逆説の日本史

井沢元彦「逆説の日本史」を読み始めたのだが。まあ、一割くらいは面白いことが書いてあるが、八割近くは単なる状況証拠と推理であり、真実は多くて三割くらい。見ただけで間違いとわかることも多いし、記述があまりにも偏向してる。こういうのは南朝の皇族の子孫が明治になって出てきて云々というような話と同じだわ。一つ一つ、裏付けをとる作業を積み重ねながら先に進まないと、こんなふうに歴史なんてどんな具合にも脚色あるいは捏造できてしまうだろ。

義満が天皇になろうとしていたという話にしても、ただ単に自分の息子の義嗣を偏愛していただけとも読める。義満が天皇とまったく違う形の日本の統治者になるというのも、そのままそっくり天皇になるというのもどちらも無理だろ。天皇家の祭祀のうちいかに仏教系の儀式を自宅で執り行ったとしても、宮中の儀式の多くは神道系、たとえば新嘗祭とかなわけで、いきなり神主さんになりますかといわれてもなれないだろ。皇位の簒奪が難しいというのはやはりそのあたりが理由ではないか。

それに足利将軍やら管領やら公家やらが義満の独裁に批判的だったわけだから、義満の暴走は遅かれ早かれ中に浮いて頓挫しただろうと思うな。足利幕府は当時としてはかなり合議制が進んでいたように思われるので、義満はただ煙たがられてただけでは。義満は決して絶対君主的な存在ではないし、それだけの軍事力を足利氏が独占していたわけでもない。一休が後小松天皇の落胤で、後小松天皇の子・称光天皇の兄に当たるので、位を継げば良かったなどというのは、かなりトンデモ系。そもそも還俗して上皇になった例はあるかしれんが、天皇になったなどという話はないだろ。明らかにあり得ない。ていうか、上皇は院、つまり僧侶として法皇にもなれるわけだから、上皇になるために還俗する必要すらないわな。天皇は神道系の儀礼しかできない、法皇は仏教系の儀礼しかできない、という棲み分けはあったんだろうな。仏教系の祭礼の重要性が時代が下るとともに大きくなり、逆に神道系の祭祀が形式化していったのが、もしかすると院政がさかんになった大きな原因の一つかもしれんわな。逆に言えば幼い天皇でも宮中祭祀はできたということだが、摂政か関白が代行していたのだろうか。ていうか幼い天皇がいるうちは上皇は祭祀を代行するために、院にはなれなかったのではなかろうか。なので、天皇、上皇、法皇という三段構成が必要だったのでは。ややこしいなあ。ましかし、天皇家が神道以外に仏教も祭祀に加えていく過程で、直系内での役割分担が必要になって、自然とそうなっていったのかもしれん。江戸時代に入ると天皇家が仏教の儀式をやらなくなった(国家仏教をしきらなくなった)ので、法皇も不要になったのだろう。最後は霊元天皇(在位1663年-1687年、1732年崩御)。

しかし皇位継承が男系に限るというのは良くできている。女系もありとすると自分の息子(内親王と結婚してその息子か娘)を天皇にできる。しかし、男系に限ると孫(娘を皇后に立ててその男子)を天皇にすることしかできない。そもそも皇后に立てるというのはとても難しいが、内親王と結婚するのは割と簡単かもしれん (女帝と結婚する必要はない。皇族の女性と結婚しさえすれば良い)。義満も内親王の子だから、女系もありとするとあっというまに皇位継承対象者になってしまう。女系を認めるかどうかというのはやはりかなり難しい問題な気がする。

ましかし、上記は皇位を簒奪しようというのが男であるという前提だが、完全な男女同権の時代になってしまえば、ある(野心ある)女性が天皇と結婚して自分の子どもを天皇にすることも可能なわけで、あまり抑止力にならんわな。ある意味尼将軍政子みたいなものか。
ま、ていうか、野心ある女性が無理矢理天皇か親王と結婚して子供を天皇にするという状況があまり思い浮かばないけどな。

