出口が見えない長い長いトンネルのようだ.発売一週目の売り上げは PS が 2 万くらい,DC が 1 万くらいのようだ.これでも DC ではトップだが,他のランキングではちょぼちょぼ.なんか冴えねー.
カテゴリー: 雑感
trlr は「ポセイドンの神殿」を過ぎて「失われた図書館」まで来た.
「失われた図書館」は日本建築風なのであった.しかしここに「クレオパトラの鎧」が落ちているはずなのだが(笑).またフォンクロイ教授の手下として,赤や白や黒の忍者が出てくる.アメリカ人はやっぱり忍者が好きなんだね!ドリキャスコントローラーを握りっぱなしで掌がふやけてきたので,夜中に散歩した
あいかわらず trlr で遊ぶ.
ぶつぶつ文句をいいつつもはまっていく.
ドリキャスマガジンの trlr の記述は雑でさっぱり意味をなさない.他に書くこともないんだから,もっと詳しく書けば?
いまこのへんまで来た.
As the saying goes, practice makes perfect
とか書いてあるのが身につまされる.何度も何度も同じ事をやらされる!
日本製のゲームとは明らかにモノが違う.ララの顔がテクスチャマッピングでまるで「南極一号」のようだ.シェンムーや D の食卓 2 はそれほどでもないが,バイオハザードは「雛人形」のように「顔」に凝る.日本人(というか日本のユーザ)はそういう,まあアメリカ人に言わせればゲームの本質には関係ないところに凝るわけだね.あといわゆる隠面除去 (hidden surface removal) の判定や,当たり判定 (collision detection) が甘い.
tr1, 2, etc
Tomb Raider 1 (PS), 2 (PS), 首都高バトル (DC)、Biohazard 2 (DC) すべて中古を買う。
耕雲
モーニングをだらだら読んでたら「ぶっせん」に「耕雲」というのが出てきた。どうもこれは禅宗(曹洞宗)用語らしいな。「耕雲種月」というのは「(心の)雲を耕し(心の)月に種を蒔く」という意味らしい。私の祖父が昭和 45 年大晦日に「釣月耕雲慕古風」という書を書いたのだが、この「釣月耕雲」と「耕雲種月」は非常に良く似ている。「釣月耕雲慕古風」は中国人の漢詩にしてはあまりに浪漫的で妙に端正なので、私はおそらく日本人の、しかもかなり近世の漢詩だろうとみていたのだが、このたび確信を新たにしたね。
さて、ネットで検索すると武田耕雲斎というのがぼろぼろ出てくる。これは水戸浪士で天狗党という幕末に世間を騒がした連中の首領らしい。また、耕雲という号を使っていた人はほかにもいたようだ。また、耕雲寺という曹洞宗の寺もあるようだ。「釣月」に関しては、まったくみあたらない。「耕雲」というのは江戸後期にはかなり一般的な用語だったので、「釣月」で詩としてのひねりを加えたのだろうか。
マラソンって何がおもしろいんだろう。
今日は予想に反して良い天気になった。近場でだらだら過ごす。「アドルフに告ぐ」をだらだらと読む。閑だとろくなことを考えない。
シーマン全然育たない.
- その者、東の遠つ国より海を渡りて現れり。
- 若者、秘めし力、いまだ知らず。
- 彼の身を滅ぼすことも、
- 彼の願い、かなえしことも、
- その者、勇み立つ時、我を求めん。
- ともに荒れ野の道を行かん。
- 待ちて願え。
- 邂逅は我のいにしえよりのさだめなり。
- 待ちて、まなざしを向けよ。
- 地より現われし龍が、
- 暗雲をいざない、天をおおうも、
- 舞い降りし鳳凰、
- そのつばさによりて、紫風を生むが如く、
- 漆黒の夜は広がりしも、明星は一つ輝き、
- 長き物語は今、始まれり。
やっぱりよくわからん. とくに 3~5 のつながり. 3, 4 行は 2 行にかかるんじゃないの ?
莎木やると vision が狂う. vision だけでなく pose や motion も影響を受ける.
赤塚巡り(副題「赤塚良いとこ一度はおいで」)
成増の不動産屋へ.実家から送ってもらった保証人の実印が父ではなく祖父のだった.などのちょっとしたハプニングはあったものの,契約成立.鍵は 30 日にくれるとのこと.一応 4/1 日から入居可だが,鍵さえもらえばこっちのもの.
赤塚図書館に入ってみたが,思ったより広くてご満悦.世田谷中央図書館には遠く及ばないが,世田谷図書館よりは広そう.しかもわりと空いている.わざわざ赤塚の山の上まで登ってくるやつはいないのだろう.
