でまた小林秀雄ネタなんだが、彼がどこかで、将棋の手を次にどこに打つかというのを、
プロの棋士は時間をかけて考えるのだが、
あれはどこに打とうかと考えているのではない。
どこに打つかというのは最初に直感的にわかっていて、その手が正しいかどうかを、
じっくり時間をかけて考えているのである、
本居宣長の連載が11年半かかったのも、
本居宣長という人がどんなひとかというのは最初から直感的にわかっていたが、
それが正しいかどうかを検証するのに時間を要したからだ、などと言っている。
なんだ結論ありきでつじつまあわせようとしてるだけじゃん、と思われかねない話ではある。
将棋のことはよくわからない。
たぶんそうなんだろう。
フィクションというのは、直感による飛躍があるため、
論文にできない場合に使う手法だと思っている。
たとえばマックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムと資本主義は似てるな、
なんか関係があるのに違いないと着想したが、そのままだと単なる思いつきなんで、
プロテスタンティズムと資本主義の因果関係を立証するために長い長い論文を書いた。
そんなもんかと思う。
でまあ私も小室直樹がマックス・ウェーバーは偉いとか、
社会学上の定説だなどというから、なるほどそうだなと思っていたが、
しかし、所詮は定説、学説であって、真実と言えるほど確かかと言われれば怪しい気がしてきた。
小室直樹もこの年になって読み返すとかなり変なことをいっているし、
マックス・ウェーバーも昔の人なので今から精査するとへんなところがたくさんあるだろう。
大筋では当たっているのかもしれんが、そうではないかもしれんなどと思う。
直感による飛躍を埋める作業が科学だと思っている
(たとえば数学で先に定理があって、それがほんとに定理かどうかを確かめるのが証明。
ええっと。直感とも飛躍とも関係ない研究者がたくさんいるらしいってことはわかっているが、
少なくとも自分にとって)。
完全に埋めないと科学とはいえない。
途中めんどくさくて適当に脚色した結果できるのが小説だと思う。
世の中はすべて理詰めでは片付かない。
世の中、というより自分の頭の中にわいてくる着想のすべてをいちいち証明するには人生は短すぎる。
だからえいやっと小説にしてしまう。
フィクションですよということにする。
しかし、最初からフィクションを書きたいわけではないから、
完全に証明できたら論文として出すだろうし、
99%まで確信が持てたら論説とか論評として出すかもしれない。
また、フィクションで出すときには物語となるような脚色をすることにしている。
あと、直接特定の人物を書くのがはばかられるときにも脚色する。
つまり私の場合、脚色というのは物語を読者に読んでもらうためのテクニックという要素が強い。
私以外の作家の場合には、そこがまさに文芸なのかもしれんが、
私も興が乗ってその部分に凝ることもあるが、
由来から言えばあくまでも表面をコーティングする作業である。
たとえば歴史小説の場合、時系列をわざとばらばらに組み替えたり、特定の人物の描写のディテイルにこだわったりする。
歴史はあんまり淡々と書くとウィキペディアみたいになってしまう。
ウィキペディアでも教科書でもいいといえばいいんだが、
それを物語として読ませるのがたぶん作家の仕事であり、
そこが一種の娯楽の要素であって、
単なる調べ物とは違う。
そこはやはり違わせないといけない。
そうしないと読者は読んでくれない(最近読者というのは表紙と第一章と最後くらいしか実は見てないんじゃないかという疑念がすごくわいてきた。普通の人はざっとしか本に目を通さない。精読するのは二度目に読むときとかほんとに気に入ったときくらい。逆の言い方をすると、序章とか表紙は他の部分より何十倍も気をつかって丁寧に書くべきなのだ)。
ウィキペディアみたいな便利なものが出てくると逆にそれを思う。
不特定多数の人がまとめた記事と、個人の思想と文体で書くものは最後の一線で違うべきだ。
あとまあウィキペディアは、嘘が書かれているというよりも、
相互に矛盾してたり、抜け落ちたりしていることが多いわな。
最後は虚構で補完しなきゃ物語にはならん。
話を戻すと小林秀雄にしろマックス・ウェーバーにしろ小室直樹にしろ、
直感と飛躍は完全に埋まってないと思うし、
自分も飛躍をいちいち完全に埋めるのに貴重な時間を使いたくない気がする。
ていうのもやはり大病を患っていつ死ぬかわからんという気持ちがあるからかもしれん。
単に論文書くのに飽きたからかもしれん。
というのはもともと私は論文を書く人だったからでもある。
塩野七生が書いているのは歴史小説というよりも事実の羅列のような感じ。
部分的に文芸的な箇所もあるようだが、大半はウィキペディアみたいな記述じゃん。
ハンニバル戦記にしても(たとえば、ハンニバルの心理描写とかわざわざ書いてない。書いても良いはずだが。わざと書いてないのかも知れないが。それがスピード感になっていると言えなくもないが、勝手に想像で書いてよいのは作家の特権のはずだ)。
十字軍物語には失望した。
特に第一次十字軍の辺りは全然大したことが書かれてない。
ローマ人の物語の、カエサルが出てくるあたりまではそれなりに楽しめたが、
あとは惰性って感じがするじゃないですか。
まあ、人気の出た作家の連載なんてそんなものかもしれんが。
何が言いたいかというと飛躍や虚構によって真実にぎりぎりまで肉迫するってことはあるなと、
最近自分で書いていて思う。
何本も何本も補助線を引いていき、いくつもいくつも仮定を積み重ねて、
さらに調べていくとそのうちのいくつかは紛れもなく補助線ではなくて本当の線でアリ、
仮定ではなくて事実だとわかる。
だが、逆に仮定が間違っていることにも気づく。
フィクションというのは要するにそういう果てしない検証過程の途中経過、
ベータ版みたいなものな気がしている。
だから好き勝手でたらめをかいてフィクションと言っている(坂本龍馬物とかw)のも、
大して検証もしてないのに論文とかドキュメンタリーとか言ってる(マスコミのニュースとか)のも腹立つわな。