「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年ガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝中島敦の書簡と日記

無料キャンペーン

無料キャンペーンやって良いことといえば、ネットやツイッターで検索かけたときにタイトルが出てくること、などだろうか。
今「エウドキア」で検索しても大したものは出てこない。
「エウドキア」と言う人も複数いて、
語源的に言えば、eu (良い)+ dux (支配者) という意味なんだろうな。
ま、どちらかと言えば王族の名のようだ。
eu はギリシャ語だが、dux はラテン語だから、ギリシャがローマに併合された後にできた名前だわな。
ヘレニズム時代にはさかのぼれないな。
eudokia の男性形が見当たらないんだが、女性名しかないのだろうか。
まあそういうこともあるのかもしれんね。

も少ししたら一応お披露目として無料キャンペーンやるかな。
表紙の絵がなかなか切り替わらない。

憑依

いがらしみきおのアイの主人公は他人と意識を共有することができるのだが、
手塚治虫のブッダに出てくるタッタという子供も動物に乗り移ることができる。
賤民の子供で無教養だから超能力を身に付けたという設定も似ている。

人に狐や狸が憑くという話は普通だしな。
生き霊や死んだ人や神が憑いて物語るというのも普通だわな。
自分から相手に乗り移るというのも自然とそこから出てくる話かもしれん。
こういう怪奇譚はしかしどういう起源を持つのだろうか。

facebook

facebookがなんかおかしい。
pcで使っている分にはまだいいんだが、アプリがときどきわけのわからんことをしてくれる。
まあ、仕様ころころ変わるし操作方法なんてあるようでないようなもんだし。
ともかくアプリでfacebookをいじるのは危険。
pcでも必要ない限り使うまい。

ていうかfacebooに小学生以来ほとんどあってないが、
たぶん知り合いだけどよくわからん人たちが最近多くて困る。
こういうものに家族の話題や写真を投稿したい気持ちもよくわかる。
だが、困る。

twitterはまだ好きだが、
酔った勢いで写真投稿するのだけはやめようと思う。

昔ベタのhtmlで日記書いたりして、
それからブログという便利なものができて、
さらにtwitterやfacebookなんかが出てきて誰もがネットに自分をさらすようになったが、
便利になればなるほど気分で書き込めるようになり、かなり危険だなと思う。
自分の書きたいことを制御できるのはブログくらいまでか。
しかしブログも酔った勢いで書き殴ることもあって必ずしも安全とはいえない。

auブックパス

auビデオパスとau歌パスは解約したが、ブックパスは電子書籍業界のお勉強にと思い、継続することにする。
auブックパスの読み放題はすごい。月額562円。
手塚治虫の作品がおそらくはすべて読み放題なので、いくら読んでも読み切れない。
あと土山しげるとか、Cat Shit Oneとか。
小説もものすごくいっぱいある。

それで思うに、電子書籍は売り切れも絶版もないから、
これから電子書籍は無限に増えていき、
キンドル直接出版みたいに誰でも書けるから、
なおのこと増えていき、
一度クラウドの海のなかに埋もれてしまえば、たとえ存在していても誰にも読まれない、ということになるだろう。
これだけコンテンツが洪水のようにあふれていては多少おもしろいものを書いたとしても見向きもされない。
ちょうどandroidアプリが世の中に氾濫しているようなものだ。
実に頭の痛い状況だなと思う。
電子出版はkdpだけで閉じているわけではない。
kdpでいくらがんばっても無駄な気がしてくる。

漫画喫茶も、あまり利用しないんで知らないがこんなもんなのだろう。
しかし漫画喫茶に比べれば便利さがまったく違う。
空き時間にどんどん読めるのがいい。

kdpの困るところは印税70%にするには250円以上の値段を付けなくてはならないとこで、
99円で印税35%だともうけは1/6になってしまう。
99円で印税70%ならとっくにやってると思う。

auブックパスの読み放題みたいなキャンペーンもない。
仮にアマゾンにauブックパス読み放題みたいなサービスがあって、
一つ読まれるたびにたとえば1円印税がもらえるとしたら、
たぶん私はそれをやってるだろうと思う。
今みたいに忘れたころに1冊売れるとかいうのよりはまだ良い気がする。
Kindle Countdown Deal ってのもあるが今は amazon.com か amazon.co.uk しかできない。
co.jp でできるんならもうやってると思う。

