京町屋

豪雨の関東を脱出してなぜか京都にいた。雨も降ったが割と晴れていた。普通のホテルではなくて町屋一棟借りて住んでみたのだが、町屋というのはいわゆる一軒家ではない。棟割り長屋、つまりテラスハウスであって、長屋でないとしても、隣の建物と完全に密着して建てられているから防音というものがない。実際隣のうちの声など聞こえてくる。上下左右が他人のうちである賃貸マンションよりは少しましかもしれないが、やはり全然落ち着かない。そのうえ下水臭かったり、蚊が入ってきたりしてかなりやばい。まだ六月の初めだからよかったが夏に借りたらどうなっていたのだろう。よく見ると京都にはまだまだ町屋建築がたくさん残っているようだが、空襲がなかったおかげだろうが、いまさら私はこんなところには住みたくないなと思った。

日本建築はすばらしいとは思う。銀閣寺東求堂なんかには実際住んでみたいと思う。それは庭付き戸建てだからである。町屋は所詮賃貸長屋である。あれをわざわざ良いというのはどうかと思う。東求堂にしてもエアコンは効かないし虫は入るだろう。私の子供の頃ならともかく今は逃げ出すかもしれん。特に夏や冬。

六人、いや、下手すりゃ十人くらいはなんとか泊まれるからそういう大人数で行くのには良いかもしれん。例えば女が二階に、男が一階に、シェアハウスみたいにして泊まれば案外割安ではなかろうか。

だがまあこれからは自分は四条とか七条あたりの普通のビジネスホテルに泊まると思うわ。

左翼は良い仕事をした。

私は高校生の頃、日本史ではなくて世界史をとったのだが、それは、日本史というのは世界史が理解できないような馬鹿が取る科目だと思ったからだ。世界史もわからないのにどうして日本史がわかるのだろう。日本史というのはローカルで、閉鎖的で、つまらぬ学問だと思った。語呂合わせで年号を覚える勉強に思えた。或いは戦国オタクや幕末オタクがやる科目だと思った。三十年前は明らかにそうだったし今でもだいたい同じだ。古文や漢文は面白かったから古文II、漢文IIまで取った。古典は嫌いではなかった。しかし日本史は嫌いだった。

私が文系を馬鹿にして理系に進んだのもだいたい同じ理由であった。文系なんてどうせ大学四年在学しててろくに勉強なぞしないのだから行くだけ無駄だと、普通の感覚の人間なら思うだろう(しかし世の中は文系がマジョリティなのだから、一般社会では彼らが普通なのだろう。人間社会で馬鹿がマジョリティなのは別に驚くべきことではない)。

今から思えばだが、江戸時代の文人が到達した日本史というものはそれなりにレベルは高く、成熟したものだった。その思想は十分に明治維新に耐えた。少なくともドイツやイタリアで起きた市民革命と同レベルの水準にあった。しかし次第に陳腐化した。敗戦によってそれまでの日本史は否定された。過去の遺物ということになった。左翼につけいるすきを与えた。左翼は日本史をさんざんおもちゃにし、切り刻み、解体した。おかげで右翼の気づかない、敢えていじらないところもいじった。日本史はそれでそれなりに戦後進歩したのだが、しかし左翼思想によって明らかにおかしな方向へねじ曲げられ、粉飾された。

左翼(革新)の仕事には見るべきものもあり、右翼(保守)の一部もその意義に気付き、自分たちの理論武装に取り入れようとする動きもある。現代的な保守思想というものも生まれつつあるのを感じる。しかし多くのネトウヨを含む右翼は、未だに戦前の、場合によっては江戸時代とか神皇正統記の頃の理論を使おうとする。それでは左翼の思うつぼである。坂本龍馬を偉人だと思う連中と同じで、何の役にも立たない。それだからある程度もののわかる若者は右翼や日本史を馬鹿にして学ばないのだ。左翼はこれまでかなり敵失に助けられてきたのだ。もちろん私は左翼が大嫌いだ。三十年前から嫌いだった。私は右翼のふがいなさに悔しくて仕方なかった。右翼はなんて頼りないんだろう。馬鹿ばかりで。日教組みたいな左翼連中をのさばらせて。朝日新聞みたいなやつに勝手ほうだいなこといわせて。高校には右の教員もいたし左の教員もいた。右の教員は合気道をやっていた。精神論者だった。なんのロジックも身につけてなかった。これじゃダメだと思った。

