お玉が池

1450年の江戸(太田道灌江戸城築城時)
とか
1590年の江戸(家康入府時)
などを見るに、
まあ、これも完全な復元ではないにしろ、
昔、上野と浅草の間は広大な沼沢地であり、とうぜん町屋も田畑もなかったわけである。

不忍池から流れ出た川はいったん姫ヶ池という池に入って、それから北上して洗足池へ入り、さらに入間川(今の荒川)に入っていた。
姫ヶ池は現在の蔵前だ。そこにかつては不忍池よりも大きな池があり、周りは湿地帯だった。南に鳥越神社の建つ高台があるのみ。

浅草は細長い砂州の上にあった。
(古)利根川が運んでくる膨大な土砂が堆積したものであり、鹿島灘の大洗海岸や浜名湖やサロマ湖のような構造になっていて、
砂州が内海を塞いでいたわけだ。
浅草寺の由来の真偽はともかくとして、古くからここに寺があったのは間違いなく、
ということはここも鳥越神社と同じく利根川の洪水や高潮でも水没しない程度の高台にあったことを意味する。

家康以来、これらの洗足池や姫ヶ池は急速に埋め立てられていく。
神田川を東へ流すために駿河台を開削して出た土砂などが埋め立てに使われたのだろう。
吉原が1657年明暦の大火後に浅草裏に移転するが、そのときにはもう洗足池があらかた埋め立てられていた、或いは、
埋め立てる真っ最中だったのであろう。

上野と浅草の間というのは便利な土地であるから、急速に町が作られていったはずだ。
実際にはここには何百という寺ができ、墓ができた。寺と墓の密集地となった。
[江戸末期の古地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)でみると、
現在の浅草通り沿いはびっしりと寺である。
とにもかくにも見渡す限り墓と寺だったのであろう。
喜世が住んでいた唯念寺は浅草通り沿い南にあり、
新井白石が一時期住んでいたと思われる報恩寺は浅草通りをはさんで北側すぐにある。
唯念寺は今も同じ場所にあるようで、そこから報恩寺は直線距離で100mくらいしかない。

これらの墓や寺は維新や震災、戦争などを経て、だんだんに郊外に移っていき、その後にみっしりと町屋ができたのであろう。
今の浅草からは想像できない。

お玉が池というものが今の秋葉原の神田川の反対側内神田にあったというのだが、比較的初期の
[元禄時代の地図](http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/ezu/08sub.html)
を見ても痕跡もない。
このお玉が池とか桜が池というのはつまりは姫ヶ池のことではなかろうか。
しかし神田川開削と同時に急速に埋め立てられて元禄の頃にはとっくに消失していたのだろう。

お玉が池跡として玉姫稲荷という小さなほこらが岩本町2丁目5番にある。
地形的にここに池があってもおかしくはないが、こういう祠は移転することも往々にしてあるわけで、
ほんとにここに池があったか、それもいつまであったのか、大きさはどれくらいだったか、まるでわからない。
北辰一刀流の道場があったかしれんが、
千葉周作は江戸後期の人だから、その時代にお玉が池があった可能姓はゼロだろう。

イギリス王位継承順位

イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。

その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。

王の姓名

現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。

わけわからん。もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。

ああもう、わけわからん。

アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。

そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。姓をもってたのは貴族だけだったと。なるほど。しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。

日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。

たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。

あああ、わけわからん。

養子

昔の人の経歴を調べていて感じるのは、養子縁組というのが、非常に多かったということだ。
例えば自分が次男・三男などで、親戚筋、特に本家などに嫡子がいない場合に、
養子となってその家の家督を相続する。よくあることだったようだ。

独身で子供がいない、ということは当時としては滅多になかったようだが、
実子がいない、
実子がいても娘しかいない、
実子はいたが早死したり病気だったりして嫡子にはなれない、
あるいはなんらかの理由で廃嫡した、
などということはしばしばあった。

息子はいないが、娘はいる場合には、婿養子を取る。
その場合も通常は親戚の男子を優先するのだろうが、
特に学問や芸能の家の場合には、有能な弟子を婿に取ることが多かったようだ。
娘もいない、親戚にも適当な子がない場合は、
まったく赤の他人を養子にすることもあったように思われる。
その際には、赤の他人が赤の他人の嫁をもらう、というのではなく、
親戚の娘を養子にしてその婿養子をとるとか、
あるいは養子に親戚の娘を嫁がせるとか、
そんな工夫をしたのではなかろうか。

ともかくそういう具合に養子で成り上がった人というのが少なくない。
家というのが重要かつ根本的な社会組織であり、
そこには家業とか所領とか財産とか株とか組合など、誰かに相続しないわけにはいかない資産が付随する。
一方では子沢山な家庭があり、
他方では子宝に恵まれない家があり、
かつ家業の優秀な後継者が欲しいという状況では、
さかんに養子縁組が行われてきたのだろう。
一度養子制度というものをきちんと調べる必要があると思う。

