紀貫之

ひきつつぎ新々百人一首。

> 秋の山もみぢを幣と手向くれば住むわれさへぞ旅心地する

面白いかといわれればそんな面白くないかもしれんが、書き留めておく。

やはり「旅心地する」の辺りが良く効いている。

和泉式部

ひきつつぎ新々百人一首。

つゆばかり逢ひそめたる男のもとにつかはしける (和泉式部)

> しら露も夢もこの世もまぼろしもたとへていはば久しかりけり

すごいなぁ。
この誇張表現。

なるほど、丸谷才一は「はしがき」に言う:

> これは簡単に言ってしまへば、「アララギ」ふうの史観に対する拒否である。
つまり「万葉集」が屹然と聳えたのち、勅撰和歌集という無視して差し支へないものが二十一もつづき、
その時代では源実朝だけが推奨するに足り、やがて平賀元義その他があって、うんぬん

> 打ち割って言へばわたしはいはゆる近世和歌にも現代短歌にもあまり親身な者ではない。
悠久の昔にはじまって応仁の乱の頃に終焉を告げた王朝和歌といふこの文学形式を明確に意識してなつかしむことが、わたしと和歌との重要な関係なのである。

と。
なるほど。
平賀元義という人は初めて知ったが(なんかえたいのしれない擬古文臭い和歌を詠む人なのね)、
要するに正岡子規や斎藤茂吉らが流行らせた明治以降の短歌が好きではない、ということなのだろう。
だとすれば丸谷才一が自らは一切歌を詠まないという姿勢もわからなくもない。

実際、正岡子規は、俳句はともかくとして、和歌はまったく大したことがない。
良いのは一つか二つあるかどうか。
斎藤茂吉も全然よろしくない。
古今集の頃はみな話し言葉でそのまま和歌を詠めたのだろう。
万葉集や古今集、後撰集、拾遺集までは、自然と世の中で流行した歌を集めていればそれで事足りた。
中には紀貫之のような宮廷歌人や職業歌人と呼ばれる人も居ただろうが。

しかしだんだんに、おそらくは言葉自体が、あるいは歌というものが変化していき、
古い形を保ち続ける和歌というものはもはや民間ではおこなわれなくなり、
歌人とは宮廷歌人つまり公家しかいないという時代がまずは来た。
これが新古今時代。
和歌というのは、節回しも抑揚もなしにのっぺらぼうに歌うものだが、
だんだんに世の中が進化してくると、楽器に合わせたり舞にあわせたりして歌われるようになる。
つまり歌から音楽や舞踊や演劇というものが分かれてくる。
また、連歌とか歌合などといった娯楽競技として行われるようになる。
ルールや技巧が細分化していく。

応仁の乱以降、宮廷が消滅してしまったわけだが、しかし、
今日の多くの日本文化が室町時代までさかのぼれるように、
和歌も一部は武家のたしなみとして存続していた。

そうして考えれば、勅撰和歌集の終焉とともにすっぱり和歌の寿命が絶えたと考えるのはいかにも乱暴だし、
おそらくは不可能な議論だ。
かといって、古今集の時代はそうだったかもしれんが、
明治になっていきなり、粗雑な会話文でもって短歌などというものを作り出すのも無茶だ。

清少納言

丸谷才一「新々百人一首」を読んでいるのだが

> われながらわが心をも知らずしてまた逢ひみじと誓ひけるかな (清少納言)

面白い。
しかし、あまり女性らしい歌には思えないな。
かと言って男性の詠む歌にもみえないし、
そもそも恋の歌とは限らないような気がする。
同じことは式子内親王にも言えるのだが。

それはそうと正徹という人が

> 人が「吉野山はいづれの国ぞ」と尋ね侍らば、「只花にはよしの山、もみぢには立田を読むことと思ひ付きて、
読み侍る計りにて、伊勢の国やらん、日向の国やらんしらず」とこたへ侍るべき也

