血圧

血圧がすごく下がることがある。もともとそういう体質でもなければ、そういう病気に罹ったわけでもなく、これは飲んでいるアーチストという薬が血管を拡げているせいなのだ。そうすると、立ちくらみすることがある。歩いてたり、座って安静にしていても、
急に血の気が下がったような状態になる。ところがまあ、日本では(世界的にも?)、血圧は低ければ低いほど正常なことになっていて、私の場合低いと言っても上が 100 とか 105 とかなんで、医者に言っても「正常値です」「大丈夫です」としか言われない。しかし血圧が低い状態で気分悪いから寝てしまうと寝たまま死んでしまうんじゃないかと不安で仕方ない。

私の場合もともと血圧は高いほうで、130 とか 140 くらいが普通で、そういうときは目も覚めるしやる気も出る。しかし血圧が低いとなんか生きる気力まで失われてしまう。電車に乗ると、いつ気分が悪くなるかと気が気でない。田舎で、仕事もせず、車にも電車にも乗らない生活をしてればいいんだろうが、それもできない。なんかもうすごい年寄りになった気分になる。ここまでしてこの薬を飲まねばならないのかと思う。何度か医者に文句を言ったこともあるんだが「我慢して飲んでください」としか言われない。血圧が低すぎて死ぬ人は、高すぎて死ぬ人に比べて皆無に近いのだろう。

この低血圧というのは女性には多い症状なのかもしれない。生まれたときからずっとそうならば、人生とはそうしたものだと思うかもしれんね。

じんましんが出たり、おしりにおできができるのは、毎日きちんと石鹸で体を洗い、きちんと下着を着替えれば、ほぼ防げるようだ。しかしそれがなかなかめんどうだ。じんましんに関していえば、ほぼ原因は、食べ物によるアレルギーではなさそうだ。酒を飲むとめんどくさくてそのまま寝てしまう。それが2日続くとじんましんがでる。たぶんそんな感じ。

1日以上放置すると確実に体の表面の角質層に残った脂が古くなってダメだ。汗をかくたびにシャワーを浴び、古い角質と脂を洗い流し、新しい脂をワセリンなどで補充し、下着を替えると完璧なんだろうが、そこまでする必要もなさそうだ。というよりそんなことしたら別の皮膚の病気になるかもしれん。

おできは今まで気にしなかっただけで毎日できては消えているらしい。おしりを圧迫したりむれたりするのが良くないようだが、よくわからない。できるのはしかたないからそれがかぶれたり悪化しないようにやはり清潔にしておかねばならない。

昔は体のことなど何も考えずに暴飲暴食してたわけだが、そうもいかなくなったのはやはり加齢のせいだろう。皮膚の新陳代謝が衰えているのはまず間違いない。

神鹿、死刑

昔、神鹿を殺すと死刑になった、といわれているのだが、ちょっと信じられない。常識的に考えて、あり得ないことだ。

信長が神鹿を殺した者を密告させて、処刑したという記録があるそうだ。しかしこれはおそらく、奈良の鹿を組織的に密猟した者がいて、処罰したという意味であろう。たまたま過失で鹿を殺してしまって、それでただちに死刑になるはずがない。

だいたい誰が死刑を執行するのだろうか。春日大社の宮司?そんなはずはない。東大寺か興福寺の僧兵?まさか。

江戸時代の奈良奉行や京都所司代、あるいは寺社奉行ならば幕臣だが、幕府の役人が鹿を殺した程度で人民を処刑するはずがない。鎌倉時代の北条氏、室町幕府ですらそんなことをするとはとうてい思えない。

鹿の密猟というのは寺社領でなくともよくあったことだろう。その首謀者は、場合によっては死刑になることもあっただろう。

アーチスト

最近体調が悪いのは、心臓の具合が悪いとか、年をとったからということもあるかもしれんが、たぶんアーチストという薬を飲んでいるせいだ。

服用を忘れたときに、2回分をいちどに服用すると血圧が下がりすぎて、めまい、転倒をおこすこともあります。飲み忘れたときは、その分は抜いて、次回から正しく飲んでください。

