国語教科書の闇

ついでに読んでみた。

これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。そこから先は読まない。大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。

おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、それはあまりにも狭い世界で、定番で、既視感で、予定調和で、昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、或いは国内旅行に切り替えるようなもの。

別にね、ハリーポッターとか、シャーロックホームズとか、高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。ラノベは読みやすい。読者も多い。従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。

私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、その外の世界の存在を想定してないからだろう。

それから今回初めて森鴎外の舞姫を読んでみたのだが、なんじゃこりゃという感じ。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。

は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。

たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。なんかかっこよさそう。それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。

「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、その代用品を提供するというところにあるわけ。最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。

さらに、菊池寛とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。

今年のセンター国語センター試験「国語(古文)」を解いてみる。などにも書いたことだが、今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。だから教材も定番なほうがいいに決まってる。どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。或いは特許とか?曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年ガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝中島敦の書簡と日記

不良債権としての『文学』

j:com の smart tv boxちゃんが来たのでさっそくimagica bsで録画したブラックホークダウンやら、au video passで見放題の吉田類居酒屋放浪記などを見ている。book passでスマホにたくさんマンガを落としたから通勤途中に見るだろう。

それはそうと、[不良債権としての『文学』というのを読んだのだが、読んでみるとごく当たり前の主張だ。大塚英志氏の書いた本は、たぶん私が読むといらいらして読めないと思うのだが、要するに専門学校生や大学生にプロットの組み立て方を教える本であって、誰が書いても同じようなことは書くだろう。

戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。

文芸というものをビジネスモデルで見た、実に面白い指摘であり、たとえば永井荷風が大学教授を辞めて文筆業で食って行けたのはたしかに文学全集が売れたからであり、今日我々が「文豪」というイメージを抱いているのもそうした作家である。今や「紙」の文学全集や百科事典ほどばかげたものはない。ああいうものはようは、昔家を建てたときの家具や調度品の一種として買われていたものであり、神棚の一種で、別に実際に読んだりするものではない。本当に読もうという人には不便きわまりない。今ならウィキペディアやキンドルを読むだろう。多くの愛書家というのは結局は自宅に自分だけの文学全集を作ることが好きなだけであり、蒐集家の一種であり、だから紙の本が好きなのにすぎない。逆の言い方をすればキンドルではそういった蒐集癖を満足させることはできない。こどもが切手や昆虫やカードを蒐集するのが好きなようなものでこれはどうにもならない。

大塚氏はコストがかかりすぎる現在の出版業そのものを疑問視し、コミケを参考にした「文学フリマ」などというものを提唱しているが、これは今kdpの世界でまさに進行していることだろう。「文学」と同様、出版業界もまた既得権化しているからで、それは出版にコストとリスクがかかるからであり、よって元の取れる本ばかりが本屋に並ぶことになる。彼の言うことはいちいちもっともだと思う。

小谷野敦氏が「大塚の文章は非論理的で、下手というより平然と論理をすりかえる詭弁と直観だけで書いていて、それを実証的に検証しようという姿勢がない」と批判しているそうだが、確かにこの「不良債権としての『文学』」という一文を読むだけでも、そういう印象を受ける。威勢は良いが実がない気がする。

でまあプロットを作る技術を教えれば多くの人が小説を書けるようになるだろう。しかしこれはハリウッド的娯楽のプロットですとか、これはミステリー、これは恋愛のプロットで、起承転結があってここが盛り上がりで、ここで落とすとか、そういう文書技術の部分をどんどん取り除いていってあとに何も残らないのは、種のない果実のようなもので、それは天然自然のものではない。世の中は種なしブドウや種のないミカン、バナナ、無精卵のほうが好まれる。種があればそれをよけて食べる。パパイヤに種ごとかぶりつく人はいない。そんなゴリラかオランウータンみたいな食べ方はしない。

プロデューサーならば売れればそれで良いかも知れないが、原作者は実は自分の作品の中に種を仕込みたいのではないか。私なんかはそうだ。いや、作家になるのが最終目的であって何を書くのかというのはあまり関係ない、とにかく売れるものが書きたい、というのであればそれでもいい(逆に自己表現したい何かか自分の中に何もないと作家になれないから、わざと異常な体験をして特別な自分になろうとする人もいるわな)。「自己」より「人と人とのつながり」のほうが大事という人はいくらでもいる。どちらかといえば劇場でパフォーマンスしたい人や営業の人、プロデューサーなどがそうだ。