と言ったそうだが、これには断然承伏しかねる。
あるいは、田安宗武という人が

> 賀茂真淵がいひけらく、「古歌に、くるしくもふり来る雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに、
とよみたるは、誠に旅行く人のあはれさ、うち聞きたるだに身にしむばかりおぼゆるに、後の世の人々の歌をもて、
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮、とよみて侍るは、
よき歌といふにつけてはそらぞらしくおぼゆ」と。
実にさることにて、くるし気には聞えで、かへりて佐野のわたりの雪の夕暮みまほしきまでぞおぼゆる。
されど、などさる人げとほき渡の雪の暮おもしろきことやは侍るべき。
かくくるしき事をもおもしろきことのやうによみ侍ること、おほきなる人の害ともなり侍りぬべき。
さてこそ罪なうして配所の月を見んなど、ひがひがしきこころも出で来し人おほくさへなれるなるべし。

とあって、それに対して丸谷才一曰く

> この道学的な心配性は腹をかかへて笑ふに足るが、しかし非文学的な考察にも意外な功徳はある。

うんぬん、と。
思うに、賀茂真淵の言うことはもっともである。たぶん現代人で、予備知識がなければみなそう思うだろう。
定家の歌はそらぞらしい、と。
でさらに田安宗武が、そんな人里離れて人影さえない冬の夕暮れの渡し場など、実際に行ってみれば、
面白くもなんでもない。
そんなことまでおもしろおかしそうに歌を詠むとはけしからんと。
これまた至極最もな話である。
なるほど田安宗武は、徳川御三卿の一つ田安家の家祖だな。
徳川吉宗の次男とある。
なんとなくまじめそうな感じではある。
おそらく賀茂真淵に和歌を学んでいたのだろう。

丸谷才一は反論するだろう。平安王朝における様式美とは屏風絵に添えられた歌として鑑賞しなくてはならないのだと。
また言う。

> 紀貫之はこの手の歌(屏風歌)の代表的作者で、貴顕の祝ひ事のため屏風が新調されるたびに、注文されて和歌を詠んだ。

で、紀貫之の歌の六割は屏風歌であるという。
なるほど。しかし、だからそれがどうしたというのだろうか。
まさか、屏風歌ならば文学的だとかより芸術性が高いとか言いたいわけではあるまい。
あるいは絵画に対する芸術上のひけ目でもあるのか。
それに問題は、紀貫之ではなくて藤原定家なのだけれども。

思うに、好きな歌人を百人選び、
それぞれ一首ずつ選んで私選百人一首なるものを作るのはそんな難しいことではないと思うのだが、
たぶん私が選べば王朝歌人はほとんど選ばないだろうと思う。
平安朝ならば和泉式部、在原業平、紀貫之どまり。
鎌倉時代なら後鳥羽院は採るが、式子内親王や藤原定家などは落とすと思う。
その他の有象無象な宮廷歌人たちは一切とらない。とらなくても他に良い歌人はたくさんいるし、
そもそも後世の武士にもすぐれた歌人はいる、と思ってしまう。

丸谷才一という人はほんとうに良くわからん。
英文学を専攻して修士まで行き、
國學院大學の助教授をやったりして、
「エホバの顔を避けて」などという戦後的なかなり屈折した小説を書いた。
それがいきなり「後鳥羽院」で和歌の評論を始めた。
思うに、源氏物語辺りから和歌に入ってきた人なのではないかと思うが、
やはりわからんものはわからん。

源実朝の歌の解釈にしてもどうも強引すぎるようだ。
斎藤茂吉の歌を引いてしかも、写実・写生の歌ではないと結論づけようとする。
なるほどそう深読みできなくもないかもしれないが、
しかし単なる写生の歌としても鑑賞できなくはないし、
同じことは紀貫之についても言える。
写生の歌としては到底鑑賞できない藤原定家らの歌に対する援護射撃のように感じてしまうのだが。
そう、何か写生に対する恨みでもあるような。