アーチストは血管を広げて血圧を下げ、これによって心臓の負担を軽くしている。しかしながら、よく立ちくらみするようになった。しばらくすると体が慣れたのか立ちくらみすることはほとんどなくなった。しかし電車に長く立っていると気分が悪くなってきて、冷や汗が出てくるようになった。たぶんアーチストのせいだと思う。

座っていれば特に問題ない。短い時間なら問題ない。歩いてるのは全然平気。しばらく山歩きしても、息が切れるとかそんなことはない。

でまあ、電車やバスではできるだけ座るようにしているのだが、本来は私のような人間が優先席に座ってよいはずだが、見た目は健常者なので、席を譲ってもらうのは難しい。アーチストの量を減らしてもらいたいとも思うが、それで心臓に問題が出ても困る。でも減らしても全然平気なのかもしれない。

血圧というのは多少高いくらいが体調は良いものだ。がんがん遊びたくもなる。しかしそれはもうできない。いつもなんか眠い感じもするが、無理せず寝るようにしている。私は日本が認めた重病人なのだからなー。

通勤というのがまあ問題なわけですよね。特に都心方向への。多少金がかかっても仕方ないので指定席でいくか、あるいは逆に各駅停車で行くようにしているが、ときどきどちらもできないことがあって、そんなときたまたま座れると良いが、座れないときは、ときどき途中下車して休憩しなくてはならないだろうと思う。実に面倒だ。

そんなふうで私はいつも生命の危険を感じて生きているわけだ。私のような人間は早く田舎に引っ越して店番かなんかして、毎朝墓参りなんかして生きていくのが体には良いのだろう。そうしてただ無為に、死ぬまでの間生きていく。もう、それで良いのではなかろうか。

皮膚が弱くなってきている気がする。これも薬の副作用かと思ったがなんともいえない。私は汗かきなのだが多少汗をかいてほっといてもたいしたことにはならなかった。しかし今はこまめに下着を替え、体を洗ったり拭いたりするようにしている。まあ、普通の人がふつうにやってることをやるようになっただけなのだが。

源光

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。

桐壺帝は仁明天皇。

桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。

一院は嵯峨院。

弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。

弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。

藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

某哲学者との対話

最近どうも歌がうまく詠めない。昔詠んだ歌をながめてみても、良いと思えなくなっていた。自分が詠んだ歌とか自分が書いた文章が嫌いになることはこれまでもよくあったことだ、自分としてはもっとうまい歌を詠みたいとかもっとうまい文章を書きたいとか、詠めるはずだ書けるはずだいう気持ちがでてきてそのレベルに達してないわけだから、これはもう仕方ない。

それでこないだ「セックス哲学懇話会」という怪しげな集会に飲み会だけ参加したのだが、そこで某哲学者に「本が売れたいのか?有名になりたいのか?」と聞かれたので、なんかもごもごとうまく説明できなかったのだが、商業的に売れてくれれば好きな仕事で金がもうかって嫌いな仕事をしなくて済むわけで、それはそれでもちろんありがたいのだけど、本が売れて、いろんな人から正当な評価を受けて初めて本というのは「自分の業績」になるのである。論文ならば査読がある。それなりの権威ある学会の査読に通りさえすれば、別に一般読者はいなくても、自分の仕事が認められたことになる。その学会とか査読システムというものも、必ずしも万能ではない。分野から少しでも外れるとなかなか読んでもらえず評価もしてもらえない。学生の頃からずっと同じ研究をして同じ学会にいれば良いのかもしれんが、私のように、せっかちで落ち着きの無い性格だと、どんどん関心がずれていってまったく違うことをやりだしてしまう。そういうタイプの人間にとって、基本縦割りのたこつぼ構造になってる学会というのは不便である。

そんでまあ、自分に合った「学際的」な学会を作ろうとかそういう「学際的」な大学に移ろうとかいろいろ画策した(実際にはふらふらと転職を繰り返したり、学会の立ち上げに関わったりした)のが、私の場合は30代だった。もっと細かくいえば、30歳から43歳くらいまで。まじめに論文を書いたのは30歳までだった、とも言える。

