安田善次郎

例によってウィキペディアを使って安直にいろいろ調べているのだが、
安田講堂は最初は寄付した安田善次郎を匿名にしていたようだが、1921年に彼が暗殺された後は、
おおっぴらに「安田講堂」と呼ばれたようだ。着工は彼が死んだ年、完成は1925年、つまり、『帝都春暦』の舞台となった年。
間に関東大震災が挟まっている。

良くひなびた居酒屋などに張り紙で「五十、六十は鼻たれ小僧」うんぬんとある文句はもとは安田善次郎によるという。
確かに、天保から大正まで生きたのだから長寿ではある。

安田善次郎と成島柳北は同じ年生まれで、安田は欧州視察で生命保険というものに着目した成島に勧められて今の安田生命を創始したという。
しかし安田はすでに明治政府御用達の商人として莫大な富を得ていたし、安田銀行は彼自身の力によって作ったものだろうから、
成島柳北の助言がどの程度彼に影響したかはわからない。

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