小椋山

秋雜歌 崗本天皇御製歌一首

08-1511 暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母

雜歌 泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

09-1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜

この二つの歌は同じである。

ゆふされば をぐらのやまに なくしかの こよひはなかず いねにけらしも

と訓む。割と有名な歌。崗本天皇とは舒明天皇か斉明天皇であるという。泊瀬朝倉宮に天の下治しめしし大泊瀬幼武天皇は雄略天皇。どうもよくわからない。しかも小椋山、あるいは小倉乃山というのがどこかわからない。「小椋」「小倉」ともにそれぞれ一度きりしか万葉集には出ないからである。もしかすると固有名詞ではなく「小暗」の意味かもしれんね。たとえばもとは「小暗き山」だったのが「小倉山」という固有名詞と間違われたとか。

ダブって採られているくらいだからよく知られてはいたが万葉時代には誰の歌か何の歌かもうわかんなくなっていたのだろう。

も一個あった。

春三月諸卿大夫等下難波時歌二首 并短歌

09-1747 白雲之 龍田山之 瀧上之 小桉嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来

龍田山の滝の上の小桉の嶺に。

ますますわからん。龍田山の滝の上というからには竜田川の上流かと思うが、飛鳥や奈良の中心からはだいぶはずれる。詞書きにも難波に下るとあるから、やはり生駒山辺りでなくてはならない。謎は深まった。

いやそもそも龍田山というのが生駒山なのではなかろうか。

ははあ、なるほど、生駒は北過ぎる。奈良盆地から難波に至る道というのは大和川沿いであったに違いなく、従って信貴山もしくは高安山あたりが龍田山もしくは小桉の嶺か。「山高」というからにはこの辺りで一番高い目立つ山でなくてはならない。

上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古

03-0415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人憾怜

竹原井、つまり聖徳太子の行宮後というのは、大阪府柏原市青谷、ここらには聖徳太子関係の史跡が多い。

獨惜龍田山櫻花歌一首

20-4395 多都多夜麻 見都〃古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敝流刀尓

たつたやま みつつこえこし さくらばな ちりかすぎなむ わがかへるとに

ふーむ。やはり、龍田山というのは、奈良と難波を往来する人が必ず通る、大和川沿いの地峡から眺める山であった。船旅であったかもしれぬ。竜田川とはあまり関係ない。ていうか竜田川をさかのぼって生駒まで行ってはならない。うーんと、たぶんだが、龍田山というのはこの大和川の地峡全体のことで、そのなかの最高峰が小椋の峰でこれがすなわち信貴山ではなかろうか。

ヴイナス戦記

「アリオン」「クルドの星」の続編だというので、気になったのでアマゾンでポチって読んでみたが、あまり面白そうではない。どうも安彦良和が自分で書きたくてかいたストーリーではないと思うんだ。たぶん、アニメ化、映画化するための原作として仕方なく書いた。映画監督になるために自分が原作者になった。そりゃそうだわな、「クルドの星」じゃアニメ化できんわな。それで無理矢理SF仕立てにしたかんじだわ。

アニメは、まあ、良く出来てはいるようだが。だがこれは(CG使ってなかった頃の昭和の)メカの動きが面白いのであり、キャラクターの作画が安彦良和である必然性がほとんどないわな。

やっぱ安彦良和で面白いのは「クルドの星」「王道の狗」「虹色のトロツキー」とか、近代アジア史ものなわけだが。異論はあるだろう(実際ここらが好きだという人を見たことがない)。今連載している(らしい)「麗島夢譚」まで時代をさかのぼるとかなり変な癖が出て、「神武」とかはもう全然つまらない。不思議な人だわな。要するにフィクションが下手な人だと思うんだ。いや、フィクションにする元ネタがフィクションだとめろめろになってだめな人というべきか。フィクションの元ネタが史実だったり近代だったりするとすっと一本筋が通って面白い、というか。「三河物語」もまあまあ面白い。これも大久保彦左衛門という原作者の強い個性がうまく安彦良和を制御できている感じ。「アレクサンドロス」も見たが、これはもう安彦良和自身が言っているように完全な企画倒れ。そう簡単に描けるわけがないんだよな、アレクサンドロスを。老臣パルメニオンを妙に持ち上げていたあたりが少しおもしろい。

