大伴旅人の酒の歌十三首

万葉集に山上憶良の酒の歌臣罷宴歌一首

> おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむぞ

のあとに大伴旅人の酒の歌十三首というのがあって、これがなかなかおもしろい。

> しるしなき ものをもはずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし

> さけのなを ひじりとおほせし いにしへの おほきひじりの ことのよろしさ

> いにしへの ななのさかしき ひとたちも ほりせしものは さけにしあるらし

> さかしみと ものいふよりは さけのみて ゑひなきするし まさりてあるらし

> いはむすべ せむすべしらず きはまりて たふときものは さけにしあるらし

> なかなかに ひととあらずは さかつほに なりにてしかも さけにしみなむ

> あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ

> あたひなき たからといふとも ひとつきの にごれるさけに あにまさめやも

> よるひかる たまといふとも さけのみて こころをやるに あにしかめやも

> よのなかの あそびのみちに たのしきは ゑひなきするに あるべくあるらし

> このよにし たのしくあらば こむよには むしにとりにも われはなりなむ

> いけるもの つひにもしぬる ものにあれば このよなるまは たのしくをあらな

> もだをりて さかしらするは さけのみて ゑひなきするに なほしかずけり

どうも泣き上戸だったらしい。
自分は飲んでもあまり泣かないので気持ちはよくわからない。
オマル・ハイヤームのルバイに通じるものがある。

冒頭の歌は有名だが、あとのもおもしろい。
昔の七賢人も好きなのは酒だったとか、
ああ醜い、偉そうに酒を飲まないやつをよく見たら猿に似ている、とか
このへんの歌はもっとはやっても良いはず。

古今集の成立

万葉集やらも合わせて読んでいるのだが、
万葉集はなんか、
関連ある歌が連続して採られているらしいのはわかるが、
選び方や配列が漫然としていて、古今集ほどおもしろくない。
この漫然感は後撰集や拾遺集にもあって、
逆に古今集というは歌の配置というものがものすごく意識して作られている。

この配置の妙というのはやはり歌合に影響を受けたものと言わねばならない。

在民部卿家歌合というのは左右に分かれて普通に競技として行われていて、
州浜を使って会場を飾ったり、勝ち負けを決めたりしている。
ただし誰の歌かは記されていない。

在民部卿家歌合が光孝天皇の御代に行われたのも偶然ではない。
光孝天皇が和歌復興の先駆者であるからだ。
かつ、在民部卿こと在原行平、彼が平城天皇の孫であることも実に興味深い。

光孝天皇も平城天皇も非主流派である。
光孝天皇は和歌・和琴・鷹狩を復興させた。
光孝天皇が行平に命じて、奈良に残っていた古い和歌の流れを発掘させた。
そして、おそらくは、奈良に自然発生した歌合というものを京都の宮中にもってこさせた。
嵯峨天皇『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』以来、京都は漢詩であって、
歌合が発生する素地はなかっただろう。
和歌の歌合に先だって漢詩の漢詩合(からうたあわせ)のようなものが、
なかったとは言い切れないが、
おそらく歌合は最初から即興で歌を詠む競技であったろうから、
日本人が即興で漢詩を作れるはずもなく、
やはり、長い和歌の伝統がある奈良でまずは歌合が発生したのではないか。
『新選万葉集』も奈良で引き続き詠まれていた和歌を集めたものかもしれない。

ともかく、奈良と京都、光孝天皇以前と以後では文化に大きな断絶があるのだが、
そこをある程度埋める作業をしたのが光孝天皇で、それを引き継いだのが宇多天皇といえる。
光孝天皇の治世は短すぎた。

そんでまあ行平が平城天皇の流れで奈良の歌合というものを京都に輸入すると、
爆発的に流行し始めて、
村上天皇の時代の天徳内裏歌合まで一気に加熱していくわけである。

ただ古今集があんなふうになったのは、
寛平御時后宮歌合のようなヴァーチャルな歌合から発展したものだろう。
歌合がヴァーチャル化したのは、漢詩集の影響があったかもしれない。
漢詩というものはあらかじめ詠んで持ち寄るものであっただろうから。
まともかく、実際に競技として行うのではない歌合が長大になったのが古今集。
歌合だと左右交互に詠む。
そこまでの規則性は古今集にはないが、
その雰囲気で配置されている。
現代歌人とよみ人知らずの歌を交互に並べたりとか。
春夏秋冬恋という部立ても明らかに歌合の影響だ。