私の田中久三という名前は先に tanaka0903 というユーザー名があって、これは 2009年3月という意味。43歳の終わりだ。この頃から完全にもう学会とか論文とか大学での研究というものから外れだした。だったらそこで教員を辞めるかと言えば、メシが食えなくなるので辞められないし、もともと研究すること自体は嫌いじゃないから、大学の仕事はそれとして、趣味みたいなことを研究しだした。それで知り合いの出版社を頼って単著で本を書かせてもらうことはできるかもしれないが、ただ書いただけじゃ、誰も査読してない勝手に書いた論文と同じで、出版しても何の意味もない。本は、査読の代わりの何か、第三者による評価が必要なわけで、それはある程度商業的に成功することだったり、社会的な影響を与えることだと思うのだ。そうなれば私も、今までとは全然違う分野だけど、「研究業績」のリストの中に加えることもできるだろう。そうでないのに(そうしている人はたくさんいるかもしれないが)これが私の研究ですよなんて自慢する気にはなれない。

それで、出版社に損をさせない程度に売れたらまた本を書かせてもらう。書きたい本を書けてたまに売れてくれればうれしい。売れなきゃもうそれっきりだ。

天皇の系図

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皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、後嵯峨天皇あたりで力尽きた。余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。妃や子供の数が明らかに減っている。たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。その後も天皇家はどんどん衰退していく。天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。源光(845-913)。母は宮人・百済王豊俊の娘。百済からの帰化人の家系。源多(みなもとのまさる)という兄がいた。この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。

主有る詞(ぬしあることば)

特定の個人が創始した秀句で、歌に詠み込むのを禁じられた句。

幽斎『聞書全集』

主有る詞とは

### 春

かすみかねたる(藤原家隆)

> 今日見れば 雲も桜に うづもれて かすみかねたる みよしのの山

うつるもくもる(源具親)

> なにはがた かすまぬ浪も かすむなり うつるもくもる おぼろ月夜に

はなのやどかせ(藤原家隆)

> 思ふどち そことも知らず 行きくれぬ 花の宿貸せ 野辺のうぐひす

月にあまぎる(二条院讃岐)

> 山高み 峰のあらしに 散る花の 月にあまぎる あけがたの空

あらしぞかすむ(後鳥羽院宮内卿)

> 逢坂や こずゑの花を 吹くからに あらしぞかすむ 関の杉むら

かすみにおつる(寂蓮)

> 暮れて行く 春のみなとは 知らねども かすみに落つる 宇治の芝舟

むなしき枝に(九条良経)

> よしの山 花のふるさと あと絶えて むなしき枝に 春風ぞ吹く

はなのつゆそふ(藤原俊成)

> 駒留めて なほ水かはむ 山吹の 花のつゆ添ふ 井出の玉川

はなの雪ちる(藤原俊成)

> またや見む 交野の御野の 桜がり 花の雪散る 春のあけぼの

みだれてなびく(藤原元真)

> あさみどり 乱れてなびく 青柳の 色にぞ春の 風も見えける

そらさへにほふ(藤原師通・後二条関白内大臣)

> 花盛り 春の山辺を 見渡せば 空さへにほふ 心ちこそすれ

なみにはなるる(藤原家隆)

> かすみたつ 末の松山 ほのぼのと 浪に離るる 横雲の空

### 夏

あやめぞかをる(九条良経)

> うちしめり あやめぞかをる ほととぎす 夏やさつきの 雨の夕暮れ

すずしくくもる(西行)

> よられつる のもせの草の かげろひて 涼しくくもる 夕立の空

雨のゆふぐれ(九条良経)

> うちしめり あやめぞかをる ほととぎす 夏やさつきの 雨の夕暮れ

### 秋

きのふはうすき(藤原定家)

> 小倉山 しぐるる頃の 朝なあさな きのふはうすき 四方のもみぢば

ぬるともをらむ(藤原家隆)

> つゆしぐれ もる山かげの したもみぢ 濡るとも折らむ 秋のかたみに

ぬれてやひとり(藤原家隆)