古文Iの教員はただの粗暴な馬鹿だった。古文IIは合気道。しかし、古典文法はなぜか英文法の教師が教えていた。わりとまともな教師だった。そりゃそうだろう。英語のわからんやつに古文が教えられるわけがない。

日本史というのは私は研究するに値しない学問だと思ってきた。しかし和歌を詠み、和歌好きがこうじて小説を書くようになって、いろいろ調べるうちに、面白いところもあるなと思い始めた (何度も言うが世界史はもともと好きだった)。高校までに習う日本史というのはほとんどすべてでたらめであり、それを一つ一つ直していく作業がなかなか面白いと思い始めたのである。日本史ほどつまらぬ学問はないというのは小林秀雄も言っている通りだ。もともとつまらないのではない。誰のせいかはしらないが、あれほど面白い学問をあれほどつまらなくした何者かがいるのである。私も小林秀雄にまったく同感だ。

今の日本史は救いようがない。今のネトウヨの99%は救いようがない。だからあそこまで左翼が力を持ち得たのだ。しかし左翼の理論も今や古色蒼然としてきた。いかなる学問も日進月歩である。時代とともに理論は新しくなる。過去の理論は新しい理論によって淘汰される。自然科学だけではない。人文科学も長い目でみるとそうだ (論文誌は伝統的に紙メディアでなきゃいけないとかいうやつがいる。学問と紙媒体に何の関係がある?)。かれらもそろそろ過去の栄光にあぐらをかき、その進歩に取り残されつつある。彼らは西欧の洗練された理論を輸入して日本史を小馬鹿にした。馬鹿にされて当然でもあったが、しかし、日本史そのものは、ちゃんと調べれば、研究するに十分足る学問である。それを立証するのが、私が死ぬまでにやっておかなきゃならない仕事の一つだ。

いまの神社の神主はろくに説教もできない。ただ神話の解釈をテープレコーダのように話し、祝詞をぺらぺらっとしゃべるだけ。Wikipedia未満。それでいいと誰が決めたのだろう。神道に現代的で洗練された理論や思想が要らないと誰が決めたのだろう。また、神道理論が平田篤胤のような空理空論になってしまうのはなぜなのだ。もう少しなんとかしようよ。

未来に希望をもとう。

このブログを検索してみると、
2013年1月に kindle paperwhite を買ったなどと書いていて、
一番最初にkdpで出したのは2月頃「川越素描」だったらしい。

最近のKDPだが、
といってもKDPが日本で始まって一年半しか経ってないわけだが、
次々に新人作家が出てきて、
その中には割とまともな人もいるなと思う。
このままどんどん若手が育ってきて、
古顔も(笑)そこそこ頑張ってれば活気がでるだろうし、
わざわざ本屋行くより新しい本や新しい作家探すのに便利だということになれば、
読者はさらに増えるはずだ。
ビジネス本や英会話やエロや啓発本も相変わらず多いが、
普通の小説もだいぶ増えてきて、
メインはラノベ風な純文学か純文学風のラノベあたりが多いのが私としてはじゃっかんアレだが、
キンドル作家や読者の裾野が広がるというのは要するにそういうことだろうし、
その中でも時代物や歴史物をせっせと書く人も、徐々にだが含まれるようになってきている。

たった二年でここまで変わったのだからすごい。

連歌

白河院の院宣により源俊頼が「金葉集」を編み、院の気にいらなかったために、
三たび奏覧した。
俊頼は「散木奇歌集」に連歌を収録したが、
「金葉集」の巻十にも連歌が採られているというので見てみたのだが。

> あづまうどの 声こそ北に 聞こゆなれ みちのくにより こしにやあるらむ

> 日の入るは くれなゐにこそ 似たりけれ あかねさすとも 思ひけるかな

これは酷いだじゃれである。
勅撰集に採るようなものではない。
ただ、古今集にはこんな具合なただの語呂合わせだけの歌も中にはあるが。

> 取る手には はかなくうつる 花なれど 引くには強き すまひ草かな

> 雨よりは 風や吹くなと 思ふらむ 梅の花笠 着たる蓑虫

面白いが、明らかに和歌の題材ではない。
俗謡のたぐいであろう。
同じ時代に梁塵秘抄があるが、それと同類だろう。

ところが莵玖波集になると、形式はいわゆる連歌であるが、
内容は和歌そのもの(というより和歌の劣化版)である。

つまり、平安後期には連歌とは俗な内容の、形式的には和歌であったものが、
南北朝になると、形式的には連歌だが、内容的には和歌になった、
ということではないのか。
誰もそういう指摘をしてないのだが。

