足利氏

尊氏より前の足利氏を調べると、
義家、義国、義康は藤原氏の娘と結婚している。
しかし、義兼、義氏、泰氏、頼氏、家時、貞氏とずっと北条氏と婚姻している。
貞氏と正室北条氏が産んだ子・高義が足利氏を継ぐはずであったが、
早くに死んでしまったようだ。
そこで上杉氏の娘、つまり側室の子である尊氏が足利氏棟梁となった。

ここに微妙な系譜の乱れがある。
上杉氏はもとは宮将軍・宗尊親王とともに京都から来た。
尊氏の挙兵は上杉氏と無関係ではなかろう。

尊氏は北条氏の一支族の赤橋氏と婚姻し、義詮を産んでいる。
鎌倉攻め当時の執権は赤橋氏で、
鎌倉に人質になっていた義詮を逃がしてしまっている。

高時に落ち度があったすると、彼はあまりにもはやく隠居しすぎた。
執権を退いて延々と大御所的な政治をしようとしていたのではなかろうか。
それで現場の執権とか、代々北条氏と姻戚関係を結んできた足利氏とかに疎まれた、
ということはなかろうか。

足利氏というのはどちらかといえば、北条氏の腰巾着的な感じであり、
形式的には北条得宗家の独裁が進んだようにみえて、
実質的には足利氏が関東の支配を広げていたのではなかろうか。

新田氏は妻がわからんことが多い。
北関東から越後に分布している。
地方の豪族というのに過ぎなかったと思う。

よくわからん。
ただ、足利氏は、新田氏と比べて中央志向が強かったのはたしかだ。
北条氏にべったりだった。
故に北条得宗家が御内人(家宰)の諏訪氏、長崎氏あたりを重視すると反目した可能性はあるわな。

高時が失政したから鎌倉は滅んだというのは思考停止にすぎないのは明らかなのだが、ほんとうのところがよくわからん。

愚管抄

慈円って面白いな、同母兄の九条兼実が書いた『玉葉』とかと合わせて、
『愚管抄』『拾玉集』とか徹底的に読んでみたいなと思う。
まあしかし、『拾玉集』を見た限りでは、どうでも良いことをだらだら書く人なんだろうなと思う。
それはそうと、講談社学術文庫の『愚管抄を読む』を読んでいると面白いことが書いてあった。

後三条天皇については以前に
[藤原能信](/?p=10902)、
[宋の改革](/?p=10724)など書いたのだが、
天皇が度量衡の統一政策で、延久宣旨枡というものを作らせ、
それを天皇に奉ったところ、天皇は清涼殿の庭の白砂を自ら枡に入れて確かめたという。
本当にそんなことがあったのかもしれないが、良く出来た作り話のような気もする。
どうも北宋の皇帝か何かがやったことを後三条天皇もやったように脚色しただけではなかろうか。
或いは北宋皇帝がやったことを真似てやってみせたとか。
側近の文官による演出はきっとあったのに違いない。

唐の皇帝はそんな自分で枡で量を計って確かめるような実務的なことはやらない。
唐の皇帝を真似た日本の天皇もやらない。
しかし宋の皇帝はやってみせた。
職人や商人がやるようなことを自ら、率先してやった。
そうして官製の枡というものを普及させようとした。
日本の天皇も宋の皇帝のように変わらねばならない。
そのメッセージのようなものだろうと思う。

だがまあ王様の体を基準にして長さや量を決める、ってのはいろんな時代いろんな国でやってそうだが。
そういうことを一番嫌がるのは貴族だ罠。

それから、天皇は荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設けた。
関白頼通にも自分が持ってる荘園を申告させようとした。
ところが頼通は、荘園を寄進すると勝手に言われるがままにもらっていた、
荘園の整理ということは関白自らがやるべきことであるのにそれを怠っていたのだから、
このさいすべて廃止すべきだ、などとしゃあしゃあと言ったそうだ。
後三条天皇はしかし頼通の荘園だけは記録から除外することにしたという。
これがさも美談であるかのように書いてあるのだが、とんでもないことだ。
頼通は結局天皇の改革の及ばない権力を持っていたというだけではないか。