もひとつ、古今集をおもしろくしているのは、
主に伊勢物語から、歌物語の要素を輸入したことと、
実際の歴史的事件を歌として配置していること。
これがあるから、我々はまるで大鏡を読むような気分で、古今集を読むことができる。
こういう工夫はおそらくほかの勅撰集にはない。

歴史物に歌物語的要素を持たせたものとしてはむしろ平家物語が近いといえる。
二代后あたりの作り話などいかにも古今集的だ。

かろうじて、定家の『新勅撰集』にそのかすかな匂いを感じるくらいかな。

『新古今集』のおもしろさはもっぱら歌合的なものだと思う。

陽成院も歌合をやっているが、古今集よりかはあとなくらいだから、
たぶん周りで和歌が流行ってるから自分もやってみたくなったのだろう。
やはり和歌は光孝天皇よりか後だ。

脳の老化と酒

酒は好きでよく飲んできたけどそろそろやめた方が良い気がする。

酒が弱くなった、というか、アルコールの代謝機能が落ちてきた、というわけではなさそうだが、
ある程度以上飲むと記憶が残らなくなってきた。

かなり酔っ払っても、だいたい意識はあるのである。
意識はあったというおぼろげな記憶はある。
でも翌朝起きてみると忘れてしまっている。

年を取ってしまえばだいたい経験だけで生きていける。
判断力と、昔の記憶があれば生きていける。
だから、
短期記憶から長期記憶へ記憶を移すところというのは、
年を取るとさほど重要ではない、少なくとも命に関わらないから、退化する。
いわゆるぼけというやつだ。

でまあ私はまだぼけが始まる年でもないし、ぼけてもいないはずだが、
酒を飲むとそれがでる。
すごく前倒しにぼけの症状が出ているのではなかろうか。
もう五十近くだしな。

昔は酔えば、記憶をなくす(正確に言えば判断力はあるが記憶が残らない)前に、
眠くて仕方なくて寝たと思う。
寝てなければだいたい覚えていたと思う。

昔も、酔えば無茶した。
生け垣に飛び込んだり、
自動改札を走り抜けたりした。
道で寝てたこともあるらしい。

今はそんなことはしないが、逆に違うところに問題が出てきた。

怒りっぽくなるというのもたぶん老化の一種だろう。

どんどん脳が老化していて、特に酔ったときにその症状が出る。
老眼も進行している。
要するにこれが年よりになるということなのだ。

歌合

在民部卿家歌合は現存最古の歌合だが、
州浜を使ったよとか、右と左に分かれて勝負したよということが書かれている。

亭子院歌合の序はもっと詳しくうだうだとそのようすが書かれている。
右の服の色は何色で左の服の色は何色で州浜を巳の刻に作ったとかどうしたこうしたとか。

州浜(すはま)とか型(かた)というのが、今の我々にはよくわからんのだが、
巨大な生け花のオブジェのようなものだったと思われる。

盆栽みたいなのではなくて、
冠婚葬祭とか歌合とかそんなイベントのときに作られる生花みたいなもの。
それをどこかの海辺や池にみたてて作ったりとか。
で、そこに菊を挿したりする。
その州浜を見ながら歌を詠んだりもする。

宴筵というが、殿上人以外も参加したはずだから、歌合は、
多くの場合屋外に筵を敷いて行われたのではなかろうか。
屋外だから州浜をちゃちゃっと作るというのはそれほど難しくはなかったはず。
屋内だと巨大な花瓶が必要になろう。
平安初期だとかなり難しいと思う。
少なくとも宇多天皇のころは屋外だったのではなかろうか。
服の色がどうしたこうしたというのもやはり屋外のイベントだったからじゃあるまいか。
屋内だと服の色なんてよくわからんよね。
屋外で、花見のとき歌を詠むような感覚ではなかったか。