後拾遺集で藤原通俊は和泉式部や赤染右衛門などの現代女流歌人を発掘してみせた。
金葉集で源俊頼は、より過激に、俗謡を和歌に取り入れようとしたのではなかったか。
金葉集については[金葉集](/?p=13325)、[金葉集三奏本と詞花集](/?p=13338)などにも書いたが、ぱっと見退屈な歌集である。
ところが連歌のところだけが異様に斬新である。
退屈だけど駄洒落は大好きな人というのは確かにいる。
狂歌人の大田南畝などがまさにそうだ。
巻頭歌が紀貫之だとか藤原顕季だとか源重之だとか、
そんなことはどうでも良いんだよ。
どうしてそんな些末なことにこだわるのかな。

後拾遺集序に

> 麗しき花の集といひ、足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集といひ、集めて言の葉いやしく姿だみたるものあり。これらの類は誰れが志わざとも志らず。また歌のいでどころも詳ならず、たとへば山河の流を見てみなかみ床しく、霧のうちの梢を望みていづれのうゑ木と知らざるが如し。

これが当時のいわゆる連歌なのではないか。
「麗しき花の集」とは「麗花集」(ほとんど残らない)、
「足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集」はよくわからんのだが、
これが「散木奇歌集」の元なのではないのか。
藤原通俊はそれら俗謡を捨て、源俊頼はこれを拾ったのではなかったか。

良く読んでみると後拾遺集も金葉集も実に面白く興味ぶかい。
その理由の一つは従来の学説というものがまったく当てにならないからでもある。
当てにならないという意味では古今集もそうだ。
そういう意味では新古今が一番きちんと理解されていて、
また難しく見えてもあれほど勉強さえすれば簡単なものもなくて、
現代人にもわかりやすいとはいえる。

あつまうとの-こゑこそきたに-きこゆなれ/みちのくにより-こしにやあるらむ

ももそのの-もものはなこそ-さきにけれ/うめつのうめは-ちりやしぬらむ

しめのうちに-きねのおとこそ-きこゆなれ/いかなるかみの-つくにかあるらむ

はるのたに-すきいりぬへき-おきなかな/かのみなくちに-みつをいれはや

ひのいるは-くれなゐにこそ-にたりけれ/あかねさすとも-おもひけるかな

たにはむこまは-くろにそありける/なはしろの-みつにはかけと-みえつれと

かはらやの-いたふきにても-みゆるかな/つちくれしてや-つくりそめけむ

つれなくたてる-しかのしまかな/ゆみはりの-つきのいるにも-おとろかて

かもかはを-つるはきにても-わたるかな/かりはかまをは-をしとおもふか

なににあゆるを-あゆといふらむ/うふねには-とりいりしものを-おほつかな

ちはやふる-かみをはあしに-まくものか/これをそしもの-やしろとはいふ

たてかるふねの-すくるなりけり/あさまたき-からろのおとの-きこゆるは

ひくにはつよき-すまひくさかな/とるてには-はかなくうつる-はななれと

あめふれは-きしもしととに-なりにけり/かささきならは-かからましやは

うめのはなかさ-きたるみのむし/あめよりは-かせふくなとや-おもふらむ

よるおとすなり-たきのしらいと/くりかへし-ひるもわくとは-みゆれとも

おくなるをもや-はしらとはいふ/みわたせは-うちにもとをは-たててけり

ヤリューティスタン

ここのところずっとネタだしに苦しんでいた。

特務内親王遼子は王道の狗をヒントに川島芳子をモデルにして出来た話なんだが、
ヤリュート王族の末裔タプイェンというのが出てくるのが少しオリジナルで、
ついでに欧州の王族もわりと絡んでくる(予定である)。
近代史なのもよけいにややこしい。

