wenn, sollte dann

いつもの長文(というより、長いセンテンス)の時間です。

Wenn wir Menschenkinder kaum ertragen können, die Fehler und Flecken zu sehen, die uns und unsere Mitmenschen entstellen und erniedrigen und um so schärfer sehen, je mehr uns an den Menschen gelegen ist, sollte dann nicht unser Herr und Gott immer noch schärfer sehen und es noch genauer mit uns nehmen?

全体的に見ると

wenn もしなんとかならば, sollte dann であるべきだ

という形になっている。sollte はここでは助動詞。sollen の過去形とみると意味がおかしい。

「もし、私たち人の子が、ほとんど耐えることができなかったら」その目的語は「誤りや汚点を見ること」である。そのあとの die は「誤りや汚点」を受けていて、

die uns und unsere Mitmenschen entstellen und erniedrigen

私たちや私たちの同胞を損ね、貶める

und (die) um so schärfer sehen, je mehr uns an den Menschen gelegen ist

厳密に見れば見るほどににますます人々にとって重要になる

となる。gelegen はここでは明らかに形容詞(ふさわしい、重要な)であり、かつ、

人3 an 物4 gelegen sein

だれそれにとって何々は重要である、というイディオムになっている。
また

je 比較級、um so 比較級

もイディオムである。

それでまあ、直訳すれば、「私たちや私たちの同胞を損ね、貶める、しかしながら厳密に見ればみるほどに重要になっていく誤りや欠点を、私たちがほとんど直視できないとしても、私たちの主と神はいつも厳密に見ているのだから、私たちもやはり厳密に受け止めるべきではなかろうか。」とでもなるだろうか。最後のあたりが少し自信がないが、主語は es ではなくて unser Herr und Gott であり、es は目的語だろう。いずれにしても、訳してみると、べつにこんなに馬鹿丁寧に訳す必要のあることではない。てきとうに意訳しておけば十分だろう。

dagegen

Fanden nun Vater und Mutter ihren besten Trost und die befriedigende Nahrung für ihr inneres Leben in den Worten des alten Bibelbuches und solcher Schriften, die desselben Sinnes waren, so war es dagegen den Bedürfnissen ihrer Natur gemäß, aus den Worten der Dichter und Weisen zu schöpfen, die ihren Blick weiteten, ihr Denken erhellten und ihr ganzes Wesen festeten, daß sie, der eigenen Kraft bewußt, gerüstet dem Leben entgegentreten könnte.

なんと長い、そしてコンマの多いセンテンスだろうか。これは A, so B, daß C と言う形になっていると解釈できよう。

A の部分は

父と母は古い聖書などの書物の言葉の中から、彼女のために、元気と心の糧を見つけた。それらはおよそ同じような意味合いだった。

B の部分は

しかしそれゆえにそれらの宗教的な文句は彼女自身の好みに反していた。

彼女の好みというのは aus den Worten der Dichter und Weisen zu schöpfen という zu 不定詞句が Bedürfnissen ihrer Natur gemäß にかかるとみて、

詩人や賢者の言葉から生まれ出て、彼女の視野を広げ、彼女の考えを明解にし、彼女の本質を確立してくれるもの

である。そして C の部分は

自分自身の力を自覚し、すでに自分なりに理論武装していた彼女は、人生に立ち向かっていけた。

となるだろう。

前半部分の父母の宗教的な好みと、後半部分の彼女の詩的な好みが対比されている、と見るべきだ。dagegen があるのでそれがわかりやすい。

「, so」や「, daß」などでセンテンスが大きく切れている、ということに着目すべきだ。

大村益次郎銅像銘文 解説

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大村益次郎の銅像を見に行った。に書かれていた解説をもらいに行った。駐車場の受付(?)ではもらえなかった。いろいろ人に聞いてやっと受け取ることができた。内容は同じようで微妙に違う。原文は載せてほしかった。