慈円はここまで歴史をさかのぼって調べていながら、
保元の乱以後日本が乱れたのは、後三条天皇の改革が白河天皇の時代に頓挫したからだ、
宋のように天皇主体で官僚制へ移行する改革が不徹底だったからだ、
だから武家の時代が来たのだ、
とは考えていない。
実に不思議なことだ。
結局は彼も藤原氏だったということか。

思うに中央集権に流れるか、地方分権に進むかということは、
ささいなきっかけでどちらか一方に決まってしまうのだろう。
中国では宋以後ずっと中央集権のままになってしまう。
一方日本や欧州では地方分権に固まってしまう。
後三条天皇はその岐路にいたのである。

紫式部

『紫式部日記』をざっと読んでみたのだが、
ますますこの紫式部という人がわからない。

たとえば、額田王とか小野小町とか赤染右衛門とか和泉式部とか式子内親王とか。
有名な女性の歌人はたくさんいるが、みな読めばすっとわかる歌ばかりだ。
和泉式部日記にしろ、
清少納言の枕草子にしろ、
菅原孝標女の更級日記にしろ、
読めばすんなりわかる普通の文章だ。
しかし紫式部はよくわからん。
藤原定家や北畠親房にも似たようなものを感じるが、紫式部はますますわからん。
ただ、源氏物語が長編だからわかりにくいとかそういう問題ではなく、
とにかく屈折しててわからんのだ。

たとえば空蝉とか夕顔とか若紫とかヒロインがみんなやばいし源氏の口説き方もやばい。
いや口説いてすらいない。ああいうのは誘拐という。
覆面をしたまま連れ去って自分は顔を見せたが相手は名乗らない。
そのうち生き霊にたたられて死んでしまう。
ひどいストーリーだ。
正妻の葵上の扱われ方もひどい。まあそんなものだったのかもしれんが。

江戸時代のまっとうな武士が源氏物語を罪業の書だと思ったのはごく当然だと思う。
しかし、『紫式部日記』を読むと彼女も仏教によって極楽に救われたいなどと考えているようだ。
メンヘラなのか。

> 年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな

これは『紫式部日記』に出てくる、玉葉集にも採られた歌だが、
どうも精神を病んでいるような歌だ。そう思えば思うほどそう思えてくる。
「埋れ木を折り入れたる心ばせ」とはどんな性格なのだろう。
今で言う引きこもりかニートのような性格か。
源氏物語のヒロインの多くは美人であることを世間の男達に知られぬように、
ひっそりと生きている。それはたまたま紫式部がそういう性格なだけなのであって、
平安女性の一般的な生き方、処世というのが、みんながみんな、
いわゆる「深窓の令嬢」的なものだったという認識は違っているのではないか。
だって顔を見たこともないのに恋愛なんてできますか普通。
普通にサロンのようなところに出入りして男性と知り合うのではないのか。

『紫式部日記』の記述も、『源氏物語』と同じで、唐突で断片的で断定的。
彼女の周りだけなにか地軸がねじ曲がっているような感じ。
ああいうものを平安文学の典型だと思うといろんな意味で問題があると思う。
宣長は絶賛しているけれど、彼にもその気が多少あったのだろう。

幕下

慈円の『拾玉集』に頼朝の歌が載っているというので、近所の図書館に新編国歌大観を読みに行った。
歩いて通えるところに新編国歌大観があるのは便利なのだが。
国歌と聞いて和歌だとわかる人がどれくらいいるだろうか。
普通の人は世界中の国の国歌が集めてある本だと思うのではなかろうか。

『拾玉集』は私家集の中にある。初めて読んだが異様に長い。
ぱっと見どれが頼朝の歌かさっぱりわからない。
『拾玉集』を何度も何度も読んでいると、将軍とか幕下と呼ばれているのがどうも頼朝くさい。
幕下というは陛下・殿下・閣下などと同じで将軍に対する尊称のようである。
[吾妻鏡](http://adumakagami.web.fc2.com/aduma17c-09.htm)を見るに、
幕下将軍とは(死後の)頼朝個人を指す固有名詞のように使われている。
これに対して二代将軍・頼家のこと(というよりは当代の将軍のこと)はただ将軍家と呼んでいる。

