、 イソクラテスは当時としては完全な学者だった。 だがイソクラテスの人気も知名度も非常に低い。なぜか? 公の場で弁論したこともなく、その書簡もほとんどが信用するに足りない。 あとからにいくらでも偽造可能な証拠しかないのだ。

当時、アテナイに住んでいて、 アテナイのエクレシア(民会)と完全に没交渉でいられた学者や言論人がいたはずがない。 だから、もし実在するのであれば、エクレシアとのなんらかのインタラクションが記録に残ってなくてはならない。 イソクラテス、デモステネス、ソクラテスにはある。 ディオゲネスにはたぶんあると思う。 ディオゲネスはテーバイの娼婦との関係などの逸話が多く残る。アレクサンドロスと会ったのもたぶん事実だろう。 しかしプラトンとアリストテレスにはない。たぶんまったくない。逸話の断片すらない。 プラトンはソクラテスの裁判に出席していたという。ほんとだろうか。 プラトンが実在していたとしても、アテナイにはいなかったとしかいいようがない。

プラトンというのは、反イソクラテス学派(おそらくは親デモステネス学派)全体、多くの無名の学者の総和をひとりの人格で表したものだろう。

ほかのひとがどうかはしらんが私はまあ、基本的に、書き手の書きたいものと読み手の読みたいものが合致した場合に読めば良いという考え方だ。 私が読んできたものはだいたいそういうものであったと思っている。 だからそれ以外の読み方も読ませ方もしないつもりだ。 そして PPAP みたいになんかわからんが偶然売れる可能性が0でないのなら書き続けてみようというだけのことだ。

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01.12.2017 · Posted in 雑感

通勤というものがいやで、特にラッシュ時の通勤が嫌でたまらない。 ラッシュ時に通勤しないですむように、 また通勤回数を減らすために、 もう少し頻繁に職場に泊まろうと考えている。

ところで職場に泊まるときにときどき配管が異様にうるさい。 天井板がはまってなくて配管が剥きだしなのだが、施設の人に苦情をいったら、 それは熱交換器というものであるという。

この熱交換器というもの、暖房のときと冷房のときで熱媒体(冷房のときは冷媒)を交換するのだという。 熱媒体を暖房のときと冷房のときで別の液体に交換することによって節電になるというわけらしい。 その熱媒体を交換するときに配管で耐えがたい騒音が出る。 でまあ、いろいろ試してみると、 24時間ずっと暖房を入れっぱなしにしていればこの媒体の入れ替えが発生しないので、 そうとう快適になることがわかった。 廊下で盛んに音がしているときも、居室の中は音がしない。 でも、暖房を切るとまたなりだすわけです。

なんでそれがわかったかといえば、今日は一日中寒かったので一日中暖房を入れていたら、 一度も熱交換器が騒音を出さなかったからなんですよね。 なので居室にいるときは24時間ずっと暖房を入れることにします。

まあ、いわゆる室内機のファンの音も、比較的にうるさくないとはいえるが、うるさいっちゃうるさいので、 寝るときは切りたいのだが、それもできない。

それにしても、誰もいなくて、空調を使ってないときにも、この媒体の入れ替えというのは発生しているらしいんだが、 こいつ「アホなのか?」と思ってしまう。 ほんとに節電になっているのだろすか。 思うのだが、もしかすると、運転切り替えではなくて、室温の高い低いによって、 「自動的」に媒体を入れ替えているのではなかろうか。 だから室温が高くなりすぎると、冷房用の媒体に切り替えるとか、 室温が低くなりすぎると、暖房用の媒体に切り替えるとか、そんなあほなことをやっているのではないのか。 夏はずっと冷房の媒体を入れ、冬はずっと暖房の媒体をいれておけばよいではないか。 そのくらい集中管理でできないのか? それとももしかすると、すでに暖房の媒体が入っているのに、暖房を切ったり入れたりするたびに媒体を入れ直そうとしているのだろうか。 そんな馬鹿じゃないと信じたいが。

世の中いろいろ要らないものが多すぎる。特に電力系。 ガスはそんなうるさいやつはない気がするのだが。 やっぱ電気じゃなくてガスを使いたいが、もう年寄りなのでガスは怖い。 将来的にはキッチン周りは電化すると思う。 でも風呂と暖房はガスで良い気がします。 エコキュートとか深夜電力とか嫌い。

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11.25.2016 · Posted in 雑感

まだ1Q84をちらっと読んだだけだが、 私の知っている作家の中では、小林秀雄の文章に似てるなと思った。 村上春樹と小林秀雄が似てるといってる人はいないかとググってみたが、どうもいない。