> したもみぢ かつ散る山の ゆふしぐれ 濡れてやひとり 鹿の鳴くらむ

かれなでしかの(六条知家)

> あさぢ山 色変はり行く 秋風に 枯れなで鹿の 妻をこふらむ

をばななみよる(源俊頼)

> うづら鳴く まのの入り江の 浜風に 尾花なみよる 秋の夕暮れ

露のそこなる(式子内親王)

> あともなき 庭の浅茅に むすぼほれ 露の底なる 松虫の声

月やをじまの(藤原家隆)

> 秋の夜の 月やをじまの 天の原 明け方近き 沖の釣り舟

色なるなみに(源俊頼)

> 明日も来む 野路の玉川 萩越えて 色なる浪に 月宿りけり

霧たちのぼる(寂蓮)

> むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

わたればにごる(二条院讃岐)

> 散りかかる もみぢの色は 深けれど 渡ればにごる 山河の水

月にうつろふ(藤原家隆)

> さえわたる 光を霜に まがへてや 月にうつろふ 白菊の花

### 冬

わたらぬみづも(後鳥羽院宮内卿)

> 竜田山 嵐や峰に 弱るらむ 渡らぬ水も 錦絶えたり

こほりていづる

あらしにくもる

やよしぐれ

雪のゆふぐれ

月のかつらに

木がらしのかぜ

### 恋

くもゐるみねの

われてもすゑに

みをこがらしの

袖さへなみの

ぬるとも袖の

われのみしりて

むすばぬ水に

ただあらましの

われのみたけぬ

きのふのくもの

### 雑

すゑのしらくも

月もたびねの

なみにあらすな

右何れも主有る詞なれば、詠ずべからずと云々。

察然和尚

宣長年譜 元文4年(1739)

> 同四年【己未】血脈受入蓮社走誉上人。【伝通院中興ヨリ二十七世之主矣】法名英笑号也

宣長年譜 寛延元年 (1748)

> 樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。

察然和尚

宣長が10歳で法名を授かった入蓮社走誉上人と19歳で道号を授かった察然和尚とは別人。
察然は宣長の母の兄というから実の叔父にあたるわけである。

厳密には「英笑」の部分が戒名、法名であって、
「道与居士」は位号、
「伝誉」が道号(浄土宗で言う「誉号」)。
「英笑道与」までが戒名であるかもしれんが。
院号は(まだ)無い。

しかしながら宣長は晩年自ら「高岳院石上道啓居士」という号を付けている。
「石上」という法名は彼の私家集の名でもあり、宣長の雅号でもあるのだろう。
で、「高岳院」が道号、この場合は院号である。
「道啓居士」が位号。「道を啓く」とはずいぶん立派な名だ。

伝通院は小石川にある徳川将軍家の菩提寺。浄土宗。増上寺の末寺。
樹敬寺は松坂にある浄土宗の寺。
父方の小津家と母方の村田家の菩提寺。京都知恩院の末寺。

小林秀雄『本居宣長』

小林秀雄『本居宣長』をまたしても読むことにした。今度は徹底的に読むつもりだ。以前に書いたもの。「本居宣長」連載小林秀雄 源氏物語池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄は1902年生まれ。『本居宣長』は 1904年創刊の月刊の文芸雑誌『新潮』に、1965年から1976年まで、小林秀雄が63歳から74歳まで、64回連載された。隔月くらいの掲載だったのだろうか。これらに1977年、最終章を加筆し、50回にまとめて同年単行本として出版。小林秀雄 78歳。およそ10万部が売れた。さらにその後も『本居宣長補記』の連載を78歳(1980年)まで継続。1983年、小林秀雄没、80歳。ほとんど死ぬまで書き続けた、最晩年の長大作、と言って良い。効なり名を遂げ何を書いても許されるようになった大批評家が、晩年、やや耄碌した頃に書き綴ったよくわからないエッセイだと片付けることもできなくはない。というよりそういう評判の方がずっと多いと思う。また、小林秀雄という人は、戦前も戦後もまったく主義主張を変えなかった人であり、「反省しない人」とか「反省できない人」などとも言われた。その小林秀雄が、若い頃はフランス文芸の翻訳、或いはヨーロッパ芸術の評論などをやっていたが、晩年になって日本固有の「国学」に回帰しちゃった残念な人、というようにもとらえられよう。そういうもろもろが小林秀雄のファンの大半には気に入らないものと思われる。

