あしわけをぶね

相変わらず宣長を読んでいる。排蘆小舟(あしわけおぶね)は宣長が医者の修行で京都に遊学していた28才くらいまでに書かれた歌論書で、宣長の評論の中では比較的初期でかつまとまったものである。現代語に全訳してやろかとも思うがそんな暇人でもない。

近代の先達の教えに、玉葉・風雅などの風体を嫌って、正風体を学べと教えられるなり。その教えは良けれども、その人と歌をみれば正風にはあらずして、その嫌わるる所の玉葉・風雅に近き風なり。これはもと、玉葉・風雅の悪風を改めて、頓阿という人、正風を詠み、かの悪風を大いに戒められたるより伝わる教えなり。頓阿は名人なれば、実に風体の善し悪しをわきまえて言われし故に、自分の歌みな正風なり。その後の近世の先達は、頓阿の説に従って、教えはさることなれども、歌の風体の善悪を知ること、頓阿に及ばず、故に自分の歌、正風にあらず。かの嫌われる所の悪風に近し。これなにゆえとなれば、大概は風の善悪も分かるる人も、正風にのみ詠みては珍しきこと詠み難し。それゆえに珍しき風情を詠まむ詠まむととするゆえに、おのづから異風になるなり。これいにしえの人に及ばぬ所なり。いにしえの人は正風にして、珍しい風情を詠めり。いかほど珍しく優なる歌にても、正風を離れず、少しも悪きところなきなり。近世の人は、珍しきことを詠めば、必ず正風を失うなり。

いにしえの(善悪を知る)人ならばどんなに近現代の珍しいことを歌に詠んでも正風を離れず詠むことはできる。しかし近現代の人が今の風情を詠もうとすると必ず正風を失う、と主張している。つまり今の歌詠みは、古いことを古いながらに歌に詠むことはできるが、
新しい、それまで和歌で試みられなかったような事物を詠もうとすると必ず古風を失う。
あるいは俗語や漢語などを使おうとする、と。まるで明治以後の歌人たちを言っているようではないか。

また、次のようにも言っている。近代の人の歌をまねるべきではない。当時無双と言われる名人でも、いにしえの歌には及ばない。そのうえ次第次第に言葉遣いの誤りも多くなる。古代の歌をまねて詠めば古代の歌も近代風の歌も詠めるが、逆は成り立たない。ただしいきなり昔の歌を詠むのは初心者には難しいので、「題林愚抄」などで題詠のやり方を学ぶと良い。古代の歌を学んだ後ならば近代の歌を善悪の見分けもつくのでそれほど害にはならない。

また、俳諧・連歌について、俳諧は「今日の常態言語」を使い、これほど人に近く便利なものはない。なぜ和歌でなく俳諧をとらないのか、という問いに対して、連歌・俳諧・謡・浄瑠璃・小唄・童謡・音曲のたぐいは、すべて和歌の一種であって支流である。その中で雅びなものと俗なものがあるが、風雅の道においてはどうして雅を捨てて俗をとることがあるか。本をおいて末を求めることがあろうか。しかしそれも個人の好みにまかせれば良い、などと言っている。

実際、俳諧は、和歌に比べるとはるかに俗語を取り入れるのに、古くから熱心だった。なので、明治に入ってからもわりあい人々に容易に受け入れられた。しかし、和歌は逆に「正風」をやかましく言い、俗語や歌舞音曲を受けいけることを拒んだ。明治に入って急激に俗語や漢語を取り入れたために悲惨なことになったが、和歌は江戸時代にあまりにもその準備がなさすぎた。和歌というものが、宣長がやったように、歌道の家の言い伝えなどはひとまずおいて、古文書に直接当たって文献批評のような科学的分析を加えないと、もはや一般人にはとうてい善悪の見分けがつかない状況にあった。伝授・附会といった歌道の「密教化」が進み、あるいは堂上・地下の対立が起きたというのも、ようするに「歌学」というきちんとした方法論なしには和歌が詠めなくなっていたからなのだ。それに比べて俳諧などは「学問」という仰々しいものがなくてもある程度は直感的に作れたわけだ。