小林秀雄は戦前のフランス文芸の影響をうけた人で評論家になった。 一方、村上春樹は戦後のアメリカ文芸を受肉化して小説家となった人だが、 村上春樹の作品は小説という分類からはかなり外れているように思う。 その本質は「やおい」であり、小説という体裁を使って書かれた何かだ。 冗長で内容に乏しいが読める。 小林秀雄の文章と同じだ。 ある種の依存、麻薬中毒なのではないか? けなしているつもりはないがほめているのでもない。 小林秀雄の文章も評論という体裁を使って書かれた何かなのだ。 それはもう小林秀雄節というしかない。

村上春樹の文章はどこもかしこもことわざめいた言い回しで埋め尽くされていて、 もちろん全部違うが全部同じような既視感がある。 イスラム建築の回廊をぐるぐる回っているような感じというか。 それが私にとって心地よいかといわれれば、はぐらかされているような、おちょくられているような、 つまりは車酔いにも似た不快な感じがして、 村上春樹が嫌いな人も同じことを感じているのだろう。 奇妙な言い回しで同じところをぐるぐる回っている、回らされている感じ。

もちろん何かのストーリーとか落ちとか展開とか伏線というものはあるんだろうが、 たぶんそれは小説という体裁を整えるために付け足されたもので、 あると落ち着くが無くても済む、日本建築の床の間のようなものではないか。

あ、違うな。読者を登場人物に感情移入させるための何かの仕掛けがしてあるわけだ。 そして、明らかに、私にはその辺りの設定が、存在しないくらいに透明で、 まったく感情移入できない。 心の琴線の固有振動数がまったくあってなくてぴくりとも共鳴しない。 だから、ただ美文だけ延々読まされる感じがする。 あるいは、絵に例えると南画みたいな朦朧体みたいな感じ。

「やおい」だが「読める」というのは日本文芸のお家芸といってもよく、 「やおい」だが美麗なアニメ絵でむりやり作品に仕上げたのが新海誠ではないか。 村上春樹と新海誠の雰囲気も似ていると思う。

戦前の日本人が小林秀雄に眩惑されたように、 今は村上春樹と新海誠がそうしていて、世の中の磁場が非常にゆがみ始めていることを感じる。 その磁場の中心が何かはだいたい想像がつく。 やはりそこが日本文芸の核であり、読者のマジョリティなのかと、諦念にも似た気持ちになる。

例えば1Q84を映画化しましょうとか言って、できないよね。 映画監督に指名されたらとても困る。 タルコフスキーなら喜んで作るかも。 ていうか、ある意味タルコフスキーの映画とも似ているよね、村上春樹は。 超絶退屈だが、好きな人は好き。それなりにファンもいる。 よく女の子が六時間も七時間も長電話してしまいにゃ話しながら寝てしまう。 でも話す内容はとくになくて覚えてもいない。 そういう需要があるってことは、知識としては知っている。 だからそういうものを書いて提供する人がいて、実際に売れている。

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11.04.2016 · Posted in 雑感

高校生の頃は中島敦と小室直樹をよく読んだ。 この二人に共通しているのは学者タイプだということだろう。 夏目漱石や太宰治は学者というよりは文人だ。 ただし、中島敦も小室直樹も、かなりエキセントリックな学者だ。

今は頼山陽や本居宣長などをよく読むが彼らも文人ではあるが、学者だ。 エキセントリックな学者だ。 平田篤胤までいくともはや学者ではない。単なる思想家だ。

大学教員で作家という人は多いが、あまり読みたい人はいない。 森鴎外や永井荷風も大学教員だったが、そんなむちゃくちゃ好きなわけではない。 森博嗣もそうらしいが私の琴線には触れない。 丸谷才一も一時期大学教員だった。 そういえば丸谷才一もよく読んだなあ。

あと、内村鑑三も好きだった。 好きだったけど今読むとあり得ない作り話を書いている。 小室直樹もそうだ。 この辺が高校生の頃ストライクゾーンだった人はあまりいるまい。

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10.19.2016 · Posted in 雑感

まあ、旅券法と国籍法は、マスコミも芸能界も政界も真っ黒なんだろうな。

マイナンバー制度がここまで遅れたわけだよ。

グレーゾーン金利と同じで、いままでグレーで済ませてきた部分が、 マイナンバーのおかげでそうはいかなくなる。 広域暴力団指定でやくざが締め上げられているのと同じだよな。 世の名はだんだん変わっていくんだよ。 昔は許されていたではすまされない。 パチンコもそろそろだろうな。

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10.18.2016 · Posted in 雑感

若い頃は、ていうか、30歳くらいだと、 まだ自分が何者かわかってないしこれからどうなるか予測がつかない。 50過ぎた今からみると、30のときにすべてがもう決まってた気もする。