ヤリュート、つまり耶律氏は東北アジアに発する契丹(キタイ)人の一族であり、
おそらくは内モンゴルか満州地方に住んでいたモンゴル系の遊牧民の一支族であろう。
耶律阿保機のときに遼という国を作った。
遼は女真族の金に滅ぼされ、耶律はモンゴルの臣下となる。
また、耶律大石は中央アジアに西遼(カラキタイ)という亡命政権を作った。
カラキタイはナイマン部の王族クチュルクに簒奪されたあと、
モンゴルに滅ぼされた。
タプイェンはそのカラキタイの王族の末裔という設定なのだが、
ヤリュート族の末裔がどうやって700年ほど後の時代に復活するのか。
日本で言えば後南朝の末裔が昭和になって出てくるくらいの話である。
フィクションだからとでたらめに作ることもできるが、
そんな無理はしたくない。
史実にまがうようなリアリティが欲しい。

こんなときファンタジーなら簡単で、
たとえばシータがラピュタ王の末裔であるのは、
古代の超文明とか飛行石とか超能力が証明してくれる。
ナディアならブルーウォーターだわな。
イデオンもナウシカもエヴァもインディージョーンズも結局はみんな同じ。
ファンタジーは楽だ。
しかしファンタジーを禁じ手とし、
あくまでも史実として成立可能な設定にする。
とても難しい。

天皇の皇位継承も承久の乱や南北朝なんか見るととてつもなく微妙でやっかいで込み入っている。
ヨーロッパでもルイ十四世なんかずっと継承戦争とかやってる。
誰が正統な王位の継承者かってのは、
サルゴン大王の時代からずっと貴種流離譚と言って神話の典型パターンである。
王位継承ってのはそんだけ関心も高かったし、ちゃんと立証するのは難しくもあったのだ。

どうやってヤリュート王族の末裔であることを証明するか。
血?中央アジアではモンゴル人、トュルク人、ペルシャ人らが複雑に混血しているので、
単に血筋だけでは何族かは決まらない。
土地?ヤリュート族は土地も国も失った。ユダヤ人やアルメニア人やクルド人みたいなものだ。
三種の神器みたいなもの?そういうものにはあまり頼りたくない。
家父長制とか律令とか?これまたちゃんと説明するのは難しい。
文化や言語や宗教?ある意味落としどころはそのへんかもしれぬ。
ともかく青くて光る宝石のせいにするわけにはいかない。
どうすりゃいいのか。

中央アジアから北インドにかけて20世紀になってもたくさん「藩王国」とか「土侯国」
が存在していた。
ネパールやブータンなどは王国のまま現代まで存続している。
トゥルクメニスタン、キルギスタン、ウズベキスタンなどは共和国になっている。
東トルキスタン(ウィグル)やらチベットは中国の一部になっている。
モンゴルやアフガニスタンなんかはずっと存在している。
これらは全部もとはといえばモンゴル帝国のなれの果てである。
ムガール帝国も語源はモンゴルだし。
モンゴルやムガール帝国が衰退すると、
これらの土侯国は大英帝国かロシア帝国か中国の保護国となった。
だけど宗主国が衰退したり、
内戦状態になったり革命が起きたりすると独立することもあるわけだ。
旧オスマン帝国領内の少数民族もまあ似たようなもんだ。

そういうややこしいところにカラキタイの王族の末裔が突如現れて、
中央アジアにヤリューティスタンという国を建国する、
その主たるエージェントがタプイェンという設定なのだが、
先に多少ネタばらししておくと、
特務内親王遼子2でタプイェンが遼子を「姉さん」と呼んでいたわけだが、
実は遼子もヤリュートの血を引いている。
「遼子」という名もそれを暗示している。
気づいている人はすでに気付いているし気付かない人にはなんのことやらわからないと思うが、
高黍宮の高黍とはコウリャンのことで東アジアでは主要な穀物である。

これでも国家と呼べるのか

小室直樹は預言者である。彼の預言で最も有名なのは「ソビエト帝国の崩壊」だが、他にもいろんな重大な預言を遺している。

「これでも国家と呼べるのか」は平成八年、つまり、今から18年前、1996年に出た本だが、恐るべき預言をしている。

日本人はまだ「土下座外交」の本当の恐ろしさを理解していない。国際法上、みずから謝罪するとは責任を取ることである。責任を取るとは補償に応ずるということである。このとき、挙証責任はこっちに押し付けられてしまうのだから、相手の言いなり以外にどうしようもない。挙証責任とは何か。分かりやすい例を挙げておこうか。

