どんどん変わっていくプロット

歴史を学べば学ぶほどに筋書きは変わっていく(笑)。
歴史小説を書く人はみなそうなのではないか。
それともしっかり調べた後で書き始めるものなのだろうか
(最初から結果ありきで書き始め、調査で証拠固めするだけだから、筋書きは微動だにしない人もいるかもしれんな)。

アルプスの少女デーテのマジェンタの戦い、ソルフェリーノの戦い、
ナポリ攻防戦までをまた書き変えた。
ここらは最初、ソルフェリーノの戦いという、ごく短い分量のセクションに過ぎなかった。

ナポレオン三世とフランツヨーゼフ一世は世間知らずで酔狂な皇帝として描いていた。
ギュライはのろまでぐずで無能な将軍だと思っていた。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は野心的で好戦的な君主だと思っていた。
しかし、いろいろ調べていくうちにこれらの人たちはすべてある種の常識人であり、普通の感覚の持ち主であり、時代に翻弄された人たちであると思えるようになった。
カヴールやフランチェスコ二世やガリバルディでさえもだ。
まあ、すべてはデーテに書いてある通りなので、読めばわかると思う。
たぶん私以外が書けばもっと面白おかしく劇画的な人物として書くだろうと思う。

ピエモンテは先の対オーストリア戦以来、実に周到に策を練って富国強兵に努めた。
三国干渉から日露戦争に突き進む日本にだぶって見える。
第一次イタリア統一戦争が1849年、第二次統一戦争が1859年。
かたや日清戦争が1894年で日露戦争が1904年だから、
イタリアで起きたことが45年後に日本にも起きた、
と見ることができる。
いや、日本人ならどうしてもそう考えてしまうに違いない。
少なくとも私はそんなふうに考えざるを得なかった。

そのピエモンテに対して私は「遺恨十年、一剣を磨く」という形容を使ったのだが、これは頼山陽「川中島」の一句である。そうとしか、言いようがないのである。

源懿子

後白河が16歳、懿子が27歳で二条天皇を産んで、懿子はそのまま死んでしまう。この年齢差が事実だとすれば、
おそらく婚姻によって懐妊したのではなかろう。
懿子は親王時代の後白河の女御か何か、つまり身の回りの世話をする女官の一人だったのだ。
いやというよりおそらく誰かの妻だったかもしれない。年が年だけに。
それを後白河が若気の至りで手をつけてしまい、妊娠して男子を産んでしまった。
正式な后を立てる前に。
皇子の男子が生まれたのであるからただではすまない。
その男子が天皇に即位すればなおさらだ。
懿子は死後皇太后となる。国母となる。
だが、皇后だったわけではない。

おそらく結婚はしてなかった。でも、その子が天皇になったので、後白河の最初の后が懿子だったことになった。
過去にさかのぼって作られた話だろう。
懿子のもともとの夫の存在も歴史から消されてしまっただろう。
後白河の后(というか後白河の皇子・皇女を産んだ女御)たちを見るとそれもまったくあり得る話だ。

後白河はその後も正式な后を選ぶことなく、いとこにあたる藤原成子に何人も子供を産ませている。
そもそも、みずから天皇になる気もなければ、周囲も彼を天皇にするつもりがまったくなかったのだろう。
まったく期待されてない天下御免の貴公子。
キム・ジョンナムに似ている、などというのは失礼すぎるだろうか。

いよいよ後白河が即位することになって、
后がいないとかっこうつかないから、藤原忻子を后にする。
しかし、忻子とはほとんどまったく夫婦関係がない。
ひどい話だ。

magenta、solferino戦の真相

[Battle of Magenta](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Magenta)では、ピエモンテ・フランス連合軍が59100人、
一方オーストリア軍は125000人とある。
次の
[Battle of Solferino](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solferino)では、138000人対129000人となっている。
ほんとだろうか。
どちらも数字がかなりおおざっぱだ。

