夜間飛行

久しぶりに、堀口大学訳・サンテグジュペリ「夜間飛行」を読む。
この本に「職業倫理」、というふうにしか表現しようがないが、
ずいぶんそういうものの影響を受けたんだなあと思う。
ある種、骨肉となるまで自分の中の一部になってる。
今読み返すとそれはある程度までは、冒険者で作家だった彼の固有の思想というよりは、
フランス人、あるいは西洋人の職業(天職)に対する意識を反映しているのだろう。
上司は上司、部下は部下で、むやみと私生活レベルでべたべたすべきではない。
それは会社だけでなく軍隊でもそうだということだろう。
上司が部下を頼り、部下は上司を頼るというのは、東アジアでは当たり前のことで、美徳でもあるかもしれないが、
いざというときに上司が部下を愛するが故に処罰をためらったり、
部下が上司に手心を加えてもらうのを期待したり、
そのようなことがないように、
パブリックとプライベートのけじめをはっきりさせる、
それでいて上司と部下の間は暗黙の強い友情で結ばれている、というのが西洋における理想なのだろう。

サンテグジュペリはちょうど1900年に生まれ、
31才で「夜間飛行」を書き、
39才で「人間の土地」、
43才で「星の王子様」を書いて、44才で死んだ。
彼よりも長生きしようとしている自分に驚く。
「夜間飛行」に出てくるリヴィエールですら50才だ。
自分の仕事にいい加減飽きてきたのも当たり前だなと思う。

初句は最後に

[千人万首](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html)は、むろん愛読しているサイトだが、
つい最近
[実際の歌の作り方](http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/intro/yomikata.html#I09)
などが書かれたようだ。
そこに「初句は最後に決める」「歌は初句から順に作るものではない」などと書いてあり、まあそりゃそうだわな、などと思う。
こういうことは、実際に歌を詠む人でないと考えないことだろう。
歌を鑑賞しているだけだと、その歌の句が、どういう順番で思いついて配置しているかなどということまで、想像しない。

よくあるパターンとしては、最初の五七と、次の五七は、七五調で詠むときは無理だが、五七調で詠むときには、
たいてい入れ替え可能なわけだから、たとえば

> 鳥が鳴くあづまの国に 呉竹の世に出でむとて 二とせ経たり

> 呉竹の世に出でむとて 鳥が鳴くあづまの国に 二とせ経たり

でも良いわけだ。
なんとなくふと思い浮かぶことばが、最後まで初句にとどまることはまれではある。
で、結論は最後までもたせた方がよく、初句に結論が出ていて最後まで緊張が継続することは難しい。
初句は軽くて良いという場合もあるし、初句はただの枕詞ということもあるが、
初句と結句で全体を挟んで中は軽く、というのもよくやる。

阿仏尼の言う、最後の七七に山場を持ってくるというのは、それでも良いのだが、
上の五七五と下の七七が分離する原因にもなる。
そうするとよくある陳腐な配置になりがちだと思うので、陳腐でも良いわくらいのぬるい気分のときには使う。

初二三四結とあって、「初二三」がつながってて、かつ、「三四結」もつながっていて、
全体として五七とも七五調ともつかないのが良いか。しかしこれは普通は五七調と言う。
たとえば

> 富を得る すべもなき身は 浮かれ世に いとまもあらで 過ぐすべらなり

あるいは初句切れとか四句切れのように、普通余り切れないところで切るのも好きではある。

牛丼

田舎から出て京都で浪人して、最初に食べた牛丼はなか卯だった。
なか卯は好きだった。
あと京都では餃子の王将が好きだったな。
なか卯のうどんはふつう。京都御所のうどんの方がすきだった。

そのころすでに四条辺りまでいけば京都にも吉野家はあったが、
普通に食べてた牛丼はなか卯だった。
東京に出てきてだんだんに、吉野家を食べるようになった。
今もなか卯は好きだが。
吉野家は、食券にして欲しい。店員との対応、特に後払いがうざい。
先に店で食べる分と持ち帰りと両方注文しているのに、食べ終わった後でないと、持ち帰りを作り始めないのがはなはだうざい。
だがまあ、他の牛丼屋よりはうまいと思う。
別にこれ以上安くしてもらいたいなどとはまったく思わない。

吉野家のメニューでは「カレー(ルーのみ)」が好き。
牛皿といっしょに酒のつまみにする。
あと、蕎麦屋の吉野家もわりと好き。

筋肉マンが面白いと思ったことは一度もない。

> 当時キン肉マンのアニメを観て吉野家に憧れた子供たちが怒りますよ!

