空海の歌

風雅和歌集には、弘法大師の歌

わすれても 汲みやしつらむ 旅人の 高野の奥の 玉川の水

が収録されているそうだが、はて、あまりにも時代がかけ離れているし、空海が和歌を詠んだとして、風雅集の時代に初めてあらわれたというのが、ちと信じがたい。玉勝間11「高野の玉川のうた」で宣長はこれを後世の偽作と見ている。詞書きには

この流れを飲むまじきよしを、しめしおきてのち、詠みはべる

とあるそうで、歌の意味は「高野の奥の玉川の水は飲むなと定めおかれたものだが、旅人はそれを忘れて酌んで飲むものがいるかもしれない」となる。この歌の解釈を豊臣秀次とその家臣の霊が解釈するという話が雨月物語に出てくる。で、確かに高野山には玉川という川があるようだが、なぜこの川の水を飲むなと空海は定めたのだろうか。よくわからんのう。宣長が指摘しているように「わすれても汲やしつらむ」は「忘れて汲みやせむ」の意味だが、意味が通りにくい。

旅人は 定め忘れて 汲みやせむ 高野の奥の 玉川の水

とかならすっきりわかろうが。

チェーンスモーカー

午後6時から8時くらいまでは、おそらく、仕事と通勤で禁煙を強いられたと思われるサラリーマンが、店に来るなりたばこを吸い始める。いつまでたってもとまらない。四本目まで吸ってまだ勢いが止まりそうもない。私はそこで店を替えたが、こういう人は迷惑だから、どこか喫煙所でニコチンを摂取してから来てくれないかな。

こういう種類の客があまりこない店というのもあって、つまり、勤務中にだらだらたばこの吸える仕事をやってる連中ということなのだろうが、そういう連中の行く店に行ったほうがまだ気は楽だ。

私はもと喫煙者だったが、だいたい自分でたばこを買っても、一箱吸い終わるまえにしけってしまう。ライターもあまり使わないので、たびたび買い足して、使わずに火がつかなくなったライターが山のようにあった。長いこと放置すると中に液が残っていても火はつかないんだよね。で、たまに人が吸っていると吸いたくなってもらいたばこで吸っていたりしたが、それもだんだん面倒になっていつの間にか吸わなくなった。部屋の片付けや匂い、あと火の始末など、たばこがないとずいぶんすっきりする。ポマードなど整髪料と同じで無いのがずっと簡単で楽だ。

あしわけをぶね

宣長の初期の歌論書「あしわけをぶね(排蘆小舟)」だが、検索して見ると、一番古いのは人麿

みなといりの葦わけを舟さはりおほみわが思ふ人にあはぬころかな

拾遺集に収録。つまりはまあ、本来は葦がたくさん生えた入り江に入った小舟が、葦を分けながらなかなか前に進めない、或いは目的の港にたどり着けない、というもどかしさを言うもののようだ。歌の意味としては「差し障りがあって思う人に会えないこの頃だな」という程度。

その後、あしわけをぶねが入る歌はずっと下って、後嵯峨院

道あれと難波のことも思へども葦分け小舟すゑぞ通らぬ

これはまあ普通に和歌の道がなかなか進まないということだろう。為藤

澄む月のかげさしそへて入り江漕ぐ葦分け小舟秋風ぞ吹く

同じ江の葦分け小舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ

漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめさはりたにせぬ

ここらはまあ、普通に叙景の小道具として使われている感じで、為世など、
他にも何例かあるが、草庵集(頓阿)

漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめてさはり絶えせぬ

これは、為藤の歌とほとんど同じだな。

波の上の月残らずは難波江の葦分け小舟なほやさはらむ

波の上の月を残して難波江の葦分け小舟漕ぎや別れむ

有明の月よりほかに残しおきて葦分け小舟ともをしぞおもふ

難波江の葦分け小舟しばしだにさはらばなほも月は見てまし

さりともとわたすみのりをたのむかな葦分け小舟さはりあるみに

とまあ同工異曲というか粗製濫造というか、頓阿は他にもたくさん似たような歌を詠んでいるようだ。本歌取りするにもほどがある。題詠+本歌取りで自己完結した知的遊戯に走りすぎる。ここらが確かに二条派の良くないところ。宣長はたぶん頓阿から影響を受けたのだろうな。題名に託した意味としてはたぶん、和歌の道を進む困難さを言いたかった、くらいか。宣長は確かに、為世や頓阿によく似ている。二条派の中の二条派だわな。

江戸時代の歌集

江戸時代の私歌集にはたとえば後水尾院歌集、契沖の「漫吟集」、宣長の「鈴屋集」、蘆庵の「六帖詠草」、秋成の「藤簍冊子」、景樹の「桂園一枝」、良寛の「布留散東」、加納諸平の「柿園詠草」、橘曙覧の「志濃夫廼舎」などの私家集(個人歌集)がある。また、真淵などは自選集はないが弟子や後世の人による個人歌集「あがた居の歌集」などがあり、田安宗武にも同様に「悠然院様御詠草」が、荷田春満には「春葉集」があるが、比較的最近平安神宮から出版された「孝明天皇御製集」も江戸時代の歌人の後世の人による個人歌集の一種といえる。