赤塚体育館というものにも入ってみたが,屋内温水プールが思ったよりも広くてびっくり.地下二階に,25m プールと,子供用プールがある.プールサイドも異様に広く,採光も充分.地下一階からプールがのぞけるようになっているが,このフロアも異様に広い.なんとも贅沢な作り.さすが自治体.民間には真似できねー.
トレーニングルームというところに,中年おじんおばんがたいそう集まっていた.ちょっとしたフィットネスジムで一般公開利用は 380 円.近所なので便利なのだが,僕はあいにく運動は嫌いなたちだ.僕は昔,風呂なしのころにフィットネスジムに銭湯代わりに通ったことがある.あまり運動は長続きしないのだが,年に二三回は利用させてもらうかも.ともかくフツーのフィットネスジムに高い金出して通う必要はまったくないと見た.
成増図書館は,本棚絨毯など非常に新しいが,赤塚図書館よりちょっと広いくらいで,それほどすごくない.地方自治体の図書館としてはやはり世田谷中央図書館は最大級だろう.普通の区立図書館の軽く三倍の広さがあり,平日昼間でも常に混んでいる.
図書館と同じ建物の中に成増アートギャラリーというのがあって,これが一日 10000 円で借りられるそうである.一週間くらい借りて 7 万円.高いのか安いのか良くわからん.そもそも成増まで見に来るのか?高島平の陶芸サークルみたいのが展示してた.重くて厚くてつるつるして最悪なのもあったが,軽くて薄くてさらっとした,なかなか良くできたのもあった.なかなか良い土使てるやないけ(笑).焼き物を自分で焼きだしたらはまりそう.高島平は赤塚庁舎前からバス一本でいける.全然遠くないのである.
成増北口の再開発はつい最近のことのように思える.三茶のキャロットタワーくらいかな.赤塚図書館も赤塚体育館も新しくてすばらしい.こういうバブルの遺産は歓迎だね.
成増北口から赤塚高台にかけて,全般に町が若々しく,まるで板橋じゃないみたい(笑).ただし,ついでに体育館前通りというのを通したのは良くなかった.この道なからましかばとおぼえしか.つーか.この道がなければ交通はかなり不便になり,従って車が入ってこなくなる.太い道がなく,地元の車以外に入って来ないようなのが理想だ.駅までの距離が同じでも,朝から二車線の道をいくつも横切るのは気分最悪.荷馬車がやっとすれ違える程度の田舎道を歩くのは散歩気分でよろしい.
赤塚植物園にはまだ足を踏み入れてない(けっこう期待している).赤塚美術館というのもあるようだ(あまり期待してない).赤塚城址というのもあるそうだ(だからなんなんだ).どっちにしろ近所なのでそのうち遊びにいこう.
日が長いので,観光バス気分で成増駅前から高島平経由で赤羽へ.赤羽はいかにも古い町だ.巨大なダイエーがある.碑文谷のダイエーよりは小さいようだ.エスカレータの手すりが汚い.あまり活気がない.大きなお世話かもしれんが,不景気ならまずエスカレータの手すり磨きから始めるべきだね!
地名と方角
川越で日記を書くとすればどんな名前にしようか,などと考えていた. 「川越素描」は却下. これだけは絶対使わない.世田谷素描で,素描シリーズ(?)は終わりにする. 川越というか埼玉は北武蔵であるから, 北武なんちゃらとか言う名前もありかと思ったがこれも陳腐.
南武,東武,西武,南総,北総などという言い方はあるのだが, 北武という言い方は一般的ではない. それはそうと, 墨東,湘南などという地名もある. 東西南北の地名が頭に着く場合と後ろにつく場合がある.
本場中国では,湖南,湖北,山東,山西,広東,広西など, 東西南北が後ろにつく場合が一般的らしい. そもそも湘南というのは,湘江という川の南側のことを言うそうだ. ところが, 北京,南京,西安などと,都市の名前には頭に方角が着くし, 北宋,南宋のように,国名には頭に方角が着く.
いったいどう使い分けているのだろうか? 推測するに, すでに「湖」,「山」,「河」,「江」 などの地理的な名称があったときに, これを基準をすれば,湖南,湖北,山東,山西,河北,河南, 江南,江北となる. また,広州のようなもともとの地域を分割すれば, 同様に広東,広西となる. そうではなくて,おおもとの地名がないとき, 個別性が高いとき, 同時には存在しないこともあり得るときには, 北京,南京,北宋,南宋などとなるのじゃないか. うん,きっとそうだ. そういえば「漠北」というのもあるな. これは漠(ゴビ砂漠)の北側という意味.