> そんな社史も知らない人に

うーん。謎の発言。
電波だろ。

まあ、私も、宣長と同じに、京都に「遊学」したと思えば、今はあの浪人時代がなつかしくもある。
当時はそんな精神的余裕もなかったのだが。

しかしまあ、いまほど、一箇所から給料をもらってサラリーマンやることがリスキーな時代もないわな。
なんでもっと、フリーランスか何かでいざとなれば食えるような努力をこれまでしてこなかったか、
どうして自分が所属する組織にばかり義理立てしてきたのか、
思えば不思議ではある。
人はそれをモラルの崩壊と言うのかもしれんが。

吉野百首

なんか忙しいと、つい現実逃避してしまうようで、書きかけだった[吉野百首](/?page_id=5476)も完成させた。
宣長がまだ花の咲いてない吉野山に花見に行ったときの、やや間の抜けた旅の歌集なのだが、
吉野と宣長の因縁とか、生涯に三度行ったこととか、あるいは晩年における桜に対する執着などがわかる、
重要なものだと思う。
場所がらか、記紀・万葉調の歌が多いのも、宣長にしては珍しい。
「見まほし」と言うところを「見が欲し」と書くとか。
「里人が」と言うところを「里人い」とするとか。

「枕の山」は、宣長自身が版本を作ったというのだから、作品として公開する気まんまんだったことがわかる。
或いは、いろいろ褒められて、ついその気になったか。
これについて解題で、大久保正氏が

> 完成された歌集としての「枕の木」それ自体は、極めて意識的に構成された一個の芸術品に他ならないことが明らかになる。

などとめずらしく褒めている。
他ではさんざんに宣長の歌をけなしているのに。

現実逃避ということを

> いとまなきをりにしもあれ夜もすがらあだしごとのみはげみやはする

> うつせみの世のなりはひに飽き果ててひねもすはげむしきしまの道

これはひどい歌(笑)

> ことしげくつらきうつつはかへりみでたのしき道にいそしみにけり

> 忘るべきうつつならねどおくらせて今はと書を読みて楽しむ

> 楽しみを後にするてふまめ人にならましものを春のいそぎに

> 憂き世をば逃れ出でむと踏み分けて出づる方なきしきしまの道

> いとま無き世にまじらひて富もなし富しありせばとく逃れまし

> 富を得るすべもなき身は浮かれ世にいとまもあらで過ぐすべらなり

後見

昔から、学歴が高いほど総理は長期政権で、低いと短いと言われている。
日本は結局は学閥社会なので、東大とかよりも、早稲田慶応の方が、力を持っていることがある。
安倍首相が短命だったのは、そのどれもないからだった。
経済界、マスコミ、政界、すべて結局は学閥で横につながっている。
日本はかなり極端な縦割り社会だが、そこをうまいぐあいに横につないでいるのが、学閥。
これがないともう機能しないのではないか。
政治家が叩かれるかどうかは、本人の能力ももちろんあるが、結局は学閥だろう。

過去の天皇にしても有力な左大臣か右大臣レベルの後見がないと力は発揮できない。
なので正室はだいたい左大臣か右大臣の娘。
ところが藤原氏がだんだんと世俗権力から乖離してきて、その代替として武士が台頭してくると、
幕府の将軍や執権などは、天皇家と姻戚関係は結ばないものの、
やはり天皇を後見することによって正統性を確保してきた。

いまの首相も同じだ。
安倍首相というのは、昔でいえば、藤原氏にも幕府にも後見を持たない、勝手に身分の低い女御を妃にしその子を東宮に立てた天皇のようなものだった。
世俗権力である、政財・マスコミの後見がないと機能しない。
それはつまり有力大学の人脈、ということになってしまう。

枕の山

なんかむしゃくしゃしたので、宣長の「枕の山 桜花三百首」をブログに書き写す。
300首きりではなくて、315首くらいあるようだ。
なんかwordpressではあまり長い文章は書けないようなので、三つに分けた。
[1-100](/?page_id=5429)、
[101-200](/?page_id=5431)、
[200-315](/?page_id=5433)。