64回+最終章がどのようにして50回になったかだが、たぶん何回か分をまとめたものがあるという程度のことで、知ったところでどうということはないかもしれない。64回分を1/3くらいに縮めて49回にしたわけだが、もともとがどれほど冗長な文章であったか、雑誌連載をリアルタイムで読んだ人(たとえば白洲正子など)が、それをどれほど退屈な思いで読んだだろうか、ご愁傷様、という気にもなる。

* 1 序章。折口信夫との問答。宣長の墓探訪。遺言書。自画像。14
* 2 遺言書続き、墓参、法事等。辞世の歌。「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘」6
* 3 宣長の出自。少年時代。松坂の生家、生い立ち、家業。京都遊学。12
* 4 大平『恩頼図』。宣長が影響を受けた学者ら。京都時代の師・堀景山。12
* 5 儒学との関わり。孔子。10
* 6 契沖。13
* 7 契沖。水戸光圀。万葉代匠記。12
* 8 中江藤樹。15
* 9 伊藤仁斎。13
* 10 荻生徂徠。11
* 11 儒学まとめ。荒木田久老による宣長(の取り巻き)批判。12
* 12 あしわけ小舟。宣長の学問は真淵に入門する前にすでに方向性が決まっていたということ。7
* 13 もののあはれ。源氏。15
* 14 同上。17
* 15 同上。17
* 16 同上。12
* 17 源氏。契沖。秋成。真淵。17
* 18 源氏。15
* 19 真淵と契沖。真淵の万葉考、枕詞考、古事記研究をしたいと言って万葉研究を勧められる 16
* 20 宣長と真淵の書簡のやりとり、和歌添削。真淵の破門状。16
* 21 宣長と真淵の対立。16
* 22 万葉調批判。15
* 23 歌とは。語釈は緊要にあらず。15
* 24 源氏の読み方。9
* 25 大和魂 13
* 26 篤胤 12
* 27 業平、土佐日記。言霊、大和心、手弱女ぶり。15
* 28 古事記の文体。18
* 29 津田左右吉による宣長批判。14
* 30 古事記。主に序文。19
* 31 新井白石による古事記評価。14
* 32 荻生徂徠の影響。22
* 33 徂徠。直毘霊。漢意。15
* 34 雑記?10
* 35 雑記?13
* 36 和歌の本義。10
* 37 まごころ 13
* 38 雅の趣、迦微(カミ)。9
* 39 迦微 12
* 40 上田秋成との論争(日の神論争)。14
* 41 続き。13
* 42 続き。8
* 43 熊沢蕃山批判など。学者らしく、もっともらしく処理することの拒絶。「あやしさ」へのこだわり。14
* 44 晩年の真淵。10
* 45 荷田在満、田安宗武、真淵。古事記解釈。14
* 46 続き?13
* 47 続き?14
* 48 続き?「あやしさ」の処理。12
* 49 秋成との論争、再び。15
* 50 終章(1977年10月)24
* 江藤淳との対談(1977年12月)28
* 補記1 (1979年1-2月)
* 1 ソクラテスは神話を信じるかいなか。12
* 2 雑記 21
* 3 真暦考 21
* 補記2 (1980年2-6月)
* 1 13
* 2 17
* 3 16
* 4 19

最初の3章はある程度話の流れがあり、途中にも少し整理して書いているところもあるが、全体に調べたり思いついたりしたことをその順番に記していて、必ずしも一つのテーマで一つの章ができているのではない。特に補記などは、ソクラテスの話と真暦考には一応の流れがあるが、他は後から思いついたことを付け足した雑記になってしまっている。補記を執筆したときにはすでに相当高齢になっているので、論旨もものすごく錯綜しているように思われる。ただまあそれはそれとして辛抱して読んでみるかと思っている。