巨神ゴーグ。出だしが「Cコート」っぽくて良い(笑)。これぞまさしく純粋な動く安彦良和。つか、「Cコート」アニメ化した方が絶対良いと思う、こんなロボットものより。ロボットじゃないとスポンサー付かないんだなあ。不毛だよな、安彦良和イコールガンダムという発想。まあ入り口はガンダムで良いとして他にいろんなことをやらせてあげれば良かったのに。で、安彦良和も最後は諦めて(開き直って)ガンダムオリジンとか描き始めたのな。全く興味ないがな、ジ・オリジン。

安彦良和は、キャラが命の人なのだが、そこにガンダムテイストのSFを混ぜると、肝心のキャラが死んでしまう。「王道の狗」なんてほんとによくできた話で、架空の人物、加納周助、風間一太郎のコンビはすごく良く出来てるし、実在の陸奥宗光なんかも良くかけてる。「虹色のトロツキー」も主人公の日本人とモンゴル人のハーフのウムボルトや、その他の脇役ジャムツや麗花などの中国人も、よく思いつくもんだと思う。ていうか明らかに私が書いた「特務内親王遼子」なんてのは「虹色のトロツキー」の影響だしな。東洋のマタハリとか(笑)。近代アジア史物はもっと書きたいが、いろいろアレがアレなので書きにくいものはあるわな。

ま、私もいろんなジャンルを書き散らすほうではあるが、安彦良和の統一感のなさははんぱない。

結城氏と小山氏の関係を調べていて気づいたのだが、結城直朝の幼名は「犬鶴丸」。
小山義政の息子に「若犬丸」(元服前に死んだか)。
小山朝郷の幼名は「常犬丸」。
小山持政の幼名は「藤犬丸」。
小山氏郷(の子?)「虎犬丸」。
氏郷が若死にしたので山川家から成長を養子をもらい、成長の幼名が「梅犬丸」。成長は小山泰朝の曾孫。

つまり、結城氏と小山氏には「某犬丸」「犬某丸」という幼名が一般的だったらしい。そういう幼名を付けた他の武家の例がないわけではないが、特に結城・小川氏に多い。結城と言えば結城合戦。「八犬伝」と無関係ではあるまい。つまり犬の名を付けるのはもともとは安房ではなく下野、いや常陸の風習だったということだ。いやいやいや、小山は下野で結城は常陸だわな。ややこしい。

小山氏と結城氏の家系は養子縁組ばかりでよくわからん。資料もあるようでないようで。今も小山市と結城市は隣どうし。JR水戸線でつながれている。なんか面白いな。一度行ったことあるがすごい田舎だ。

だんだんわかってきた。源平合戦のころ頼朝についた武将に小山朝光があり、彼が結城朝光を名乗る。つまり結城氏は小山氏から分かれた。小山氏は藤原秀郷の子孫でもとは太田氏らしい。だが、朝光の父政光くらいまでしか確かにはたどれないようだ。要するに小山氏も結城氏も同族で頼朝の時代に、その住む場所によって家名が二つに分かれた、ということだな。

朝光は頼朝が烏帽子親となって元服する。頼朝の命で義経に腰越で鎌倉入り不可の口上を伝える、とあるから、まあ、頼朝の寵臣だったらしい。

時代は下って、小山義政が鎌倉公方足利氏満に謀反を起こして小山宗家は断絶。分家筋の結城家から小山家に養子泰明を迎えて家督をつなぐ。逆に小山泰明から結城家に養子氏満を迎えて家督相続。結城氏満が結城合戦の主役で、氏満の子成朝が江ノ島合戦や享徳の乱の主役、というわけだ。ふー。

そういや義経の幼名は「牛若丸」。「丸」は「麿」「麻呂」なんだよな。蝉丸とか。猿丸とか。人麻呂も人丸と言ったりする。基本的には人の名、それも、万葉時代から前の名の名残なんだろうな。

「牛若丸」「犬若丸」があれば、「虎若丸」「熊若丸」「鶴若丸」「亀若丸」「馬若丸」、「松若丸」「梅若丸」「藤若丸」「菊若丸」なんてのもあったんだろうが、どうやって調べれば良い。

ていうか頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって、それまで名字をもっていなかった、或いは持っていたけどよくわかんなかった人が、御家人となり、名字を持つようになって、
やっと武家というものが生まれたのだろう。それまでは、そもそも庶民には名前がなく家系もなかった。と、考えると頼朝はすごい。奥州藤原氏とか、その前の清原、阿倍氏なども、みな京都の貴族の名を借りただけで、ようは、名字なんてただの飾りだったのだろう。三河介みたいなもんで、勝手に自分で名乗ってた。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