思うに、この枕の山は、宣長の歌集の中では特殊で、あまり二条派らしくないのだ。
本人による跋文にもあるように、

> 歌のやうなることどもの、おのづからみそ一文字になりて

> いたくそぞろきたはぶれたるやうなること、はたをりをり混じれる

のであって、みずからこれらを「戯れ歌」のようなものと言っている。
単なる謙遜で書いているのではない。
詠むべきでないものを詠み、残すべきでないものを残した、と言っているのだと思う。
私には京極派の歌のようにすら見える。
それは、宣長にしてみれば、これまで「風雅」とか「詞の美麗さ」などの理性によって完全に押さえつけてきたものであって、

> ゆめかかるさまをまねばむとな思ひかけそ、あなものぐるほし

と、おもしろがる教え子たちを戒めている。
私にはやはりこの枕の山が、宣長の歌集の中では格別に面白いものに思える。
宣長らしくない、というより、宣長が確かに詠んだという証拠がなければ、宣長の歌だとは信じられないような、
そんな歌ばかりなのだ。

> さくら花 水の鏡も 我れながら はづかしからぬ かげと見るらむ

> 春雨に 落つるしづくも なつかしき さくらの花は 濡れてこそ見め

ここらの歌も宣長にしては「情緒的」「現代的」すぎて(たとえば「はづかしからぬ」「ぬれてこそみめ」など)、
かなりきわどいが、しかし宣長が詠んだというならそうかな、と思うけれども、

> 桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染むる 我が心かな

> 我が心 休む間もなく 疲れ果て 春は桜の 奴なりけり

> 桜花 散る間をだにと 思へども 涙にくれて 見えずもあるかな

> 散る花を 見れば涙に かきくれて 夜か昼間か 夢かうつつか

> はつしぐれ 降ればおもほゆ くれなゐの うす花桜 時ならねども

> 死ぬばかり 思はむ恋も さくらばな 見てはしばしは 忘れもやせむ

弟子たちも、まさか宣長がこんな歌を詠むとは思わなかったと思うんだよな。
その異常さを発見したのも、やはり小林秀雄なんだよな。

> さくら花 飽かぬこの世は 隔つとも 咲かば見に来む 天駆けりても

この歌も、ふだんの宣長の死生観から言って、かなり異様だ。
たとえ死んであの世に行ったとしても、飽きぬ桜のあるこの世には、
咲いたと聞いたならば、あの世とこの世が遠く隔たっていたとしても、天を駆けて見に行こう、
などと言っているのだ。
神道ならば人は死ねば黄泉の国に行くだけだ。あるいは浄土思想によるものだろうか。
ともかくも異様な歌だ。

> したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

たとえばこの歌を、宣長を良く知ってはいるが、この歌(というか枕の山の存在)をたまたま知らない人に見せて、
宣長の歌だということを当てられる人はいないのではなかろうか。

なんかネット調べたらすでに
[枕の山のデジタルデータ](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/shiryo/makuranotama.html)
があった。
わざわざ手入力した私の立場は(笑)。

