ジオン公国

ジオン公国は英語名称が英語版Wikipediaによれば Principality of Zeon、Duchy of Zeon or the Zeon Dukedom
などと多少ぶれがある。
それはまあ、良い。
もともとはジオン共和国といっていたが、ジオン公国となって、デギン・ソド・ザビがジオン公王となる。
「公王」なんてものはもちろん英語には訳せない。
英語版Wikipedia では absolute dictator、つまり絶対独裁者、と言っている。

通常、共和国から王国に移行する際には元首が選挙ではなく世襲になることによると思う。
なので、ジオン・ダイクンからデギン・ザビに実権が移ったとしても、
その子息が元首を継がないと公国と宣言できない気がするのだが。
たとえば某人民共和国のような三代世襲が発展して王国が生まれるのではなかろうか。
まあ、北条氏のように世襲で実権を握っても形式的には陪臣のまま、という特異な例もあるのだが。

まあ、何もかもどうでも良い気もする。

紫峰軒

[紫峰軒](http://p.booklog.jp/book/64484)という小説を公開した。
だいたい去年の正月あたりの話なので現代小説なのだが、
昭和50年頃の回想がメインで、幕末維新や戦時中のエピソードも含まれる。

なんで山崎菜摘名義なんだというのはあるのだが、
深い意味はない。

一年くらいして読み返してみると、だいぶ忘れてしまっているので新鮮に読める。
今の自分じゃ絶対書けないような言い回しがあって面白い。
将来の自分のために小説を書いておくのもいいかもしれんね。

一人称の小説で主人公の男性の名前は一切でてこないがそれは一応そうしようと意図したからである。
通して読めばわかるが結局は佳枝という女性の一代記みたいなものになっているが、
彼女がヒロインかといえばそんな気もするがそうでもない気もする。
当たり前だが特定のモデルがいるのではない。
空想の産物と言うのに限りなく近い。
ずいぶん変な小説を書いたものである。

よけいな解説かもしれんが

> 妻子を持たないと「ほんとうの人の気持ち」というものはわからない。

これは横山やすしが小室直樹に言ったことばである。
たしか週刊プレイボーイで対談してた。
その後小室直樹は結婚したわけだが。

深夜終電まで上司に付き合わされたのは実話だ。

ノンフィクションや私小説にならないようにいろんな小ネタが混ぜ合わせてある。
そういう意味では、自分としては、ものすごく贅沢に素材を使った作品だ。
歴史小説は調べればいくらでもネタはでてくるが(つまりまだ誰も使ってない面白いネタを探すのはそんなに難しくない)、
実話や体験に基づいて書くとネタがあっという間に枯渇する。

王公候伯

Principality は「公国」と訳されて、
原義としては Prince が元首として治める国、という意味である。
ところがイギリスなどでは Prince は太子という意味であって公でも君主ではない
(イギリス王太子を Prince of Wales というから本来「王太子」ではなく「ウェールズ公」と呼ぶべきなのかもしれない)。

いろいろ考えてみた結果、つまり、
王(king)の子供または弟などは(元首ではなくとも)公(prince)と呼ばれることがある、というわけだ。
prince は duke とほぼ同義なのだが、
prince が治める国を principality というのに対して、
duke が治める国を duchy と言ったりする。
prince は duke より格上であるとして、
prince を grand duke、archduke、「大公」と訳すことがある。

ドイツ語では「王」は Koenig、
「大公」は Erzherzog、
「公」は Herzog、
「候」は Fuerst である。

カヴール(Camillo Benzo)は次男で、conte di Cavour と呼ばれた。
直訳すればカヴール伯である。
彼の父は marchese di Cavour、つまりカヴール候であり、
また Camillo の兄 Gustavo もカヴール候であった。
すなわち、候(marchese)の男子や弟が伯(conte)と呼ばれるのであろう、と思われる。

一つの所領の中で、一番偉い人、元首が「王」であればその所領は「王国」であり、王の男子の親族は「大公」である。
元首が「大公」、つまり大公国ならその男子の親族は「公」。
元首が「公」、つまり公国ならその男子の親族は「候」。
元首が「候」なら候国で、候の男子の親族は「伯」。
以下略。
と考えるとだいたいつじつまがあう。