あと、碑文だが、円筒状になっていて高いところにあるために非常に読みにくく、かつ、写真にとりにくい。逆光になるとまあ普通のスマホでは写せない。一眼レフ持ってかないとだめだわ。

嗚呼此故兵部大輔贈從三位大村君之像也方顙圓頤眉軒目張凛乎如生使人想其風采君諱永敏稱益次郎長門藩士性沈毅有大志夙講泰西兵法擢為兵學教授尋參藩政釐革兵制慶應二年之役守藩北境連戦皆捷戊辰中興徴為軍防事務局判事時幕府殘黨據東叡山方命君獻策討而殲之尋征奥羽平函舘君皆參其帷幄以功賜禄千五百石陞任兵部大輔大定陸海軍制之基礎明治二年在京師為兇人所戕薨年四十七

天皇震悼贈位賜賻後又授爵榮子孫頃者故舊相謀造立銅像以表其偉勲以余知君尤深記其概略若夫平生事業具載其郷圓山墓碑嗚呼像之與碑君之功名可共不朽

明治廿一年六月

内大臣従一位大勲位公爵 三條實美撰并書

どうでもいいっちゃいいんだが、実際に目で「函館」は「函舘」であることを確かめた。

「方命」は天子の命にさからうことと辞書にある。孟子に「方命虐民」とあるらしい。この「方」は「妨」もしくは「放」の意味か。「幕府殘黨據東叡山方命」いわゆる彰義隊のことだな。

カニバリズム

神経痛はだいぶ治ってきたがまだ痛む。年齢と同じくらいの日数かかるというから、順調に治ってきているのだとは思うが、ずいぶんとしつこい病気ではある。

「キリスト教とカニバリズム」というそのものずばりのタイトルを付けた本もあるようだが、実際にイエスが食われたかはともかく、初期のキリスト教が、なんらかの形でカニバリズムと関係していた可能性は高い。

後世、予言と見えるようなことはたいていは後付けの解釈である。日本書紀の地名説話にしても、大化の改新にしても、寺や温泉の由来にしても、韓国起源説にしても、後世になってわからなくなったことを後から適当に理由付けしたものである。福音書にしてもイエスの死後五十年以上して成立したもので、それは平家物語の成立とも似ているが、一時資料としての歴史的な信用性はない。

人を殺して神に捧げ、時にはその肉を食い、血を飲むというような宗教儀式は、古代には広くみられたはずだ。犠牲は人から牛や羊などとなり、後に血は酒で代用されるようになる。人よりは家畜、家畜よりは酒のほうがコストがかからないからだ。つまり食人の習慣が廃れた主たる理由は、人を使うのが「もったいない」からだ。中国では犠牲の血で青銅器を血塗り、その血を飲んで盟約を結んだ。今日ではマオタイ酒がその代わりをする。キリスト教でも、本来は血を飲んだかもしれないがそれがワインに変わったのかもしれない。ユダヤ教では血は飲まないので、明らかにユダヤ教以外の異種の宗教が混入したのである。おそらくはヒンドゥー教のカーリー信仰のようなものだった。アーリア人の宗教はインドからペルシャまで広く分布していて、当然ユダヤにも影響を与えた。というよりか、ユダヤ人はペルシャ人によって捕囚されたのだから、ペルシャ人の宗教の影響を受けないはずがない。

イエスの処刑というものは、ほとんどめだたない出来事だったはずだ。しかしイエスにごく近い異端の宗教指導者が、イエスを教祖に祭り上げる。初期は家畜の肉や血が聖餐に使われていたかもしれない。それは今のヒンドゥー教の儀式のようなものだったかもしれない。明らかにユダヤ教の正統の儀式ではない。

やがて肉と血はパンとワインで代用されるようになった。パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとはわかりにくい比喩である。そこをうまく説明づけるために、最初期の福音書は書かれたのではなかろうか。ただそれだけのことではないのか。