あなたがある日突然、見ず知らずの他人から「借金を返せ」と訴えられたとしよう。挙証責任がこちらにあるということは、裁判でその見ず知らずの他人から金銭を借りた事実が存在しないことを、あなたが挙証・立証しなければならないということである。もしあなたが大金持ちで、次から次へと見ず知らずの他人から裁判を起こされたらどうしますか。

国際法上、講和条約またはそれに該当する条約(例、日中共同声明、日韓基本条約など)を結べば、それ以前のことは一切なかったことになる。もはや賠償の義務はない。それなのに、日本の方から謝罪したので、一切が蒸し返されてしまった。佐藤内閣の日韓基本条約や田中角栄が周恩来に賠償を放棄させた日中共同声明など、せっかくの努力がみんな無駄になった。

諸外国もその国民も、あることないこと、いやあるはずのないことを言い立てて日本に補償を要求してくるに決まっている。戦争責任に時効はないとばかりに。日本は挙証責任をひっかぶってしまっているんだから逃げられない。「ヒロシマ、ナガサキ」に対して “I’m not sorry” と言ったアメリカとはわけが違うのだ。

今のネトウヨがツイートしたりブログに書いていることはすべて小室直樹が30年前から言っていることの焼き直しに過ぎない。田母神俊雄などは現場の将官だったから少しは新しいことを言っているが、ほとんど同じ。細川政権や村山政権は比較的最近なので、小室直樹が書いたことの中ではごく新しいが、それでもインターネットに民間プロバイダが現れるよりも前の論説であるからネトウヨよりずっと古い。今は石原閣下以下いろんな人がそういうことを公の場で言うようになり、飲み屋の親父も昔から知ってましたとばかりに韓国・中国批判をするが、正直なところ「おっさん、ほんとにわかってんの」と言いたい。
テレビでわいわい言ってることを反復するのは飲み屋の親父だってできる。実際飲み屋の親父なわけだが。

小室直樹は誰よりも早く、リアルタイムに指摘していた。二番目ですらなかった。誰よりも早く、一番にだ。そして誰も当時小室直樹を理解する人はいなかった。小室直樹が如何に偉大だったか!私も小室直樹のようになりたい。

ほととぎす

ついさっき、うちの近所でホトトギスの鳴き声を聞いた。

キョッ、キョッ、キョキョキョ、つまり、ホットットギス、みたいな鳴き方。
わりとゆっくり。
ユーチューブでも確認したから間違いない。
のどから血を吐くような声、というわけではない。わりと澄んでいる。
かなりでかい声だが。

時期もぴったりだ。旧暦で言うとさつき。夕暮れ時。
すげえこんな町中にもいるんだな。
竹藪みたいなところだった。
急に親しみがわいてきた。
ここで一つ和歌でも詠まねばならぬところだが、
ホトトギスを詠んだことないので、すぐには出てこない。

> 鳴く声におどろかれけりほととぎす奥山にこそすむとききしか

何かに似てる。そう、「人知れずこそ思ひそめしか」だ(笑)。

> 鳴く声におどろかれけりほととぎす奥山にこそすめと聞けども

のほうがいいかな。
係り結び的に。
うーん。
いや、前ので良い気がしてきた。

酒を適量飲んだ翌朝はやはり体調が安定しているような気がする。

アルコールはエンプティカロリーと言われてて、
脂肪になって体に蓄積はされない。
筋肉を動かすエネルギー(グリコーゲン)にもならない(たぶん)。
しかし、少なくとも代謝されて体を温める役には立っているわけである。
だからアルコールも一応熱量のうちなのだ。
ということは、本来脂肪なり炭水化物を燃やして体温を調整しているところを、
酒を飲めばアルコールが補うわけである。
酒を飲まなければ脂肪なり炭水化物を燃やしたはずだから、
その分体重が減るのは道理だ。

つまり酒のカロリーは基礎代謝に回されているはずだ。
いやむしろ、酒は、短期的に基礎代謝を維持するカロリーとしては最適なのではないか。
体としては楽ができる。
だから、酒を二日に一度くらい、あるいは週に休肝日を一日か二日くらいもうけつつ、
適度に飲めば体の負担は減り体調は良くなるのかもしれん。
酒を飲めば飲むだけ体に悪いのなら酒飲みから先に死んでいき淘汰されるだろう。
人類はしかしそうはなってない。

