引っ越し断念

共用サーバーというのは ftp か phpmyadmin とかしか使えず、ログインして作業できない。
そんで phpmyadmin で sql をインポートしようとしたらファイルサイズの上限に引っかかる。
UploadDir というのを設定すればローカルファイルをインポートできるというが、サーバ上のほんとうのディレクトリがわからんので、
アップロードしたい場所に phpinfo(); を仕込んでなんとかインポートしようとしたのだが、
途中でサーバーエラーがでてしまう。

で、共用サーバーではなくてVPSにすりゃいいらしいんだが、
月々のコストが三倍近くに跳ね上がる。
で、とりあえず凍結ということにした。

サーバ引っ越し

tanaka0903.net のドメイン更新にあわせてサーバをお名前.comに引っ越すことにする。

httpd を初めて走らせたのは 1994年だった。それは職場のサーバーだったのだが、
その後 1997年9月に geocities に日記を書き始めた。
インターネット接続は ISDN でプロバイダは AIF(アスキーインターネットフリーウェイ)
というものだったようだ。
すっかり忘れていた。

その後リムネットに引っ越したのだった。
すっかり忘れていた。

独自ドメイン取ったのは 2000年頃、自宅サーバを始めたのは、2001年くらいだったようだ。
最初は固定IPじゃなかったので No-ip の動的DNSを使っていたはずだ。
光ではなくてフレッツISDNというものだった。すっかり忘れていた。
というか、昔の日記を読んでもどうやってサーバ立てて運用してたかよくわからない。
ここに載せているのはそれら膨大な過去日記の一部だ。
昔は実名ばんばんさらしてたから(笑)。
今は公開できんね。

それから、bflets にして Asahi-net の固定IPサービスというのを使ったはずだ。
以来ずっと自宅サーバで遊んできたのだが、
いい加減疲れたので自宅サーバを維持していくのはやめようと思う。

たぶん一時的に休止すると思うが、そのうち復活する予定。
DNS設定変更が広がるまでしばらくかかる。
んで、今はwordpressしかやってないのだが、
みんなやってるみたいなんで、たぶん問題あるまい。
ていうか、wordpress 以外の php や mysql やっても良いということだわな。

ていうか、独自ドメインにこだわらなきゃ、hatena でもなんでも引っ越せばいいんだわな。独自ドメインにする必要あるかといわれればあんまないわな、もう自宅サーバはやめるわけだから。うーん。だけどまあ、はてなより wordpress の方が好きといえばいえる。せいぜい広告でも貼って小遣い稼ぎするか。

藤の長者

藤原氏全体の長者を藤氏長者とか藤の長者などというようだ。
藤原氏は中臣鎌足から次第に分家が枝分かれしたのだから、
その氏の長者というものにも実体があっただろう。
長者は摂政か関白か太政大臣になるのが普通だっただろう。

そのアナロジーとして、というか公家への対抗意識で、将軍家が源氏長者などと言い出したのに違いない。源氏全体の長者などいるはずもないのだが。清和源氏の長者というのであれば、頼朝の子孫となるところだが血統が絶えたので、足利氏は八幡太郎義家の子孫というので源氏長者などと言い、足利将軍家も絶えたので、こんどは徳川氏が新田氏までさかのぼって源氏の長者と言い始めたのだろう。律令国家の朝臣は氏や姓がなきゃいけないからそうして家系を捏造しなくてはならなかった。

そうか、豊臣秀吉は藤原氏の養子になったのか。ふーん。

徳川正記徳川氏

日本外史の中でも徳川正記徳川氏は異様に長くて切れが悪くてつまらんと思っていたが、
最近は結構楽しく読める。
日本外史を楽しく読んでいるというだけで病気なのに、その中でも一番つまらん徳川氏を面白く感じるとは、病膏肓に入ったというべきだな。
だんだん普通の人間の感覚というものがわからなくなってくる。

最初の辺りに、

> 頼氏、教氏を生み、教氏、家持を生み、家持、満義を生み、満義、政義を生み、政義、親季を生む。

という件があるが、これは文語訳マタイ福音書の

> アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、・・・

という記述に良く似ている。つまり、ただ単に似ているというよりも、明治時代に福音書を訳すときに、たぶん訳者は日本外史の記述を参考にしたのだろう。或いは漢訳聖書の影響もあるのかもしれない。
そして筒井康隆はそれのパロディ・パブリング創世記を書いたというわけだ。
旧約聖書創世記にはマタイ福音書のような記述はないのだから、本来は創世記というのはおかしい。

新共同訳では

> アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・・

となっていて、より自然でなめらかな口語になっている。まあ、戦後だし、日本外史っぽい口調は嫌われたということだ。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、
白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。
つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、
御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。
神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。
御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、
白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、
江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。
ネットで検索しても何もわからんのだが。
このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。
案外何もわかってないのだなあ。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、
昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、
湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。
今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、
神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。
つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、
日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。
危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。
両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、
これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。
ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、
おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。
だから、この展望台の下が台所口であり、
中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。
中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。
表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。
祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、
その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。
しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。
だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、
ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、
雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。
竹橋を経由したとは考えにくい。
平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、
おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、
そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。
甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