ホルモンか何かのせいだと思うが30歳くらいまではとにかく何かになろうってのめりこめる。 自分がアクション映画の中にいるひとみたいに思える。

しかし50過ぎると、持病は抱え込むし、体力は落ちるし、酒を飲めば疲れるし、 いろんなしがらみで身動きとれないし、 どうやれば失敗するかわかってるから、行動範囲も狭くなるし、 どっか転居したり転勤したりもできなくなるからだいたいもう日常がわかりきってしまうし、 少し食べ過ぎるとすぐ太るし。

とにかく自分という体が動かない。思うように動かせない。 30歳の頃は400ccのバイクを5速で飛ばしてたようなもんで、 今は50ccのバイクを2速くらいでちんたらはしってる感じ。

定年まであと15年もあるかと思うと絶望する。

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10.17.2016 · Posted in 雑感

なんかもう蓮舫の顔をみたくないのだが facebook にどんどん流れてくるので困ってしまう。 記事は読んでもいいが蓮舫の写真が流れてこないようにできないのだろうか。

蓮舫についてケント・ギルバートがもごもごっと擁護するような発言をしたのは、 小野田紀美の件を知っていたからなんだろうな。

で、蓮舫は国会議員なんで、法務省とか警察とか検察が動くということはまあおかしいわけよね。 国会議員は国民の代表として選ばれているわけだから。 役人は基本的に国会議員には楯突かないでしょ。 議員は親分、役人は子分の関係なのだから。

田中角栄の時は異常だったけどねえ。

最悪、二重国籍でも、税務署がきちんと収入把握してて、出入国管理もきちんとしてりゃまあいいとして、 そこがぐだぐだ、というか説明できないんじゃアウトだよな。 マイナンバーはやはり必要なんだよ。

政治家なんて信用できないから、法律とか、マイナンバーなんかの制度が必要になってくる。 国籍法にしても同じ。 皇室典範でも憲法でも同じ。 そこである程度、おかしなことをしようというやつは振り落とされる。

ミステリーものは読者が多いというので、今回マリナを書いてみたのだが、 まあ、マリナはいきなり人が死んだりするわけじゃないんで、そんなにミステリーでもサスペンスでもないんだけど、 それで気付いたのは、 なるほどそのジャンルにはそこそこ読者がいて、読んでくれるのだが、 その読者というのも限られていて、 kindle で unlimited で読んでて刑事ものが好きで、 少し官能小説系なやつ(マリナは官能小説じゃないけどねっ)が好きな人の数というのは限られているのだ。 で、ある程度読まれるともう読まれなくなってしまう。 そこでおわり。

で、今の世の中、一番魚影が濃い漁場というのは、村上春樹や三浦しをんみたいな、 もやっとした小説を読む人たちであり、そこからラノベやBLなんかが派生してきているのを感じる。 読者を獲得しようと思えばそういう漁場にどんどんコマセをまいて釣り糸垂れるのが一番効率よく、 またもともと自分が村上春樹や三浦しをんのファンであれば、そういうふうにして小説を書き、営業するのは全然間違ってないと思う。 最近は村上春樹の影響力の大きさがなんか実感できてきた。 村上春樹は読まないんでよくわからないが、リバースエンジニアリング的に村上春樹という人が実感できてきた気がする。

でまあ、私は、村上春樹や三浦しをんみたいな小説を敢えて書かない人なんで、 読者がいるわきゃない。 しかし古代ギリシャものが好きな人というのは一定割合いて、 そういう人はほぼ確実にヒストリエを読んでいて、 その読者の一部が私のエウメネスを読んでくれていて、 だからエウメネスはときどき思い出したようにだれかが読んでくれる。

そうしてさらにその中のごく一部の人が私のほかの小説も読んでくれるという仕組み。

小説の作品数は多けりゃ多いほど良いように思う。 やっぱ新作は書かなきゃいけないわけよね、コンスタントに。

私が書いたもののなかでよく読まれているものとまったく読まれてないものの差は自分ではないのだが、 読者にはあるわけなのだ。 読まれない作品というのは、要するに、社会との接点がない作品だ。 世の中で読まれている特定のジャンルと関係ない孤立した作品。 他人と違うものを書きたいと思っている私にはかなりこれがこたえる。 今までになかった新しいものを書くのが novel だと思って書いても読まれはしない。 今までにあるものを少しひねった作品がどんどん読まれるのがつらい。

そんで30代の頃は毎日夕方に酒を飲めば発散できたのだが、 今はそれがうまくできない。体力が落ちたせいだろうと思う。 そうすると人間関係も希薄になっていく。 人間関係自体以前は未知な部分が多かったが経験が増えるにつれてこれ以上どうにも発展しないってことがわかってくる。 あちこち旅行もしたから最近はおもしろみもすくない。 小説もいろいろ書いてみて書いてもどうせ読まれないってことがわかってきたし、 仕事もこれ以上どうにもならないし、 健康状態はこれからどんどん悪くなるし、 急に大金持ちにでもならない限りこのさき面白いことなんかありゃしないってことがわかってくる。 執筆活動にのめり込んだりして現実逃避しても限度がある。

酒というものが持ってる魔法の力を使いすぎたかもしれない。

まあ、完全に煮詰まってるよな。

wolfenstein: the new order 買ったが全然面白くてやる気がおきない。 call of duty 4 みたいな、ミッションインポッシブルをゲームにしたみたいな、 イベントドリブンでチェックポイント制の展開になっててなえる。 fallout とは全然違う。つまらん。

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賊軍の合祀

10.16.2016 · Posted in 雑感

10月13日の産経新聞に全面広告の意見広告が載っていた。

ご存知ですか?