私は違う。私にとって文章というのは所詮は手段だ。私が死んだあとにもこの世に自分という種を残したい。種だけ残しても誰も見向きもしないから、そこにストーリーという果肉をまとう。みんな果実は好きだから食べる。種ごと食べる。せっせと食べてもらえるようなおいしい果実を作ろうと努力する。種ごとたべない人が多いかもしれないが、たくさん出回ることによって種の存在に気付いてくれる可能性は高まる。それが原作者のわがままだと思う。

トイストーリーやボルトなんか見ていると、原作者や原画のわがままなどという要素は注意深く、完全に取り除かれている。完全に種なしにされている。確かに繰り返し見ればみるほどにさすがディズニーだな、さすがハリウッドだなと感心されられるが、そこからディズニー的、ハリウッド的な要素を取り除くと何も残らない。完全に去勢されている。

ハリーポッターはさすがに原作がきっちりしているのと、原作も合わせて読むことができるから、原作者の鬱屈した自我というかどろどろとしたこだわりが伝わってくる。ハリウッドがそれをいかに子供にもわかるエンターテインメント作品に仕立てて、3DCGで飾っても、ある程度は残っていて、だからハリーポッターの作者は作品に種を残すのに成功しているといえる。

スピルバーグとルーカスを比べると、スピルバーグはユダヤ人、ルーカスはイングランド系だからかもしれんが、どちらもハリウッドの娯楽映画を作る人ではあるが、スピルバーグのほうがはるかに屈折したものを作り、ルーカスのほうがよりハリウッドに向いているといえる。私はどちらかと言えばスピルバーグのほうが好きだ。そういう苦さや雑味に味わいを感じるからだ。

スピルバーグやコッポラなんかの作品を除けばハリウッド映画は総じて予定調和であって、だいたい展開が読めるからつまらない。逆に老若男女だれでも安心して楽しめる。いくら激しいアクションがあっても箱庭の中で暴れているようなもの。いきなり主人公が死んだりしてパニックに陥ることがないようにできている。水戸黄門やさざえさんや笑っていいともがいつも同じなようなものだ。私なんかはよくまあああいうものを飽きずに見ていられるなと思うが。それだけ予定調和に需要があるからだろう。

そういう意味ではパーフェクトストームはほとんど唯一の例外で、私は最後に予想を裏切られてびっくりしたのだが、おそらく海の波を3DCGで表現することが至上命題で、そのため実話をなぞる必要があったのだろうと思う。そこには青の六号に対するハリウッドの激しい嫉妬・対抗心が感じられて面白いが、そういうところを楽しむことじたいハリウッド映画には想定されていない。

ま、そういう意味ではブラックホークダウンも若干ハリウッド的テンプレからは外れてるかな。でも今見るとやっぱりいたるところアメリカ臭がする。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

班田収授

班田収受というのが基経の時代、元慶3年(879年)に行われた。実に50年ぶりだったという。これは明らかに基経主導だっただろう。元慶官田など。

元慶2年(878年)出羽国蝦夷俘囚の反乱というのは班田収受を強行しようとしたことに対する反発で、それを鎮圧したということだろう。

高子が元慶寺を元慶元年に建立しているのだが、その出費がかさんだためではなかろうか、などと考えてしまう。藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とある。

高子は元慶2年にも山城国愛宕郡(京都市左京区岡崎東天王町)に東光寺を建立とあって、後に高子は東光寺僧(座主?)善祐と密通したとして皇太后位を剥奪される。

ともかくこの時期高子ちゃんは自分の子供の陽成天皇が即位して、国母となれてものすごくうれしくて、たくさん寺を建立しちゃったんですよ。夫の清和天皇は外に女を作りまくるしね。お兄ちゃんの基経は一生懸命税金を集めまくるんです。で、たぶん、高子ちゃんは善祐や遍昭のパトロンだった。もっと親密な関係であったでしょう。業平との関係もなかったとはいいきれない。

