無敵設定の主人公ってのはよくあって、
また、無敵設定の敵キャラというのもよくいる。
また普段は普通だが無敵モードになると死なないとか。
で、無敵と無敵が戦ってどちらかが勝ちどちらかが負けるのはまさに矛盾なので、
いろんなお約束が考えられてきた。
無敵ヒーローが死ぬのがストーリーの中の一番の山場であるから、
ここに伏線を張るためにフラグというものが仕込まれるようになった。
だいたい鑑賞者は主人公が死ぬのはいやがるので、それなりの理由付けと舞台設定がないといけない。
解釈不能な死に方をするとたいてい暴動が起きる。
主人公が普段はやらないようなことをやったり、一瞬の気の緩みのすきに雑魚キャラに倒されるとか。
ヒロインが家で帰りを待っているとかだ。
ボスキャラの倒し方も、こちらはどちらかと言えば映画というよりゲームの方で発達してきた。
まず敵の弱点を見つけて、そこに攻撃を集中し、無駄な攻撃はしない。
体力を回復し、アイテムを取得しつつ、じわじわと敵の体力を減らしていくという戦法。
これらすべてが今日ではほぼ定番というかお約束というか様式美にまでなっていて、
そういうもんだという刷り込みができている。
だけどこういうお約束というのはだいたい20年くらいの歴史しかなく、
特にラノベみたいなのはここ10年くらいで急速に様式化が進んだのだと思う。
そういう世界をあまり知らない者にとってはなんで作者は、監督は、こんなふうなストーリー展開にしてしまったのだろう、
とわけがわからなくなってしまう。
なんか独自の解釈、独自のストーリーが作れる人なのかも知れないとさえ思う。
だけどお約束を一つ一つ調べていくと、すべてが実は既存の様式美の組み合わせでできているってことがわかり、
しらけてしまう。
そんでコッポラの作品なんかは、あれはちゃんと見ればラノベ世代より古い様式美で構築されていて、
盛者必衰の理というやつでできているから、
ああこれからどのキャラが死ぬなとか、どのキャラは死なないなというのが、
きちんと説明されているのである。
ゴッド・ファーザーはもちろん、地獄の黙示録もそうだ。
おそらくコッポラは古典芸能的な様式美にこだわるほうだ。
映像表現にしてもストーリーにしても。
きっとオペラとかギリシャ悲劇なんかを理想にしていると思う。
古代ギリシャでも劇作家がけっこう処罰されたりしているのだが、
表現の自由の問題もあるのだろうが、
作家は自分が作りたいように作ってはいけない、鑑賞者の許可が得られないものは作ってはいけないということなのだ。
それが悲劇の可能性を狭め、テンプレを作りがちにしても、作家はそこから先の実験はしてはならないのだ。
ジョージ・ルーカスが、ロシアの監督のほうがより自由に映画を作れると言っているのもだいたい似たような意味だろう。