「アンデスの聖餐」などと呼ばれる事件があったが、要するに、他に生き残る手段がないときに、死者の肉を食べるのは、聖餐と同じであって許される、という解釈だ。

中国に食人の習慣があったのは有名だが、
小室直樹の『資本主義中国の挑戦』に詳しく書かれている。

日本には食人の習慣はあまりみられなかったようだが、殉死や人柱などの人身御供はかなり一般的だったのではないか。
ヨナ記にも海の神を鎮めるためにヨナが海に投げ込まれるなどいう話がある。
兵馬俑や日本の埴輪は生きた馬や人の代用だともいう。

神経痛2

なかなか治らない。

たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。

健康第一。年寄り臭い。

神経痛

急にやることがなくなった。じたばたしてもしかたない。

ウィルスはすでに免疫系によって退治されたようだが、破壊された神経がひりひり痛む。何もしないとどうということはないが、皮膚をさすると痛い。体の芯のほうでは腰痛のような痛みになる。これが神経痛というものなのだな。で、神経が回復するまで三週間くらいかかると。慢性化して残ることもあるらしい。こわいこわい。

もう年寄り臭い病気ばかりで困る。実際年よりなんだが。

こういう神経痛とかリューマチとかヘルペスとか皮膚病とか痛風とかにかかった老人が、米持ち込みで自分で炊いて何日も逗留するような湯治場を利用するんだなあと思うと、なんかしみじみとしてくるわな。そんなじじばばの中に混ざって、自分もじじいなわけだが、米をといで塩昆布かなんかで食べてるところを想像したりする。確実にあと20年で、はやければ5年か10年でそうなる。

ひりひり

気力が続かないのでこのへんにして脱稿すると思う。体の表面の腫れは収まってきたが、皮膚がひりひりするとこがあちこち飛び回ってなかなか収まらない。ウィルスは撤収を始めたが免疫系との最後の戦いを繰り広げているのだろうか。

はよう酒が飲みたい。

連休がつぶれたともいえるし、連休だから助かったともいえる。

帯状疱疹

変な赤いぶつぶつが出来たので皮膚科に行ったら、帯状疱疹という病気だと診断された。子供の頃に罹った水疱瘡のウィルスが体の中に潜伏していて、加齢によって体が弱ってくると活性化するらしい。50才以上の人に多いという。6、7人に1人くらい発症するという。

不思議なことに体の片側にしかできものができない。ウィルスが神経の奥の方をおかすからだという。神経は脊髄を中心に体の外側に向かって伸びている。その途中がウィルスにやられるとその下流が皮膚まで達してできものになるらしい。食あたりでリンパがやられたのかと思ったが全然違った。寝違えみたいな腰痛が伴う。風邪引いたときのふしぶしの痛みとも似ている。

ちゃんと治療しないと神経痛が残るそうである。なるほど神経が痛むというのはこういうものなのだ。痛みが体のあちこちに移る感じだ。肌をなでるとひりひりする。必ずしも強い痛みではないが、不快だ。

酒も飲んではいけないらしい。年を取るというのはほんとに面倒だ。

百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

指月殿

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以前に修善寺温泉というのですでに書いたのだが、京都旅行をして気になったので少し加筆する。

伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時創建のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならない。それ以前に拝観料払わないと見れないだろう。

壁は古色蒼然としているがやたらとお札が貼られている。屋根が綺麗すぎるから葺き替えだろうし、ガラス戸は当然最近付けられたものだ。もとは経堂だったというが、そのお経はみんな焼けてしまったというし、お経が焼けるくらいだから経堂も一緒に焼けたのに違いない。

伊豆最古の木造建築、というのは、もしかすると当たってるかもしれない。ちなみに今の修善寺本堂は明治時代の再建。それよか韮山反射炉のほうが古いわな。

※追記。これ、実はかなり新しいものではないか。ガラス戸が最初からついていたとすれば古くて大正、明治末期くらいだろう。伊豆最古の木造建築というのを信じるとすれば江戸末期くらいのものか。