秋成

秋成の擬古文は、宣長のような堅苦しさもなく、なめらかですばらしい。

みかどに立てば、世をまつりごち、庵のどかに住みなしては、あまねく病に験ある薬を舐めわきて、惻隠とかの心をいたせしとや。

「まつりごち」は「まつりごと」を活用させた語だが、源氏物語に出る。「あまねく病にしるしある薬」とは酒のことであるらしい。なんかしびれるな、こういうのを美文というのだろう。やはり秋成はちゃんと読まねばならぬ。馬琴とか春水とか京伝とかは差し置いてまず読まねばならぬ。秋成は文法とか仮名遣いなどがやや乱調なのだが、そこもまた彼の味か。秋成と宣長の長所を合わせれば完璧な擬古文ができあがるだろう。源氏物語の文体を現代にそのまま復活させることはできない。秋成や宣長の文体は近世なので、なんとか現代風にアレンジすれば、今でも使い物になるんじゃないか。そのうちこのブログでも実践してみるか(笑)

それはそうと、しばらく酒を飲まずにいると低血圧になるようだ。血圧計で測ってみてもそうだし、朝寝起きが悪くなるし、立ちくらみもする。おそらくついでにコレステロール値も下がるのではないか。毎日何キロも歩いてみたり、断食まがいのことをしてみても、あまり効果がなく、結局酒をやめれば体調が良くなるということか。

血圧高い方が寝覚めも良いし活発に動けるが早死にする。低血圧なくらいな方が長生きする。

まあこれまで人の何倍も酒を飲んできたから、そろそろ週に一度たしなむ程度にするのもよかろうか。このへんで酒池肉林とか言ってるのを見るとうらやましくもあるが。

なんて素敵にジャパネスク

氷室冴子はマンガやアニメの原作者としてはすでに知っててまあ好きなほうだから、小説も割といけるかと思ってためしに『なんて素敵にジャパネスク』を読み始めたのだが、いろんな意味で驚いている。

まず、こんな昔からラノベって1センテンスごとに改行してたのな。

第一印象としては人間関係がわかりにくい。官職名がいきなりぽんぽん出て、これ、読むひとほんとに理解して読んでるのかという感じ。権少将とか大納言とか出てくるんだが、官位が書かれてないからどっちが偉いのかもわからん。そんなこと考えなくていいんだろうけど、気になる。むしろ、そうやって、よく分からない単語であふれさせることによって、無理矢理平安時代の雰囲気を出しているのかもしれん。

だがまあこれは明らかにラノベだ。腐る前の時代のラノベ。ドタバタラブコメが主流だったころの、八時だよ全員集合時代のラノベ。あるいは、防腐剤として古典的教養らしきものがふんだんにまぶしてあるが、それらを取り去れば自然に腐って現在のラノベになるのだろう。今のラノベはこんな難しかったら読まれないんじゃないかと思う。

ヒロインの弟が融というのだが、この時代、融と言えば源融。だが、父親は藤原氏。だから、藤原融というのだろうが、これがものすごく気持ち悪い。漢字一字の名前というのはだいたい嵯峨源氏。藤原氏の名前はほぼ例外なく二字。まあそんなことどうでもいいわけだが。

高彬という名もなんとなく変な感じ。幕末ころの武士の名前だろうとか思う。島津斉彬とか。醍醐天皇の皇子のつもりかな。第十皇子に源高明というのがいるわな。

ざっとネットを検索しただけだがこの作品には次のような和歌が出てくるらしい。

瀬を早み 楫子のかじ絶え ゆく船の 泊まりはなどか 我しりぬべき

春立つと 風に聞けども 花の香を 聞かぬ限りは あらじとぞ思ふ

心ざし あらば見ゆらむ わが宿の 花の盛りの 春の宵夢

うーん。どれもダメだ。大人げないが全然ダメ。単なるパロディなら笑って許せるが、割と狙ってるところがダメ。つか、パロディ(蜀山人の江戸狂歌みたいな)作るにはそれなりにわかってなきゃだめだからな。百人一首のうろ覚えプラス歌謡曲レベルだわな。逆の言い方をすれば、普通の人には和歌なんてものはこの程度で良いということだろう。