ここにさらに疑問が湧いてくるのだが、では
「公」の息子が「候」、「候」の子が「伯」ならば、
「公」の孫を「伯」と言ったりするのだろうか、ということだ。
よくわからん。

現在大公国はルクセンブルクしかいない。
公国には、
モナコ、
リヒテンシュタイン、
アンドラがある。
ここからがややこしいが、
ルクセンブルクは grand duchy、
モナコは principality だから対等のはずである。
ルクセンブルクを大公国というのであればモナコも大公国であろう。
またリヒテンシュタインは Fuerstrum なので本当は「候国」なのではないか。
アンドラはさらにややこしい。元首は prince なので、
大公国と訳すべきだろう。
しかしアンドラ大公の法的継承者はなぜか二人いて、スペイン・カタルーニャ州のカトリック教会ウルヘル司教区の司教と、
もうひとりフランス大統領である。

この辺りの呼称は一度ちゃんと整理すべきなんじゃないかと思うが、微妙な話題すぎて手が付けられないのかもしれん。

Camillo Benzo, conte di Cavour を
Camillo Benzo di Cavour と書くことはできない。
これでは Camillo はカヴール候ということになる。
兄の Gustavo が死んでカミッロがカヴール候を継いでいれば嘘ではないが、
Gustavo が死んだのは 1864年、
Camillo は 1861年に死んでいるから、Camillo がカヴール候を継いだはずがない。
Gustavo も政治家だったようだが、Camillo の方がはるかに有名、というか宰相になったから、
Camillo のことを単にカヴールと呼んでいる、ということだろう。
カヴールは出身地にちなむあだ名だという言い方は間違っている。
貴族の場合、その出身地がいわば正式な名字の代わりだからだ。
ただし、Camillo の場合には正式には領主ではなくて領主の弟なので、
di Cavour と言ってしまうと嘘になるということなのだろうと思う。

ちなみに Gustavo には Augusto という息子がいたが、
1848年の対オーストリア戦で20歳で死んでいる。
Augusto はつまり Camillo の甥にあたる。
Camillo に妻子がいたかどうかはわからん。
たぶんいなかったのだろう。
この辺まで調べてくるともはやイタリア語の文献しかないのだが、
ちゃんと読めているかどうか不安になる。
間違っているかもしれない。

ついでに書いておくと、カリオストロ公国はモナコ公国がモデルになっているようなのだが、
モナコの元首はモナコ大公と呼ばれることが多い。
カリオストロ大公家に対して、カリオストロ伯家というものがあることになっている。
大公家が本家で伯爵家が分家、というような設定なのだろうが、なんかおかしい。
大公の親族であるなら公であるはずだ。伯爵では身分が低すぎる。まあそれは目をつぶったとして、
クラリスの父は大公だっただろうと思う。
カリオストロ伯が大公の弟ならばクラリスは姪。ちと血が近すぎる。
カリオストロ伯が大公の息子ならばクラリスは妹。ますます血が近すぎる。
クラリスの祖父が公で、その息子が候で、さらにその息子が伯、と考えれば、
クラリスとカリオストロ伯はいとこどうしということになり、
大公夫妻亡き後カリオストロ伯が摂政をしていたというので、だいたい話はあう。

ま、だとしても、「ラザール・ド・カリオストロ伯爵」という名前は変だ。
正式には「ラザール、コンテ・ド・カリオストロ」とかそんな名前でなくてはならないはずだ。
「ラザール・ド・カリオストロ」ではカリオストロという伯領があるように思えてしまうからだ。
Camillo Benzo, conte di Cavour という名前はその辺りをきちんと考慮してある。

タレント

タレントが温泉めぐりとか各駅停車の旅とかする番組があるじゃないですか。
で、三十や四十代ならまだしも、
明らかに六十代くらいのタレントが、昼飯に寿司、夕飯に天ぷらとか食べてるの見ると虐待かと思う。