二所詣

頼朝と政子が子供連れで、あるいは、頼朝が死んだ後も政子・実朝らが二所詣と言って伊豆山神社と箱根神社、それから三嶋神社にたびたび参詣している。

伊豆山神社は、政子が輿入れ先から逃げ出して匿われたところだし、箱根神社は頼朝が石橋山で負けて匿われたところだから、要するにお礼参りということだわな。三嶋神社は伊豆で一番大きな社という程度のことだろう。

しかし市町村合併で伊豆に「伊豆市」と「伊豆の国市」があるというのはあまりにもひどすぎないか。いっそのこと合併すれば良いのに。

飲んで帰って朝起きて

財布を確認すると、思ったよりも金が残っててびっくり。金を使いすぎてても嫌だが残り過ぎているのもどこかで勘定忘れて帰ったとか心配したりする。しかも胸ポケットに1500円入っているのも気になる。

なるほど。五千円札をあと一枚入れていたと考えるとだいたい勘定が合う。そして釣りを胸に入れたんだな。途中、松屋でカレー食べたのを思い出す。

まあ体重的にはOK。

御曹司

義経を御曹司というのはともかくとして、
頼朝を御曹司というのには何か違和感を感じないか。

つまり、頼朝が御曹司と呼ばれた可能性があるのは平治の乱までであり、
しかも頼朝が誰かに御曹司と呼ばれた記録はほとんど残ってないのではないか。

一方で平家物語では
義経は「九郎御曹司」と呼ばれ、
範頼は「蒲の御曹司」と呼ばれていた。

保元物語や平治物語では
為朝のことを「八郎御曹司」または「筑紫の御曹司」と言い、
義平のことを「鎌倉の御曹司」と言っている。
ところが頼朝は「兵衛佐殿」と呼ばれている。

なので、「御曹司」は「源氏の若武者」という程度の意味に使われているのであり、
しかも大勢いる。
大勢いるからこそ頭に地名やら生まれた順番やらが着く。
だから、後世の使い方はともかくとして、当時の源氏の世界では、
「何々の御曹司」と言うようにして、「源氏の御子息の中で何々」は、
という意味に使っているのである。
頼朝も御曹司と呼ばれた可能性は極めて高いのだが、後に源氏の頭領となっているので、
軍記物語中ではわざと「御曹司」とは呼ばず「兵衛佐殿」などと書いているのではなかろうか。

なるほど。
源平盛衰記では、頼朝に人質に出した義仲の11才の子のことを御曹司と呼んでいる。

なるほど。
頼朝は義朝の正室との間では長男で、
11才から官職を授かって、
平治の乱の時に13才で右兵衛権佐になったのだな。
だから兵衛佐殿と呼ばれたわけだ。
最初から官職で呼ばれていたと考えてもおかしくはない。
なので、頼朝が御曹司と呼ばれたとすると11才くらいまでということになりはしないか。
官職を持っていれば御曹司とは呼ばれないのではなかろうか。
義平、為朝、義経、範頼らは確かに頼朝と違って当時官職がない。
ないから御曹司なのではないか。
さらに言えば、
もともと無官であった義経らが勝手に後白河法皇から官職をもらうと頼朝の立場が危うくなるわけで、
それであんなに頼朝は怒ったのかもしれん罠。
範頼が源氏を名乗ったのにも怒ったしな。
11才から官職をもらって宮中に出入りしていればそりゃまあ他の源氏に比べれば貴公子然とはするだろうな。
むしろ平氏に近い。
源氏の中では一番メンタリティが平氏に近い人だったのかもしれん。

だとすれば、「貴公子」という意味で「御曹司」と言うのもまた誤用だということになる。
「嫡男」という意味では決してない。
どちらかと言えば、その他大勢の無官の若者というような語感ではなかろうか。
平氏の公達が「御曹司」と呼ばれていないのも同じ理由ではないか。
平氏ならだれでも官職くらいはもらっていただろうから。