人虎伝

「山月記」はなぜ国民教材となったのかというのを書いたせいで気になって調べてみた。山月記の中で、中島敦は虎に

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

などと言わせているのだが、私はこの台詞がすごく好きなんだが、これが原作の人虎伝にすでにある文句なのか、それとも、中島敦が独自に挿入したものなのか。

人虎伝の原文現代語訳も、今では簡単にネットでみることができる。当該箇所を読んでみると、それらしきことは書いてなくて、

於南陽郊外、嘗私一孀婦。其家竊知之、常有害我心。孀婦由是不得再合。吾因乘風縱火、一家數人盡焚殺之而去此。爲恨爾。

つまり、女の家に放火して、一家数人をことごとく焼き殺した、などということが書いてある。それでさらに検索してみると、なんと中島敦の本家本元筑摩書房でその箇所について解説しているではないか。

なるほど。「山月記」は国語教科書の定番なので、「人虎伝」までさかのぼって深読みし、指導の助けにしようという教師は少なからずいて、筑摩書房もその要望に応えたというわけだ。

「人虎伝」を読めば明らかなように、人が虎となったのは、密通放火殺人の罪による。中島敦はここをすべて捨て、代わりに、己の詩業に熱中するあまり、妻子を顧みなかったから虎になった、そう読み変えたのだ(家庭をないがしろにする男などいくらでもいる。そういう男がみんな虎になったらたいへんだ。中島敦もだから虎になった理由は明記してない。そんな説得力のある理由じゃない。だから思わせぶりな記述になった)。自分なりにストーリーを書き換えてみたい、あるいは多少のオリジナリティをもたせたいと考えるのは自然で、芥川龍之介もやっていることだ。

この筑摩書房のサイトの解説がなかなかおもしろいのだが、

李徴の詩は、微妙な点において欠けているものがあるから一流になれなかったということなのですが、

李徴の詩が、微妙な点において欠けている、と感じたのは中島敦本人なのである。そう感じたからストーリーを改変した。中島敦はおそらく李徴に自分自身を投影したのだ。しかし中島敦自身は、李徴のような鬼畜な人間ではない。作者は感情移入できない。「妻子とか、生業などに煩わされながら、物書きをしている自分」というものを主人公にしないとそもそも話を物語ることができない。李徴に遭遇した袁傪はただの脇役なのでやはり感情移入しにくいわな。

この微妙な点を生徒の多くは「愛」に求めます。妻子への愛がなかったからいい詩が書けなかったというわけです。私が「では、愛があればいい詩が書けるの?」と問えば、躊躇なく「はい。」と答えてきます。本気で「愛があればなんでもできる。」と信じ込んでいるわけではないのですが、生徒たちは小説・物語はそう読むということに慣れ親しんでいるのだと思います。テレビ・アニメ恐るべしです。

ここで「私」と言っている人が誰なのかと探してみてもよくわからない。署名記事ではなさそうなのだが、いかにも高校国語教師の感想という感じでほほえましい。

妻子への愛があれば良い詩が書けるとは中島敦も考えてなかっただろう。そんな雑な結論を導かれちゃ困るだろう。読者は自分の好き勝手に誤解したがるものだ(そしてそれが当然の権利で正しい行為だと思っている。自分が作者よりもよい解釈をしてやったとすら考えている)。作者の意志などどうでもいいのだ。作者は(と言いながら自分のことを書くが)、そんなありきたりの、誰でも思いつく、誰が書いても同じな、毎日テレビで垂れ流されていてわざわざ自分で書く必要すらない、つまらないストーリーなんか書きたくない。普通の恋愛、普通の推理、普通の歴史小説なんて書きたくない。二重三重に意味を持たせた、トリッキーなストーリーを書きたい。はぐらかしたりだましたりしながら、ちゃんと読めばちゃんとわかるように書いてあるのだ。しかし最初のトリックにつまづいてそこで読了した気持ちになっている読者を見るとがっかりする。

思うに、山月記が説教臭い教材になってしまった理由は、普通の高校生とその教師と親がそういう解釈を好んだためだとしか言いようがないと思う。中島敦が山月記を書いた理由?おそらくは自分の著作活動における自問自答、葛藤のようなものをそのまま書いたのだろう。教科書会社は売れるから載せているだけだ。文科省の役人は特に現状を変更する理由がないから放置しているだけ。「なぜ国民教材となったか」と言われればそれこそ「国民が望んだから」としか言いようがない。文科省の官僚や教科書出版社や指導要領の作成者のせいにするのはよろしくない。

おそらく「人虎伝」で種明かしをされてしまうと怒り出す高校生や国語教師がたくさんいるのではないか。そんなの俺の「山月記」じゃねえ、とか言い出して。アニメとかラノベのファンなんてみんなそうだ。