幕府というのは[史記 李将軍列伝](http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7109)
が初出で、要するに将軍が戦場に野営しているその本営のことを言う。
李将軍とはここでは李広のことで、李陵はその孫である。

まあ幕下というのが『拾玉集』における頼朝のことだというのは間違いないとして、
確かにたくさん頼朝の歌が載っているのだが、
別段大して面白い歌でもなさそうだ。
慈円と頼朝が歌をやりとりしているのだが「あれより返し」などと書いてあるだけのやつは、
たぶん自分に対して「あれ」なので頼朝の歌だろうとわからなくもないが、
非常に紛らわしい。
心を落ち着けてきちんと読まにゃわからん。
『拾玉集』は五巻もあって目次がついてるかと思うと必ずしもそういう章立てにはなってないし、
とにかくいろいろだらだら書いてある感じ。
全然「玉を拾」ってる感じではない。むしろ玉石混淆(笑)

CD-ROM 版の新編国歌大観というのは、決して使いやすいとは言えない。
どの歌を誰が歌ったかという情報がない。
単に歌か歌以外の詞書きの文字列検索しかできない。
頼朝で検索かけると俊頼朝臣というのが大量にひっかかってきてうざい。
頼朝だけだと源平盛衰記くらいしか検索に引っかからない。
この源平盛衰記に出てくる頼朝の歌というのが梶原景時との連歌になってて、
連歌はもっと後の時代に一般化したものだろう。
源平合戦というのは平安時代末期なわけだから、おそらく贋作だろうと思われる。
梶原景時の歌というのが武家百人一首に載っているそうだが、
彼に和歌のたしなみがあったことすらあやしい。
新編国歌大観は、必ずしもデータベースとしてきちんとしてないし、
古代から近世までの和歌をすべて網羅しているわけでもない。
だがあまり需要がないからこれ以上編集に金かけても仕方ないということなのに違いない。

頼朝はいろんな呼ばれ方をされた。兵衛佐とか佐殿とか鎌倉殿とか二位とか右大将とか。
勅撰集では「右大将」という呼ばれ方が一番一般的ではなかろうか。
新古今集では「前右大将頼朝」と書かれている。割と親切だ。

頼朝の歌は『拾玉集』以外ほとんど残ってないのだが、
たぶん残ってないだけで子供の頃から大量に歌を詠んだものと思われる。

江戸の街道

別の地図を見ると、
小山から日光、宇都宮、水戸の三方向に街道が分岐している。
宇都宮から日光へ至るのが正式な日光街道であり、小山から日光に至るのは脇街道と見なせばよいか。
思うのだが、江戸から小山を経て日光へ至るのが一番自然な道筋だと思う。
いやそれよりも、そもそも江戸から日光へ至るには日光御成道を通るのが一番自然だ。
よくわからん、もっと正確な地図が欲しい。
宇都宮から大田原、鳥山、日光などに至る道が極めて適当に描かれている。
奥州街道を整備するにあたって宇都宮をその主要な中継地点にしたというような事情ではなかろうか。

小山から水戸へ至るのもやはり脇街道だろう。

千住から船橋を経て佐倉まで佐倉街道が延びているが、
これは町人が成田山詣でに利用したために成田まで延びて成田街道などとも呼ばれる。

大山街道というのは複数あって紛らわしいのだが、世田谷を起点として矢倉沢往還を記入してみた。
大山道というのも要するに江戸で大山詣でが流行ったからそういう呼び名が定着したのにすぎない。
ついでに中原街道も記入してみる。

東海道五十三次というが江戸と京都は含まれてない。
品川から大津までだ。
歌川広重の絵は五十五枚ある。
これの影響で、江戸の起点を日本橋としたのではなかろうか。
あまり根拠のあるものとは思えない。
東海道の京都側の終点を三条大橋だなどとはあまり言わないのではないか。
広重は幕末の絵師なのでまあそのへんは適当で。

