magenta、solferino戦の真相

[Battle of Magenta](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Magenta)では、ピエモンテ・フランス連合軍が59100人、
一方オーストリア軍は125000人とある。
次の
[Battle of Solferino](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solferino)では、138000人対129000人となっている。
ほんとだろうか。
どちらも数字がかなりおおざっぱだ。

ソルフェリーノではオーストリア軍は皇帝フランツ・ヨーゼフが本国から増援部隊を連れてきたはずだ。
また、マジェンタではミラノに駐屯した軍隊しかいなかっただろう。
一方連合軍はナポレオン三世みずから緒戦からピエモンテに居たのだから、
最初から13万人くらいいたのではなかろうか。

つまり、マジェンタでは 13万対8万くらい、
ソルフェリーノではだいたい13万対13万くらい。
劣勢の方は数を多く見せたがる。優勢の方はわざと数を小さく見せたがる。
それがそのまま戦史になっただけではなかろうか。
憶測だがギュライの味方はごくわずかの、母国ハンガリーから連れてきた手勢しかなく、あとは適当にミラノ・ロンバルディアあたりで、
地元の領主から兵を借りたのではなかろうか。
しかしここらはもともとピエモンテにシンパシーを感じており、十年前にはピエモンテとともに叛乱を起こしたのだ。
そんな連中が協力的なわけがない。たとえ数合わせにはなったとしても。

[Battle of Novara](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Novara_%281849%29)が
85636対72380の規模だったというから、両軍ほぼ8万人程度で対等。
ピエモンテ軍はロンバルディアの反乱軍も入れた数字だろう。
単独ではもっと少なかったはず。
ミラノ軍単独でもおそらくこの程度の規模なのだろう。

そう考えるのが自然ではなかろうか。

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