伝授・附会とか堂上・地下といった風潮はつまり、学問的な考察なしに、歌をどうこうしようとしてどうにもならなくなっておこってきた現象であり、これを宣長は京都遊学中に契沖の歌論書によって気づかされたのだろう。つまり、聖書に textual critics が必要なように、歌学にも文献批評が必要だ、という一つの真理に気づいたということだ。

ははあ。古文辞学は荻生徂徠の学派に学んだということか。うまくできてるな。確かに Textkritik を「本文批評」と訳すよりは「古文辞学」と訳した方がしゃれてるわ。

宣長は京都遊学前から頓阿の草庵集や井蛙抄などを読んで手本としており、ますますこれらを正風として手本にしたと思われる。

思うに、和歌は、公家も武家も詠むものだ。公家の世界に限ればおそらくその最盛期は新古今集。その次の新勅撰集からは武家の歌も多く混じるようになった。頼朝、実朝、泰時、高氏らはみな歌を喜んで詠んだ。もろびとこぞって和歌を詠んだ。武家に和歌は不要だと言った武人はほとんどいない。家康が言ったか言わないかくらいのことだ。公家は公家のように、武家は武家のように歌を詠めば良い。特に勅撰集が編纂されなくなった応仁の乱以後は武家が和歌の伝統を支える大きな役割を担った。中には田安宗武のような武家の思想・儒家の思想で和歌を解する人も出た。武家が武家の思想で歌を詠んで何が悪かろうか。それまで公家は公家の詠みたいように詠んできたし、坊主は抹香臭い歌を詠んできたのだから、ただお互い様というだけのことだ。戦の歌もあり、商売の歌もあり、政教の歌もあり、四季や恋の歌があるだけのことだろう。

諫める

漢字の「諫」には、目上の人に直言して悪事をやめさせる、という意味しかないのだが、
やまとことばの「いさむ」には、たとえば

> たらちねの親のいさむるうたたねはもの思ふときのわざにぞありける (伊勢) または「おやのいさめし」

> たらちねのいさめしものをつれづれとながむるをだにとふひともなし (和泉式部)

> たらちねの親のいさめの絶えしより花にながめの春ぞ経にける (九条道家)

> 無き影の親のいさめは背きにき子を思ふ道の心弱さに (藤原定家)

> うたたねの夢にもうとくなりにけり親のいさめの昔語りは (? 続拾遺集)

> 別れをば一夜の夢と見しかども親のいさめぞ絶えて久しき (? 続拾遺集)

> 伝へおく言の葉にこそ残りけれ親のいさめし道柴の露 (? 新後撰集)

親が子をいさめたり、

> 恋ひしくは来てもみよかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに (在原業平)

> 今ぞ知る神のいさむる道ならぬ世々の契りのふかきまことを (正徹)

神がいさめたり、

> もみぢ葉をおのがものとも見てしがな見るにいさむる人はなけれど (源重之)

> いかで世にあらじと思へどありぞふる誰かいさむるものならなくに (能因法師)

誰かにいさめられたり、

> 大空に照るひの色をいさめても天の下には誰か住むべき (女蔵人内匠)

小うるさい人にいさめられたり、

> 世の中を厭へと人のいさめしは吉野の里の花を見むみむため (宗良親王)

坊さんにいさめられたりも、

> 折る人をわきていさめむ九重のみ橋の花に風は吹くとも (二条為藤)

いさめたりする。
親が諫めるというのは、ぼーっとながめていたりうたたねしていたり、
つまり何もせず無為に過ごしていてはいけませんよとしかられるということだろう。
神が諫めるとはつまり神域の禁忌などのことだろう。
車から緋色の裾が垂れていると、はしたないと見とがめていさめる人もいるということか。

要するにやまとことばの用例では、
子が親を諫めるなどというよりは、
親が子をしつけたり戒めたり、他人にみとがめられたりする場合に言うことが多い、ということだわな。