シチリアとロシア

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

そろそろ病院にいくしかないと思っている。

今月頭くらいから肺に水がーなどと言っていたのだが、治るかと見せかけて治らなかったりして、とりあえず今週末は酒を抜いて自宅で養生してみて、それでもやはり肺に水が入ってくるようであれば、観念して医者へ行こうと思う。

心臓がばくばくしたりとか、息苦しいということはもはやないのだが、とにかく腹がはる。腹がはると苦しくて身動きとれない。

傾向としてだが、朝方の方が夕方よりも腹がはる。夕方、さらに、酒を飲んだりすると割と楽になるので、治ったかのような気分になるが、たぶんこれが良くない。反動で次の日の朝、かなり水がたまる。

水は安静にしているときにたまる。つまり夜中寝て居るときとか。昼間も横になっているとたまるので、逆に昼間は、ずっと軽作業などしている方が楽。

運動を始めると腹が張り始めるのだが、これは、運動によって新たに水がしみてきたというよりは、呼吸と水がまざって肺の中でふくらむのだと思う。肺を圧迫することによってある程度は肺から水が抜けることはある。

食欲は普通にある。

タフマンの車内広告だらけだったので栄養ドリンクでも飲んでみるかとコンビニに行ったがタフマンはなくて、リポビタンDを飲んでみたのだが、少し元気になる気がした。

尊観

尊観という人を、ざっとネットに落ちてる情報だけで調べると、およそ二人いる。

一人は、1239-1316。名越朝時の子で浄土宗の僧侶。

もう一人は、1349-1400。時宗の遊行上人12世。時宗中興の祖。

この二人目の尊観は亀山天皇の孫で、亀山天皇が生前最後に西園寺家の娘に生ませた恒明親王の王子の深勝法親王と同一人物であるという説があるという。Wikipedia もこれに従う。

しかしながら『日本外史』では、尊観は南朝後村上天皇の子であると言っている。つまり、後村上天皇は最初皇子がなかったので、亀山天皇の孫(深勝法親王。外史では誤ってこれを恒明と呼んでいる)を養子としたが、後に実子が生まれたので、養子を僧侶とした。これが尊観であるという。

たぶんいずれも伝説なのだろう。高名な僧侶はこのようにして皇族のご落胤とされている可能性が高いとみなくてはならない。

尊観は、上野国祝人(はふり)村に隠れていた家康の遠い祖先で新田氏の末裔の有親(ありちか)を得阿弥という僧侶とし、連れていた二人の男子のうち長男を長阿弥とし、もう一人はまだ幼かったので僧侶とはならず、徳寿と呼んで、三河に逃れたのだという。徳寿は松平氏に養われてのちに松平泰親となり、これが三河の徳川家の遠祖となったというのだ。また長阿弥は後に親氏と名乗り、その子・広親は徳川譜代の酒井氏となったという。

Wikipedia によれば「徳阿弥」と名乗ったのは有親の長男の親氏の方であって、彼が松平家の祖だとなっている。

これらは、いずれにせよ、松平家と酒井家が清和源氏の血を引いているということをいうために作られた伝説に違いないわけだが。

Wikipedia では、松平泰親は長氏の嫡男であるともし、またやはり弟でもあると書いている。

以前にも似たようなことをうだうだ書いた。

徳川氏の歴史を読んでいると「上野」という地名が出てくる。これは「三河国碧海郡上ノ庄」もしくは明治以後の「三河国碧海郡上野村」のことらしい。紛らわしい。

また、「伊奈」という地名も出てくるがこれも信濃の天竜川の伊奈谷と紛らわしい。豊川市伊奈町(旧宝飯郡小坂井町伊奈)、本多氏の居城・伊奈城というものがあった。

ヤハウェと火山

フロイトは、ヤハウェは明確に火山神だと言っているのだが、エジプトにもシナイ半島にもパレスティナにもシリアにも火山はなく、この付近で唯一火山があるのは、アラビア半島西部、およそメディナの辺りだ。

2009年5月25日に、サウジアラビアのアルアイス地方で、群発地震が起きて、火山が噴火する可能性があるので、住民が避難した、ということがあったらしい。アラビア半島には休火山しかなく、有史以来、噴火したという記録はほとんど見られないようだ。しかし現代でも住民が避難するくらいだし、噴火口跡はたくさんある。3500年くらい前に実際に噴火があってもおかしくはないわけである。海(アカバ湾?)が割れる(たとえば地震による津波)くらいの天変地異があってもおかしくない。