柳沢吉保

wikipedia 柳沢吉保に

> 延宝3年(1675年)7月12日に家督を相続し小姓組番衆となり、同年12月18日には曽雌盛定の娘定子を室に迎える。

とある。当時17才。
小姓組番衆とは小姓集団の一番下っ端の役とでも言う意味だろう。
綱吉はこのときすでに29才。
うーん。まあそんなものかな。

wikipedia 小姓組などには、主君の身辺警護に当たる純然たる戦闘部隊、とある。

間部詮房

間部詮房は綱豊の小姓だったというが、wikipedia には

> 貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。

とある。1684年だと間部は18、綱豊22。
しかし、小姓というのは普通もっと若くしてなるものであり、
用人となる前に小姓の時期があったと考えるのが自然ではなかろうか。
新井白石が綱豊に仕官したのは1693年だから、10年近く後だが、
実際にはもっと前から間部は綱豊の側にいたのではなかろうか。
用人というのは正式な役職名だろうから、役職をもらう前から、
プライベートな小姓、あるいは見習いとして近侍していたとか。

綱豊が17のとき(1678)父綱重が死んでいるがその前からいたか、その後だったのか、
でも意味合いがだいぶ変わってくるわな。

間部の寵愛のされ方は、おそらく間部が綱豊の竹馬の友だったからではなかろうか。
やはり一番可能姓が高いのは綱重が死んだ年に13才くらいで小姓になったのではないか。
だとすると、
1712年に家宣が死ぬから、白石は19年、間部は34年仕えたことになる。

正徳

新井白石「折り焚く柴の記」を再び読む。
最初読んだときはなんと退屈な本かと思ったが、コツをつかむとわりとさらさら読める。

非常に頻繁に引っ越ししている。
堀田家を致仕した後はまず浅草に住んでいるが、
もはや家臣ではないのだけど、堀田から本所に屋敷をもらっている。
綱豊(のちの将軍家宣)に仕えるようになると湯島天神下に屋敷をもらう。
甲府藩主ではあるが勤務は江戸の藩邸だったということだろう。
綱豊自身あまり甲府には居着かなかったのではなかろうか。
その後元禄の大地震というものがあり火事があると雉子橋門外に屋敷をもらう。
しかし、飯田村にも屋敷があったという。
おそらく武家屋敷町にはもともと正式名称がなくて、
飯田村に行くには江戸城を雉子橋門を出るのが一番近いからそう言ったのだと思われる。
そのあとこんどは一ツ橋門外に転居している。
神田小川町という記述もあるが、これまた城から神田小川町にいくには一ツ橋門を出るのが一番近いからだと思われる。
これが、もとは六百坪余りだったが家宣の死後は隣の敷地を加えて八百坪になったのだという。
だから、家宣が生きていた頃の話ではまだ六百坪でなくてはならない。危ない危ない。

正確には新井白石の日記を読むべきだと思うが、ちとめんどうだな。

ちなみに、御家人や旗本の屋敷は三百坪とか六百坪というのが多いような気がするが、これは、
一反が三百坪だからと思われる。
大阪町奉行与力は wikipedia によれば五百坪だという。
秋葉原の小学校の隣にあるなんとか公園というのが旗本屋敷跡らしいのだが、およそ三百坪。

綱吉が死んだ直後に中御門天皇が即位して元号が正徳に変わった。
wikipedia には

> 朝廷が提示した案から、幕府が新井白石に命じて選択させたのが「正徳」であったといわれている。

などと書かれているのだが、
「折り焚く柴の記」を読むとそういう風には読めない。
元号に「正」の字を使うのは宜しくないから早く変えろと言われてそれにくどくど反論している。
決めたのは自分ではないが変える必要はないので反論するというのだ。
だから、白石は決めてないのではないか。
白石は確かに上洛して中御門天皇の即位の儀式や元服の儀式には参列しているが、
殿上人ではないので見物席を与えられただけである。
その後で朝鮮通信使の接待をする都合で、殿上人となるために官位官職をもらったと思われる。
だから、正徳という元号を決める時点ではまだ関与してなかったと考える方があたってると思う。

たとえば日本でも正慶に北条氏が滅び、天正に足利将軍が絶えている。
だがおそらく一番の問題だったのは、これは大塩平八郎を調べていて気付いたのだが、
正徳というまったく同じ元号が明にもあって、
そのとき寧王の乱という皇族の叛乱があり、王陽明がそれを鎮圧するという事件があった。
王陽明の活躍を当時の儒学者が知らぬはずがない。
確かに不吉と言えば不吉だ。
ただまあそうやって不吉な事があった時代の元号に使われた文字を次々に使えなくすると、
そのうち使える字はなくなってしまうわな。
特に正とか文とかそんなよく使われる字から先に使えなくなってしまうだろう。
ちなみに明の正統年間には土木の変が起きている。

大塩平八郎

パブーで[大塩平八郎](http://p.booklog.jp/book/50924)
というのを公開した。
これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、
私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。
というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。
それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。
新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、
ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。
そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。
「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。
たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。
歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、
やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。
こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。
ネットでより目立つためだ。
たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。
効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、
やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。
そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。
たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。
女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、
wordからコピペするだけで良いことがわかった。
そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。