禁酒して血圧が維持できないよりずっとましな気がしてきた。

無料キャンペーン

kdpの販売データ一覧ってのがグラフィカルになったからよけいわかりやすいのだが、
無料キャンペーンのダウンロード数というのは、減ってきている。
私の書いたものがだんだんにつまらなくなってきている、とも解釈できるわけだが、
おそらくはkdpの注目度が下がってきているのと、
私の場合、すでに数を出しているから、読まないひとは最初からダウンロードしなくなってきているのだと思う。
kdpはもはやお祭り騒ぎの場ではない。
日常の一部なのだ。
派手なことをやれば目立つという時期は終わった。
新しいことはみんな興味をもつし取材もされるだろう。
新しくなくなるとだいたい人は離れていくし、
新しさもないのに作家活動を続けて生き残れる人はほとんどいない。
だからこそ生き残ることに価値があるともいえる。
小説なんてのは日本でもすでに竹取物語のころからあった。
和歌なんてそれよりずっと前からあった。
今更めずらしいもんでもない。

私は似たような業界にいるのである程度わかるが、
派手さも新鮮さもなくなったネタにいつまでもしがみつく人はいる。
わかりやすい例でいえばHTML (cssやjavascriptを含む)なんかがそうだ。
1995年くらいはほんとに新しかった。
新しさがなくなった後、HTMLは日常になった。
いまや世界中の、名もない子供から年寄りまで何億人という人がHTMLが書ける。
HTMLなんてテキストデータだし、ライセンス料もかからんし、
こんな元手のかからない商売はない。
しかしライバルはものすごく多いし、その中には大企業もいれば天才もいる。
まあ普通に考えれば勝てるはずがない。
ネタに新鮮さが失われたあとがほんとの勝負だといってその古いネタにしがみつくひとがいて、
間違いではないが、
古いネタで飯が食えるひとというのはいわゆる古典芸能的な人か、
ほんとうの個性を持っている人だろう。
ほんとうの個性を持っているなら、やれば良い。信じてやればよい。自分の才能にうぬぼれればいい。
しかし、ネタが派手だったころの成功体験を引きずって惰性でやめられずにいるなら、
自分の才能を錯覚しているだけなら、見苦しいだけだ。
うまくいけてるか見苦しいだけかは本人が自分で判断するしかない。
はたから見ててとやかくいうつもりはない。
作家活動と営業とは区別できない、というのは最近わかってきた。
だが、作品にみるべきものがないのに営業ばかりやってるのがほとんどの作家の実情だ。

無料キャンペーンは5日間なのだが、キャンペーン期間とレポートの期間にはずれがあって、
実質6日間の記録がみれる。
面白いのは2日目にピークがあり、
3日目はへこんで4日目に小さなピークができる、というパターンがあるらしい、
ということである。
1日、2日目に落とすひとというのはたぶんはきんどうさんのところなどの速報を見て落としている。
きんどうさんのような広報をしてくださる方にはやはり感謝をしなくてはならないと思っている。
4日目に落とす人はたぶんアマゾンのランキングを見てそれで目について買っているのかと思う。
私もどちらかと言えば後者な人だ。
よほど注目している作家(たとえばツイッターでフォローしている)でない限り、
出ていきなりは買ったり落としたりはしない。
キャンペーン期間が終わりかけたころにやっと気づいて買うほうである。

kdpはやはり最初の頃に比べるとインパクトは薄まっている。
kdpに近いことは、やり方はさまざまだがアマゾン以外でもはやってきている。
たぶん au がやってるくらいだから docomo も softbank もなんかやってるに違いない。
google も apple もやってるに違いない。
電子書籍のユーザーというのはようはスマホユーザーであって、
いわゆる読書人ではなく、
ほんとうの読書人というのはそんなたくさんはいないはずだ。

ライトなスマホユーザーに対して営業活動をして、その中に稀に存在している、
ほんとのファン、ほんとの読書人に気づいてもらうというのが、私のビジネスモデル、のはずだ。
今小学生や中学生の人たちは将来ほとんど全員がスマホユーザーになる。
その後生まれてくる人たちはほとんど全員電子書籍で本を読むようになる。
今と比べ物にならないくらいにユーザー数は増える。
今のうちにあるまとまった量の本を書いておくことは意外と後で効いてくるかもしれん。