そんで、京では天使様が代替わりしたかしらないがその母親が夫を追放して遊蕩しまくって、そのため税金とりにくるとなれば、陸奥で反乱が起きるのは当たり前だわな。

最後の班田収受は延喜2年に行われたのだが、これは菅原道真が失脚し、藤原時平が実権を握った直後であるから、父基経にならって時平が強行したのではなかろうかと思われるのだが、よく分からん。もし道真が計画していたとすると、話は全然違ってくるのだが、情報が少なすぎる。

ハリーポッター

知り合いの子供がハリーポッターを読んでいたので読ませてもらうと確かにおもしろい。
明らかにかいけつゾロリよりはおもしろい。

どこがおもしろいかと聞いてみると「全部」だという。登場人物では誰が一番好きかなどという具体的な質問をしてみても「全員」だなどという。これでは書評にならない。まあ子供というのはそういう全体把握から入るのだろう。分析的なアプローチというのは大人がやることであり、逆に、子供の頃から分析しかできなければろくな大人になれぬということだな。

で書評だけど、よく考えるとこれは難しい仕事だ。主人公のハリーポッターが布団の中で隠れて読書をしたり勉強したりする。学校も宿題もない夏休みが嫌いだ、とか。課題や宿題が大好きだとか。このへんが笑える。おそらく作者の子供の頃の実体験、実感なのだろう。こういうのは早熟な文学少女にはありがちである。そこがおもしろい。童話形式のファンタジーに埋め込まれた、作者の屈折した心理の告白的なもの。男の子というのはこういうふうにはあまりならないと思うが、それを男子のハリーに投影しているのがまたおもしろい。

しかしいまだにエウメネスだけが売れているのだが、あのヒストリエという漫画の主人公がなんでエウメネスなのかということを、誰もが不思議に思って調べようとして私の小説を買うのだろう。だが、エウメネスについてはほとんど何も知られていない。私の小説に出てくるエウメネスも史実は1割くらいであとは私の灰色の脳みそが生み出した産物である。ただ、アレクサンドロス大王東征記を全部読むくらいなら、さらっとおもしろおかしく読めてよいのではないかと思っている。アッリアノスの時代にはすでにアレクサンドロスの話は伝説になりつつあった。だから小説にするのはそんなに苦労はない。というより、あまり自由度がない。いや、逆に自由度が高いともいえる。

これに対して十字軍の時代まで来るとディテイルが多すぎる。英語版のウィキペディア読んでいたらきりがない。そのディテイルを取捨選択して読んでおもしろい物語にする作業はかなりきつい。ものすごい時間がかかる。ふつうは歳月というものがその作業をあらかた終えていてくれるからだ。そしてたいていは誰かがおもしろい逸話をいくつか創作してくれている。そういう人だけが世の中では物語の主人公として認識されている。

一次資料と状況証拠だけあたっていると話はちっともおもしろくなってこない。今まで埋もれていた人を発掘してきて、主人公に仕立てる作業。どこかでいかさまをしなきゃ、主人公にはなってくれぬ。そういうものだ。ハリーポッターがおもしろいのは(私がおもしろいと感じるのは)、単なる創作物語なのではなく、そこに文学少女の性癖が投影されているからだ。不思議の国のアリスがおもしろいのも作者の少女愛好癖が投影されているからだろう。その理屈で言えば作者である私の性癖を何かの形で投影しなくては物語は物語としておもしろくならない、ということになってしまう。まあ、たぶんそれでいいんだろうと思う。

もちろん、単なる創作話としても、自分で豊富な一次資料にあたり、自分で話を捏造したほうが、他人に捏造されるよりは、きっと良いものができるはずだ。

陽成天皇暴君説

陽成天皇が暴君だったかどうか、判断するのは難しい。同時代資料としては『日本三代実録』があるが、これには大したことは書かれてないようだ。ぼかして記述してあるというが、陽成天皇に不利な部分がぼかしてあるのか、有利なことがぼかされているのか、どちらとも解釈できる。

私はおそらく、『日本三代実録』は、宇多上皇が編纂させたものであり、藤原時平の関与はさほどなかったように思う。つまり事実が淡々と書かれているだけであって、暴君というのは隠されたというよりは、もともとなかっただけじゃないかと思う。