代々木の園

なぜか明治神宮に行ってきた。

降ればなほ 行きて見まほし 春雨に 代々木の園は 青みたるかと

みそのふに 春雨ふれば 人を無み しめ野にひとり あるここちする

正直に言えばここまでは「心象風景」。わりに人はいた。しかもふしぎと女が多い。最近、明治神宮内の「清正井」がブームらしく、宝物殿などはいつも閑散としているのに、そこから流れてくるのか、にわか歴女たちが「大正天皇ってダンディー」とか言いながら群れているのが、何かいらだたしいやらにがにがしいやら。テレビ見たくらいでほいほい沸いてくるなよと思いつつ。

春雨の ふれる宮路を 踏みゆけば しめりてきしむ さざれ石かな

などか知る 虎を狩りたる きよまさの 名にしおふ井戸に 人の寄り来る

で、よく見ると雨の中にも視界に人影が一人二人と入ってくる。同じ場所にずっと立ち続ける女性とか、一人で気功やってる男性とか。写真撮ってるひと、地面に穴掘る人とかいろんな人がいる。

占いやってる人ってものすごい勢いでしゃべりたがるよね。いや、しゃべりたがっているのではなくてそういう仕事なのかもしれんが。女性だとわざと化粧をしなかったり。すっぴんでも大丈夫なんですパワーとか。心霊スポットならずパワースポットとか。そういう人たちが明治神宮に集結しだしたらどうしようとか杞憂だろうか。

なんか明治神宮創建当初全国から集められた植樹は、当時の写真で見ると大鳥居よりも背が低かったようだ。そこで詠める:

うつせみの 代々木のもりは 鳥居より 木高くなりぬ ふりしまにまに

おほきみの みよのとほさを 生ひ茂る 代々木の杜の 木立にぞ知る

代々木公園の方にも行ってみる。こちらも日曜だが雨のためほとんど人はいない。しかしまったく居ないというのでもない。見るといろんな碑やら像やらが立っている。中で「大東塾十四烈士自刃之處」というものがあり、ここがむかし連兵場で終戦当時に切腹をした人たちが居たらしい。塾長の影山庄平という人の辞世の歌:

こんとんを ひらきて今や 天地の 始発の時と 祈り行くなり

國うれふ やたけ心の きはまりて 静かなるかも 神あがるとき

代々木連兵場は米軍に接収され宿舎用地となり、東京オリンピックの時に返還されて選手村となり、そのあと国土緑化運動の中の一つとして森林公園となったそうである。これらうっそうたるレバノン杉やヒマラヤ杉やメタセコイヤの林も東京オリンピック以来とはなかなか信じがたいものがある。