ソルフェリーノではオーストリア軍は皇帝フランツ・ヨーゼフが本国から増援部隊を連れてきたはずだ。
また、マジェンタではミラノに駐屯した軍隊しかいなかっただろう。
一方連合軍はナポレオン三世みずから緒戦からピエモンテに居たのだから、
最初から13万人くらいいたのではなかろうか。

つまり、マジェンタでは 13万対8万くらい、
ソルフェリーノではだいたい13万対13万くらい。
劣勢の方は数を多く見せたがる。優勢の方はわざと数を小さく見せたがる。
それがそのまま戦史になっただけではなかろうか。
憶測だがギュライの味方はごくわずかの、母国ハンガリーから連れてきた手勢しかなく、あとは適当にミラノ・ロンバルディアあたりで、
地元の領主から兵を借りたのではなかろうか。
しかしここらはもともとピエモンテにシンパシーを感じており、十年前にはピエモンテとともに叛乱を起こしたのだ。
そんな連中が協力的なわけがない。たとえ数合わせにはなったとしても。

[Battle of Novara](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Novara_%281849%29)が
85636対72380の規模だったというから、両軍ほぼ8万人程度で対等。
ピエモンテ軍はロンバルディアの反乱軍も入れた数字だろう。
単独ではもっと少なかったはず。
ミラノ軍単独でもおそらくこの程度の規模なのだろう。

そう考えるのが自然ではなかろうか。

Citadel

Half-Life2に[Citadel](http://half-life.wikia.com/wiki/Citadel)というのが出てくるのだが、
漠然と語感から都市という意味かと思ってた。
しかし、wikipediaなど読むと[Citadel](http://en.wikipedia.org/wiki/Citadel)は、
要塞という意味であり、特に18世紀から19世紀くらいにかけて作られた、
セメントやコンクリートで固めた、
[堡塁](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A1%E5%A1%81)を備えた近代的な要塞のことを言うらしい。
日本で言えば五稜郭がその典型で、幾何学的な構造を持つ。

citadelの語源はやはりラテン語のcitizenであって、
オーストリア・ハプスブルク家がハンガリー叛乱の鎮圧のためにブダペストに建てた
[Citadella](http://en.wikipedia.org/wiki/Citadella)
が有名だそうだ。
イタリア語では cittadella (チッタデッラ)
と綴るようだ。
[Cittadella](http://en.wikipedia.org/wiki/Cittadella)という名の町はヴェネト州(つまり、ロンバルディアの東、ヴェネツィアの近く)
にもある。普通の中世の都市のようだ。

[Casale Monferrato](http://en.wikipedia.org/wiki/Casale_Monferrato#Via_Garibaldi_and_Sant.E2.80.99Ilario)
では、

> It successfully resisted the Austrians in 1849, and was strengthened in 1852. Towards the end of the 19th century it became known as “Cement Capital” (capitale del cemento), thanks to the quantity of Portland cement in the hills nearby

とあるので、ラデツキー将軍もカザーレの要塞を陥とすことはできなかった、ということになる。
第一次と第二次イタリア統一戦争の間にピエモンテの鉄道網とともに強化された。
capitale del cemento は「セメントの都」とでも訳せばよいか。
カザーレ・モンフェラートは近くにモンフェラートという丘があるのでそう呼ばれる。
モンフェラートではセメント(の原料)がたくさんとれた。
[ポルトランドセメント](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88)という、18世紀の終わりにイギリスで実用化された、
近代の普通のセメントがばんばん使われたということのようだ。

> 硬化した後の風合いがイギリスのポートランド島で採れるポルトランド石 (Portland limestone) に似ているから

google maps で見ると、カザーレの要塞はほとんど痕跡を留めてない。
が、南の駅の近くに少しだけ残っているのがわかる。
目を細めてみるとなんとなく星形の全体像が見えてくる。


アレッサンドリアにも見事な cittadella がある。ほとんど完全に残されているようだ。

> In 1348 Alessandria fell into the hands of the Visconti and passed with their possessions to the Sforza, following the career of Milan, until 1707, when it was ceded to the House of Savoy and henceforth formed part of Piedmont. The new domination was evidenced by the construction of a new big Cittadella on the left side of the river Tanaro, across from the city.