ライトなスマホユーザーに対してライトな小説を提供するのが私の仕事ではない。

私がほんとの読者をどのくらい獲得しているかはわからんのだが、
無料キャンペーンをやるとしばらくわずかだが有料で買ってくれる人がいる。
無料の本を読んで面白かったから有料の本も買ってくださったのだろうと、
勝手に解釈しているのだが、
そういう声無き、お金を払ってくれる支持者というのはうれしいし、
そういう人をどうやって増やすか、
1つ目だけでなく2つ目のピークやそれ以外のピークをどうやって作っていくかが課題だわな。

いずれにしても無料キャンペーンは私にとってほとんど唯一の営業活動なので、
月に一回くらい、
定期的にやるのがよいと思う。
逆に言えば、
執筆量から逆算して月に1度定期的に出版できるような連載物もしくは短編を執筆すべきではなかろうか。
月刊、季刊、そのくらいのペースで出していく。別に今更珍しいビジネスモデルではない。
連載物がたまってきたら合冊して売ればよい。
こまめに執筆こまめに営業して露出を絶やさないことは重要だろうと思う。

もっとライトに

酒でたとえると、若者はやはり、アルコール低めの甘いカクテルのようなものが好きなわけです。
自分も最初はカクテルなどから酒の味を覚えはじめ、
だんだん飽き足らなくなって、強い酒や苦い酒、臭い酒を飲むようになる。
微妙な味わいの違いをたしなむようになる。
そっから先は日本では違法だが、
なら自分で自分の好きな酒は造ろうなどと考えるようになるだろう。

私が書いている小説というのはたぶんそういうものだ。
だから重い。
難しいというより、重い。
中年オヤジ特有の重さだ。
泥炭臭い、木香の強い、シングルモルトみたいな味。
嵐が丘で農夫が自分で適当に樽でエールを醸してジョッキに酌んで飲んでる。
もちろん常温だ。ぬるくて苦い。
たぶんまずいだろう。
だがそんなものも一度は飲んでみたいと思うのがオヤジだ。
まずくても自分で作ったものが飲みたい。
工業製品ではない、当たりはずれのある、自然と偶然の産物が飲みたい。
近代以前の、家内制手工業みたいな状態に立ち返ってみたい。

現代社会に生きているある種の反動なのだろう。
自分でもしかし普段は軽い酒を飲むし、
飲みすぎれば限りなくウーロン茶に近いウーロン割りを飲んだりする。
体の調子が良くないというか不安定なのでノンアルコールビールやホッピーの外なんか飲んだりする。
軽い酒はそういう飲み方もできる。
BGM代わりにテレビをつけっぱなしにしているようなもの。

山梨とか長野で、脱サラして蕎麦屋をやってるおやじみたいなことを、
自分もやっているんだなと思う。
蕎麦は地元の天然もの、蕎麦は自分で引いて打つ。もちろん蕎麦粉100%。
儲かるわけがない。
店主にはなれるだろう。そこそこ繁盛すれば、一応プロと言ってみることもできるかもしれない。
しかしそれだけでは自己満足に過ぎぬ。
世間一般ではうどんやスパゲッティが流行る、という構図と同じだ。
多くの中年おやじが次々に同じところにはまる。
だから駄目だとは思わない。
事例研究したうえで、きちんと対策を立てなきゃと思う。

自分で酒を醸して自分で飲むのならともかく、
人に飲ませなくてはならないとすると、
もっとさらっと飲める軽いものをたくさん作る必要があるんだろうなと思う。
そのうち軽い酒に飲み飽きてもっと重いのが飲みたいと思っている自分と同じ中年オヤジの目にふれるかもしれん。
それまでは軽いのを作ったほうがいい。

個人的にはシングルモルトは嫌いじゃないがあまり飲まない。
青酎みたいな臭い芋焼酎を飲んでいたらある日突然飽きていまは焼酎の中では麦焼酎が一番好みかな。
ビールもエビスとかシメイみたいのを飲んでて飽きて、今は普通にピルスナー飲んでる。
スーパードライとかモルツとか軽くて好き。

日本酒はだんだんわかるようになってきた。好きだがすぐ酔うから困る。