六十過ぎた人が肉や油ものをがっつくという絵図は不自然でならないのだが、
そういう絵が今だに要求されているのか。
あるいはそうでもしないとタレントとしての職を失ってしまうのか。
食べるふりして実は食べてないのか。
やるならやるでかまわんが、二十代の若いタレントを使えないのか。

もひとつついでに不自然なのはタレントの誰もが犬や猫などのペットが好きだということだ。
動物が嫌いな人は少なからずいると思うのだが、
とりあえずペット好きということにしといたほうがあたりさわりないということか。

それはそうとデアゴスティーニの「週刊日本の城」は地味に欲しい。
wikiでも見られないだろうし、これまで紙の百科事典などでもあれほどのものはなかったと思うのだ。
初回が姫路城他のようだが、江戸城がないのは極めて残念だ。なにしろ日本で一番大きく重要な城なのだから。
太田道灌築城から幕末維新、明治、現代までの江戸城の歴史をまとめてほしい。
まあ、むりだが。

江戸の繁華街

思うに、家康入府以前に、江戸城から浅草を通って奥州に通じる奥州道というものはあった。
また、岩槻道というものが整備されて中山道となった。
岩槻道と奥州道が交わるのは日本橋・大伝馬町・小伝馬町・馬喰町辺りだっただろう。
もっとピンポイントに言えば現在の「室町三丁目」「本町三丁目」辺りだろう。
ここらは室町・戦国時代にすでに交通の要衝であり、旅籠屋や問屋、運送屋、廻船問屋などがあったはずだ。
この、江戸城から浅草までの間が江戸の一番古くからある繁華街であって、
家康はごく初期の段階にここをそのまま利用したと思われる。
天下普請が始まったのはもっと後からのことだろう。

有者

万葉集を検索してみると「有者」はときに「あれば」、ときに「あらば」と訓まれている。
「不有者」は「あらずは」と訓まれている。
万葉仮名を見るだけではどちらとも解釈可能だということだろう。

> 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

でまあ、これは普通

> 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

となるが、

> 紫の匂へる妹を憎くあれば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

と訓むこともできる。
これは大海人皇子(天武天皇)が額田王の歌

> 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

に答えて詠んだ歌ということになっているのだが、
額田王という人が謎すぎる。
天武天皇の第一皇女は十市皇女(大友皇子の妻)だが母親は定かでない。
額田王だという説もあるが、
額田王が天武天皇の后だったという記録はないらしい。
天智天皇の夫人という説もあるが、やはり正式な記録はないらしい。

ということは、額田王は天武天皇の赤の他人だった可能性の方が高い。
額田王という皇族がいてその娘だったのだろうか。
「憎くあれば」と訓むなら、

> あなたはたしかに紫草のように美しい。だが私はあなたを憎んでいる。その上人妻でもある。どうして私があなたに恋することがあろうか。

という意味になる。
「人妻だから憎い」と解釈もできるかもしれん。
「人妻ゆゑに、紫の匂へる妹を憎くあれば、われ恋ひめやも」とすればもっとわかりやすい。
だが「憎くあらば」だと、

> 私がもしあなたを憎んでいるとすれば、私があなたに恋などするでしょうか、人妻だというのに → 憎んでいないので人妻であろうと恋しています

と解釈することもできる。
あるいは、「紫の匂へる妹を、人妻ゆゑに憎くあらば、われ恋ひめやも」と解釈するか。
いやかなりひねくれている。

どうも前者の方が素直な解釈に思えるが。

確実に言えることは額田王は柿本人麻呂と同じくらいよくわからん歌人だ、ということだ。
もしかすると伝説上の人に過ぎないかもしれん。

日本橋と大名行列

以前江戸の街道に書いたことの繰り返しになるが、1600年関ヶ原、1601年から「五街道」整備、1603年に日本橋が架かり、1604年から日本橋を五街道の起点にした、などとあるが、その根拠はいったいなんなのか。

