正徳

投稿者: | 2012年5月27日

新井白石「折り焚く柴の記」を再び読む。
最初読んだときはなんと退屈な本かと思ったが、コツをつかむとわりとさらさら読める。

非常に頻繁に引っ越ししている。
堀田家を致仕した後はまず浅草に住んでいるが、
もはや家臣ではないのだけど、堀田から本所に屋敷をもらっている。
綱豊(のちの将軍家宣)に仕えるようになると湯島天神下に屋敷をもらう。
甲府藩主ではあるが勤務は江戸の藩邸だったということだろう。
綱豊自身あまり甲府には居着かなかったのではなかろうか。
その後元禄の大地震というものがあり火事があると雉子橋門外に屋敷をもらう。
しかし、飯田村にも屋敷があったという。
おそらく武家屋敷町にはもともと正式名称がなくて、
飯田村に行くには江戸城を雉子橋門を出るのが一番近いからそう言ったのだと思われる。
そのあとこんどは一ツ橋門外に転居している。
神田小川町という記述もあるが、これまた城から神田小川町にいくには一ツ橋門を出るのが一番近いからだと思われる。
これが、もとは六百坪余りだったが家宣の死後は隣の敷地を加えて八百坪になったのだという。
だから、家宣が生きていた頃の話ではまだ六百坪でなくてはならない。危ない危ない。

正確には新井白石の日記を読むべきだと思うが、ちとめんどうだな。

ちなみに、御家人や旗本の屋敷は三百坪とか六百坪というのが多いような気がするが、これは、
一反が三百坪だからと思われる。
大阪町奉行与力は wikipedia によれば五百坪だという。
秋葉原の小学校の隣にあるなんとか公園というのが旗本屋敷跡らしいのだが、およそ三百坪。

綱吉が死んだ直後に中御門天皇が即位して元号が正徳に変わった。
wikipedia には

> 朝廷が提示した案から、幕府が新井白石に命じて選択させたのが「正徳」であったといわれている。

などと書かれているのだが、
「折り焚く柴の記」を読むとそういう風には読めない。
元号に「正」の字を使うのは宜しくないから早く変えろと言われてそれにくどくど反論している。
決めたのは自分ではないが変える必要はないので反論するというのだ。
だから、白石は決めてないのではないか。
白石は確かに上洛して中御門天皇の即位の儀式や元服の儀式には参列しているが、
殿上人ではないので見物席を与えられただけである。
その後で朝鮮通信使の接待をする都合で、殿上人となるために官位官職をもらったと思われる。
だから、正徳という元号を決める時点ではまだ関与してなかったと考える方があたってると思う。

たとえば日本でも正慶に北条氏が滅び、天正に足利将軍が絶えている。
だがおそらく一番の問題だったのは、これは大塩平八郎を調べていて気付いたのだが、
正徳というまったく同じ元号が明にもあって、
そのとき寧王の乱という皇族の叛乱があり、王陽明がそれを鎮圧するという事件があった。
王陽明の活躍を当時の儒学者が知らぬはずがない。
確かに不吉と言えば不吉だ。
ただまあそうやって不吉な事があった時代の元号に使われた文字を次々に使えなくすると、
そのうち使える字はなくなってしまうわな。
特に正とか文とかそんなよく使われる字から先に使えなくなってしまうだろう。
ちなみに明の正統年間には土木の変が起きている。

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