エウドキア ギリシャの女帝

「ギリシャ人の王国」のタイトルを「エウドキア ギリシャ人の女帝」に変更。
あまりセルジュークやノルマンのことは書かずに済ますつもりだったが、ある程度追記。

小説でもカラオケでも、誰も知らないやつは受けない、そんな気がする。逆に誰もが知っているネタはただそれだけで受ける。誰もが知っている人が書けば受ける。高城剛とか堀江貴文とか。それが消費者心理(笑)。

今回の「エウドキア」も売れない自信ならある。でももし売れちゃったら。マーケティング考え直さなきゃな。売れなかったら。当分こんなの書かない。

表紙の画像がなかなか入れ替わらないな。中身が変わるのもも少し時間がかかるだろう。

無料キャンペーンとかやめちゃおうかな。しばらく放置。

xperia

私としてはアップルとかジョブズとか嫌いなんでiphoneやipadを買うことはあり得ない。
サムスンも嫌いなんでgalaxyとか絶対買わない。
それ以外だったら、aquos でも kyosera でも asus でもかまわない、と思ってたが、
xperia には惚れた。
sony はやっぱこの手の製品作るのうまいわ。
今更だが、このクオリティは、sony以外に作れるはずがない。
vaioとかテレビを切り捨てたというが、まあ正解だろう。
世の中はまだ xperia の良さを知らない。
しばらく xperia 以外買わない。

推理小説

なんか最近煮詰まるのでぐだぐだとブログに書くとだ。
私が小説を書くのに一番影響を受けたのは『日本外史』だろうと思う。
その他には『平家物語』とか三遊亭圓生の落語かと思う。
圓生はまあともかくとして、『日本外史』というのはとにかく登場人物が多くて、
いきなり出てきて消えていく。
ときどき義家とか頼朝とか清盛みたいなメインキャラが出てくるのだが、
よく読まないとこの人がこのへんの主人公ですってことがわからないから、
読んでいるうちにああ義家って割と重要?とかって気づく感じ。

『平家物語』もどうでもよい人たちが次から次に出てきてなかなか義経とか頼朝が出てこない。
古典がみんなそうではないが、いわゆる主人公がいないパターン。
現代では群像劇とかっていうのかな。

小説と違って現実世界には主人公はいない。
主人公はこの人で、ヒロインはこの人で、仇役がこの人で、というプロットは、現実世界には存在しない。
では現実世界をそのまんま切り取ったような小説は成立し得ないのか、読者を獲得し得ないのか、
と考えたとき、『平家物語』や『日本外史』なんかは、やっぱ主人公がいるとも、プロットがあるとも言いがたいのに、
かつては多くの読者がいた。
じゃ、そういう文学形態があってもいいはずではないか。

私が書いたものの中では『墨西綺譚』が典型的にそうで、もちろんこれにもプロットはあるのだが、
敢えて言えば、誰がヒロインか当てる推理小説みたいなものになっている。
ミステリーで真犯人当てるようなもの。
あれ、この子がヒロインかなと思わせといて実はやっぱりこっちでした、みたいな。

『安藤レイ』も推理仕立てになっているが、人は誰も死なない。
これもやっぱりヒロインはアンドロイドですねと思わせといて実は別の人でした、みたいな仕掛けになっている。
普通の推理小説ではない。
私はひねくれ者だから、
誰か人が殺されて真犯人を推理する、みたいな話は絶対書かないと思う。
歴史小説で軍人や武士が死ぬのはかまわないけど、
現代の民間人を殺すのは気が乗らない。
『墨西綺譚』ではやむなく一人殺したが、なんとか殺さずに済ますわけにはいかないかと悩んだあげく、
やはり彼には死んでもらわなくてはならないので死んでもらった。
そのくらい自分の話の中で人を殺すことに抵抗がある。