日本橋よりも神田橋の方が先に架かっていて、門も見付もある。中山道と奥州街道の起点はこの神田橋門(神田口門)であり、東海道は虎の門、甲州街道は半蔵門を起点とすると考えたほうがずっと自然ですっきりする。また、日光街道が徳川家にとって重要になったのは家康が葬られて家光が東照宮を祖先崇拝してからだと思われるし、1604年ころから日光街道を奥州街道と区別し五街道と呼んでいたとは信じられない。また甲州街道が五街道に入るほどに重要だろうか。完成したのも他の街道より百年ほど遅い。甲府街道が重視されたのは、吉宗以後幕府直轄領になってからではないのか。

道中奉行というものがあったそうだが、たぶん日本橋は道中奉行の支配ではなく、町奉行支配であろう(と思うが橋奉行とかいたかも知れんね)。神田橋に至っては江戸城の一部だから奉行とかそういうものはなかっただろう(普請奉行か?「江戸城代」という役職は家康が入府する以前のもの)。日本橋を宿場と考えることにも疑問があるが、商人らは日本橋や小伝馬町、馬喰町などの繁華街に投宿しただろうから、商人や町人にとって日本橋は宿場町のようなものだったとはいえる。日本橋付近に武家屋敷がなかったわけでもなかろうが、このあたりを大名行列が頻繁に往来したとは考えにくい。

安藤広重『東海道五十三次』日本橋には、日本橋を大名行列が通る朝の情景が描かれている、というのだが、これがいわゆる大名行列かどうかも疑問だ。大名行列だとして、どこの大名がどこからどこへ行こうとしているのだろうか。大名が日本橋を通る必然性がない。ただの公務中の旗本かもしれない。

さらに、大山街道、中原街道の方が、東海道より利便性が高いように思われる。現在でもそうだし、江戸時代より前でもそうだった。江戸時代だけ東海道の地位が高かったのも、よくわからん話だ。この三つの街道は、少なくとも庶民レベルでは対等だったのではないか。

南朝断絶

読史余論に

> 後小松譲位の日、義持前盟に背きて称光院を立て参らせしかば南帝憤を含み諸国に兵を挙ぐ。此の時、義持南軍と相和するに此の次の御位には南帝の太子を立て参らすべしと約せしかば兵解けぬ。

後小松天皇が譲位したのは自分の子供に帝位を継がせ、院政を敷くためだっただろう。
1412年。
南朝最後の天皇後亀山には皇子恒教があったが、1410年に吉野に逃げている。
恒教は1422年に死ぬまで抵抗を続けている。

> 其の後十六年にて称光院崩じ給ひ御位を継がるべき御子もなく後小松の上皇にも又御子なし。

称光天皇の崩御は1428年。
後小松院1433年まで生きており、将軍足利義教は後小松院の意向を確認して後花園天皇を即位させる。

> 此の時に於ては義教宜しく南帝の太子を立て申すべき事にあらずや。然らば義満義持の盟約も違はず、南朝の旧臣の憤も散じ、且は兼務以来八十余年が程に戦死せし南朝義士の忠魂冤魄をも慰しつべし。豈忠厚の至にあらざらんや。其れに腹悪しく南帝の統を絶棄参らせし事こそうたてけれ。

うーむ。
後亀山院崩御は1424年。
後亀山院もその皇子も1428年当時すでに死んでおり、
その他の南朝の皇子、つまり、後村上天皇の子孫も、いるんだかいないんだかわからない状態だっただろうと思う。
後小松院もこの時点で死去していたとしても、
では南朝の子孫を即位させましょうということになったかどうか。
で、おそらく南朝の子孫はいただろうが僧籍に入っていたり若かったり有力な後見者がいなかったりで、
事実上不可能だったのではないか。
後花園天皇に皇子(後の後花園天皇)が生まれたのは1442年、
義教が暗殺されたあとのことで、しかも皇子はそれ以外に生まれなかった。
伏見宮家があったから皇統が絶えるという心配はなかったのかもしれんが、
南朝北朝とか言ってる場合ではなかったのではなかろうか。

南朝の子孫は、地方に散らばったり、抵抗したりしなくて、京都辺りで着々と子孫を残しさえすれば、
北朝の子孫が勝手に絶えて、いずれ南朝に皇統が戻ることが十分にありえたのだな。

新井白石が案外南朝に同情的なのには正直驚いた。
現代人にはこういう感覚は欠如していると思う。