それでまあ、状況証拠だけから言えば、清和天皇を子供の頃から面倒見てきたのは藤原基経・高子兄妹なわけだが、清和天皇の皇子・皇女の数というのは、成人してから死ぬまでの間がほんの短いことを考えると、異常なまでに多い。子供が生まれてないケースを考えれば、そうとう多くの女性に手をつけているはずである。天皇の場合、養育費や扶養の費用を天皇自身が負担するわけではなく、女性の親族が負担するわけだが、それにしてもあれだけ遊ぶには膨大な金がかかっただろうと思う。どうように膨大な時間もかかった。政治なんかやってらんない。

天皇のお小遣いを出したのは当然基経なわけだが、すべては、基経・高子としては清和天皇が子供を産んで高子が国母つまり皇太后になるための投資なわけである。つまり皇太子貞明が即位してくれないことには、元手が回収できない。大損なわけである。おそらく実務は摂政である基経がこなしたのだろう。どういう実務だったかは知らないが、律令国家というものが今の法治国家のように法律だけ決めれば官僚組織によって自動的に動く、はずもない。いまの法治国家ですら裏で賄賂が横行するのだから、平安時代に理想的な律令国家があったとするほうがおかしい。となると、全権を委任された基経はありとあらゆる手段を使って日本全国から税金を集め、官僚を搾取し、私有地を開墾し、寄進を募る。そのお金で主君を養い、その遊興費を捻出し、面倒みてあげて、その代わりに自分の懐にもしこたま金を入れる。すべては必要経費に計上。そうやってひたすら金と権力の日々を送る。一方、天皇は外を出歩いてひたすら愛人を作ってきままにくらしている。

ある日とつぜん、清和天皇は言ったかもしれない、基経、おまえもういいわ、俺成人したから全部自分でやる。あるいはこういったかもしれない。高子、俺兄さん(惟喬親王)に譲位して隠居するわ。俺の子供、まだ若すぎるから、後は兄さんに頼む。

いずれにしても基経・高子には許されない話である。これまで一生けんめいにがんばってきたことがすべて無駄になる。特に高子としては、自分の息子を即位させる、ただそれだけのためにしんぼうしてきたのに、今更他人に譲位されちゃこまると。

ま、そんなわけで清和天皇に非があったかどうかしらんが、彼はひどい死に方をした。
兄の惟喬親王もまた、悲惨な末路に。

ところが高子の子・陽成天皇も基経・高子をないがしろにしただろうね。もう成人したから摂政いらんわ、とか、藤原氏の女御なんかいらんわ。そう言った可能性が高い。基経出仕拒否の時期が元服以後で、また女御・后に基経の関係者がいない。陽成天皇ってもしかするとけっこう男気あふれる名君だったのかもしれんが、それは基経・高子には許容できないことだった。今までいくらおまえに金貢いできたと思っているの。どうしてもそうなる。

言い方はいろいろできるがだいたいそういうことだったろうと思う。

嵯峨天皇、清和天皇、陽成天皇と、コントロール不可能な天皇が続いたのだろうと思う。天皇何もしない。陽成天皇が藤原氏を切って親政をしていたら。外戚の紀氏とかがうまく仕事をした可能性もあるが、どっちかと言えば、いきなり国家破綻したかもしれん。しかしまあ、藤原氏に任せても遅かれ早かれ律令制は崩壊したんだけどね。

誰かが何かしないといけないのだが、その仕事を一手に引き受けたのが藤原冬嗣、良房、基経。ある意味、頼朝、頼家、実朝のころの北条氏に似たような立場だっただろう。うまみがなくちゃやってられないという気持ちはあったと思う。

仁明天皇、文徳天皇なんかは割とまとも、コントロールしやすい天皇だったと思う。
そういう系統で光孝天皇が選ばれたのではなかろうか。

ネタのかぶり

『墨西綺譚』を今読み返すと失敗したなと思うよ。とにかく、登場人物が多すぎる。書く方は最初から頭の中に登場人物もストーリーもできあがってから書くわけじゃないですか。だから、書き残しても自分は脳内補間できちゃう。自分ではどこが説明不足か気づかない。必要十分に書いていても、読者はたいてい一度しか読まないから、もっと冗長に書いてあげないといけない。くどいくらいに。何十回も読めばたぶんわかるんだが、そんなことふつう読者はしない。一度さらっと読んで残った印象で判断する。