江戸から行徳、船橋などへは直接街道が延びてない。
みな千住方面に迂回しているが、つまり、江戸初期にここらは低湿地であったためだろう。

江戸の四宿と街道

元禄六年の江戸地図を見ていると、中山道は単に板橋道と書かれている。
板橋道は本郷追分で岩渕道と分かれている。
岩渕道というのは岩槻街道もしくは日光御成道(おなりみち)のことであり、
荒川を挟んで手前が岩渕宿、向こう岸が川口宿。
日光御成道は日光街道の脇街道となっているのだが、これがまた紛らわしい。
日光御成道と日光街道は幸手(さって)追分で合流する。
追分とは街道の分岐点のこと。
本街道と脇街道が分かれたり合流するところなど。

同じ地図で奥州街道は「千種海道」と書かれているがどうやらこれは千住街道という意味らしい。
[こちらの地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/Edo101a7.pdf)
では、千住街道は千住大橋を渡った先の千住宿(今の北千住)で日光道と奥州道と水戸道に分かれている。
が、wikipedia では奥州街道と日光街道は宇都宮までは共通だなどと書かれている。
おそらくここで日光道と呼ばれているのは厳密に言えば日光御成道のことなのだろう。

ついでに江戸四宿の内藤新宿、板橋宿、千住宿、品川宿も描き込んでみる。

こうしてみると、どう考えても、日本橋がすべての街道の起点になっている、
などとは言えないのである。
江戸城をぐるりと取り囲む門や見附がそれぞれの街道の起点となっている、
と考える方が自然であるし、
特に江戸城下では中山道や日光街道や水戸街道などという明確な認識はなくて、
岩渕道とか板橋道とか大山道とか甲州街道とか青梅街道などがあっただけなのだろう。
従って、青梅街道や甲州街道の起点は内藤新宿であり、
奥州街道や水戸街道の起点は千住であり、
東海道の起点は品川であり、
中山道や川越街道の起点は板橋である、
と考えるのもわかりやすいと思う。
なんでもかんでも日本橋を出発点にするという考え方はどこから出てきたのだろうかとふと疑問を持つ。

epub3.0

ワープロでルビを振ってからpubooのエディタにコピペするのが楽だなと思っていたのだが、
『新井白石』でそれをやったらフォントサイズがばらばらで困った。
そこで一からやり直すことにした。
すでにいろいろ追記してしまった後だったので、
ブラウザからテキストを一太郎2012承にコピペしようとしたのだが、改行が余計に入ったりしてあまり相性がよろしくない。そこでword2010にまずコピペして、それからフォントサイズや行間などを修正し、
puboo の編集画面から入力していく。

フォントはHGSゴシックM、フォントサイズは12にする。
これでコピペするとだいたいうまくいく。
ブラウザからwordにコピペするときに不要な半角空白文字が入るので置換ですべて削除する。
明朝体とか教科書体にすると、
『大塩平八郎』のように文字が汚くみえてしまうので、適当なゴシック体を使うことにした。

wordでは横書きにしておいた。
これを縦書きの一太郎にコピペして、epub 形式でエクスポートして
windows 用の epub3.0 reader である EAST espur reader で確認する。
または、google chrome 用の epub3.0 reader 拡張 readium で確認する。
firefox 用の epub reader プラグインは epub3.0に対応していない。
readium は epub リンクをクリックしただけでは開いてくれない。一度ダウンロードして、
iBooks のように書棚に追加してそれから読まなくてはならないのだ。
リンクを辿るとすぐ表示してくれる firefox の epubreader の方が仕様的には好きだ。

epub を Mac にコピーする。
espur についてくる kusamakura.epub もついでにコピーしておく。

iTunes の iBooks アプリは epub reader ではないらしい。謎の仕様。
iPad にも iBooks をインストールしておく。
iTunes のファイル→ライブラリ→ライブラリを追加(わかりにくい。App Store で有料で買う場合には親切でも、それ以外でコンテンツを追加しようとするとどこをどうすればいいか実にわかりにくい)、で epub を iTunes に追加する。
追加した epub を iTunes のデバイスのブックにコピーする。
そうすると iPad の iBooks でやっと epub が読めるようになる。

espur の kusamakura.epub は iBooks で読めた。
しかし、一太郎でエクスポートした epub は本文の1ページ目までしか読めない。
どうにもわからない。
一太郎のせいなのか iBooks のせいなのか。
espur や readium では問題なく読めるのだが。
どうも一太郎のせいのような気がしなくもないし、iBooks 独自仕様のせいのような気もする。

