シュピリ

「シュピリ」はアマゾンに入荷が無いせいで売れているんだかいないんだかまったくわからないのだが、図書館の蔵書は出て1ヶ月でかなり伸びてて、それなりに貸し出されていることがわかる。
実名で共著で書いたものはいくらかあるが、おそらくそのどれよりも売れることになるのじゃないかと思ってる。
「定家」は全然売れなかった。
「シュピリ」は売れてもらわないと困る。少なくとも増刷くらいはしてもらわないと次に続かない。

それでまあ、「定家」「シュピリ」と筆名というか匿名みたいなもんで出したわりには「シュピリ」の調子がよさそうなのは、やはり「シュピリ」の名前がそれなりに知れているからだろう。

邪鬼

四天王に踏まれている邪鬼だが、これは夜叉とも言い、
インドでは男はヤクシャ、女はヤクシー、もしくはヤクシニーと言う。
それで仏教が始まってしばらくの間は仏像はなかったが、バラモン教の神像はあったようだ。

釈迦が出家する(密かに城を出る)ときに馬の蹄の音がしないように蹄を持ち上げているのがヤクシャであり、
この頃からすでにヤクシャは踏まれていたということになる。
また、ヤクシャは建造物を支える像としても作られている。

四天王に踏まれている邪鬼が笑っているように見えるのはヤクシャがそもそも笑っている神像だからではなかろうか。

最近どうも歌がうまく詠めない。
昔詠んだ歌をながめてみても、良いと思えなくなっていた。
自分が詠んだ歌とか自分が書いた文章が嫌いになることはこれまでもよくあったことだ、
自分としてはもっとうまい歌を詠みたいとかもっとうまい文章を書きたいとか、
詠めるはずだ書けるはずだいう気持ちがでてきてそのレベルに達してないわけだから、
これはもう仕方ない。

それでこないだ「セックス哲学懇話会」という怪しげな集会に飲み会だけ参加したのだが、そこで某哲学者に
「本が売れたいのか?有名になりたいのか?」と聞かれたので、
なんかもごもごとうまく説明できなかったのだが、
まあ、商業的に売れてくれれば好きな仕事で金がもうかって嫌いな仕事をしなくて済むわけで、
それはそれでもちろんありがたいのだけど、
本が売れて、いろんな人から正当な評価を受けて初めて本というのは「自分の業績」になるのである。
論文ならば査読がある。それなりの権威ある学会の査読に通りさえすれば、別に一般読者はいなくても、
自分の仕事が認められたことになる。
その学会とか査読システムというものも、必ずしも万能ではない。
分野から少しでも外れるとなかなか読んでもらえず評価もしてもらえない。
学生の頃からずっと同じ研究をして同じ学会にいれば良いのかもしれんが、私のように、
せっかちで落ち着きの無い性格だと、どんどん関心がずれていってまったく違うことをやりだしてしまう。
そういうタイプの人間にとって、基本縦割りのたこつぼ構造になってる学会というのは不便である。

そんでまあ、自分に合った「学際的」な学会を作ろうとかそういう「学際的」な大学に移ろうとかいろいろ画策した
(実際にはふらふらと転職を繰り返したり、学会の立ち上げに関わったりした)のが、
私の場合は30代だった。もっと細かくいえば、30歳から43歳くらいまで。
まじめに論文を書いたのは30歳までだった、とも言える。

私の田中久三という名前は先に tanaka0903 というユーザー名があって、これは 2009年3月という意味。
43歳の終わりだ。
この頃から完全にもう学会とか論文とか大学での研究というものから外れだした。
だったらそこで教員を辞めるかと言えば、メシが食えなくなるので辞められないし、
もともと研究すること自体は嫌いじゃないから、
大学の仕事はそれとして、趣味みたいなことを研究しだした。
それで知り合いの出版社を頼って単著で本を書かせてもらうことはできるかもしれないが、
ただ書いただけじゃ、誰も査読してない勝手に書いた論文と同じで、出版しても何の意味もない。
本は、査読の代わりの何か、第三者による評価が必要なわけで、
それはある程度商業的に成功することだったり、社会的な影響を与えることだと思うのだ。
そうなれば私も、今までとは全然違う分野だけど、「研究業績」のリストの中に加えることもできるだろう。
そうでないのに(そうしている人はたくさんいるかもしれないが)これが私の研究ですよなんて自慢する気にはなれない。

それで、出版社に損をさせない程度に売れたらまた本を書かせてもらう。
書きたい本を書けてたまに売れてくれればうれしい。
売れなきゃもうそれっきりだ。

歌経標式

[歌経標式序考](http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/metadata/1281)