靖国神社に祀られているのは官軍のみで、賊軍と称された方々が祀られていないことを・・・

これは10月4日の 靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上 という記事、 10月12日のNHK報道 「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら と関連するものであろう。

西郷隆盛、白虎隊、新撰組、江藤新平らは、靖国神社には祀られていない。 ただし靖国神社の同じ境内の中にある、鎮霊社には祀られている。

私は、靖国神社の合祀者を増やすのは反対だ。 そういうことを言い出すと、 東京裁判で有罪判決を受けて死んだ政治家(軍属ではない)や、 民間人の挺身隊なども合祀し、 戦争に巻き込まれて死んだ、東京空襲の死者や原爆被害者などみな合祀しようという話になり、 さらには日本国民全員が靖国神社の氏子であるなどと解釈する者が出てくる。 それは明らかに昭和天皇が望まなかったことだ。 昭和天皇によれば明治天皇も、民間人を合祀することには反対であった。

亀井静香が言う、

靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってる

というような、軍人と民間人を際限なく混同するような思想は間違っていると思う。

もし必要ならば、鎮霊社の扱いをもっと大きく丁重にすれば良い。 原則を変更すべきではない。

cf. 靖国神社合祀御衣黄

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読者

10.13.2016 · Posted in 雑感

思うに、通りすがりの読者も読者のうちである。 読み間違いする読者も読者のうちである。

あなたは誤読してますと指摘してはならない。 誤読もまた読者の権利なのだから。 そして誤読されないような文章を書こうと努力しても無駄だ。 大いなる徒労だ。 誤読されない文章が書きたければコンピュータ言語で書くしかない。 人間は誤読が大好きなのだ。 著者は読者が誤読することまで責任を負わなくてよい。 文章を書くところまでが著者の責任だ。

松岡正剛というひとが何者かは知らないが彼もしばしばはなはだしく誤読している。 白洲正子も。丸谷才一も。 読書体験というものはその大半は誤読で成立していると思えるようになってきた。

誤読を容認し、多くの人の目にふれるようにするのが大事だ。 だから、あなたが読もうとしている私の本はあなたが読みたい本ではないかもしれませんなどと指摘する必要はない。 大きなおせっかいだ。 自分から自分の本を読まれる機会をそぐようなことをしてはならないと思った。

比較対象にするのもおこがましいが、私は本居宣長と立場が似ていると思う。 もし宣長を誤読する人を宣長の読者ではないとすると、宣長の読者はほとんどいなくなってしまう。 もちろん宣長の理解者がいないわけではない。 しかしその思想の根本のところは理解されているとはいいがたい。 宣長は、世間の人はこう考えているが実際はそうではないよ、ということを言う人である。 しかし世間の人は宣長がいくら一生懸命そう主張していても、そうは読んでくれない。 自分に理解しやすい良いように解釈して読んでしまう。

平田篤胤や賀茂真淵などの場合誤読されるような心配はあまりない。 というのは彼らはある意味誰でも思いつくようなことを書くひとだからだ。 誰も思いつかないことだからこそ書こう、 というスタンスだと誤読は増える。

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北大の件

10.07.2016 · Posted in 雑感

国立大学というものはどこでも昔から近隣住民と仲良く付き合っていこうと努力してきたわけで、 今回急にこの話が出たのは、札幌でも都市部に共働き夫婦が増えて、保育園や幼稚園の需要が増えて、 新たな認可があいついで、 たまたま近所に北大のキャンパスがあったからそこへ毎日のように遊ばせにいくようになったことに起因すると思われる。

であればこれは明らかに行政の問題であって北大の責任ではない。

保育園や幼稚園は児童らを引率してしかるべき公園に連れて行って遊ばせなくてはならない。 そのために地方自治体は税金を投入しているのだから。 そういう一部の団体のために北大も一般の近隣住民を迷惑を蒙っているのである。

ふつうは近所の住民が花見したりぎんなん拾いに来るくらいで国立大学が目くじらを立てることはない。

そして保育園や幼稚園からの苦情をことさらとりあげて北大のせいにしている新聞報道は、 何か意図的なミスリーディングを企んでいると言わざるを得ないだろう。

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