Mac で動く iBooks がなく epub も読めないという糞仕様にはあきれかえる。
とうぜん Windows の iTunes でも epub は読めないと思う。
いやそもそも Windows に iTunes をインストールしたくない。

Android の puboo アプリで epub を読もうとすると、aldiko という epub reader をインストールするようになっているのだが、この aldiko というのが、ルビにも縦書きにも対応してないとてもだめな子である。
私としてはもっとまともな epub3.0 reader が Android にも出て、
PCでもAndroidでもepubが自由にかつ安定して読めるような時代になってもらいたいものだ。
Apple の糞仕様には付き合う気力すらない。
できるだけ Mac とか iPad からは遠ざかりたい。

横書きではあるものの、puboo が生成する epub は iBooks でも普通に読める。
現時点では epub のエクスポーターとしてかなり実用性が高いと言える。

とりあえず[大塩平八郎](/~nagae/oshio.epub)を一太郎でepub3.0でエクスポートしたので確認してみてほしい。

御用提灯

ふと、御用提灯というのはほんとにあったのだろうか、
同心やら岡っ引やらが大勢あんなものを持って御用御用と言いながら捕り物をしたのであろうか、と疑問に思ったので、
つまりアレは時代劇にありがちなステレオタイプではないのかと思ったので、少し検索してみると、
なるほど青空文庫にいくつか事例があっていずれも戦前の時代小説。
その中で直木三十五の『[相馬の仇討](http://www.aozora.gr.jp/cards/000216/files/1716.html)』というごく短い話があるのだが、その四節目、少し長いが面白い語り口なのでまるごと引用すると、

 喜遊次が高座を降りて、楽屋――と云っても書割のうしろで坐る所も無い。碌に削りもしない白木を打交えた腰掛が二つばかり、腰を下して渋茶をすすっていると、

「喜遊次とは御前か」

 と背後からぴったり左手へ寄りそって立った男。田舎の同心だけは知っている。右手へ立つと抜討というやつを食うが、左手へ立つとそいつが利かない。

「ヘイ、手前」

「一寸外まで」

 と、云ったが蓆一枚撥ると外だ。四五人が御用提灯を一つ灯して立っているからはっとしたがままよと引かれる。何かのかかり合いだろう。真逆露見したのじゃあるまい。と思いながら役宅へつく。

 白洲――と云っても自い砂が敷いてあるとは限らない。赤土の庭へ茣蓙一枚、

「夜中ながら調べる。その方元佐々木九郎右衛門と申したであろうがな」

 さてはと気がついたが逃げはできない。白を切ってその上に又と、

「一向存じません」

 役人首を廻して、

「この男に相違ないか」

 と云うので、喜遊次ふと横を見ると、篝火の影から、

「確と相違御座りませぬ。九郎右衛門、よも見忘れまい。中川十内じや」

 と、中川十内。奉行又向直って、

「どうじゃ、その方にも見覚えがあろう」

「はっ」

 と云ったが、十内が「相違ない」と云ったのと、奉行が「どうじゃ、その方にも」と云ったのとは、間髪を容れない呼吸で畳み込まれた。それに応じて明快に、

「いいえ決して」

 とは中々云えない。誰でも「はッ」と出てしまう。その隙に又追かけて、

「縄打て」

 あざやかな手口、原町へ置いておくには惜しい役人と思ったが、敵討願と云うので、丁度来合せていた領主相馬弾正の御目附、石川甚太夫が自身で調べたのだ。

「原町」とはなんであろうか。よくわからんので冒頭から読み直すと「相馬の仇討」というのは戦前は有名な講談だったらしく、

> 「軍右衛門、廉直にして」、「九郎右衛門後に講釈師となる」
 廉直などと云う形容詞で書かれる男は大抵堅すぎて女にすかれない。武士であって後に講釈師にでも成ろうという心掛けの男、こんなのは浮気な女に時々すかれる。
 そこで、軍右衛門の女房は浮気者であったらしく、別腹の弟九郎右衛門といい仲に成ってしまった。寛延二年の暮の話である。