追記。やや嫌らしいが、教育指導要領の方もみておこう。

李徴が虎になった原因が三点も記されていることについて考える。

それは、中島敦が、本来の理由を削除して、自分なりの解釈に改変したが、その解釈を読者に押し付ける自信がなかったからだわな。

李徴が詩に執着した理由を考える。

詩人が詩に執着して何がいけないのか。

現代小説に特徴的な主題を読み取り、現代小説に親しむ。

ていうか現代小説を書いているつもりの私にも「現代小説の特徴」なんかわからんよ。主題を読み取るというが、この小説に何か明確な主題なんてあるのか。元の伝記小説にはあったかもしれんが。つか小説なんてのは、特に近代や現代の小説てのは(漫画とかアニメとか娯楽物でない限り)、何か具体的な主題に沿って書かれるものじゃないだろ。無理に高校生に主題を読み取らせようとするから筑摩書房のサイトに書かれているような頓珍漢な答えが出てくるんじゃないの(それとも自己流に解釈すればそれはそれで、自分で頭を使ったからよいということか)。

さらに、「山月記」なんか読んで現代小説に親しめるか?

現代小説独特の表現に親しみ、その特性を理解する。

同上。

表現とそのリズムに親しむとともに、表現された心情を考えながら音読・朗読する。

音読、朗読か。なぜわざわざそんなことをさせたいのかよくわからない。それって必要なのか。てか、朗読させたければ詩にすればいいんじゃないか。

運命に対して無抵抗であり、理由の分からないものをただ受け入れざるを得ないという不条理、人間という存在に対する嘆きがあります。人間がこの世界に投げ出された状況とは、まさにこういうことでしょう。理由などないのです。それを人間は、自分たちの物語に理由づけようとして悪戦苦闘しているのです。

いろんな理由を考えさせて、高校生を悩ませておいて、結論はこれなのだろうか。答えは「理由はない」。世の中は不条理だ。人間は苦しんでいる。それが現代小説の特徴なのだろうか。はて。うーん。ニーチェとかサルトルみたいなもん?(笑)

なんか、もっともらしい理由づけではあるが、高校生に読ませる教材なんだよね?もっとほかにふさわしいのがありそうなものだが。いやいくらでもある。やはり、いろいろ生徒に悩ませておいて、最後にこうですと、手の内をあかして、けむに巻いてみせたいだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。

ネット時代の今、そんな手口はもはや高校生には通用しないんじゃないのかなあ。一時期「ポストモダン」な人たちが風靡してたころはそんなわかったようなわからないような禅問答的解釈でよかったかしれんが、今はググればごまかしはすぐばれるよ。

追記あり〼

西行

小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。

西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。

西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。

詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。

「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。

あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。

勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。

西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。

まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。

追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。

彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。

世の中に未練のあるような歌は他にもある。

はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし

物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな

捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり

数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり

捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。

心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ

世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ

うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる

そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな

世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも

山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ

古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮

ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。

世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ

わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ

花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける

春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり

春と桜の歌。最後のやつは宣長の

待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり

にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。

いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな

こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり

あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき

わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな

はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや

恋の歌。

おそらく偽作と思われるのは

何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

その他、聞書集に載る、

うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし

すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ

たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども

などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。

脚注とか。

昨日はまた飲みすぎた。いまだにアルコールが体の中に残っている。こんな飲み方をしてはいけない。

フローニも脚注を使おうとしたらmobiでもepubでも書き出せずに一太郎フリーズ。脚注のせいかと思い、エウドキアでもやってみると普通にできる。わけわからんが何か謎のエラーらしい。

しょうがないのでフローニの脚注は今のままで一太郎の機能は使わないことにする。

脚注の設定ではページごとと巻末にまとめてが選べる。脚注専用の領域を指定できないのが痛い。mobi で出力すると結局一番最後にまとめて脚注が出力される。

フローニの表紙と挿絵がもうじき上がってくるので改版することにする。ええっとつまり更新に関してお客様に通知てのを初めて依頼してみようかと思う。

フローニの改版と同時にエウドキアの無料キャンペーンをやるつもりです。エウドキアを校正しながら、まだまだ文章はいじれるってことに気づいてしまう。こういう女一代記みたいなものは、75年間もあって長いから、すきますきまにいくらでも小話を挿入できてしまう。このままどんどん書き足して長編小説にもなるかもしれん。きりがない。カラオケでいうところのビブラートとかこぶしのようなディテイルを付け足したりとか。それやってると永久に終わらんし、誤植も入り込むし、ぎっとぎとな文体より、シンプルなほうがましという人もいるかもしれんし、この辺でやめないと。