28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。

という感想をかつて書いたわけだが、上田秋成との論争はそれなりに面白いし、神道教義の解釈うんぬんとか古事記伝についての話は以前感じてたほど多くはないなと思った。というより後半へ行くにつれて、雑記感がどんどん強くなっていく。前に言及し忘れていたことをつけたし付け足ししているのが見え見えであり、本来なら全部一度整理し直さなくちゃならないところをそのまま時系列につないであるようだ。だから、誰かが整理してあげるとよいのだろうが、誰がそんな仕事をわざわざ引き受けるだろうか。源氏物語についての箇所も一つにまとめてきちんと筋立てて論じれば面白いと思う。国文学の学生なんかがそういうのを論文にすれば良いと思うが、まあ、誰も注目してはくれないだろうな。

中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠なんかはいかにも余計だと思うけど、私もいろいろ調べていくうちに、白洲正子やら柳田国男やら佐佐木信綱のことも一応書いておきたくなるから、それは仕方のないことかもしれない。

小林秀雄の芸

白洲正子「花にもの思う春」p.64

小林秀雄には「飴のやうにのびた時間」「一枚の木の葉も、月を隠すに足りる様なものか」といった、一言でずばりと真髄を貫く言葉があり、愛読者はみな空で覚えたものなのに、
「本居宣長」にはそんなものは一つもない。「批評をすることなど、考えてもいない」、ある学者は「今度の作品にはまるで発見がない」、また別の学者は「あんなものは作文に過ぎない」とけなしたというのである。

白洲正子は小林秀雄にむかって、「本居宣長」は以前の作品とは違っている、読んでいるあいだは面白いけれども、読み終わると全部忘れてしまう、何が書いてあるのか一つも思い出せないのが不思議である、などと言ったらしい。それにこたえて小林秀雄は「そういうふうに読んでくれればいいんだよ。それが芸というものだ」と。

私もまったく「本居宣長」と、それ以前の小林秀雄の著作とは違うと思っていた。ただし白洲正子や小林秀雄の愛読者や学者らとは正反対の意味でだ。「本居宣長」は小林秀雄が書いたものの中では私には一番わかりやすく、ぐんぐん頭に入ってくる。それ以前のものと同じ著者とは思えないくらいだ。私に言わせれば、「飴のやうにのびた時間」なんてのは何の意味もない、理解不能な言語にすぎない。世阿弥を評して「美しい花がある、花の美しさがあるのではない」というのもわかるようでわからない、というより批評でも何でもない、ただの言葉遊びのように思える。

「本居宣長」で小林秀雄は歌人宣長を発見している。宣長は自分を歌人だと思っているし、小林秀雄もそこに気付いたのだが、普通の人は宣長が歌人だとは思わないし、小林秀雄にいくら丁寧に説明されても理解できないのだ。

世間では国学者は神道家かなんかだと思っている。宣長がたくさん歌を詠んだことは知識として知っていても、また歌とはなにかについて何度も繰り返し繰り返し彼が書いていても、そのことが重要だとは思えない。宣長はへたくそなくせにたくさん歌を詠んだものだ、契沖に似てる、くらいのことしか感じない。

国学者とはまず第一に歌学者であり、歌人でなくてはならない。小林秀雄は明らかにそのことに気づいていた。後半、グダグダ書いた「古事記伝」の箇所は宣長の神道家としての説明であって、私にはここは退屈だ。たぶんここでは小林秀雄は昔の小林秀雄に戻ってしまったのだ。

小林秀雄は読者が自分の書いたものを理解しているとはまったく思ってなかった。そんなことは期待してなかった。めんどくさいので説明する気がなかったというべきか。たぶん説明すればするほど理解してもらえないとでも思ってたか。もっと詳しく丁寧に説明するには原稿料が足りないと考えたか。

ともかく「本居宣長」以外の小林秀雄の著作が私にはちんぷんかんぷんな理由を白洲正子に教えてもらった気がした。