異風に落ちる

宣長の歌論というのは、複雑で壮大だが、どうもすっきりと納得できないところがある。

宣長は新古今の頃の和歌が一番良い、と言っている。
そういう評価をする人は多い。
しかし、では、新古今的な歌を詠めばよいと言っているかというと、必ずしもそうではない。

宣長の場合は、新古今の歌人たちは古今後選拾遺を学んだので新古今的な歌が詠めたのだから、
学ぶのは古今後選拾遺であるべきだ、新古今を学んで新古今的な歌を詠もうとすると異風に落ちる、
などといっている。

古今支持派の意見、例えば香川景樹や高崎正風なども、根っこで言っていることはだいたい同じだろう。
新古今は面白いが奇矯過ぎる。
真似しようと思っても真似できるものではない。
だから基本に戻って古今を学ぼう、と。
正岡子規が言っていることも根本では同じだ。
古今や新古今は良いとして、その後が糞すぎる、と。

事実新古今を学ぶのは容易ではない。
定家、後鳥羽院、西行などはそれぞれ個性が強い。どれが新古今と言う定形がない。
二条派だって、定家の真似をしろとは誰も言ってない。
ただ、定家を本歌として二次創作しろと言っているにすぎない。

新古今の後、和歌は自然と二条派に収束していった。
僧侶階級に理論家が現れ、
歌論が発達し、類題集が編纂され、題詠や歌合などのルールが確立されていった。
二条派への反発も、京極派などであったが、やがて多様性は失われていった。
まるで、西欧における異教裁判のように。

新古今は和歌が一次創作から二次創作へ移り変わる転換点だった、と考えるとわかりやすいだろう。
一次創作は、理論に収まらないから一次創作なのだ。
体系化することはできない。
いきなり天才が現れて忽然と新しい流れがうまれ、理屈では説明できない傑作が生まれるのが一次創作というものだが、
理屈で良い悪いを判断することができないので、キュレーターも評論家も学者も手も足も出ない。
自然と、ある一定の評価が定まるまで、
あたかも火山が噴火して溶岩が冷えて固まって人が住めるようになるまで、待つしかないのだ。

これに対して二次創作は万人が理解でき、万人が参加できる。
西行の真似はできなくても、西行の本歌取りはできる。
もはやそこは手付かずの原野ではない。
きちんと手入れされた里山のようなものだ。

宣長は、理論の天才ではあったが創作の凡才だった。
凡才というのは言い過ぎならば、秀才であった。
したがって、西行や為兼などを恐れた。
二条派を確立した頓阿や、比較的早期に成立した題林愚抄などの類題集などを、
実際には愛した。
人種として、宣長は頓阿に近く、西行からは遠すぎたのだろう。
宣長は、題林愚抄を編纂した室町時代の無名の歌人(歌学者、おそらくは二条派主流にいた誰か)に共感をおぼえたのだ。
為兼についてもそうだろう。自分とは違う人種だと、感じたのにすぎないのではないか。

宣長は「異風に落ちる」ことを異様に恐れた。
西行や為兼を直接批判しているのではないのだと思う。
彼らを真似すると異風に落ちる。
凡人が真似るとよけいに迷走する。
特に為兼には危険な匂いを感じていた。
魅惑というよりも恐怖に近い。
自分自身、彼らの真似をすれば、歌の基準を見失って、歌がまったく詠めなくなってしまう、
そんな危機感を覚えるのだろう。
宣長が実作するに具体的に頼りになるのは頓阿などなのだ。
宣長はのちには、古今を直接学ぶのは難しいから頓阿の草庵集や、題林愚抄で学べ、などと言っている。
そもそも古今や新古今にはまだ題詠などという概念がない。
題しらずの、歌合以外の場所で詠まれた歌がたくさんある。
題詠や本歌取りなどのルールは定家の後、二条派において確立された。
日本の伝統文化のほとんどは室町時代に確立された。
こんにち和歌といっているものも実際には室町時代に完成されたものであり、
それ以前の、生の古今集や新古今集ではないのだ。
現代人は室町までは案外すんなりわかる。
しかし、それ以前は、感覚として、直感として理解することができない。容易ではない。

江戸時代に生きた宣長は題詠から入り、題詠以外の歌が詠めなかった。
宮廷サロンで生まれた「歌道」から外れた歌は詠めない。楽しめない。
「歌道」は「茶道」や「書道」などのように、室町時代に様式化された文化であって、
それ以前の時代の生の作家の生の創作活動とは根本的に違う。
別物といってよい。

宣長は、生まれたときから歌道の上にいる。
題詠以外の歌を詠むときにも、どうしても題詠の作法の範囲の中で詠んでしまう。
おそらく、子供の頃から、そういう詠み方しか知らないし、やったことがないのだ。
題詠を学ぶには室町以降の文献に頼るしかない。

その辺の事情が宣長の歌論をわかりにくくする。
宣長も新古今が一番だと思っている。
とりわけ、定家が好きだ。
しかし新古今や定家を直接真似することができない。
そのもどかしさを感じていたのだろう。
宣長が何度もくどくど繰り返している言い訳のようなものは、現代人から見ればつまりそんなところだろう。
江戸時代の人間、室町以降の人間は、題詠でない歌は詠めない。
題詠を学ぶには室町以降の歌論を学ぶしかない。
そのために遡れるルーツは二条派しかない。
その始祖は定家だが、定家自身を真似ることは不可能だ。

むろん、江戸時代にも、宣長より大胆な、一次創作に挑む歌人はいくらもいた。
小沢蘆庵や香川景樹はそうだっただろう。
しかし、江戸狂歌の歌人たちがそうだったとはちと思えない。
彼らのは二次創作そのものではないか。
それ以上の創意があっただろうか。

Visited 1 times, 1 visit(s) today

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA