海苔弁の危機

コンビニ弁当の角はもう少し丸くしてもらえないものだろうか。 電子レンジの中で回りにくくて困る。

近頃はコンビニのせいで弁当屋が減ってきていると思う。 セブンイレブンもwebサイトを見るといまだに海苔弁をメインにもってきてはいるが店頭ではあまり見かけない。 人気なので最初に売れてしまうのだろうか。 ほかの某系列だととにかくもうやたらと鶏の唐揚げばかり並んでいて、選択の余地がない。 セブンイレブンはまだ選択の余地があるぶん良いといえば良いが、カルビ丼とかそういう重いやつが目立つ。 スーパーの惣菜コーナーでも海苔弁はあまりみかけなくなりやはり鶏唐が優勢だ。

昔は弁当屋の弁当と言えば、高い方が幕の内で安いほうが海苔弁だった。まずこの二つは常にガチであったと思う。 鶏の唐揚げはおそらく原価がものすごく安いのだろう。 海苔弁はもとは安かったが最近は割高になりつつあるのではなかろうか。

このままでは海苔弁が絶滅危惧種に指定されるのではないかと心配だ。

小説の書き出し

> アマストリーにギリシャ語を教えるよう、王は私にお命じになった。

2013年3月17日にKDPで『エウメネス』を出したときの書き出しはこうなっていた。 ずっと最近までこの出だしのままだった。これを私は

> My Lord charged me to teach her the Hellenic language.

と訳してみた。「命じる」だが、command, order, charge, assign, appoint など、いろいろ候補がある。 ここでは王から私に一方的に仕事を課した、という意味合いで charge にしてみた。 discharge だと任務を解く、兵役を終わらせる、というような意味がある。

Greek という言葉は使いたくなかったので、Hellenic とした。 Hellenistic だとさらに意味が違ってくる。 Greek はラテン語由来であり、ローマから見たギリシャを意味する。 ギリシャ人自身は自分たちを Hellene と呼び、自分たちの国を Hellas と呼んでいた。 ローマが勃興する以前の話なのでラテン語由来の単語をできるだけ使いたくなかった。 日本語だとラテン語を使わず、たとえば漢語で代用するってことは割と容易だが、英語だとそうはいかない。 漢語はギリシャとローマの関係に中立だから良いが、ギリシャのことをローマの用語で書くとローマ史観や西洋史観がそこに混入してくるので嫌なのだ。ギリシャ史観が入ってくるのはある程度仕方ないとして、私としてはこれを西アジア史観で書きたいのである。

逆に日本語だと、「ギリシャ」を「ギリシャ」以外の単語で代用するのはほぼ不可能だ。この問題についてはもう少し時間をかけて検討したい。

「王」をどう訳すかも少し悩んだ。King にしようかと思ったが、あまりに唐突なのでここではやめておいた。あきらかに The King ではない。My King か Our King で良いかもしれないが、無難に My Lord にしておいた。以下作中では King と Lord どちらも使っている。

英訳だと Amastri という固有名詞すら出てこない。 で、この書き出しは、自分としては割と気に入ってるのだが、これだと、宮廷のどこかでお姫様が執事か何かに勉強を習う話のように思えるが、先まで読んでみたら違った、みたいなことを言われた。王様とお姫様が出てくると何かディズニーランドかトランプの絵札かチェスの駒のようなものを思い浮かべるのは日本人の悪い癖、西洋の悪い影響なので、わざとそのように勘違いさせておくのが良いと思い、そもそも私がこの書き出しにしたのは読者にそういう勘違いをさせのちに意外な方向へ話を展開させる、という意図もあったのだが、私としては少し思い改めて、出だしを次のように書き換えることにした。

> カイバル峠を過ぎ、ヒンドュークシュの山嶺から下界に降りると、ようやく春が我らを出迎えてくれた。雪が消え残る岩山は新緑に萌える草原に連なり、トネリコの枝にはそよ風が渡り、クロウタドリが口笛を吹いている。王は進軍を駐め、ここを今日の宿営地に選んだ。
> 兵士らが薪を集め火をおこし、幕舎を建てている合間に、私は木の間に天幕を張って日除けにし、テーブルと椅子を出して文房具を並べる。勉強を教えるにはあまり適していないところだ。さっきからずっと彼女は、岩場の隙間に咲いている黄色いスミレソウや、青い空を飛ぶ白い蝶に気をとられている。

> At last the spring welcomes us who now descend the Kaukasos mountains crossing the Khyber Pass. Snowy rugged scenery turns into green grass fields, warm wind blows and black birds are whistling in ash trees. Our Lord stops marching here to fix today’s camp.
> While soldiers are collecting woods, pitching tents and making fires, I spread a sheet between trees to avoid sun exposure, place a table and chairs under the shadow, prepare for writing. This is not a good place to study something, for the yellow primroses blooming in rocky meadows and white butterflies flying over the blue sky constantly attempt to attract her attention.

一箇所に定住していれば住民が春が来るのを迎えるのだが、逆にここでは、遠征軍が山から下りたので下界で春が出迎えてくれた、というわけで、そこは少しひねった。出だしをひねろというリクエストがあったので。 トネリコやクロウタドリや黄色いサクラソウや白い蝶というのは『フローニ』の使い回しだ。 英文中ではヒンドュークシュを Kaukasos と書いているのだが、これはアッリアノスなどがそう書いているからだ。当時この山がアヴェスター語もしくはサンスクリット語でなんと呼ばれていたのか、よくわからない。

カイバル峠やガンダーラを知ってる人にとってこの序章はある種の旅情を喚起させるのだろうが、知らない人にとってはいきなり未知の地名がわらわら出てきて読む気が失せるのだろう。私がトールキンのファンタジーを読むときのように。これはもうしょうがない、想定する読者ではなかったと諦めるしかないと思う。

OP35B == DNSブロッキング

なんだかよくわからないんでこのへんにごちゃごちゃっと書いておくんだが、 OP35B (Outbound Port 35 Blocking) ってのはつまり、35番ポートを塞いで、LANの中では、クライアント機は、指定された名前サーバーしか参照できないようにするってことだよね。 それで Free WiFi かなんかが OP35B してる場合には、今自分が参照している名前サーバーが本物かどうか確かめようがないから、 google のサイトにつないでいるようで実は google そっくりに作られたサイトかもしれないわけだ。 いや、そりゃ問題は問題だが、Free Wifi ってものはそんなもんなんだから、仕方ないよね。

OP35B == DNSブロッキングは漫画村を閲覧できないようにしようという動きででてきたもののようだが、もう1年以上前の話で、しかもNTTしか協力しなかったから、実質役にたたなかった。

日本のすべてのプロバイダが仮に協力したとしても、DNS over なんちゃら使って海外の DNS につなげば意味ないし。

も一つ、この手の話は VPN 会社かなんかを通すんだろうけど、どうもこの VPN やってる会社ってのがそもそもあまり信用できなさそうだ。

企画

世に「歴史エンタメ」と呼ばれている作品の多くは、「サラリーマン金太郎」や、「課長島耕作」と同じで、戦後サラリーマン小説の一種であり、 それを子供向けにすれば「ワンピース」になるのだ。 吉川英治が受けたのは、歴史上の人物や舞台を素材としつつ戦後のサラリーマン社会を描いたからであり、 「のぼうの城」もまた同工異曲といえる。

「のぼうの城」の場合、中小企業を継いだ二代目の世間知らずが大企業に刃向かって、前社長の部下たちが頑張って、そこそこ勝利したという話の焼き直しに過ぎないし、 上田合戦にしろ、あるいは真田丸にしろ、歴史好きだから面白いというよりは、 今の日本のサラリーマンが見て素直に共感できるから受けているだけだ。

NHKの大河ドラマも似たようなもので、日曜日夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけに作られているわけだ。

世の中は、いくら歴史好きのために歴史小説を書いても売れはせず、 「日曜夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけ」に作られた「えせ歴史もの」しか売れない仕組みになっている。

たとえば最近はやった「相棒」とか「倍返し」みたいなサラリーマンものを歴史エンタメに作り替えるのが、 売れる歴史小説、時代小説を書くコツだろうと思う。

村上春樹が売れている理由が私にはずっとわからなかったのだが、 村上春樹は英文学の翻訳などをやっていて、「マス」が読みたがっている小説とは何かということを把握し、 自分でも書いてみたのだろうと思う。 要するに村上春樹の小説というものは官能小説を純文学に仕立てたものだ。 多くの純文学がそういうしかけでできている。 ふわっとしてて、登場人物も少ないし、ストーリーがあるわけでもない。そのままでは「やおい」ものになってしまうのだが、 読者が読み続けるのは官能小説のエッセンスが仕込んであるからだ。 そういう小説は、小説を読むのが苦手な「マス」にも読まれるのだ。 カズオ・イシグロだとそこまで露骨ではなく、彼の場合やはり、日本からイギリスに帰化したという屈折が、 根っこになっている。

新人でいきなり売れっ子になる小説家もいるが、だいたいは文章力というよりは、企画で売れている。 ということは一人で思いついたというよりは誰かヒントをくれて売り出してくれた仕掛け人がいるに違いない。 かならずそういう人たちが生まれてくるコミュニティというものがある。

いろいろ売れている小説を調べていると、最初から企画どおりに書いた小説のほうが売れるに決まっていて、 書きたいものを書いてそれを企画会議に通すために書き直すのではそもそも企画会議に通るかどうかすらわからない。 で、企画会議を通るのは純文学かエンタメ小説を偽装した官能小説かサラリーマン小説しかあり得ない。 それ以外のものにも読んで面白いものはあるし、むしろ、そういう規格から外れた小説のほうが私にとっては面白いが、 しかしそういう規格外れの企画は企画会議を通らないから出版されることはめったになく、 出版されても売れることはないのだ。

蘐園談余 巻一の一

随筆第一巻 松乃落葉 契沖云、和歌は人ごとに胸中の俗塵を払ふ玉箒なり。

我が国の神道は即ち漢土(もろこし)の神道なり。 昔は天照大神の神霊、大殿にましまして、神宮・皇居、無差別と言へり。 祀の礼は補臣の掌る所にて、朝政はみな、神徳を以てぞ行はれし。 唐虞三代の礼は、尚書三礼に載りたり。 大政はみな宗廟にて行なはる。 宗廟の制作、大やう後の世の朝堂に等し。 祭祀の礼を治め、神霊の命を受けて行なはれければ、異国・本朝、神聖の道は同一揆なり。 後の世に官職分かれて、中臣・斎部の司るところは、即ち漢土の大宗伯の職にて、祭祀の礼を司れり。 朝政の中に一職にてあり。 大宗伯に準じて神祇伯とは名付けられぬ。 人事は皆、天のなす所なれば、天地神明の感応ならでは治まらず。 政事みな神明の命を受けて行ひたまへば、王道・神道、差別なく、治世安民の道にてぞあるべき。 『易』に「聖人設神道而治天下」と言へる、これなり。 上古は淳朴にて礼文いまだ備はらず。他(ひと)の国も我が国も、世の初めはみな神の代にてぞ有り。 人の代に移りてぞ、人の礼儀有りけり。 漢土は土地広大なればにや、風気早く開けて、我より先に礼文備はりけるこそ、唐虞・夏・商を歴(へ)て、 周の代に至りて、礼文成就完備して、人道の規矩定まりぬ。 我が国中古の世、古今の移り行く事を深く考え知りたまひて、はるかの海をしのぎて使者を参らせ、漢土の礼儀を移したまひてこそ、我が国の礼文、天地に交へて恥ぢざる事に成りてけり。 世々の律令・格式、今もあれば、漢土の礼文移されたる事は、紛ふべくもなし。 然るを、古への神道と言ふ事を知らで、我が国の神道は異国と異なり、その道はかうかうなれと言ふ、いかでかかる事あるべき。 神明は霊妙不測の威徳ましまして、天に等しく人智の及ばざる所にてこそあるべきに、身は社、心は神にあるものを、などと言ひて、神道の奥義なりと思へり。 即ち即身即仏の禅理なり。 神は我にありと言へば、神壇宗廟は廃すべきか。 鬼神なきに似たり。 勿体なき事ならずや。祭祀の礼を慎みて、神明の感応をなさしめ、国土の福を致すこそ、その職の道なるべけれ。

詩三百篇 思無邪

景山先生『不尽言』に曰く、天照大神は女体と言ふ事なれども、呉の太伯なるべしと言へる事、さもあるべき事とも思はるるなり。その上に、太伯は元、殷の世の人なれば、殷の世の人は鬼神を尚ぶ風俗なるゆゑ、殷の余風が残りて、日本には髪を尚ぶ事と見えたり。又、呉の字を付けて称する事多く、呉竹、呉服の類ひなど、かたがた符合する事もあるなり。然れどもかく言へる事を、神道者などは、これは儒者の唐贔屓から言ひ出だしたる附会の説とて甚だ嫌ふ事なり。神道者は、只、日本は神国なりとて、神と言ふものを奇怪幻妖なるもののやうに人に思はせ、日本には別に日本の道ありとて、吾が道を神妙不測にせうと拵へたるものなり。神道とて別あるべき事ならず。

しかしながら、神は即ちいにしへの聖神なれば、いかさま天照大神の聖徳、数千年の季まで人心に薫染して得去らぬと言ふは、神妙不測の事なるによって、神国と言はんもことわりと覚ゆるなれば、かの武国と言はんよりは一理ある事なり。

和歌と言ふものも、本は詩と同じ物にて、紀貫之、『古今集』の序に、「人の心を種として万の言の葉となれりけり」と言ひ、「見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる」と言へれば、詩の本意と符号せるものなり。此の万の字、面白し。人情は善悪曲直、千端万緒なるものなれば、人の心の種の内に発生の気の鬱したるが、見るもの聞くものに触れて、案配工夫無しに、思はず知らず、フッと言ひ出せる詞に、すぐにその色を表すものなり。草木の種と言ふもの、内に生えむと思ひ工夫して生ずる物ではあるまじ。発生の気が内に鬱して、自然にズッっと生え出づるものなり。しかれば、其の詞を見るによって、世上人情の酸いも甘いも良く知らるる事なり。されども、人の大事に臨み、自ら警めたしなみ、案配工夫して、心の内にてその善悪を調べ、吟味して詞に発する事は、皆それは作り拵へたるものなれば、中々人の実情は知れぬ事もあるなり。それゆゑに、箪食豆羹などに心の色を表すと言ひて、人の心を許し、うっかりと思はず知らずにふと言ひ出だしたる詞にて、人の実情は良く見ゆるものなり。

俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。

詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。

歴史修正主義

今の歴史教育なんて間違ったステレオタイプだらけだから、 一つ一つ丁寧に検証して、修正していかなくてはならないのだが、 そういうことをすると歴史修正主義だとか歴史の書き換えなどと、条件反射的に批判する連中がいる。

学説は常に変動する。 活発な研究が行われている分野ほどそうだ。 文系・理系を問わない。 しかし単なる学説を事実だと決めつけて封印しようとする。 特に歴史的分野では、殴り合いの喧嘩に発展しかねない。