> 臣濱成言。原夫歌者、所以感鬼神之幽情、慰天人弓懸心者也。
韻者所以異於風俗之言語、長於遊樂之精神者也。

【臣・藤原濱成が申し上げる。
そもそも歌は、鬼神の幽情を感じ、天人の恋心を慰めるものである。
韻は、風俗の言語と異なり、遊学の精神に長じたものである。】

「毛詩正義序」「動天地、感鬼神、莫近於詩」

> 故有龍女帰海天孫贈恋婦歌、味耜昇天會拙作称威之詠。
並尽雅妙之音韻之始也。

【それゆえに、豊玉毘売命が海に帰る際に、火遠理命は女を恋する歌を送った。】

赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり

沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに

短歌形式に整いすぎているので、おそらく古歌ではあるまい。

【阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神が天に昇るときの宴では、
その威を称える歌を詠んだ。】

あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる あな玉はや み谷ふたわたらす あぢしき高ひこねの神ぞ

【いずれも、雅妙の音韻を尽くした初めである。】

> 近代歌人雖長歌句、未知音韻。
含他悦懌猶無知病。
准之上古既無春花之儀、傳之來葉不見秋實之味。
無六體何能感慰天人之際者乎。
故建新例則抄韻曲、合為一巻名曰歌式。
蓋亦詠之者無罪、聞之者足以戒矣。

【最近の歌人は歌句に長じてはいるが、未だに音韻を知らない。
他のことばかり喜んで、歌の「病」を知らない。
これを上古の風になぞらえているが、すでに春の花はなく、
これを後世に伝えようとしながら、秋実の味が無い。
六体が無くて、天人を慰めるということがどういうことか、何を感じることができようか。
そのために新例を建てて、韻曲を】

> 伏惟、聖朝端歴六天、奉樂無窮。
榮比四輪御賞難極。
臣含恩遇奉侍聖明、
欲以撮壌導滑之情而有加於賞樂焉。
若蒙収採、幸傳當代者、可久可大之功、並天地之眞観、日用日新之明、將金鏡之高懸。
臣濱成誠惇誠恐、頓首謹言。

> 寳亀三年五月七日参議兼刑部省卿守從四位上勲四等藤原朝臣濱成上

天皇の血を引いた徳川将軍

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徳川家康の母は「大」と言い、皇族ではない。

秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。

家光の母「江」も皇族ではない。
正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。

家綱の母「楽」も普通の農民の娘。
正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。
家綱に実子はない。

綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。
正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。
しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。

家宣の母「保良」も一般人。
正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。
つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。

家継の母「喜代」も一般人。
霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。

吉宗の母「由利」も一般人。
ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。

家重の母「須磨」も一般人。
ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。

家治の母「幸」も一般人。
ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。

家斉の母「富」は幕臣の娘。

家慶の母「照」も一般人。
ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。

家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。

家茂の母「美佐」は紀州松平。
ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。

慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。
織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。
奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。
母は松室敦子。
霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、
天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。
しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、
たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。
家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。
しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかったのである。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。
もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。
もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。
皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。
おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。
慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。

天皇の系図

tenno8

皇女、皇子、主要な関係者などほぼ書き込んだ、と思う。
ただし明治以降の皇女は一部の例外をのぞいて記してない。
幼年で死んだ人は略していることが多いが、書いている場合もある。
これからは微妙な訂正などしていこうと思う。

後西天皇の皇子・有栖川宮幸仁親王とか、家康の孫・松平忠直の孫娘に当たる明子内親王、
霊元天皇の后・松室敦子やその娘・八十宮(吉子内親王)については「将軍家の仲人」にも書いたので、
特に感慨ぶかい。
その他にもいろんなことをいろいろ書き散らしてきたわけだが。

景行天皇はすごいな、とか、
彦坐王とか何者なんだろうとか、
手白香皇女ってほんとは女帝だったんじゃないの、とかいろんな妄想が沸いてくる。

図が横に広がっているときには、やはり、天皇家を巻き込んだ、なんか歴史的にたいへんなことが起きているんだよね。

掛け軸かなんかにして売れば需要があるんじゃなかろうか。

天皇の系図

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皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、
後嵯峨天皇あたりで力尽きた。
余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。
かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。
後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。
この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。
だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。
またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。
皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。
その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。
道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。
妃や子供の数が明らかに減っている。
たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。
その後も天皇家はどんどん衰退していく。
天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。
光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、
法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

> 光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。
「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。
源光(845-913)。
母は宮人・百済王豊俊の娘。
百済からの帰化人の家系。
源多(みなもとのまさる)という兄がいた。
この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。