しかし、くどく書きすぎたらストーリー展開がだらけるんじゃないかと心配で、つい話をはしょりすぎてしまう。逆に自分では気づかないところでくどくど書いてしまう。

私の場合愛読書が『日本外史』だったから登場人物が多すぎるのはむしろ当たり前なんだが、ああいうのは小説にはあり得ないわけだよね。

『墨西綺譚』だけでなくて他の私の書いたやつも読むと、部分的にキャラかぶってたりネタかぶってたりするから、なんとなしにどんな人がモデルだったのかとか、どんな体験に基づくのかとか見えてくると思うが、そこまで読んでくれる人も滅多にいない。私自身はできるだけネタかぶらないようにしているが、どうしてもかぶる。以前はここかぶってるねと指摘されるのが怖かったが、実はそこまで読んでくれるひとはめったにいないってことがわかってきた。今は、そこまで読んでくれましたかと逆に感謝するかもしれない。そのうちわざとかぶらせといて、これは昔のここで使ったネタでしてとかネタばらししたりとか。ある程度はね、自分のネタなんだから、使い回しても誰も怒らないと思うのよね。
少なくともなんだ同じネタじゃないか金返せとは言わないと思う。そんなこといったらバロック音楽とかどうするんだということになる。

だいたい作家って、ネタかぶってるよね。夏目漱石とかね。いや、そうじゃない。良く研究された作家はネタがかぶっていて、あまり注目されてない作家は研究されないからネタがかぶったかどうかも知られてない。

『紫峰軒』は最近書いたものだから、そのへんのバランスはだいぶ改善されていると思う。しかし『紫峰軒』みたいなのを量産するのは難しい。ネタばらしするとあれに出てくるおばちゃんはだいたい三人くらいの女性がメインのモデルになっているのだが、一人のヒロインに三人のモデルを使うとなると、どんだけ知り合いがいなきゃならんかしれん。もちろん赤の他人を取材してもいいんだが。とにかくたいへんなのですよ。すごく贅沢なネタの使い方してるんです。おいしいところだけ残して組み合わせて足りないところはうまく補完する。ただのフィクションでもないし、かといって私小説でもないんですから。そこは察してください。一人の人間に書ける量はその人の人生経験で決まるわな。そんなには書けないよ。

たぶん絶対に気づかないネタばらしを一つだけすると、『墨西綺譚』のヒロイン乾桜子と『西行秘伝』のヒロイン源懿子はもともとは同じ女性がモデルなんだが、私自身の頭の中では同一人物なんだが、読んだ人にはさっぱりわかるまい。ていうか、ほとんどの人は『墨西綺譚』のヒロインが桜子だと気づかないかもしれない。桐子がヒロインかと思うとあれ違うな、じゃあだれだろうくらいだろうか。そう、『墨西綺譚』は最後まで読まないと誰が主人公かわからない。実は主人公が誰かを当てる推理小説なのです(笑)。

『特務内親王遼子』の遼子と『エウメネス』のアマストリナと『将軍家の仲人』の喜世は、だいぶキャラかぶってるわな。でも、どのくらい読者は気づいてるんだろう?

女系

えっと、あまり口出しするつもりはないのだけど、いろんなところですでに書いていることを要約すると、継体天皇とか天武天皇とか天智天皇の頃の皇統というのは、あまりに古すぎて、今の男系・女系の議論には絡めるべきではないと思う。古くて不確実すぎて参考にならない。天武天皇以後の議論をすべきだと思う。

で、藤原氏は天皇家の外祖父になることができたから、権力を握ったのだけど、もし天皇家が女系でもよいとなれば、女性天皇の夫が藤原氏でその子供がすぐに天皇に即位できることになる。藤原氏でもなくてもいいんだが、すごい野心家の男がいて、勝手に天皇を内親王に譲位させて自分がその天皇と結婚して、数ヶ月後には子供が生まれて、ただちにその子供に譲位させれば、あっという間に天皇家を乗っ取ってしまうことができる。