間違った学説が流布される原因は研究者や執筆者ではないことが多い。 著書を流通に載せようとする出版社や編集者に問題がある。 読者が読みたいと思うもの、というより、ありていにいえば、 売れるもの、或いは、政治的に対立する相手を叩き自分が有利になるもの、を著者に書かせるために、歴史認識は間違った方向へどんどん加速していく。 もちろんアジテーションと金儲けを目的に本を書く人も多い。

本居宣長について書かれた本は多い。 気付かなかったことに気付かされることも多い。他の人が書かないことを詳しく調べて書いている人もいる。 けれど、大抵は古めかしい記述ばかりだ。

宣長について書いた人は多いのだから、私は私にしか書けない宣長を書くべきだと思う。 同じことを繰り返し書いても仕方ない。

大伴家持や菅原道真は漢詩も和歌もやった。 その後漢詩は廃れて和歌が流行った。 その後、漢詩も和歌もやった人は藤原惺窩だろうか。 その後、漢詩と和歌はやはり分離してしまった。 漢詩派が水戸学者になり、和歌派が国学者になった。 水戸学も国学も同じ日本という国を研究テーマとするが、 和歌を愛好する人は自然と国学というグループを作り、 漢詩を志向する人は水戸学者になった。 水戸学も国学も本来は一つのものなのだ、菅原道真や藤原惺窩を見よ。

太宰春台は漢詩を選んだ水戸学者。 本居宣長は和歌を選んだ国学者。

今の人は和歌を詠まない。 和歌を詠む楽しさを知らない。 だから国学というものがわからない。 というか、なぜ国学と和歌に関係があるのかわからない。 なぜ国学者がみなあんなに和歌に夢中になっているのか現代人にはわからないのだ。 話は逆なのだ。 和歌が好きだから国学者になっただけのことなのだ。 和歌が好きでなくて日本のことを研究したい人は、だいたい水戸学者になって国史編纂などをやった。

宣長は自己矛盾した人だと思っていた。 儒教や仏教などの外来思想から離れよと言っておきながら中世的呪縛から逃れられなかった人だと思っていた。 しかし宣長は最後まで中世的価値観にどっぷり浸かっていた。 宣長にしてみればそれは日本固有の中世的価値観だと言いたいわけなのだろう。 雅俗を分離し、飲食を賤しむのは仏教戒の影響だと思っていた。 だが、宣長にしてみれば、それは、日本独自に発展した価値観で、仏教の影響は無視できる、と考えたのだろう。 実際、聖俗分離という現象は、中世の特徴として、世界中の社会に見られる。

神道・儒教・仏教の三つが混淆しているのは江戸時代には自然だった。 神儒仏は合一調和していると考えるのが常識人だった。 幕府があり朝廷があっても矛盾しているとは考えなかった。それがうまく機能しているのであれば、ありのままの現実を肯定して、それ以上追求しない。 神儒仏。朝廷と幕府。こうした対立概念が放置されたまま機能し、それが人間社会というものだと人々に受け入れられ、常識と考えられていたのが江戸時代だ。 言わば関ヶ原の戦いが原理主義的なハッキングを封印してしまったのだろう。

しかし矛盾は矛盾だから、そのことがどうしても気になる人は出てくるわけだ。気にしない人は全然気にならないのだが。 神儒仏が合体することで不協和音を奏でていることに気付く人がだんだんに出て来た。 宣長も二十代半ばにそのことに気付いた。 それまでは現実をありのままに受容していたのだ。

本居宣長の功績

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。

財布

ストラップが通せるタイプの長財布を探していて、なかなか良いのがなく、仕方なく自分で財布に穴を開けてストラップを通していたのだが、すぐに穴がぼろぼろになるので、糸で縫って補強したりした。ハトメパンチを買うべきかとも思った。

最近は酔っ払って物をなくすのが怖くて財布やスマホは必ずズボンに紐付けしてて、そのためにストラップ付けられる仕組みになっていないといけないわけ。

アマゾンで三個買ってみたが、どれも良くできている。 とうぶん財布の在庫には困らない。