とまあ,このような規則性を仮定すれば, 南総,北総という言い方は間違いで,総北,総南という言い方が正しい. 南武,東武,西武などの鉄道会社の名前はグレーゾーンだが, 武蔵国を南と北に分けると考えれば, 武南(つまり東京都),武北(埼玉県)などと呼ぶべきなのだろう.
北満,南満という言い方も間違い. なぜなら満州は一つの独立国で,その南北の地方名ならば, 満北,満南と呼ぶべきだから. ところが,北鮮,南鮮というのを鮮北,鮮南と呼ぶと, 朝鮮という統一国家があることになってしまう. 難しいねっ.
墨東というのは,墨田川を境にして,その東を言うのだから, 墨東であってる.とても正しい呼び名ということになる. 東墨というと,墨田川の東にもう一つ東墨田川というのが流れている感じになる.
さて,湘南というのはもともとは相模国の南方面のことであるから, 湘西,湘北,湘東などという地名もあり得るが, そのような名前は実際には使われていない. 湘北などはさしずめ相模原市から町田市(これはいちおう東京都だが), 長津田のあたりを言うのだろう. だからもし僕が長津田の住人ならば(笑), 湘北日記などというものを書くこともできたわけだ.
湘南を相南と書くと,遭難と同じ音に読まれて, これは漁師には縁起が悪いので湘南と書いたという説もあるそうだ.
それはそうと, 川越を1字で表せる漢字があると便利なのだが. なさそうだな.
矢倉沢往還
いろいろ気になったものだから、 世田谷中央図書館で、 角川日本地名大辞典、平凡社百科事典などで調べたところ、 大山道についてかなりわかってきた。
江戸期の大山道の正式名称は、矢倉沢往還といって、 家康が関東に入ったときに、足柄の矢倉沢に関所を設けたことから、 この道を矢倉沢往還と呼ぶことになった。 「往還」は「街道」とほぼ同じ意味。 江戸中期から後期にかけて、 大山詣が流行し、その参詣道として有名になったことから、 大山道とか大山街道とも呼ぶようになった。 矢倉沢の関所は、箱根の関所と同様に、 出女を原則としてみとめない厳重な関所だったという。 ちなみに家康が江戸城に入るときには中原往還、つまり今の中原街道を通ったという。
矢倉沢往還は、 江戸城赤坂門から始まり、青山通り、 渋谷道玄坂を通り、 三軒茶屋、世田谷、二子の渡しを通り、 溝の口、江田、長津田、鶴間、下鶴間、厚木、伊勢原を経て矢倉沢に至る。 但し、元禄時代に三件茶屋から二子へ通じるバイパスができたので、 世田谷は新大山道からははずれた。
もちろん矢倉沢往還は、家康が江戸城に入ってから急にできたものじゃない。 世田谷のぼろ市、つまり 世田谷新宿の楽市楽座が戦国時代に始まったことからも明らかなように、 すでに戦国時代には、この矢倉沢往還は存在していたのである。 少なくとも戦国時代には矢倉沢往還が相模~武蔵地方のメインストリートで、 小田原城と世田谷城の間の往来に使われていたことは確かである。
ではいつごろから矢倉沢往還という道はあったかというと、 話はずっと平安時代にさかのぼる。 古代、東海地方から関東地方に入る道には、 足柄峠を越える足柄路と、箱根峠を越える箱根路があった。 足柄路の方が古くて延喜式にもでてくるのだが、 西暦800年、802年に富士山が噴火して、足柄路がいったんふさがったので、 箱根路が造られたそうである。 箱根峠は駒ヶ岳の南側、足柄峠は北側にある。 足柄路から、当時厚木の付近にあった相模国府を経由して川崎方面に抜ける路が、 矢倉沢往還の原型となる。
ところがその当時には、厚木から長津田、溝の口、 世田谷へ至るルートはまだ存在していない。 したがって、いわゆる矢倉沢往還が完成したのは、 世田谷に吉良氏が城を築いた戦国時代以降の話になるのだろう。
更級日記によれば、相模国の「にしとみ」「もろこしが原」というところを経由して、 足柄山を越えたと書いてある。 にしとみとは現在の藤沢市西富町、もろこしが原とは平塚と大磯の間のことで、 どちらも海沿いの土地であり、海の景色の描写もあるので、 更級日記の作者らは海沿いの道、 おそらくは現在の東海道に近い道筋を通ったのではないかと思われる。
さて、田園都市線や、国道246号線、東名高速などの開発が始まる以前は、 溝の口には数十戸程度の人家しかなかったそうだ。 おそらくかなりこじんまりした宿場町だったのだろう。 長津田もにたようなものだったに違いない。 次回は長津田の歴史について調べてみたい (笑)。