天徳内裏歌合は清涼殿でやったように書かれている。
州浜が遅れて(いかにもあり得そうなハプニングだが)暮れから始まって、
翌朝までやったという。
さすが内裏。清涼殿すげえ。
村上天皇の時代までくるとそんだけイベントも本格的で派手になったということだろう。
つか清涼殿くらいなら左右に分かれて何十人も入れただろう。

治承二年別雷社歌合には歌人が六十人参加したとある。
上賀茂神社だよね。
「天晴。別雷社の広庭に歌合の事有り」とあるから、明らかに庭でやってるわな。
上賀茂神社にはいくらなんでも六十人も入れるような建物はないよなあ。
無い無いぜったい無い。

で、後世になると歌合はもっぱら室内でやるようになる、たぶん。
そもそも屋内に州浜を作るのはたいへんだから、
屋内でやるようになると自然と州浜は廃れて、
その代わり床の間に花を生けるようになったんじゃなかろうかねえ。

在民部卿家歌合だと、在原行平邸ということだから、まあ、
殿上人でなくても邸の中に上がったかもしれんが、
当時は部屋の中だと案外暗くて字も読めぬ。
雨がふってなきゃ、屋外の方がましということはあったと思う。

寛平御時后宮歌合、是貞親王家歌合というのは歌合とは言っているが実際の歌合ではなく、
判者もおらず、
わらわらと歌を持ち寄っただけだったような気がする。

古今集成立の真相

『新編国歌大観』を見ていると、
勅撰集は古今集からになっていて、
万葉集は私撰集ということになっているのだが、
万葉集の後に、新選万葉集というのがあって、
これも万葉仮名で、しかも漢文の序文がついている。真名序である。
ちょっとびっくりした。
そんで、寛平九年にできたとは書いてあるが、誰が選んだかも、
勅撰かどうかも書かれてない。
思うに、万葉集のように、明記はされてないけれども、これも一種の勅撰集であり、
宇多天皇の勅命であった可能性がきわめて高い。

そのあと、古今集真名序には、
古今集に先立って続万葉集というものが編纂されたと、明記されている。
これは仮名序には何も書かれてないのだが。

新選万葉集ときて続万葉集と来たからには、
続万葉集もまた万葉仮名で書かれていて、かつ真名序がついていた可能性がきわめて高い。
思うに、古今集真名序というのは実はもともとは続万葉集の序文だったのではなかろうか。
それにちょっと追記したものが本朝文粋に採られて後の古今集真名序となった。

そんな気がしてならない。

新選万葉集からの流れからいけば、古今集にも最初から漢文の序があって、
仮名序はなかったのじゃないかと思うが、そもそも和文で書かれている古今集に真名序をつけるという発想は、最初はなかっただろう。かなり後付けなんじゃないか。
そんな具合に古今集の序文というのは非常に複雑な成立をしたのじゃないか。

おそらく、続万葉集というのは、
古今集のうちの詠み人知らず題知らずの歌に相当するはずである。
で、
この他に宇多天皇が依頼した歌合がある。
是貞親王家歌合、
寛平御時后宮歌合、
亭子院歌合、
仁和中将御息所家歌合、など。

あと、伊勢物語もしくは業平集、貫之集などがソースとなる。

良房、基経、二条后関連の歌を集めた人もいるはずで、
それは文屋康秀の可能性が高く、僧正遍昭か、あるいは業平に関わる人であったかもしれない。

それらのすべてのソースをいっしょくたにしたために、
もはや万葉仮名でうだうだ書いてられなくなった。

主に真名序を参考に仮名序を作ろうとしたが、
ひどいできになった。
前例もなくてひどいできになった。
だが、部分的にはみどころがなくもないので、そのままの形で残った。

というところではなかろうかの。

ともかく、その成立すべてにわたって宇多天皇が関与していたのは、
ほぼ間違いない。
醍醐天皇のはずがない。
延喜五年というのは単に続万葉集が成立した年だったのではなかろうか。
続万葉集は完全に古今集に包含されたので今は残ってないと。

後拾遺和歌集

そんでまあ、
たいへんありがたいことに、
[後拾遺和歌集](http://www2s.biglobe.ne.jp/Taiju/1086_goshui_wakashu_01.htm)
はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、
それで序文を読んでみたが、
言ってることはごくまともで、
古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、
その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