きもをなめ たきぎにふせし つらき世を 知らずなりゆく わがくに民は

知るらめや 代々木の園も ひとたびは えびすの住める 里となりしを

それはそうと、「たまぼこ」は「道」にかかる枕詞なので、宣長の「玉鉾百首」とは「神の道」を教えた歌だったのだ。どうりで宣長にしては、ぎこちない歌ばかりだと思った。

うまざけは 日ごと飲みても うまけれど ひと日あくれば なほまさりけり

歌物語というのはあるが歌ブログというのはあまり無いジャンルではあるまいか。

「本居宣長」連載

小林秀雄「本居宣長」は連載もので、50回に分かれていて、正直なところ、この50回という切りの良い数字は、必要があってそうなったのではなく、何か出版社との約束事でもあってそうなっているだけなのではないか。というのは、連載も30回を過ぎた辺りから内容もとりとめなく朦朧としてきて、わけがわからなくなるのである。明らかに連載第1回と続く2回目の「遺言書と墓、墓参、法事等について」「辞世の歌」などはおもしろい話題だ。ぐいぐいと引き込まれる。3回目「松坂の生家、生い立ち、家業など」は、まあ普通の前フリ。それから延々と話は宣長からそれて、19回目の「賀茂真淵の万葉考、枕詞考など」からまたおもしろくなり、20回目「真淵との書簡のやりとり、宣長の歌詠み批判、破門状など」。21回目「宣長の弁明、新古今風についてなど」。22回目「歌学と詠歌」辺りまでがこの連載の山場だと思う。その後は 25回目「(ざゑに対する) やまとだましい、やまとごころ、姿と意、など」、26回目「平田篤胤など」、27回目「ことだま、古今仮名序、土佐日記など」がややおもしろいが、28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。というのが私の率直な読後感ですが何か。そうだな。ざっと5分の1、要領よくやれば10分の1でまとまると思うのだが。

また、補記の方だが、1回目にプラトンやソクラテスの話ばかり出てくるのは冗談としか思えないし、3回目の「真暦考」についての話がややおもしろい程度で、どうも別段どうということもない。こういうものを頭から難解だが名著だと信じて読んでも意味はわからないと思うのだが、どうよ。

本居宣長の最大の功績はやはり「古事記考」という大著をまとめたことだとは思う。当時解読不能になっていた古事記を読み解いた。それはすごいことだ。特に、古事記は日本書紀に比べて神話時代の話が濃密であるし、宣長は神話はすべて事実だと考えていたから、どうしても宣長という人は神代について、神話について研究した人という見え方になる。

さもなくば源氏物語を読み解き、「もののあはれ」の重要性を指摘し、近代小説との類似性に着目した人、ということになる。この辺りは近代の作家のひいきによるものだろう。

そこでつまり本居宣長とは「古事記」と「源氏物語」の人だということになる。それはそれで間違ってはいないと思う。小林秀雄も最初読んだのは「古事記考」でさらに折口信夫に「本居さんはやはり源氏だよ」などと言われて考え込んだりしている。そういうことが冒頭に書いてある。やはり小林秀雄にとっても宣長について書くきっかけは「古事記」と「源氏」だったわけだ。未だに世間一般ではそういう見方に違いない。

だがその書いたものを見るに彼が着目しているのは宣長の遺言だったり、真淵との師弟関係だったり、「うひやまぶみ」で彼が主張しこだわっていることだったり、異様に膨大な詠歌群だったり、「やまとごころ」「やまとだましひ」の発見だったりする。いやそもそも「やまとごころ」の意味を発見したのは、というより宣長が実は(幕末や戦前において)まるで理解されていなかったことを発見したのは、宣長を理解し再発見した小林秀雄自身の功績であろう。後半の古事記うんぬんの辺りはただ単に小林秀雄の独学というか独り言のように思える。ひどい言い方をすれば義理のために書いた埋め草というか。ただまあ、書きたくて読ませたくて書いた部分ではないのではないかと思う。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。

坂本は、柔術を知らないものですから、

坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、
商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ

玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ

移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり

身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

逆説の日本史

井沢元彦「逆説の日本史」を読み始めたのだが。まあ、一割くらいは面白いことが書いてあるが、八割近くは単なる状況証拠と推理であり、真実は多くて三割くらい。見ただけで間違いとわかることも多いし、記述があまりにも偏向してる。こういうのは南朝の皇族の子孫が明治になって出てきて云々というような話と同じだわ。一つ一つ、裏付けをとる作業を積み重ねながら先に進まないと、こんなふうに歴史なんてどんな具合にも脚色あるいは捏造できてしまうだろ。

義満が天皇になろうとしていたという話にしても、ただ単に自分の息子の義嗣を偏愛していただけとも読める。義満が天皇とまったく違う形の日本の統治者になるというのも、そのままそっくり天皇になるというのもどちらも無理だろ。天皇家の祭祀のうちいかに仏教系の儀式を自宅で執り行ったとしても、宮中の儀式の多くは神道系、たとえば新嘗祭とかなわけで、いきなり神主さんになりますかといわれてもなれないだろ。皇位の簒奪が難しいというのはやはりそのあたりが理由ではないか。