とあるので、サヴォア家、つまりヴィットーリオ・エマヌエーレに続く家系がピエモンテの領主になった
1707年以降に作られたもののようだ。
五稜郭と比べるとその巨大さがよくわかる。

同じ縮尺で比べてみるとこんなに違う。
当時のピエモンテと日本の国力の差もこんなだっただろう。
また、市街地に巨大な鉄道駅があり、ピエモンテ交通の要衝であることもわかる。

玉葉集風雅集攷

次田香澄『玉葉集風雅集攷』というものを読んでいるのだが、
この著書の編者でもある岩佐美代子によれば、
岩佐が恩師次田の遺稿をまとめてこの一書がなったことがわかる。
岩佐は今日、京極為兼についての本を書くほぼ唯一人の作家であるが、
なぜ彼女が為兼に関心を持ったかはよくわかった。
では次田はなぜ為兼に関心を持ったかだが、名前から察するに彼女もまた女性であろう。
本を読んだ感じで大胆に想像すれば、彼女は、最初芭蕉の俳句に興味をもった。
それから、俳句のわびさびの世界を室町和歌まで遡り、そこに永福門院を見いだした。
永福門院の師が為兼であった。ということではないか。
岩佐にも『内親王ものがたり』などがあるところを見ると、
式子内親王など女流歌人に関心が高いのではないか。
両者とも京極派の創始者として為兼をある一定の程度評価しているに過ぎず、特に次田は、彼女の好みは京極派の中にある、自然観察とかわびさびのようなものにあるように思われる。
為兼の歌に

萩の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなるすすきなりけり

というのがある。
普通こういう歌は江戸時代には狂歌と呼ばれる。
また、古今集では俳諧歌という部立てでこのような滑稽な、
不真面目な歌が採られている。
古今集にはあったこのような遊び心は、おそらく、
和歌から俳句や連歌の方に専門が分かれたのだろう。
そういう意味では俳句の源流が京極派、特に風雅集時代にあって、
その先駆的歌人が永福門院であった、のはまあ当たりなのかもしれんが、しかし、為兼その人は別に俳諧歌を詠もうと思って詠んでいたのではないと思う。
また、自然観察が主たる目的でもなかったと思う。

為兼は漢文が書けなかったという。
当時の高官たちの必須教養である漢文が書けないということは、
つまり日記も書けなかった。
歌論などの和文は多少は書けたらしい。
漢文の序を書けない、
紀貫之以来の口伝を受けてない、
歌が奇矯であり、俳諧的であるというのが、
勅撰集編纂者として不適任だと指摘されたのは、
当然だったようにも思われる。

為兼その人はたぶん、西行のような、心に浮かんだことをそのまま歌に詠みたかっただけで、それが巧まずできた人だった。芸術家肌、天才肌の人であっただろう。自然主義や俳句の先駆者になろうと思ったわけではあるまい。
枯れとか寂びなどは定家に、女流歌人では永福門院に任せておけばよかろう。

為兼は勅撰集の題名に新とか続とか後とかを付けるのに反対したそうだ。笑える。
室町時代の勅撰集はそんなのばかりだ。

万葉集や古今集の頃までは文字というものが庶民の間になかったから、歌という口伝えの文学しかなく、ましてや教科書や類題集などというものはなかった。歌をたしなむかなり濃密なコミュニティが存在していたのだろうが、時代が下るとそういう自然発生的なコミュニティは廃れて、自然に詠歌の習慣を維持することが困難になり、それでも古典を継承していくために学問とか道としての歌道・歌論が生まれ、これによって初めて安定して存続することが可能になり、ますます知識階級によるサポートなくしては残れなくなり、彼らの発言力がますます強くなる。庶民の趣向は逆に圧殺され、ますます和歌の世界は萎縮していく。貴族や学者などという生命維持装置を外すと死んでしまう。それをなんとか救おうとしたのが為兼だっただろう。民間人がもっと和歌に参加すべきだと考え、そのための方便として天皇家や勅撰集という権威を借りようとしたのではなかろうか。