藤原通俊という人は、歌があんまりない。もともとあまり詠んでないのか、失われたのか。後拾遺集をみてもそんな面白いのはないから、誰かが意図的に隠蔽した、というわけではなさそう。歌の目利きではあったが自分ではあまり詠めなかったということか。白河院も「大井川古き流れをたづねきて」くらいしか有名なのがない。この人も実はあまり自分では歌は詠まなかったのかもしれない。だが勅撰集編纂には普通でないこだわり方をした。すこし不思議だ。

自分の書いたものをいくつか読み返してみると、全然今書いている文章と違っていて我ながら驚く。「エウドキア」と「将軍家の仲人」は全然違う。なるほどなあと。書いてるときは作中の人物になりきって書いてるから書けるのであって、一度離れるともう書けない。漢詩も和歌もそうだが、その世界に入りきってないと詠めなくなる。なんかよくわからんがある集中力が持続している間しか作れないんだが、それに似たところはあるわな。絵を描くのもそうだわな。

これ、前半部分で新井白石の説明長すぎるよね。たぶんここで読者は飽きるだろうなあとか。

将軍放浪記は蘊蓄多すぎだよね。蘊蓄を物語に落とし込みきれてない感じ。調べたものを全部書いてるよなあ。

smart tv boxその後

1TBの外付けHDDだとやっぱりあっという間に録画一杯になっちゃいますよ、お客さん。
そんで3TBのHDDを買って来たが、なぜか認識しない。
あれっと思ってもとの1TBのに付け替えてたが、認識しない。
答えは、挿す場所を間違えた。
USBポートは何箇所かあるんだが、その一つしかつながらない。
なんでこんな仕様になってるのかと問い詰めたい。

説明書には1TBから2TBまでのセルフパワーのHDDしか使えませんよと書いてあり、
じゃあ3TB買ってきた私の立場はと思ったがなぜかちゃんと2.7TB認識している。
じゃあ3TBでもふつうに動くんじゃね。
しばらく使ってみる。

あとUSB3.0のセルフパワーのハブは必須。
4台まで同時につなげるので5ポートのハブ買ってくれば良いわね。

そんでまあ、これまではインターネットはbflets使ってたわけだが、
これはインターネット専用線で固定IPだっただけあって安定してた。
smart tv box はテレビと電話とインターネット兼用である。
全部パケット通信なわけだから、インターネット専用線と違わないように思うのだが、
たまにおかしくなる。
テレビの回線もごくたまにおかしくなることがあるがあれの巻き添えなのか。
今年も去年も正月にいきなりCATVが見えなくなることがあった
(正月くらいしかテレビ漬けにならないからでもあるが。ふだんはほとんどテレビ見ないし)。
去年はある特定のチャンネルだけが受信できなくなって電話して一応直してもらった。
今年の正月は朝の11時からいきなり受信できなくなった。
たぶんこれは回線がパンクしてるんだろうな、そうとしか思えん。
昔ADSLとか使ってたときにはときどきつながらなくなってまたつながったりしてた。
固定IPにしてからはほとんどそういうことなくなった。
今はダイナミックアドレスなはずだから、
ときどき切れてるんじゃないかと思うんだ。
そのときIPアドレスの付け替えが発生するから、余計につながってない感があるのじゃなかろうか。
固定IPだと一時的に切れてもそのまんまのアドレスでつながるわけだから、
たまたまパケットがどこかで混雑して届かなかっただけの場合と違いないわな。
専門家でもないのに文句を言うのは怖いから、少しだけこそっと書いてみる。
でもまあルータとか光回線の終端なんてめったにいじらないわけじゃないですか。
でも smart tv box はときどき電源切ったりするわけで、
そのとき一時的にネットもつながらなくなるのは仕方ないよな、ある意味。
我慢して使うしかないんですよ。セットにしたことで出費が減る分は、
文句言えないですよ。

リモコンが使いやすいとは言いがたい。
GUIはまあまあ。
リモコンをタブレットで代用することもできるが大差ない。
アプリの操作性とレスポンスがいまいちなんだなあ。
期待外れだった。
つかゲームコントローラとかで操作できないんですかと言いたい。
リモコンじゃFPSはできないでしょ。
そうねマウスとキーボードでも良いけどさ。
そういう選択肢は欲しいよね。