それに足利将軍やら管領やら公家やらが義満の独裁に批判的だったわけだから、義満の暴走は遅かれ早かれ中に浮いて頓挫しただろうと思うな。足利幕府は当時としてはかなり合議制が進んでいたように思われるので、義満はただ煙たがられてただけでは。義満は決して絶対君主的な存在ではないし、それだけの軍事力を足利氏が独占していたわけでもない。一休が後小松天皇の落胤で、後小松天皇の子・称光天皇の兄に当たるので、位を継げば良かったなどというのは、かなりトンデモ系。そもそも還俗して上皇になった例はあるかしれんが、天皇になったなどという話はないだろ。明らかにあり得ない。ていうか、上皇は院、つまり僧侶として法皇にもなれるわけだから、上皇になるために還俗する必要すらないわな。天皇は神道系の儀礼しかできない、法皇は仏教系の儀礼しかできない、という棲み分けはあったんだろうな。仏教系の祭礼の重要性が時代が下るとともに大きくなり、逆に神道系の祭祀が形式化していったのが、もしかすると院政がさかんになった大きな原因の一つかもしれんわな。逆に言えば幼い天皇でも宮中祭祀はできたということだが、摂政か関白が代行していたのだろうか。ていうか幼い天皇がいるうちは上皇は祭祀を代行するために、院にはなれなかったのではなかろうか。なので、天皇、上皇、法皇という三段構成が必要だったのでは。ややこしいなあ。ましかし、天皇家が神道以外に仏教も祭祀に加えていく過程で、直系内での役割分担が必要になって、自然とそうなっていったのかもしれん。江戸時代に入ると天皇家が仏教の儀式をやらなくなった(国家仏教をしきらなくなった)ので、法皇も不要になったのだろう。最後は霊元天皇(在位1663年-1687年、1732年崩御)。

しかし皇位継承が男系に限るというのは良くできている。女系もありとすると自分の息子(内親王と結婚してその息子か娘)を天皇にできる。しかし、男系に限ると孫(娘を皇后に立ててその男子)を天皇にすることしかできない。そもそも皇后に立てるというのはとても難しいが、内親王と結婚するのは割と簡単かもしれん (女帝と結婚する必要はない。皇族の女性と結婚しさえすれば良い)。義満も内親王の子だから、女系もありとするとあっというまに皇位継承対象者になってしまう。女系を認めるかどうかというのはやはりかなり難しい問題な気がする。

ましかし、上記は皇位を簒奪しようというのが男であるという前提だが、完全な男女同権の時代になってしまえば、ある(野心ある)女性が天皇と結婚して自分の子どもを天皇にすることも可能なわけで、あまり抑止力にならんわな。ある意味尼将軍政子みたいなものか。
ま、ていうか、野心ある女性が無理矢理天皇か親王と結婚して子供を天皇にするという状況があまり思い浮かばないけどな。

二所詣

頼朝と政子が子供連れで、あるいは、頼朝が死んだ後も政子・実朝らが二所詣と言って伊豆山神社と箱根神社、それから三嶋神社にたびたび参詣している。

伊豆山神社は、政子が輿入れ先から逃げ出して匿われたところだし、箱根神社は頼朝が石橋山で負けて匿われたところだから、要するにお礼参りということだわな。三嶋神社は伊豆で一番大きな社という程度のことだろう。

しかし市町村合併で伊豆に「伊豆市」と「伊豆の国市」があるというのはあまりにもひどすぎないか。いっそのこと合併すれば良いのに。

飲んで帰って朝起きて

財布を確認すると、思ったよりも金が残っててびっくり。金を使いすぎてても嫌だが残り過ぎているのもどこかで勘定忘れて帰ったとか心配したりする。しかも胸ポケットに1500円入っているのも気になる。

なるほど。五千円札をあと一枚入れていたと考えるとだいたい勘定が合う。そして釣りを胸に入れたんだな。途中、松屋でカレー食べたのを思い出す。

まあ体重的にはOK。