寛延というから吉宗の子家重が将軍の時代。
佐々木九郎右衛門は磐城国相馬郡中村藩の武士で軍右衛門の異母弟、軍右衛門の妻と密通した上に、その妻と逃げ軍右衛門の寝込みを襲って殺害する。
金も取ろうとしたが見つからないのでまごまごしていると、家臣の中川十内に見つかってしまい、逃げるが雨戸に刺さったままにした刀で身元がばれる。
十内は九州の佐柄(?)から博多、広島、大阪、京、江戸と探し回り、とうとう仙台で喜遊次の名で講釈師になっていたのを見つける。
九郎右衛門対軍右衛門の息子清十郎、加勢に中川十内、十内の弟弥五郎と一対三の試合となり、清十郎はめでたく仇を討つ、という話。
「原町」とは相馬郡原町村(現南相馬市)によるのだろう。
御用提灯を持っていたから町奉行か何かというわけではなく、相馬藩士というわけだ。
邸宅というのも、相馬中村藩邸か何か(仙台にまで藩邸があるか?)なのだろう。

で思うに、わざわざ御用提灯を振り回して御用御用と叫びながら岡っ引が捕り物をするはずもないと思う。
しないことはなかったかもしれないが、実際の捕り物というのはもっと地味だったのに違いない。
ルパン三世と銭形警部じゃあるまいし。
だが岡っ引が提灯振り回して御用御用と言っているほうが時代劇的にはわかりやすい。
しかし直木三十五はそうしない。そこが偉い。
さすがに直木賞の元になった人だ罠。
時代劇、時代小説だからと型にはまったものは書かなかった、ということではなかろうか。
直木賞というのはやはり彼のような時代小説をメインとするものなのだろうか。

菊池寛『[恩讐の彼方に](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html)』も主君の妾と不義密通して逆に主君を斬って逃げ、息子が日本中を探して仇討ちする、
というプロットであり、割と似ている。こういうのが戦前は流行っていたのだろうか。

宮将軍擁立説

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったと徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。好仁親王と亀姫の子・明子女王は後西天皇の女御で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、これがまったくはっきりしない。血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。長子相続の原則にのっとれば綱豊(後の家宣)であるが、綱豊の父綱重(家綱の弟、綱吉の兄)はすでに死去していた。有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、いたらもっと大問題になっていただろう。いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。だって御三家だっているわけだし。血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶか。吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

ただ、天下国家のためには宮将軍の方が都合が良いという考え方もあり得る。戦国の世であればともかく、血の近い遠いよりも、いっそのこと皇族を将軍に迎えた方が良い、外様大名や浪人者などから文句の出ようも無い、一気に天下は静謐になる。たぶん遅かれ早かれ公武合体は成るのだから、今一気にやってしまえ、という考えはあったかもしれない。豊臣秀吉だってわざわざ摂家になったのだから、ゆくゆくはそうしたかったのに違いない。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派、大老の酒井らなどということもあり得よう。事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。最近はときどきつながらないし。

追記。

有栖川宮幸仁親王の母は亀姫の娘明子ではなく、清閑寺共子、彼女と徳川家に血のつながりは無い。明子女王は後西天皇の正室なので、幸仁が明子の養子になったということはあっただろう。明子が生んだのは八条宮長仁親王。長仁は21才で死んでしまったが、長仁が宮将軍になるという話は実際にあったかもしれないし、後西天皇が霊元天皇に譲位したのも、宮将軍を立てたくない後水尾院の意向があったかもしれない。長仁が死んだのは1675年。家綱が死んだのが 1680年。堀田正俊が殺されたのは1684年。

なお霊元院の娘が徳川家継の正室になるはずだったが家継が早死にして成らなかったということがあり、これは『将軍家の仲人』に書いておいた。

従甥

メモ。

稲葉正休は政吉の子。政吉は正勝の弟。
正則は正勝の子。正則の娘が堀田正俊の妻。
つまり、正則と正休はいとこである。
正休にとって正俊はいとこの義理の息子となる。
いとこの息子のことをいとこ甥というらしい。
ややこしい。