なんでかといえばたぶん私にはそういうのはテレビドラマのシナリオみたいな感じがするからだと思う。

『墨西綺譚』なんてのは、ある意味完全な失敗策で、最初に無駄にたくさんキャラが登場してくるので読者はあきれるだろうと思う。
でもあれはあれでもうほっとくしかない。主人公とヒロインがいて敵役がいるとか、
事件が発生してそれを解決するとか、
父が殺されたから仇をうつとか、
父に捨てられたから復讐するとか、
そういうのは書きたくないんだから仕方ない。
たぶん私は、敢えてそういう定番な王道な話を書こうとすると、ひねりをきかせられなくて窮すると思う。
つまり、誰もまだ使ったことのないプロットは簡単にひねれる。
みんなが使うプロットでひねるとみんなと同じようなひねり方にしかならないから、
そうではないひねり方をしようとがんばるがたいていもう誰かがすでにやっていたりして、疲れる。
だからできるだけ他人とネタのかぶらないことをやりたがる。
そういうことに違いない。

でも最近は割と主人公がわかりやすいように書くようにしているつもりだ。

アマゾンから振り込まれた印税

あんまこういうことは書かない方がよいと思うが、
2013年はkdpを始めた年なので、
少し具体的な数字を書いてみようと思う。
ええっと、それで新生銀行にアマゾンから振り込まれる用の口座を作ったのは4月だった。
売り上げは1月から発生していたのだが、最初に振り込まれたのは4月24日。1070円。
この金額が何を意味するのか、よくわからん。

で、4,5,6,7月の売り上げと6,7,8,9月の振り込み額がそれぞれ一致しているから、
2ヶ月後に振り込まれているらしい、ということはわかるんだが、
それ以降の金額は微妙に変動していて、どういう仕組みでこんな揺らぎができるのか、よくわからん。
でもまあ、例の手続きをやったから、アメリカ政府に源泉徴収されてないことは、ほぼ確かなようだ。

で、12月末日までに実際にアマゾンから振り込まれた額は19000円くらい。
1月にならすと1500円くらいか。
まあ体感的にもだいたいこのくらいだった。
微妙。
たぶん、確定申告するとしてもすべて必要経費で控除してもおかしくないレベルだと思う。
印税の必要経費ってどうやって計算するのかね。
も少し儲かれば税理士雇ってもいいくらいだけどね。

amazon.com とか amazon.co.uk でも割と売れたりする。
『古今和歌集の真相』みたいなお堅いのが売れたりして割とびっくりする。

そうだなあ。
年に100万円くらい印税が入ったら、どうどうとキンドル作家を名乗ってもよさそうだが、
まだ道は遙かに遠い。
ただ今後何もしなくてもずっと一定の振り込みがあると考えると(そんな保証は何もないわけだが)、
ちょっとした小遣いくらいにはなるわけだ。
100冊くらい書いてそのうち2、3冊がベストセラーになれば100万円にいきそうな気もするんだが(笑)。

ギリシャ人の王国

近々、『ギリシャ人の王国』という物語をキンドルで出版する。またまた旧作のリメイクである。
パブーで公開してたやつの焼き直し。
さほど手間はかかってない。
ただ数年前と比べれば多少テクニックは覚えた(笑)から、
少しは小説っぽくなってるかもしれない。

『エウメネス』が今もときどき売れていてアマゾン和書の中で、
古代ギリシャものの中では5位くらいにつけている。
わりと良い感じ。
印税で食っていくには程遠いが、今のところ突破口はほかに見いだせてない。

私としては『エウメネス』みたいなものをどんどん書いたほうがいいんだろうなと思う。
もとはといえば、『エウメネス』は『ギリシャ人の王国』から派生したものなのだけど、
世の中のギリシャ好きの人たちに受け入れてもらえるだろうか。
私はこの作品が一般受けするかどうか、まったく自信がない。
だけどまあ出さないでおく理由もないので出しておく。

私は、ギリシャと言っても古代ギリシャのことはあまり書きたくない。
『エウメネス』もギリシャものというよりは、ペルシャやインドの話である。
『ギリシャ人の王国』は十字軍が始まる直前の東ローマの話である。
たぶん私は誰もが知ってるわかりやすいネタで勝負するのが怖いのだ。
人気のないものをわざと取り上げるのが好きなのだ。
だから日本の歴史でも戦国時代とか幕末維新とか源平合戦はやらない。
わざとそういうところを外して書く。