業平集冒頭、古今集871番、
> 二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる
> 大原やをしほの山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ
直訳すれば、
「二条后がまだ東宮の御息所と呼ばれていたときに大原野神社に参詣した日に詠んだ歌。
大原野神社の小塩山も今日こそは神代のことも思い出すでしょう。」
意味わからない。
伊勢物語七十六番
> むかし、二条の后のまだ春宮のみやすん所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよりたまはりて、よみたてまつりける。
> 大原やをしほの山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ
これもよくわからん。なぜ伊勢物語に採られているのかすらわからんように書かれている。
わざと意味わからないようにはぐらかされているから、わからない人にはわからないが、
わかる人にはわかる。
どうやら馬淵にも宣長にもわからなかったらしい。
しかし私にはわかる。
これはただ単に、
「今日こそあなたも、今は神代のようにずっと昔になってしまった、私たち二人のことを思い出してくれるでしょうね」
と言っているのである。
藤原高子と在原業平は、
まあこのように伊勢物語にも業平集にも採られているわけだから、
つきあっていたわけだが、
高子が東宮の御息所となるとき二人は別れさせられた。
たまたま、藤原高子が藤原家の氏神である大原野神社へ参ることになった。
このころ在原業平は左近衛将監、蔵人、従五位下。
ようするに、殿上人でかつこのゑづかさ、つまり近衛府の役人だったわけで、
それでおそらく身辺警護係として行幸へつきそうことになった。
二条后こと藤原高子は、従者らに、車から報酬を手渡す。
その中には業平に下僕として仕える老人いて、禄を受け取る機会に高子にこの歌をたてまつった。
実は歌を詠んだのは業平で、直接会うことはできないから従者に和歌を持たせたのである。
意味はそれをうけとった高子にしかわからなかった。
どうだ完璧な解釈だろ。