歌合の記録も残るが、あとは私撰集がかなりたくさんある。幕末だと、蜂屋光世という幕臣が出版した「大江戸倭歌集」「江戸名所和歌集」なるものが出ている。国歌大観に「大江戸倭歌集」は収録されている。どういう基準で集めたかわからんが、商業目的に良さそうなものを適当にむやみと集めたのか。また、真淵や契沖などの国学者やその門人の歌を集めた「八十浦之玉」というものもある。これも国歌大観に収録されている。また、江戸の堂上派武家歌集である「霞関集」「若むらさき」などもある。他にも「麓のちり」「林葉累塵集」「鳥の迹」などというものも国歌大観に収録されている。

これら江戸時代の私家集や私撰集の歌を全部合わせるとものすごい膨大な数になる。また入手しにくいものが多い。なんか気が遠くなるな。

ヤマザクラ


多摩の尾根緑道にヤマザクラの並木があったので、わざわざ撮影に行った。美しいが、ソメイヨシノに比べるとかなり地味。逆に、ヤマザクラを見てからソメイヨシノを見るといかにも人工的な造花のような感じがする。ソメイヨシノは派手だが色調が単調で、幹が黒々とごつごつしてて醜い。ヤマザクラは幹がすっと細く高く伸びて気持ちが良い。

ソメイヨシノだと、桜のトンネルのようなものを何千本も作りやすいのだろうが、ヤマザクラはそんなことをしてもあまり派手な感じにはならず、遠目にはかなり地味な印象で、ここの尾根緑道のような、雑木林にとけこんだような自然な感じにしかならないのではないか。しかしまあ、むやみやたらとソメイヨシノが咲いて、屋台や御輿が出てよさこいソーラン祭りみたいになっているところもあるのだが、わざわざこのような緑道まででかけて静かにのんびり桜を見る方がずっと良い気がする。

青い葉と白い花のコントラストが高いミドリヤマザクラとも明らかに雰囲気が異なる。

参考までにこちらが同じ日に別の場所で撮ったソメイヨシノ。
うーむ。こういうものを日本の文化と言ってしまうのはどうかと、
ヤマザクラを見た後では考えてしまう。単一DNAのクローンなんだよなあ、ソメイヨシノは。戦後の混乱期に、後にどんな劇的な効果を生むか最初はあまり深く考えず、植えてしまうのだが、それが50年も経つとえらいことになってしまい、さくらまつりみたいな盛大な祭りをやらざるを得なくなっている、そんな気がするのだが。ソメイヨシノに振り回されている日本、みたいな。宣長が見たらなんと言うだろうか。

ヤマザクラ(幼木)


比較的新しく植えられたヤマザクラ。ソメイヨシノは割と若いうちから花がたくさん咲くようだが、やはりヤマザクラは若いころは花が多くないのではないか。

植樹されたばかりのヤマザクラ(花が咲いてないのでよく確認できないが、状況的には)は添え木をあてられて幹は一本だけ。花を咲かすことはできず、若い葉だけがめばえている。

ヤマザクラ(樹形)

開けた場所に植えられると、根本から何本も放射状に分岐する。ソメイヨシノの場合に、一本のごつごつとした太い幹が、やや立ち上がった後に分岐するが、ヤマザクラはもっと地面に近いところから何本にもわかれ、幹の一本一本は比較的細い。ヤブに生えているときはその放射状の分岐がかなりせばまり、上へ上へと伸びる。斜面に植えられると横にのび、垂れ下がることもある。

ヤマザクラとミドリヤマザクラ

さくら品種図鑑桜花譜等々を見ると、山桜には主に「ヤマザクラ」と「ミドリヤマザクラ」がある。私も近所の公園をぷらぷらと歩いてみたが、新しい葉の葉緑素が足りずに赤みがかって、一見枯葉のようにもみえる桜の木がある。こちらが吉野山などの「ヤマザクラ」なのだろう。一方で青々とした葉の「ミドリヤマザクラ」というものもある。

ヤマザクラの美しさはおそらく、花の白さ、花芯や軸の赤さ、新葉の茶、赤、黄色みがかった緑まで、さまざまな淡い色合いが混じり合い、それらが山全体にわたって咲いているようすなのだろうなと思う。

ソメイヨシノは枝が横へ横へと広がっていく。ミドリヤマザクラもだいたい同じような形になる。どちらも花が間近に見れて、観賞用には良い。しだれ桜などはさらに花が目の前まで垂れてくる。しかし、「ヤマザクラ」は枝が上へ上へと伸びてたいへんな高木になり、さらにその梢に花が咲くので、花自体をよくよく見るのは難しい。特にやぶの中に生えているものは、他の雑木と競うから、よけいに上に延びる。写真にも撮りにくい。池の岸辺などに生えているものは、これも池の真ん中の方へ伸びてそこで咲いている。やはり写真にとりにくい。日本原生種の古態を留めていると言えば言えよう。とまあそんなわけでまだ満足のいく「ヤマザクラ」の写真がとれてない状況ではある。