> 世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。
だから最近の歌というものに注目するのは難しい。
だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、
などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。
重鎮たちは面白くないわな。

> 世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、
実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、
要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。
その言い訳だわな。
そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、
勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。
偉大なる先駆者。パイオニア。
これまたカチンとくるわな。
勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、
たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。
それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

後拾遺集の序文にファピョった連中が、
なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、
そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、
元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。
この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

> 赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、
どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。
古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。
そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。
誰だか知らないが。
『難後拾遺』を書いた源経信かね?

それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。

ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

> この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。
「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。
新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。
そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

後拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。
まだ序文しか読んでないけど(笑)。
つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。
この人たち多分身分低いわな。
ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。

業平集

業平集二番目の歌

> 桜の花盛りにひさしくまからぬ人のもとへまかりぬれば

> あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり

> といへば女かへし

> けふこずばあすはゆきとぞふりなまし消えずはあるとも花とみましや

どこをどう読んでもこれは業平が久しぶりに女によばれて訪れた、という歌である。
二条の后に呼ばれた、と解釈できないこともないが、そうでもないかもしれない。
いつもはつれない二条の后が花の盛りにことつけて、一日だけだよとわざわざ業平を呼びつけ、
業平が「よりを戻すのかとうわさになるかもしれませんよ」と逆に心配している、と解釈するのが一番おもしろいが。

古今集62番と63番では詠み人知らずに業平が返したことになっている。

> さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける

> あだなりと なにこそたてれ 桜花 年にまれなる 人もまちけり

> 返し

> けふこずば あすは雪とぞ ふりなまし きえずはありとも 花と見ましや

伊勢物語17番

> 年ごろおとづれざりける人の、桜のさかりに見に来たりければ、あるじ、

> あだなりと 何こそたてれ 桜花 年にまれなる 人も待ちけり

> 返し、

> けふ来ずは あすは雪とぞ ふりなまし 消えずはありとも 花と見ましや

古今集とほとんど同じ。

業平集おもしろいな。
成立順序としては業平集→伊勢物語→古今集だろうか。
しかし伊勢物語のほうが詳しい場合もある。

業平集のほうが、意味が通りやすいか。

深読みすると、
清和天皇はあまり長寿ではなかった。
三十歳で死んでいるが、その死に方が尋常ではない。
譲位し、出家して、絶食するなど苦行の上、自ら死を選んだような死に方をする。
理由はよくわからん。いろいろありすぎてわからんと言った方がよいか。

それでまあおそらく高子はものすごい年上の姉さん女房であるし、
清和天皇の寵愛というのはとっくに冷めてたので、業平を呼んでみた。
業平としてはもう五十過ぎの当時としてはおじいさん。
高子も三十代後半。
業平はいまさら色恋という気分でもないのであきれている。
「あだなりとなにこそたてれ」というのはおどけたような調子であったかもしれない。
で、「けふこずばあすは雪とぞふりなましきえずはありとも花と見ましや」
は私ももう若くないのよ。すぐに年よりばあさんになってしまうわ。
というような意味で言ったのかも知れない。

まあ、そう解釈するのが一番おもしろい。

二条后と在原業平

業平集冒頭、古今集871番、

> 二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる

> 大原やをしほの山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ

直訳すれば、
「二条后がまだ東宮の御息所と呼ばれていたときに大原野神社に参詣した日に詠んだ歌。
大原野神社の小塩山も今日こそは神代のことも思い出すでしょう。」

意味わからない。
伊勢物語七十六番

> むかし、二条の后のまだ春宮のみやすん所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよりたまはりて、よみたてまつりける。

> 大原やをしほの山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ

これもよくわからん。なぜ伊勢物語に採られているのかすらわからんように書かれている。
 
わざと意味わからないようにはぐらかされているから、わからない人にはわからないが、
わかる人にはわかる。
どうやら馬淵にも宣長にもわからなかったらしい。
しかし私にはわかる。