ところが、天皇が男系であれば、平清盛みたいに自分の娘を入内させて、息子が生まれたら譲位させて、とかいう面倒な手順を踏まなくてはならず、清盛が死んだときにはまだ天皇は幼少で、結局平氏一門による権力の継承はできなかった。

同じことは、天皇家と徳川家の関係にもいえる。つまり、天皇家と武家の関係、言い換えると王家と庶民の関係は、男系によって守られてきたのであり、守られたというよりは、一定の距離を保ちつつ進展してきたのであって、もし女系でもよいとなれば、皇統というものはもっと混乱しただろう。南北朝ですらあんなに混乱したのだから、万世一系とか悠長に構えている場合ではない。

頼朝と北条氏の関係を見てもわかるように外戚が力を持ちすぎるのは良くない。中国の歴史でもそう。天皇家が今日まで存続していた大きな理由は男系だったからかもしれない。

それでまあ今は女性天皇と野心のある男性が結婚して権力を握るなんてことはできようもないから、女系でもいいんじゃないのかという議論ならまだわかるが、男系というものの歴史的な意味というのをわかった上での議論ならまだ良いが、天武天皇と天智天皇がどうのこうのとか言ってるレベルではとても議論が尽くされたとは思えない。

それから、王家と王家の婚姻というのもかなり問題があって、東アジアには天皇家以外今は王家はなくなってしまったが、欧州にはまだたくさんいる。王国はなくなっても王家は存続している。欧州の王家が女系もありというのは、スペイン継承戦争とかなんとかかんとか見るとよい。それなりにリスクがある。イギリス王の継承順位とかみるととてつもなくたいへんなことになっていて、オーストリアのハプスブルク家の子孫がイギリス王に返り咲いてもおかしくない。そういう可能性まで含めて議論しているのか。まったくあり得ない話ではないが、イギリス王子が天皇家の内親王と結婚して、その内親王が即位すれば、イギリス王家にも天皇家の継承順位が回ってくるのである。

現在のイギリス王室はウィンザー朝だが、天皇が日本国の君主だとして(欧州的な表現をすれば、日本という国の相続権を持つとして)、ウィンザー家がイングランド王と天皇を兼ねれば、日本とイギリスは同君連合、もしくは日本は大英帝国の一邦(オーストラリアやニュージーランドがイギリス王を国家元首とするように)、になってしまう、可能性もある。男系であればそういう問題は回避される。というか、王位継承順位に男子優先というのはイギリス王家にもあるので、単純に欧州は女系もありね、とは言えない。

現時点では議論が不十分だ。

戦後の混乱期に皇籍離脱した宮家を復活させることで男系が維持できるのであれば、この問題はもう少し未来に持ち越して「継続審議」とするべきではないかと思う。

BNP上昇

ええっと、そんで、心室細動でICUに入れられたのが2011年10月27日なんだが、11月29日には退院して、それからずっと順調に回復していて、実はもう完全に良くなってたんじゃないかと思って、薬を飲むのもサボりがちだったのだが、いきなりBNPが250台になってしまった。たぶんアンカロンという薬を飲み忘れることが多かったせいだと思う。

アンカロンは強力な不整脈を抑える薬なので、この薬が効いているとBNPは5くらいまで下がるらしい。正常値は20以下。100を超えると心不全の確率が高い。

非常に強力な抗不整脈作用がある反面、新たな不整脈や、肺線維症など重篤な副作用が多いのが欠点です。日本では、専門医により、他の薬が無効な致死的な不整脈に限り用いることになっています。

なんかまあ恐ろしい薬だな。私の場合不整脈が出たら死ぬしかないから、つまり致死的な不整脈ってやつだから、しかたなくアンカロンを飲んでいるわけだ。幸い副作用は出てない。

よくわからんのだが、私はもともとBNPが高い体質だったのではなかろうか。BNPは普通の血液検査では調べないから、昔どのくらいだったかってことはわからんのだが。これからもずっとアンカロンは飲み続けなくてはならなさそうだ。次回の検査でBNPが下がっていればいいのだが。

コレステロール値も相変わらず高い。まあ死ぬまで節制しなさいってことだな。