『新編国歌大観』を見ていると、
勅撰集は古今集からになっていて、
万葉集は私撰集ということになっているのだが、
万葉集の後に、新選万葉集というのがあって、
これも万葉仮名で、しかも漢文の序文がついている。真名序である。
ちょっとびっくりした。
そんで、寛平九年にできたとは書いてあるが、誰が選んだかも、
勅撰かどうかも書かれてない。
思うに、万葉集のように、明記はされてないけれども、これも一種の勅撰集であり、
宇多天皇の勅命であった可能性がきわめて高い。
そのあと、古今集真名序には、
古今集に先立って続万葉集というものが編纂されたと、明記されている。
これは仮名序には何も書かれてないのだが。
新選万葉集ときて続万葉集と来たからには、
続万葉集もまた万葉仮名で書かれていて、かつ真名序がついていた可能性がきわめて高い。
思うに、古今集真名序というのは実はもともとは続万葉集の序文だったのではなかろうか。
それにちょっと追記したものが本朝文粋に採られて後の古今集真名序となった。
そんな気がしてならない。
新選万葉集からの流れからいけば、古今集にも最初から漢文の序があって、
仮名序はなかったのじゃないかと思うが、そもそも和文で書かれている古今集に真名序をつけるという発想は、最初はなかっただろう。かなり後付けなんじゃないか。
そんな具合に古今集の序文というのは非常に複雑な成立をしたのじゃないか。
おそらく、続万葉集というのは、
古今集のうちの詠み人知らず題知らずの歌に相当するはずである。
で、
この他に宇多天皇が依頼した歌合がある。
是貞親王家歌合、
寛平御時后宮歌合、
亭子院歌合、
仁和中将御息所家歌合、など。
あと、伊勢物語もしくは業平集、貫之集などがソースとなる。
良房、基経、二条后関連の歌を集めた人もいるはずで、
それは文屋康秀の可能性が高く、僧正遍昭か、あるいは業平に関わる人であったかもしれない。
それらのすべてのソースをいっしょくたにしたために、
もはや万葉仮名でうだうだ書いてられなくなった。
主に真名序を参考に仮名序を作ろうとしたが、
ひどいできになった。
前例もなくてひどいできになった。
だが、部分的にはみどころがなくもないので、そのままの形で残った。
というところではなかろうかの。
ともかく、その成立すべてにわたって宇多天皇が関与していたのは、
ほぼ間違いない。
醍醐天皇のはずがない。
延喜五年というのは単に続万葉集が成立した年だったのではなかろうか。
続万葉集は完全に古今集に包含されたので今は残ってないと。