これはただ単に、
「今日こそあなたも、今は神代のようにずっと昔になってしまった、私たち二人のことを思い出してくれるでしょうね」
と言っているのである。
藤原高子と在原業平は、
まあこのように伊勢物語にも業平集にも採られているわけだから、
つきあっていたわけだが、
高子が東宮の御息所となるとき二人は別れさせられた。

たまたま、藤原高子が藤原家の氏神である大原野神社へ参ることになった。
このころ在原業平は左近衛将監、蔵人、従五位下。
ようするに、殿上人でかつこのゑづかさ、つまり近衛府の役人だったわけで、
それでおそらく身辺警護係として行幸へつきそうことになった。
二条后こと藤原高子は、従者らに、車から報酬を手渡す。
その中には業平に下僕として仕える老人いて、禄を受け取る機会に高子にこの歌をたてまつった。
実は歌を詠んだのは業平で、直接会うことはできないから従者に和歌を持たせたのである。
意味はそれをうけとった高子にしかわからなかった。

どうだ完璧な解釈だろ。

古今和歌集の真相

[古今和歌集](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86)
は醍醐天皇の勅令によって、
延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。
普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。
宇多上皇ならばあり得るだろう。
宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。
仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。
なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、
そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

[亭子院歌合](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AD%E5%AD%90%E9%99%A2%E6%AD%8C%E5%90%88)
というのから古今集に採られているのだが、
これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、
古今集成立のずっと後である。
これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。
後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。
でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

> 亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

> 桜ちる木の下かぜはさむからで空にしられぬ雪ぞ散ける

とあって、その次に

> 延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

> こと夏はいかが聞けん時鳥こよひばかりはあらじとぞ思ふ

とある。
延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、
このときもやはり宇多上皇だったのではないか。
そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、
この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、
と解釈は可能なんだが、
貫之集の中の歌の並びからいけば、
この宇多天皇からの院旨は、
亭子院歌合の後だったんじゃないか、
延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、
と思われるのである。
というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは
[元永本古今和歌集](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%B0%B8%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86)
という写本で、
恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。
時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。
つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、
古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。
それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、
そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。

古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、
仮名序はひどい。
支離滅裂だ。
あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。
なるほど日記文学風の序がついている。
伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。
こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、
ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。
しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、
おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。
白河天皇の関与というものも。
しかし実際には非常に重要なものであり、
もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、
良房や基経の歌がいくつも出てくる。
しかも詞書きが異様に丁寧。
宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。
このことはすなわち、
古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。
それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。
それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、
亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。
だから、
「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下に居た。
「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。
だが、
「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」
の時には明らかに昇殿しているのである。
このときは正式な勅命を受けていると思われる。
それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。

茜の帳

おそるおそる読んでみたのだが、『茜の帳』というのはおよそ前半部分の小説で、
わりとあっさり読み終えてしまう。
小説の最初、家庭教師とのからみ、その後霊媒師の話はまあおもしろい。
あえてたとえると「辛酸なめ子」が小説書けばこんな感じか。
言葉遣いというか語彙が少しおもしろい。

最後のあたりが何か祐徳稲荷の幻想を記述しているのだろうけど、
その前までのほうが読み応えがあったかな。

残りはブログの転載記事的なものであり、
ざっと読み流した。
定価はいくらなんだろう。
ちょっと短いかなあ。

祐徳稲荷は子供の頃つれられていったことがあり、
なんだか異様にばかでかい朱塗りの階段が延々と続く神社だなという、
なんともいえない異様な記憶が残っていて、
肥前鹿島にあるので鹿島神社というのかとずっと思ってたが全然違って稲荷神社だった。
あんな田舎になぜあんな巨大な神社があるのか。
これに書いてある説明を読むと江戸初期に勧進されたわけだから、
歴史が長いというわけでもない。
実に不思議だなと改めて思った。

どうでもいいことだが辛酸なめ子が昔、池松江美という名前でブログ書いてたんだけど、
ええっと「女一人日記」だったかな。
あれはおもしろく読んだ。
確か紙の本として出版されたんじゃないかな。
いまさら読み返そうとまでは思わないけど。
『千年王国』とか『にがよもぎ』とか。なつかしいな。