雨 みぞれ 雪

> 春雨を家に籠もりてやり過ごし晴れなば明日はいづこへか行かむ

> ことしげきなりはひつづきあめふればたまの休みはやすらひにけり

> 春たけて春雨ならでさみだれはまだしき雨を何とか呼ばむ

> 我がやどに春のみぞれは降りにけり寒さも知らで籠もりゐたれば

> 風さえて寒き雨降る明くる日は尾上の雪も消えやかぬらむ

> 山の奥はいまだに春も知らぬらし里のさくらは葉もしげれども

スランプ。

> 遅く起きて雪は降りつと聞きにけり積もりたるとも見えぬけはひは

宣長安永二年

安永二年は1773年。
本居宣長は1730年6月21日生まれなので、
満年齢は43才か44才。

この前年、明和九年に吉野に花見に行き、菅笠日記を書いている。

石上稿安永二年

> 去年の春よし野の花見しことを思ひ出でて

> 春くれば花のおもかげたちかへり霞にしのぶみよし野の山

また、石上稿補遺安永二年に

> 安永二年花五十首のうち

> めづらしきこまもろこしの花よりもあかぬ色香は桜なりけり

同じ歌は鈴屋集一にも。また同年の自画像にも。

> 我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり

> 此花になぞや心のまどふらむわれは桜のおやならなくに

> 桜花ふかきいろとも見えなくにちしほにそむるわがこころかな

この三首は「枕の山」の「桜花三百首」(寛永十二年、1800)から。最晩年の70才のときの歌。

宣長は初期の「あしわけをぶね」の頃から晩年の「うひ山ふみ」の頃まで、ほとんどその思想や嗜好に変化がないが、
桜を好きになったのはその途中からであって、やはり吉野に花見に行ったというのが一番のきっかけだろう。
そして晩年に近づくほどにその感情は強く激しくなっているようだ。

宝暦十年(1760)宣長の歌に、ある意味唐突に、

> もろこしの人にみせばや日の本の花のさかりのみよしのの山

とあるが、これは明らかに真淵の

> もろこしの人にみせばやみよしのの吉野の山の山桜花

のまねだと思うのだが、宣長と真淵が出会うのは宝暦13年(1763)のことである。
そもそも上の真淵の歌がいつ詠まれたかも不明。
しかも、浜口宗有という人が

> もろこしの人に見せばや大和なるよしのの山の花の盛りを

という歌を詠んだらしい。
ますます謎は深まった。

ふーむ。宣長は生涯に三度、吉野に行ったらしい。
宣長の父が吉野水分神社に祈願して授かった子が宣長で、13才のときにお礼参りに。
次に42才に花見に(菅笠日記)。
次に69才のとき(若山行日記、吉野百首)。
吉野百首に

> 命ありて 三たびまゐ来て をろがむも この水分の 神のみたまぞ

> まさきくて 三たび渡りし 吉野川 ももたび千たび またも渡らな

とあるので、間違いない。
こうしてみると、吉野と宣長とはもともと因縁があったわけだが、42才のときの花見で、
余計に吉野や山桜というものに、のめりこんでいったのかもしれん。

真淵の歌は、賀茂翁歌集拾遺に採られていて、
「よし野の花をみてよめる」という長歌の反歌として詠まれているものだった、というところまではつきとめた。
ただし、単独の和歌として採っている歌集もあるらしい。

宣長「手枕」

宣長が源氏物語に欠損する巻を補うために書いたという擬古文の「手枕」を読んでみようかと思ったが、それなりに難しいので、ネットで検索してみると、京都歴史研究会というところに 宣長「手枕」現代語訳 というものがある。これは労作だ。他にもいろいろ面白そうな読み物があるのでそのうち読んでみよう。

追記: こちらが移転先であると思われる。

で、六条御息所の年齢についてなど読むと、御息所の年齢に矛盾があるので、その夫、つまり前坊(先の東宮、つまり皇太子)は、皇太子だったのだけど早死にしたので即位しなかったのではなく、何らかの理由で皇太子を廃されたことになるらしいのである。宣長の手枕では

どのような御心情を御持ちになられたのでしょうか、世間をどうにもならず空しいものと御考えになり、常々、何とかしてこのような苦痛で気詰まりな身の上でなく、生きている限りは、心穏やかでのんびりと、思い残す事無く、好きなようにして、日を明かし暮らしていく方法がないものだろうか、とばかり御考えになり時を過ごしておられたが、とうとう御考えのように、東宮を辞退申し上げなさり、六条京極辺りに居住してらっしゃる。

として、東宮みずからその地位を辞して(おそらく臣籍降下というのでなく、ただの親王となって)、のちの御息所の住居である、六条京極辺りに移り住んだ、としているのである。宣長自身の註釈に

このふみは、源氏の物語に、六条の御息所の御事の、はじめの見えざなるを、かのものがたりの詞つきをまねびて、ものせるなり

とある(鈴屋集七・鈴屋文集下)。思うに、宣長がこの文を執筆したいと思った理由は、単に源氏物語風の擬古文を書いてみたかったとか、源氏物語に欠落した源氏と御息所のなれそめについての巻を補完したかったということもあるだろうが、源氏物語を研究していてわいてきた疑問点や不審点、特に御息所の年齢問題に、きちんとした解決を与えたかったのだろう。