ヤハウェの記述は明らかにアドナイとは別のものであり、この二つの神が融合してイスラエルの宗教になったのだろうと、フロイトは言う。さらに、イスラエルの12氏族のうち、モーセやアロンなどの指導層が属したレビ族は、後の時代まで氏名がエジプト語由来のものが混ざることから、エジプト人そのものであり、ユダヤ人ではないのだという。古代エジプト語とヘブライ語はそうとう遠い言語であるから、この二つの民族は、最初、言葉が通じていなかった可能性が極めて高い。

レビ族なるアメンホテプ4世の一族のエジプト人(彼らは、宗教改革に失敗してエジプトを追われた)が持っていたアトン信仰と、アラビアの火山地帯に居住していた(もしくはたまたまエジプトに寄留していた)と思われるユダヤ諸族のヤハウェ信仰が、合わさってできたものが後のユダヤ教なのではないか。かつ、アトン信仰というのはおそらくシリアのフェニキア人のアドニス信仰に由来するのだろう。

アドンとエデン

昔、けっこう一神教の起源について書いたことがある。一神教の起源アトンYHWHアドニヤモーセと一神教文献メモ、などだ。状況証拠的に考えて、アメンホテプ4世の時代のアトン信仰と、出エジプト時代のイスラエル人の宗教に、何の関連性もないと考える方がおかしいのであって、あとはどうやってその連続性を立証していくかという作業があるにすぎないと、私は思うよ。それで、そういう話がどうしてあまり広まらないかと言えば、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒もいずれも、自分たちの宗教のオリジンが、古代エジプトにあるとは、あまり考えたくないからだろう。ただユダヤ人の(無神論者の)フロイトだけが、勇気を持って、その説を主張したのだ。

それで、フロイトが書いた、『モーセと一神教』という本があって、私はそれにすべては書き尽くされていると思ったのだが、フロイトが指摘してない、まだ新しい関連性を発見した。というのは、クアルーン(コーラン)では、エデンのことを「アドン」と言っているということだ。アラブ語はヘブライ語と同じセムハム語系の言語であって、同語源であると言える。それで、ヘブライ語では「主」のことを「アドナイ」という。これは「アドン」の複数形である。神の名は一人でも複数形となるのは、あちらの言語ではわりと一般的である。たとえば神の一人称はWeである。「アドン」「アドナイ」は「アトン」とほぼ同じ言葉であるというのはフロイトの発見だ。そして「アドニス」などとの関連性も、フロイトは示唆している。アドニスはギリシャの神だがもともとはフェニキア人の神であり、フェニキア語はやはりセム語系だ。アメンホテプ4世の別名「イクナアトン(アクエンアテン)」とは「アトンに愛される者」という意味だ。

それで今度はエデンという語の起源をウィキペディアなどで調べてみたけど、これが恐ろしく古い。アッカド語、もしくはシュメール語で「園」もしくは「平原」という意味らしいのだ。ちなみにヘブライ語でエデンは「快楽」という意味らしい。また、ギリシャ語ではパラデイソス、つまりパラダイスと訳される(いかにもギリシャ語語源な語だわな)。いずれにしても「天国」とか「神の国」と言う意味だよ。だけれどまあ、もしエデンとアドンが同語源ならば、一神教はシュメール時代までその起源がさかのぼれることになるよ。どうよ。

エジプトという多神教の世界にいきなり一神教が、忽然として、生まれたというのはやはり無理があり、それはどこか別の世界からもたらされた、たとえば、アメンホテプ4世の王妃がミタンニ王女ネフェルティティであったという説があり、メソポタミア地方に、原初的な一神教が古代から伝わっていた、と考えるのが、やはり自然ではなかろうか。いや、むしろ、異国の地の神が土着の多神教のエジプトに導入されたときに、他の神から阻害され、切り離された存在となって、それが先鋭化して一神教という形になったのかもしれんわな。山本七平が言う、「オリエントの専制君主制が宗教化したもの」ではあるかもしれないが、さらにはそこで、専制君主が多神教社会の中で宗教改革を断行しようとした結果、外来の、異邦の一つの神が、絶対化されて、一神教が生まれたのかもしれん(当時のエジプト王がいわゆる「専制君主」といえるかはわからん。神官の長のような権威的存在だったかもしれんし)。とかく、宗教改革というのは、一つの神に権威を集中させ、他を排斥しがちなものであり、いわば、宗教改革というものが、一神教を生み出した根源的な原因かもしれん。その歴史的な最初の例がアメンホテプ4世だったのではないか。

くどいが、一神教だから宗教改革に発展したのではなくて、宗教改革の結果、一神教が生まれたのではないか。

ミタンニは印欧語族だという。エデンの園が東の方にあったというのは、ミタンニ王女の国がエジプトの東方であったことを意味しているのかもしれんよ。